100題 - No67 |
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炎は瞬く間に辺りを朱色に染め上げた。 退却する敵軍が追っ手を足止めし、振り切るために、森に火矢を放ったのだ。 不運なことにこの日は空気が乾燥し、風も強かった。 その追撃の部隊を指揮していたのは趙雲だった。 浮き足立つ自軍の兵達の混乱を収めようと、趙雲は声を上げた。 「落ち着け! 体勢を立て直しつつ、退くぞ! 私が殿(しんがり)を務める」 これ以上の進軍は無理だと判断して、趙雲はそう指示を飛ばす。 無理をして、兵達を無駄に死なす訳にはいかない。 趙雲の声に兵達は冷静さを取り戻していく。 常日頃から趙雲の厳しい調練に脱落することなく付いてきた兵達だ。 無闇に我を失うようなことはなく、立ち直りは早かった。 兵達は趙雲の命に従い、炎に包まれた森からの退却を始める。 一番後ろから兵達の統率を取りつつ、趙雲もそれに続く。 じりじりと肌が焼けるような熱風に、汗が滴る。 ようやく森の出口が見えた。 先を行く兵達から次々に火の海から脱出していく。 それを後ろから見送りながら、趙雲はほっと息を吐く。 敵の追撃は叶わなかったが、此度の戦で相手には少なからず打撃を与えられたはずだ。 これで暫くはこちらに攻め込んでくることはなかろうと。 と、その時だった―――。 一陣の風が森の中を吹き抜けた。 それに煽られ炎は更に勢いを増したのだ。 周囲の木々が一斉にざわめき、火の粉が舞い落ちる。 まだ森の中に残っていた者達にそれは容赦なく降り注ぐ―――そしてそれは趙雲も例外ではなく……。 「……っ」 目にそれが入り、趙雲は反射的に目を閉じ、そこに手を充てる。 趙雲が乗る馬もまた驚き、棹立ちになる。 あっと思ったときには、手綱から手を離していた趙雲は馬上から地面と投げ出された。 全身を強かに打ち付け、趙雲は低く呻く。 すぐに体勢を立て直そうと試みるが、身体が思うように動かない。 痛みで目も開くことが出来ない。 「趙将軍!」 名を呼ぶ、部隊の者の声が聞こえた。 「私のことは良い! 先に退却するのだ!」 「ですが……」 「早く! 私も直ぐに後を追う!」 躊躇する者達を急き立てるように趙雲は強い口調で叫ぶ。 その声に押し出されるが如く、足音が遠ざかる。 追うとは告げたものの、実際は身を起こすのが精一杯で立ち上がれない。 右脚も酷く痛む。 落馬の拍子に骨折したのかもしれない。 このまま炎に巻かれて、ここで息絶えてしまうのだろうか。 渦巻く熱気に晒されながら趙雲がそうぼんやりと考えた時、何者かが近付いてくる気配を感じて、顔を上げた。 敵かと痛む目を無理矢理開けるが、視界が翳んではっきりと分らない。 周囲を手探りで、槍を見つけようと試みる。 今のこの状態で戦えるとは思えなかったが、敵の手に掛かるくらいならいっそ自ら―――という思いがあったのだ。 ざぁ……っと再び強い風が吹く。 火の粉が再び降りかかってくる。 だが―――。 趙雲はその熱を全身に受けることはなかった。 趙雲が槍を手にするよりも前に、駆け寄ってきたその気配の主が趙雲の身体を地に押し倒した。 そして、彼の身体を火の粉から守るように覆いかぶさる。 慣れ親しんだ男の匂い。 目が開かずともそれが誰なのか趙雲には分る。 「孟起……」 「……」 男は―――馬超は何も答えない。 今はただひたすらに自分の身体の下にある趙雲を火の粉から守ることに全てを傾けている。 何故彼がこの場所にいるのか。 馬超の部隊は趙雲達の追撃隊と交代する形で、本陣へと退いた筈だ。 聞きたいことは色々あったが、今はそんなことを問いただしている場合ではない。 「孟起……どいて下さい!」 馬超に抱きすくめられる格好の趙雲が、彼の胸元から訴える。 「何故?」 すると馬超が今度は短く問い返す。 「貴方が火傷を負ってしまうからに決まっているでしょう! 私のことならば大丈夫ですから」 馬超が動く気配はない。 「嘘を吐くな。 自分でどうにか出来るくらいなら、とっくにここから抜け出ている筈だ。 お前ほどの者が動けぬということは、大方、脚でも折ったのだろうが」 ずばり言い当てられて、咄嗟に趙雲は返す言葉も出てこなかった。 「俺が必ず助けてやるから。 