100題 - No66 |
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今でもはっきりと覚えている。 優しい笑顔と大きな手。 いつも私を慈しみ、包んでくれた。 決して忘れることなどできない―――大切なあの人を……。 麗らかな春の昼下がり。 馬超と趙雲は人でごった返す城下町の通りを歩いていた。 久々に二人の休日が重なったこの日、外の陽気に誘われるように町へと足を向けたのだった。 普段城下を巡回する時のように、重々しい鎧を纏っている訳でもなく、厳しい表情でいるのでもない。 軽装で、穏やかな顔つきで人波を歩く二人は、違和感なく辺りに溶け込んでいた。 「今日はまた一段と凄い人だな。 邸でゆっくりしいた方が良かったか……」 人波に酔いでもしたのだろうか。 げんなりとした口調で言う馬超に、趙雲はくすりと小さく笑う。 「随分と良い天気だからな。 偶にはこうして職務抜きで町を見て廻るのも悪くない」 二人は通りの店を冷やかしながら、人並みを縫うようにして歩いて行く。 その趙雲の手に何かが触れた。 そっと趙雲の手を握りこんでくる大きく無骨な手。 長く骨ばった指の感触。 それが誰のものかなど考えずとも趙雲には分かっている。 隣を歩く馬超へとちらりと視線を投げかければ、馬超もまた横目で趙雲を見る。 このように大勢の人間がいる場所で何を考えているのだと非難の眼差しを趙雲が送る。 だが馬超は却って誰も気付きはしないとばかりに人の悪い笑みを浮かべるだけだった。 その笑みだけで趙雲は馬超の考えを理解したようだ。 趙雲は呆れたように溜息を落とす。 だがそれが形ばかりの……僅かな抵抗であることを馬超は良く知ってた。 その証拠に趙雲が馬超の手を振り解くでもない。 趙雲の頬が微かに赤いのは、この陽気のせいだと武人の情けで馬超はそう思ってやることにする。 「腹減らないか?孟起。 肉まんが食べたい」 趙雲が照れ隠しのようにそう言うものだから、馬超はますます笑みを深くするのだ。 「全く……色気のない奴だな」 本当は可愛いところもあるのだなとでも言いたいところであったが、そんなことを口にすれば間違いなく鉄拳が飛んでくるだろう。 「男の私が色気など振りまいてどうする? 気持ち悪いだけだろうが」 馬超を睨みつけてくる趙雲の目に、執務や鍛錬の時のような厳しさや覇気はない。 それは趙雲が今この時を、心から楽しんでいるということではあるまいか。 自他共に厳しい趙雲の普段の近寄り難い雰囲気は今はまるでない。 かわれて怒ったり、照れたりする趙雲が馬超はとても愛しく思うのだ。 春の心地よい風に趙雲の黒髪が靡く。 その耳元で揺れる耳飾に馬超はふと目を留める。 それは装飾品の類をあまり好まない趙雲が、唯一いつも身に付けているものだった。 随分と古びていて、金や石の類もないそれはみすぼらしくさえ見える。 しかもそれを右側しか付けていない。 もう片方は失くしでもしたのだろうか。 五虎大将に数えられる程の趙雲が付けるには相応しくないと常々馬超は思っていた。 馬超は趙雲とは違い、衣にしても装飾品にしても華美なものを好む。 それ故に、いつも目にする趙雲の耳飾が気になっていたのだ。 「子龍、ちょっと寄って行かないか?」 そう馬超が声を掛けたのは、装飾品を扱う店の前でのことだった。 「あぁ、私は構わぬが、何か欲しいものでもあるのか? お前、派手だからな」 笑って頷く趙雲に、馬超は違うのだと首を振る。 派手とはなんだと言い返してやりたかったが、今は聞き流す。 用件はそんなことではないのだ。 「俺のものじゃなくて、お前に買ってやりたいんだ」 「はぁ? 私があまりこういうものを身に付けるのを好まないことを知っているだろう? 女人ではないのだし、仮に欲しければ自分で買うさ。 気持ちだけ受け取っておく」 だが馬超は趙雲の言葉を無視して、趙雲の手を引き、店の中に入る。 