100題 - No63

もし…
馬超から想いを告げられ、抱き締められた時、趙雲はそれを受け入れた。
その時の馬超の表情はとても嬉しそうで、趙雲もまた穏やかに笑って見せた。
けれど、趙雲が馬超に想いを寄せていたかと言えば、答えは否だ。
決まった相手が特にいるでもなし、同性同士で関係を持つ事にも特に抵抗はなかった。
だから受け入れた―――それだけの軽い気持ちだった。

ただそれがいつまでも続く関係ではないと趙雲は思っていた。

いずれ彼も自分も妻を娶り、子を為し、家庭というものを築いていくのだ。
それまでの関係―――端的に言ってしまえば身体だけの関係なのだと。
同性同士ならば、子が出来る訳でもなし、後腐れがなくていい。
彼との身体の相性は良かったし、欲情が満たせればそれ以上望むものなどない。
彼もまた一族を失った寂しさを紛らす為、一時的な縁(よすが)を自分に求めただけなのだろう。
互いに心惹かれる異性が出来れば、それで終わりだと。





だが趙雲が当初考えていたよりもずっと長く、馬超との関係は続いていた。
趙雲にとって心動かされるような女人は現れず、ならば別段馬超と別れる理由もなく今日に至る。
馬超からもそういった話は出てこないので、自分と同じような状況なのだろうと趙雲は考えていた。

しかし馬超に良い寄る女の姿を幾度か趙雲は目撃していた。
実際、馬孟起と言う男は人を惹きつける充分すぎるほどの魅力を持っている。
その端正な顔立ちももちろんのこと、武芸に秀で、立ち振る舞いも優雅だ。
女達が放っておくはずはないだろう。
中には大層な美姫もいただろうに。
趙雲が伝え聞いた話によれば、にも関わらず、馬超はどの女からの誘いも素気無く断っているらしい。





「お前、贅沢過ぎじゃないのか?」
行為の後、共に横になった寝台の上で、趙雲は乱れた息が収まるの待って馬超へと問う。
「はぁ?何が?」
上体を起こし、馬超は傍らの趙雲を見遣る。
心底趙雲に問われたことの意味が分からない様子だった。
「何がって…、女達からの数々の誘いを断っているらしいじゃないか。
そんなにお前の理想って高い訳?」
趙雲の言葉に、馬超は目を瞠った後、深々と溜息を吐いた。
今度は随分と呆れたように。
「お前なぁ……どんなに美人の誘いだって断るに決まっているだろうが。
俺はそんな不誠実な男じゃない」
「は?」
逆に次は趙雲が首を傾げる。
「お前という恋人がいるからに決まっているだろう。
何故他の女の誘いに応じねばならん」
さも当たり前だという口調だ。

そんな馬超を趙雲は横たわったまま、まじまじと見上げる。
「私に遠慮でもしてるのか?
おかしな奴だな……男が女と結ばれるのは当たり前のことだろう。
私は別にお前の妻ではないし、そうなれる訳でもない。
子を産んでやることとて出来はせん。
お前が誰か気になる女がいるというのなら、私は一向に構わん。
別れれば良いだけの……」
そこまで言った所で、趙雲の言葉は突如遮られた。
馬超に腕を捕らえられたかと思うと、強い力で引き起こされ、次の瞬間趙雲の頬に痛みが走った。

馬超に殴られたのだと理解するまでに、趙雲はしばしの時間を要した。
「な……にをする!?」
突然の暴挙に対し、ぎっと趙雲は馬超を睨みつけるが、馬超の表情に趙雲は言葉を失った。

酷く傷付いた顔をして、馬超は怒りのためか震えていた。
唇を噛み締め、瞳は今にも涙が零れそうに潤んでいた。
「そんな気持ちで俺と……今まで付き合っていたのか!?
お前、最低だ……っ!」
そう低く吐き捨てると、馬超は寝台から降り、手早く身なりを整える。
そのままもう趙雲の方を見ることもなく、馬超は部屋を出て行った。
後に残された趙雲はただただ呆然とそれを見送るしかできなかった。