絶対にお前をこんなところで死なせはせん」 馬超は己の決意の強さを示すように、趙雲を守る為彼の身体に廻した腕に力を込める。 「孟起!」 再度声を上げ、趙雲は覆いかぶさる馬超の身体を押しのけようと試みる。 だが、思うように力が入らない。 脚だけではなく、どこか別の場所も骨が折れるほどではないにしても、傷めているのかもしれなかった。 それでも何とか馬超を退けようとするが、彼の身体はぴくりとも動かなかった。 降り注ぐ火の粉を一身に浴びて、酷く熱いだろうに、馬超は苦悶の声一つ上げない。 やがてそれが止むと、馬超はようやく趙雲から身体を離した。 状況を確認しようにも、趙雲の視界は未だぼやけていてそれも儘ならない。 たがぱちぱと炎が爆ぜる音と、直接肌に感じる熱気は先程よりも増している。 炎に周りを囲まれてしまったのだろう。 煙の濃度も増しているようで、息苦しかった。 馬超はそんな趙雲の身体を今度は抱き上げる。 炎と煙から趙雲の身を守る為に己の身体に彼の身体をぐっと引き寄せ、抱き込むような格好になる。 「孟起……私のことはもう良いから―――貴方一人ならまだ脱出出来ます」 趙雲のその訴えも、馬超は当然の如く無視する。 そして、趙雲の身体を抱きかかえたまま、馬超は火の海の中を駆け出したのだった―――。 先の戦があったのは、まだ秋風が吹き始めた頃のことだった。 今、成都では桃の花が盛りを迎えていた。 ようやく馬超が長い眠りから目覚めたとの知らせを受けた趙雲は、急いで彼の邸へと駆けつけるべく馬に跨った。 丁度休みだった趙雲は邸にいた。 そろそろ馬超の様子を見に、彼の元へ向かおうと準備を整えていた所だったのだ。 馬超の邸はここから然程離れてはない。 たがその僅かな距離が今はただもどかしかった。 毎日決して欠かすことなく、城から、時には自邸から、馬超の元へと通った。 重苦しい気持ちを抱えながら。 そうして目を覚まさない馬超の姿を見ては、不安が募るのだった。 このまま彼が永遠の眠りについてしまうのではないだろうかと。 馬超は先の戦で、趙雲共々、火に包まれた森から辛くも抜け出すことが出来た。 しかし当然無傷という訳にはいかず、馬超は全身に火傷を負い、倒れたのだった。 煙も大量に吸い込んでいた馬超は目を覚まさぬまま、少なくはない時が流れた。 一方趙雲も落馬の際やはり右脚を骨折していた。 同時に傷めた目は、幸い大事に至ることはなかった。 それらの傷は今はもう完治し、趙雲は職務に復帰していた。 それもこれも全て馬超のお陰だった。 彼が自分の身を呈して助けてくれたから―――。 何故別働隊であった馬超があの場に現れたのか。 その疑問の答えは彼の従弟である馬岱が与えてくれた。 本陣に戻る途中で、馬超はふと立ち止まり言ったのだそうだ。 「妙な胸騒ぎがするな……。 子龍に危険が迫っている……そんな予感がする」 突然何を言い出すのかと驚く馬岱を尻目に、馬超は後を頼むと言い残して趙雲の元へと向かったのだという。 止める間もなくあっという間に。 見事その予感は的中した訳だが、そのような不思議なことなどあるのだろうか。 首を傾げる趙雲に馬岱は、 「兄上の勘の良さはずば抜けたのもが昔からありました。 本当にあの人ってば獣並みですよね。 特に貴方のこととなればいつも以上の勘が働いたとしても不思議ではありません。 貴方がご無事で良かったです」 そう笑って言うのだ。 馬岱は友情を越えた二人の関係を知っている。 唯一の肉親である馬超が大怪我を負い、意識を失っているにも関わらず、趙雲が罪の意識を背負わぬようにと気遣ってくれているのだ。 けれどそれで趙雲の心が晴れるわけではなく、寧ろ心苦しさが募る。 責め立てられた方がどれだけ楽だろう。 馬超の邸に着くと、家人の案内を断って、趙雲は真っ直ぐに彼の部屋へと向かう。 扉を叩くのももどかしく、返答も待たずに、中に入る。 意識せぬままに鼓動が高鳴り、握り締めた手が汗ばむ。 部屋の主は寝台の上に身を起こし、入ってきた趙雲の方を見つめていた。 その傍らには目元を赤く染めた馬岱が立っていた。 泣き顔を見られまいと、馬岱は俯き涙を拭う。 そうして趙雲に向けて今度は笑顔を見せると、どうぞという風に手招きする。 趙雲がそれに引き寄せられるように近づくと、入れ替わりに馬岱がお茶の用意でもしてきますねと部屋を出て行った。 