流石に人目につくとばかりに趙雲は握られた馬超の手を剥がす。 店の中は外の喧騒が嘘のように、数人の客しかいない。 並べられた品はどれも一目で高価なものだと分かる。 僅かな客も身なりのきっちりとした人間ばかりで、庶民が気軽に立ち寄るような店ではなさそうだ。 「孟起……私には必要ないと言っただろう……。 こういう所は落ち着かん。 お前の用がないのならば、出よう……」 周りを憚って趙雲は小声で馬超に訴える。 しかし馬超はそれに従う素振りは見せない。 「お前がずっとしているその耳飾―――それがずっと気になっていたんだ。 そのような古びて何の飾り気のないものより、お前ならばここにあるようなものが似合う」 「え?」 趙雲は大きく目を見開くが、徐々に険しい顔付きへと変わっていく。 それと共にありありとした怒りがその瞳に浮かんでくる。 「……余計なお世話だ。 私はこれを外す気は更々ない」 低く冷たい声でそう言い残すと、趙雲は馬超を置いて店を出てしまった。 あとに残された馬超は呆然と立ち尽くしていた。 馬超としては訳が分からない。 何がそれほどまでに趙雲を怒らせてしまったのか。 耳飾のことを口にした瞬間に趙雲の態度が豹変した。 あの古い耳飾が何だというのだろう。 そこではっと我に返った馬超は、慌てて趙雲の後を追う。 人波に飲まれていく趙雲の背を寸でのところで捕らることが出来た。 「待て、子龍」 どうにか追いつき、馬超は趙雲の腕を取る。 だが、趙雲は無言のまま乱暴に馬超の手を振り解くと、また歩き始めるのだ。 今は何を言っても無駄のようだ。 そう考え、馬超は黙って趙雲の後に付いて行く。 やがて辿り着いたのは趙雲の邸で、その門扉の前でようやく彼は馬超の方を振り返る。 眉間には深い皺が刻まれていて、趙雲の不機嫌さがありありと見て取れた。 「今日はもうお前と過ごす気にはなれん。 失礼する」 身を翻した趙雲の背に、馬超は声を掛ける。 「待て! 一体何をそれ程怒っているのだ? その耳飾のことか?」 すると趙雲は右耳に付けられた耳飾に手を遣り、肩越しに馬超を振り返る。 「これは私の―――大切な人が贈ってくれたものだ。 私にとってはどんな高価な宝石よりも価値がある。 それを古めかしいとか飾り気がないとかいう下らない理由で、簡単に外すことなど出来はせん」 馬超にとってそんな話は初耳だった。 その耳飾が趙雲にとってどんな意味を持つかなど聞いた事はなかったのだから、それに対して怒りをぶつけられても馬超としては如何ともしようがない。 だが馬超にはそんな趙雲の怒りの理不尽さよりも、聞き逃せない言葉があった。 その耳飾が大切な人から贈られたものだと。 愛しげにその耳飾に触れる趙雲に、馬超の中にとある不安が芽生える。 「まるで……今でもその相手のことを想っているような態度だな……」 馬超の声音が一段低くなったことに趙雲は気づいてはいないのだろうか。 趙雲は馬超の言葉に肯定を示すが如く大きく頷く。 「今でも、そしてこれからも―――私にとってとても大切な人だ。 絶対に忘れることなどできん」 「俺よりも大切な人間なのか……?」 「お前とあの人を比べることなど意味はない―――あの人は……」 だが、 「もういい! 聞きたくない!」 そう馬超は趙雲の言葉を遮った。 握り締めた拳が震えている。 趙雲は未だに自分とは違う誰か別の人間の事を想っているだ。 その事実以上に知るべきことなどない。 趙雲にとって自分は一番の存在ではなかった。 その衝撃、趙雲に対する怒り、そして趙雲が想う相手への嫉妬。 それらが綯い交ぜになり、馬超の心は千々に乱れていた。 馬超はもう趙雲を見ることは出来ず、そのまま逃げるようにしてその場を立ち去ったのだった―――。 結局馬超は一睡もすることが出来ず、明くる日を迎えた。 重い頭を抱えたまま、城へと出仕した馬超は、まず修練場へと向かう。 身体でも動かしていなければ、おかしくなってしまいそうだった。 