まさか―――本気で彼は自分のことを…?
同じ気持ちだと思っていた。
ほんの軽い戯れの……身体だけの関係で構いはしないのだと。
何かあれば簡単に終わってしまえるそんな気軽な気持ちではなかったのか?
けれど彼のあの態度と表情。
自分の言葉に明らかに深く傷付き、怒っていた。
それは彼と自分との気持ちの相違の証拠ではないのか……。

少なくとも自分は彼の事を真剣に想ったことなどなかった。
その筈なのに。
胸が締め付けられるように痛むのはどうしてなのだろう―――

その答えをその時の趙雲はまだ見つけ出せずにいた。





それから何度も趙雲が馬超を顔を合わす機会はあったが、馬超は口を開くどころか、趙雲の方を見ようともしなかった。
あれ程頻繁に趙雲の邸を訪れていた馬超の足もぱったりと遠のいた。

もう終わっただけのことだ。
それだけの関係だったと自分は端から思っていたではないか。

それでもあの日から、趙雲の胸に巣食う重々しい気持ちは消えてはくれず、圧し掛かる。
久々の休日だというのに、邸でじっとしていても何故か落ち着かない。
趙雲は気分転換を図ろうと、街に出た。
だが、すぐにそうするべきではなかったと趙雲は後悔することになる。





装飾品を取り扱う店から出てきた一組の男女。
それを目撃した時、趙雲の足は自然と止まった。
馬超と、そして小柄ではっと目を引くほどの美しい女だった。
二人はとても親しげな様子で、会話を交わしている。
遠すぎてその内容までは趙雲には聞こえてこない。
女が何事か馬超に囁きかけると、馬超は心底嬉しそうな微笑を漏らした。
趙雲は無意識の内に拳を握り締めていた。

なんだ…ちゃんと女ができたんじゃないか。
やはり彼が自分に本気だったなどということは勘違いに過ぎなかったのだ。
自分とはもう目すら合さず、あっさりと他に女を作っている。
それが馬超の答えだということだ。

だが、趙雲は驚愕していた。
それは馬超に女が出来ていたからではない。
二人の仲睦ましい姿を見て、酷く衝撃を受けている自分に気付いて―――驚いていた。
心が千千に乱れている。

そこに至ってようやく趙雲は己の本心に気付いた。

一体いつの間に自分の心の中でこれ程までに彼の存在が大きくなっていたのだろう。
嫉妬を感じる程に。
今になって、彼の優しさや笑顔、肌の温もりが如何に自分に安らぎを与えてくれていたかを感じる。
本当に今更だ……。
もし…それに早く気付いていたからといって、何かが変っていただろうか?

趙雲は静かに首を振る。

馬超にとっても関係を持ちかけたのは戯れであったのだ。
何も変らなかったに違いない。
自分も最初は軽い気持ちだった。
それなのに、いつの間にか彼への気持ちは大きくなっていて、それを今ごろ気付くとは、何とも愚かで滑稽だ。

重苦しい気持ちを抱えたまま、趙雲は踵を返した。
馬超と女の姿はもう見えなくなっていた。





その夜、驚いたことに趙雲の邸に馬超が久方ぶりに訪ねてきた。
自室に通しはしたが、趙雲は馬超の顔を正視できずにいた。
馬超もまた話の糸口を探っているらしく、黙り込んでいる。
その重々しい空気に耐えかねて、趙雲が先に口火を切った。
「何の御用かな?」
窓辺に立った趙雲の視線は、変らず外へと向けられたままだ。
「この間は…悪かった」
あの日のことだとはすぐに合点がいったが、趙雲は首を傾げてみせる。
「この間……?
あぁ、あの日のことか。
別に殴られたことはもう気にはしてはおらん。
改めて詫びて頂く必要もない。
用件がそれだけならば、どうぞお引取を」
そう素気無く言ってみせたが、本当は趙雲の鼓動は激しく脈打っていた。
このまま馬超といれば、あらぬことを口走ってしまいそうで。