「子龍、久しぶりだな」 馬超は微かに笑みを浮かべて、枕元に立つ趙雲へと声を掛ける。 いつもと変わらぬ凛とした彼の声。 瞳に宿る光の強さも、以前と同じ。 違うのは、長く床に伏していたせいか一回り痩せてしまった身体と、際立つ肌の白さ。 決して泣くまいと思っていた。 けれど実際に目を覚ました馬超を見て、声を聞いてしまうと、その意思は脆くも崩れた。 ぽたりと涙が零れると、それを契機として堰を切ったように溢れてくる。 女々しい奴だと自分を叱咤するが、どうにも止まらない。 屈み込み馬超の身体を抱きしめる趙雲の髪を、馬超は何も言わずに優しく梳く。 「心配しました……孟起」 「悪かった」 「助けて貰ったことは感謝しています。 けれどもう二度と―――私を助けるために自分の身を犠牲にすることだけはしないで下さい」 「―――それは出来ない」 馬超は静かに、しかしきっぱりとした口調で趙雲の言葉を拒む。 趙雲は馬超の肩口に埋めていた顔を上げ、彼の顔を見遣る。 「私はそんなことは望んではおりません!」 「知っている。 だが、俺はお前がどう言おうと思おうと、お前の身に危険が迫ればどんなことをしてでも守る。 さっき詫びたのはお前に心配を掛けたからであって、やったことに対して謝罪する気はない」 そう言い切る馬超を、反射的に趙雲はきつく睨めつけた。 何を馬鹿なことを言うのかと。 「孟起! 私は武人です……誰かに守ってもらうほど弱くはない! もし仮に今回のように危機に陥り命を落としても、それが武人いう道を選んだ私の運命なのです。 貴方を犠牲にしてまで生き残るつもりはない!」 怒鳴る趙雲に対して、馬超は至って涼しげな表情である。 「俺はお前をみすみす失う気はない。 俺にとっては己の命よりもお前の方が大切なのだ。 価値観の相違だな……俺は考えを改める気はない」 「孟起!」 趙雲が再度声を上げた時、部屋の扉が開いた。 馬岱が茶器の乗った盆を持って、入ってくる。 二人の間の緊迫した空気を察して、戸惑ったような表情を浮かべて戸口で立ち止まる。 「お取り込み中でしたか……?」 趙雲は慌てて馬超から身を離し、先程馬岱がしたように涙を拭い、首を振る。 「いえ、何でもないのです。 すみません」 馬岱が現れたことによって、この時の言い争いの件はそこで途切れたままとなった。 だが趙雲の中でそれは決して終わってはいなかった。 ある決意を趙雲は固めつつあったのだ―――。 馬超から寄せられる想い。 己の身を呈してでも守りたいと感じるほどに深い愛情。 それは趙雲にとっても純粋に嬉しいと思う。 馬超ほどの者にそこまで想って貰えて。 けれど……。 ―――いつの日か彼は私の為に命を落とすだろう。 ふとそんな予感が馬超との言い争いの中で、趙雲の中に芽生えたのだ。 別段根拠がある訳ではない。 ただ漠然とした、不安のようなもの。 馬鹿げた妄想かもしれない。 だが趙雲は一度浮かんだそれを消し去ることは出来なかったのだ。 価値観の相違と馬超は言った。 しかし馬超が趙雲を何としてでも失いたくないと思うのと同様に、趙雲もまた馬超を失いたくはないのだ。 だからこそ自分のせいでもう二度と彼を傷付けることは避けなければならない。 いくら言ったところで彼は聞き入れはしないだろう。 人の事を言えたものではないが、彼の頑固さと強情さは相当のものだ。 ならば、彼の自分に対する執着を断ち切ってしまえばいい。 即ち彼との関係を終わりにすれば、彼が自分を守る理由などなくなってしまうではないかと。 「別れて欲しいのです」 ある時、馬超を訪ねた趙雲は唐突にそう告げた。 馬超の怪我は順調に回復していて、身の回りのことは自分で出来るまでになっていた。 趙雲を迎え入れた馬超は寝台ではなく、椅子に腰掛けていた。 卓を挟んで座る趙雲の突然の言葉に、馬超は軽く目を瞠る。 「……理由を聞こうか」 返される馬超の口調は意外にも静かなものだった。 趙雲は無意識のうちに膝の上で拳を固めていた。 けれど平静を装い、答える。 「妻を娶ろうかと思います。 殿からもずっと縁談を薦められて参りましたし、それをお受けしようかと。 いつまでも独り身ではおれませぬ故……」 「えらく突然だな」 「ずっと前から考えていたことです。 妻を娶り、子を為す―――それは自然なことでしょう? 