馬超の心の内を映すかのように、空もまた昨日とは打って変わり重く垂れ込めていた。 だがそこに先客の姿を認めて、馬超は立ち止まる。 ―――趙雲だった。 彼もまた馬超と同じように悶々とした気持ちを紛らわせる為にここに来たのだろうか。 今はまだ気持ちの整理が付いていない。 趙雲と顔を合わせる気には到底なれず、趙雲に気付かれぬうちに馬超は立ち去ろうとした。 だが遠目に見える趙雲が、槍を振るっている様子がないことに馬超は気付いた。 四つん這いになり、きょろきょろと地面の上を見渡している。 何かを探しているような様子だ。 馬超に気付く様子もない。 普段の彼ならば気配を感じ取っていてもおかしくはない。 しかし、周囲には目もくれず、一心不乱に地面を注視している。 趙雲がそれ程まで必死になって探しているもの。 昨日までの馬超ならばその正体が分からなかったかもしれない。 だが今はそれが何であるかを容易に想像出来た。 馬超の中に昨日のやり取りが甦ってきて、また心が乱れる。 それほどまでにあの耳飾りが大切なのか。 あの耳飾りを贈った人間のことを想っているのかと。 趙雲を深く愛し、趙雲もまた自分のことを同じように想ってくれていると感じていた―――けれどそれは幻想だったのだ。 何とも言えぬ虚しさが馬超を襲う。 地面を這うように必死で耳飾りを探す趙雲をこれ以上見てはおれず、馬超は今度こそその場を後にしようとした。 だが、 「趙将軍!」 と呼びかける声に、その機会を遮られる。 趙雲がはっとして顔を上げた為、馬超はさっと物陰に身を潜めた。 やって来たのは姜維だった。 「どうかされたのですか?趙将軍」 趙雲の姿に姜維は驚いた様子で問いかける。 対する趙雲は慌てて立ち上がり、膝の汚れを払いながら何でもないと首を振る。 「そうですか……。 丞相がお呼びなのですが、お忙しかったでしょうか?」 特に不審を抱くでもなく姜維が聞けば、 「いや、そのようなことは……。 すぐに参る」 趙雲はそう答えるのだ。 だが馬超は気付いた。 僅かに震える趙雲の声に。 そして姜維に続いて修練場から出て行く趙雲が、後ろ髪を引かれる様にして振り返ったその表情が―――今にも泣き出しそうだったことに。 母とはぐれ、迷子になった幼子のように、酷く不安げで弱々しく思えた。 そんな趙雲を馬超は今まで見たことなどなかったのだ。 ぽつり……ぽつり……と、地面に水滴が落ち染みを作る。 とうとう雨が降り出した。 それはまるで趙雲が泣いているかのようで―――。 馬超はそんな空を暫く眺めた後、動き出したのだ。 降り始めた雨はすぐに激しさを増してきた。 そんな激しい雨音が響く修練場に人影がある。 諸葛亮との話を終え、急いで修練場に戻ってきた趙雲はその影に気付き、足を止める。 土砂降りの雨の中で一体誰が何をしているのかと、趙雲は不審気に眉根を寄せる。 不審者かと腰の剣に手をやりながら徐々に間合いを詰めて行く。 やがてその人影の正体を認められるまでになって、趙雲の表情は不審から驚愕へと変わっていく。 「も……うき……?」 そこに居たのは馬超であった。 先程まで趙雲がそうしていたように、馬超が雨の中、地に手足を突き周囲に目を走らせている。 その身体は雨でびしょびしょに濡れ、衣は泥で汚れている。 「孟起……お前、何をして……?」 呆然と呟く趙雲に、馬超は顔を上げることなく、泥水が流れる地面を見つめたままだ。 「お前の大事なものを探しているに決まっているだろう。 耳飾……落としてしまったんだろ?」 「どうして……知っている……? それにお前あの耳飾のこと、昨日はあんなに―――」 「今はそんなことはどうでもいい。 あれはお前にとって何よりも大切なものなんだろうが。 俺が必ず見つけてやる―――だから泣くな」 趙雲は瞠目する。 馬超は全て知っているのだ。 耳飾を無くしてしまったことも。 そのことで不安に揺れ、涙が零れそうだったことも。 馬超にとって何より辛いのは、趙雲が他の人間を想っていることではない。 