「子龍、俺は……」
馬超の歩み寄る気配がして、腕を捕らわれた。
視線を合わせようとする馬超の手を、反射的に趙雲は振り払った。

もう別の人間がいるくせに。
その女を抱いたその手で触れられたくはなかった。
そしてそんな女々しい自分にほとほと嫌気が差す。

「別れの言葉も結構だ。
元々いつまでも続くような関係ではない。
私もお前も遊びだったのだ。
何も遠慮することなどない」
努めて冷静さを趙雲は装う。
「それが……偽らざるお前の本心なのか?」
搾り出すような低い声が問いかける。
「そうだ」
趙雲は馬超の顔を制止できぬままに答えを返す。

またしばしの沈黙が流れた。
そして、再び馬超が口を開く。
酷く悲しげな声で。

「……そうか。
だがこれだけは言っておく。
俺はお前との事、遊びだと思ったことなど一度もない。
愛している、子龍。
だが、お前がそういう気持ちであったのならもうこれ以上は共にはいられない。
余りにも辛すぎる。
―――さよならだ、子龍」
足音は遠のいて行き、やがて扉が閉まる音が室内に響いた。

「嘘つき」
趙雲は窓辺から闇夜に向かって、呟く。

愛しているなどと。
自分のことなど何とも想ってはいないくせに。
大切に想う女がいるくせに。
そんな見え透いた偽りの言葉など必要ない。

自嘲気味に趙雲は笑って、ようやく身体を反転させた。
広々とした、けれど寒々しい部屋。
二人でいる時は不思議と広いとも寒いとも感じなかったけれど。
もうここに馬超を迎え入れることはないだろう。

「……?」
ふと、円卓の上に見慣れぬものを見つけて、趙雲は不審そうに眉根を寄せた。
確かに先程までは何も置かれていなかった。
近付き手にとると、それは質の良い上品な髪紐だった。
趙雲の黒髪に良く映えそうな蒼色。

誰がそこにそれを置いたかなど、考えるまでもない。
馬超だ。
あまりそういったことに頓着のない趙雲はいつも手近な紐で髪を結んでいた。
それを見て馬超が勿体無いとことあるごとに何度も繰り返していた。
折角の綺麗な黒髪が台無しだと。
男相手に何を言っているのだと趙雲は取り合わなかったのだが……。

どうして最後にこんなことをするのだ。
そんな優しさは残酷なだけだと何故分からない?
この髪紐を見る度に、彼の事を思い出さずにはいられなくなる。
忘れ去ることも出来ない。

「孟起……」
呼びかけた声に、返る言葉は当然なかった。
髪紐を握り締めたまま、それを捨て去ることはどうしても出来ず、趙雲はじっとそれを見つめていた。
不意に溢れ出る涙を、趙雲は抑えることが出来なかった―――





碌に眠ることも出来ないまま朝を迎え、趙雲は重い頭を抱えたまま城へと出仕した。
馬超に会いたいと思った。
けれどそれ以上に会いたくないとも思う。
今更何を話すことがあるというのかと。

軍議の席に、馬超の姿はなかった。
偶然隣の席に座った馬岱に尋ねれば、今日は気分が優れないと休んでいるそうだ。
それを聞いて、安堵したのか落胆したのか、自身でも分からなかった。

軍議の後部屋を出た所で、趙雲は呼び止められた。
「趙雲様」
立ち止まり、振り向いたその先にいたのは、昨日馬超と共にいた女だった。
どうやらこの城の女官であったらしい。
「何か?」
動揺を億尾にも出さず、趙雲は至って平静を装う。
「馬超様とは…その……」
言い難そうに女官は俯いて口篭もる。
馬超との関係を知っているらしいことはその様子から察しがついた。

馬超にはもう近付かないでくれとでも言いに来たのか。
趙雲は軽く溜息を吐く。
「私と馬将軍とはもうなんでもない。
そなたが気にするようなことは何も…」
すると弾かれたように女官は顔を上げた。
「違います!
趙雲様は誤解なされてます!」
いきなり強い口調で言われて、趙雲は面食らった。

「昨日街で馬超様と私の姿をご覧になられたのでしょう?
私……気付いておりました。
馬超様とは偶然あの店でお会いしただけなのです。
とても真剣に…食い入るように並べられた髪紐を見つめていらして、他の何も目には入っていらっしゃらないご様子でした」
「え?」
「本当です、私が声をお掛けしたら酷く驚いておられました。
愛しい方への贈り物ですか?とお訊ねしたら、馬超様ははにかんだように笑われて―――あの方のあの様な表情を私は初めて拝見しました」
ずっと以前から馬超を知っているかのような口ぶりだ。