私は二人の人間の相手を出来るほど器用ではないのです。 だからもう……」 趙雲は握り締めた拳に視線を落とす。 別れを切り出した時からまともに馬超の顔を見れてはいなかった。 「そうか……もう俺の存在は邪魔という訳か」 声音は相変らず静かなものであった。 だがその台詞を今馬超はどんな表情で口にしているのだろうか。 悲しんでいるのか、怒っているのか。 違うのだと叫びたい衝動と趙雲は戦っていた。 「分かった」 馬超はいともあっさりとそう告げる。 趙雲は俯きながらも、目を見開いた。 こうもすんなりと別れが受け入れられるとは思ってもみなかったのだ。 激昂して、引き止めらるとばかり考えていた。 酷く落胆している気持ちに気付いて、趙雲は己の身勝手さに恥じ入る。 「但し―――お前が今告げた言葉をもう一度、俺の目を真っ直ぐに見て言えればだ」 そう付け加えられた言葉に、趙雲は身を強張らせる。 そして追い討ちを駆けるように馬超は続けた。 「例えお前との関係が終わっても、俺の気持ちも終わる訳じゃない。 戦場に出て、お前を守ることが出来るのは俺だけだ。 女では戦場に出ることも、ましてお前を守ることなど叶いはしまい。 もしお前が危険に陥ったなら、俺はどんなことをしてもお前を守る。 もう二度とお前に触れることも、抱くこともできなくなってもだ」 弾かれたように趙雲は顔を上げた。 馬超は趙雲の心の中をすっかり見通しているかのようだ。 馬超はじっと趙雲を見つめていた。 その表情に怒りや哀しみはない。 口調と同じようにただ静かなだけだった。 趙雲はただ黙り込むしかなった。 馬超が別れてもなお自分を守るというのなら、関係を断ち切ろうが意味はない。 何のために決意を固めてこの場に来たのか、これではまったく分からない。 「さぁ、どうした、子龍。 本当に別れたいのなら、簡単なことだろう。 俺を見て、別れを告げるだけだ」 黙りこくる趙雲を、馬超はそう急き立てる。 だが趙雲は口を噤んだままだ。 矢張り馬超は気付いているのだ。 趙雲が突然に別れを切り出した、本当の理由を―――。 「わ……私にとって、貴方は一番ではありません。 もし殿と貴方が同時に危機に陥っていたら、私は迷わず殿を助けるでしょう。 貴方がそれで死んでしまっても、私はきっと後悔はしない。 それでも貴方は私を守るというのですか?」 ようやく趙雲の口から出た言葉は、別れを告げるものではなかった。 最早こうなっては、自分が如何に馬超にとって守るような価値がないかを説くしかないと。 「無論だ。 それでこそ趙子龍だ。 お前がそんな場面で劉備殿を見捨てるような男であったなら、俺は惚れはしなかった」 しかし馬超は全く意に介さない様子だ。 「―――私は貴方と戦で離れ離れの時が長くとも、貴方のことを思い出しもしない冷たい人間ですよ」 「それで良い。 俺に無事な姿を見せてくれるのならば、それ以上は何も望んではいない」 「私は……」 もっともっと続けようと思うのだが、どれだけ言おうとも馬超は平然とそれを受け止めるのだろう。 再び趙雲は口を閉ざした。 「何だもうお仕舞いか?」 そこで馬超は相好を崩し、くすりと笑みを漏らした。 趙雲は忌々しげに馬超を睨みつける以外なかった。 けれど胸に広がるのは、確かな安堵と温もりで。 覚悟を決めたといってもやはり、自分は馬超との関係を終わらせたくはなかったのだ。 愛しているのだ―――馬超のことを深く。 何を思ったか、馬超が立ち上がる。 そして卓を退けると、腕を広げた。 来いというように頷いてみせる。 本当に何もかも自分の心の内はお見通しなのだな。 嘆息しつつも、趙雲もまたようやく笑みを浮かべてみせる。 そうして、その馬超の腕に飛び込んだ。 馬超の腕はしっかりと趙雲に廻され、趙雲もまた馬超をしっかりと抱き締めた。 そこで趙雲はふと思い付いた言葉を、馬超の耳元に囁きかけた。 「孟起、貴方がもし私を助けるために命を落としたのなら、私も死にます」 するとしばしの沈黙の後、馬超は答えた。 「―――ならば、俺は絶対に死ねんな……。 何としてでも生き延びねば」 そう初めて趙雲に白旗を揚げたのだった。 written by y.tatibana 2005.05.17 |
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