もちろん心穏やかではいられないのは確かだ。 けれど彼が悲しみ……涙を流すこと。 それが一番辛い。 だから、馬超は必死になって趙雲の耳飾を探しているのだ。 趙雲は馬超の前に膝を付き、馬超の手を取った。 春を迎えたといってもまだ初め。 このような雨が降ればまだまだ寒さが身に染みる。 それを示すように泥に塗れた馬超の手は、酷く冷たかった。 一体いつからこうして探してくれていたのだろう。 雨に濡れることも、泥に汚れることも厭わずに。 趙雲は馬超の手を己の頬へと持っていく。 「もういい……孟起。 充分にお前は力を尽くしてくれた。 ありがとう」 俯いた趙雲の表情は見えない。 だから手に感じる暖かい水滴は、この雨なのだと馬超は思うことにする。 「諦めるな、子龍。 俺が絶対探してみせるから」 だが趙雲は強く首を振る。 「本当にもういいんだ。 きっとあの耳飾が私にはもう必要ないってことなんだと思う」 「いや、しかし……」 「私が先に話さなかったら悪かったのだが、お前は誤解している。 あの耳飾をくれたのは―――私の兄だ」 「!?」 もちろんそれは馬超が想像していたことと大きく異なっていた。 恋愛の対象として馬超ではない誰か別の人間を深く想っているのだと考えていた。 「兄は年の離れた私を本当に可愛がってくれた。 私も兄の後ばかりを追っていたよ。 けれど私の家は貧しかったから、兄が私達を養う為に遠くの豪商の元へ働きに村を出ることになった。 離れたくない、行かないでと泣きじゃくる私に兄はあの耳飾をくれた」 目を閉じれば昨日のことのようにあの日のことが思い出される。 「兄上! 嫌です! 雲を置いていかないで!」 泣いて、兄の腰にしがみ付く趙雲の頭に、優しく大きな手がのせられる。 「雲、お前は男の子だろう。 そのように泣くものではないよ。 強くなれ、雲……お前ならばきっとできる。 私はいつでもお前を想っているよ、どんなに遠く離れていても」 そう言って差し出されたもの。 それは一つの小さな耳飾。 「片方は私が持っていよう。 雲といつまでも繋がっていられるように。 お前にもいつか共に歩んでくれる人間が見つかる―――その時が来るまで私は見守っているよ。 元気でな、雲」 「結局それが兄との最後の別れになってしまった。 流行病で亡くなってしまったんだ……。 私にとってあの耳飾は兄の形見であり、いつも見守ってくれるといった兄の依り代だった。 だからどうしても手放すことなどできなかった」 「……」 「お前に昨日この耳飾が古くて似合わないと言われた時、兄を馬鹿にされたように思って腹が立った。 お前は何も知らなかったというのに……そうと分かっていても許せなかった。 孟起に全くは否はない。 本当にすまなかった」 趙雲の頬に宛てられたままの手をそっとそこから外すと、馬超は未だに項垂れるように顔を伏せたままの趙雲の背に腕を廻した。 あやすように、包み込むように、趙雲を優しく抱きしめる。 「俺の方こそお前の話も聞かず、悪かった。 そんな大切な耳飾ならば諦めずに探そう、子龍」 「さっきも言っただろう? きっと私にあの耳飾が必要なくなったってことだって。 兄はもう自分が私の傍にいなくても大丈夫だって思ったんじゃないだろうか。 ―――共に歩んでくれる人間を私が見つけることが出来たから……。 だからいくら探してもあの耳飾はもう二度と見つからないような気がするんだ」 「そうか……」 趙雲の言葉が嬉しくて、馬超の頬にも暖かいものが伝って落ちた。 降り注ぐ雨は、涙もそして疑念も蟠りも―――悲しみをも洗い流してくれる……。 「行こうか」 どちらからともなくそう声を掛け、自然に手を繋ぎ、二人は共に歩き始めるのだった。 written by y.tatibana 2005.05.01 |
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