その趙雲の疑問を感じとったのだろう、女官は寂しげな笑みを見せた。
「以前……お付き合いさせて頂いておりました。
とは申しましても、馬超様が通われていた女の一人でしかありませんでしたが…。
あの方はいつもお優しかったけれど、決して心は許してはくれませんでした。
どんな時でも絶対に剣をその身から離そうとはなさいませんでした」

今まで特に気に留めてもいなかったが、女官の言葉に趙雲は記憶を辿る。
趙雲の邸に来る時、馬超はいつも軽装で、剣を携えていたことはなかった。
どうせ脱ぐんだから、この方が脱ぎやすいだろう……などと呆れる趙雲を尻目に言っていたこともあったか。
趙雲が馬超の邸に行った時も同様だった。

「どうしてもそんな馬超様のお傍にいるのが辛くて、別れを切り出しました。
馬超様はただ言葉もなく、私の元を去って行かれた。
それで終わりです。
思い返せば愛の言葉を囁かれたこともありません。
馬超様にとって、私はやはりその他大勢の中の一人であったということです。
けれどその後しばらしくて、馬超様がどんな女性とも付き合うことがなくなったと噂に聞いて驚きました。
そして私はある時お見かけしたのです…」
女官は静かに趙雲を見つめる。
「とてもとても優しく穏やかな瞳をした馬超様のお姿を。
その視線の先には―――趙雲様、貴方がいらっしゃいました。
一目で分かりました、馬超様が今はもう唯一人の方のことしか目には入っていないことは。
昨日も随分と悩まれた後、それは綺麗な髪紐を御買いになられて……店を出た時、きっと愛しい方にお似合いになりますよと申し上げたらそれは嬉しそうに微笑んでおられました」

あれは……あの時街で見た彼の笑顔の意味はそういうことだったのか。
昨夜彼はきっと、自分との仲を修復しようとやって来たのだ。

愛している―――

あの言葉に偽りなど微塵もなかったのだ。
それなのに自分はそれを信じられず、彼を傷つけることしか出来なかった。
どうしようもなく―――愚かだ。

「どうして私にそれを…?
そなたの様子だとまだ馬将軍のことを想っているように思えるのだが……」
するとくすくすと女官は笑いを漏らした。
「趙雲様ってご自分のお気持ちには鈍感なのに、他人の気持ちは良くお分かりになられるのですね。
―――私がどれだけお慕いしても、もう決して馬将軍は私を見ては下さらないでしょうから。
なのにそんな私のせいで、あの馬超様がそこまで想われる方と仲違いされるのはとても辛いです」
「……感謝する」
笑顔の女官に、趙雲は一度深く礼をすると、その場を立ち去った。

向かうべき場所は決まっている。





扉を叩くと、ほどなくしてそれが開かれた。
趙雲の目の前に立つのは馬超。
趙雲の手には髪紐がしっかりと握られている。

馬超は趙雲を見つめたまま何も言わない。
趙雲は真っ直ぐに馬超を見つめた。
随分と久しぶりにまともに馬超の顔を見た気がする。
趙雲を見る馬超の瞳からはどんな感情も読み取れない。

今更だと思う。
けれどこれだけは言っておきたかった。

「孟起、私はお前を愛してる。
愚かな私はずっとそれに気付かずにいた。
けれど今ならはっきりと言える―――偽りではなく、心の底から愛している」

次の瞬間、趙雲の身体は馬超の腕の中にあった。
驚く趙雲を余所に、息も出来ない程に、馬超は趙雲をきつく抱き締める。
「子龍」
名を呼ばれ、趙雲の中にゆっくりと悦びが広がっていく。
それで馬超の想いが全て流れ込んでくるようだ。
そうして趙雲もまた馬超の背に腕をまわした。

すると馬超がそっと趙雲の髪紐を解く。
「俺が、新しいのを結んでやる。
お前が手にしているその髪紐を……」
趙雲が馬超の腕の中で頷きを返し、そして二人の姿は扉の向こうへと消えた。







written by y.tatibana 2005.03.20
 


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