100題 - No62 |
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あの時見た、貴方の姿が今も深く胸に焼き付いている―――。 鳥の囀りに目を覚まし、馬超は無意識の内に隣へと手を伸ばす。 だがその手は虚しく空を斬り、寝台の上へぱたりと落ちた。 馬超が求めていた温もりは傍らにはなかった。 寝台から伝わってくる冷たい感触に、馬超は深く溜息を落とし、その手を握り込む。 ゆるゆると身を起こし、今度は己の目でもって隣を確認しても、やはりそこには誰もいない。 けれど昨夜は確かにそこにいたのだ。 長坂の英雄と呼ばれる彼が。 趙子龍という名の男が。 決して夢という訳ではない。 部屋を見渡せば、そこは馬超の自室とは異なる質素な調度品が設えられている。 そう―――ここは彼の人の寝所なのだから。 裸身の馬超は寝台から降り、床に散っている衣を身に纏った。 まるでその機を見計らったかのように、部屋の主が入ってきた。 「お目覚めになられましたか?馬超殿」 薄い夜着一枚で、髪も乱れたままの馬超とは対照的に、趙雲は既にきっちりと衣を身につけ、髪も結わえられている。 その趙雲の姿を見て、馬超はまた溜息をつくのだった。 それに趙雲は気付いたのか、小首を傾げる。 「どうかなさいましたか?」 「…いや……」 何でもないのだと示すように馬超は首を振る。 「では、朝餉の支度が出来ております故、どうぞ」 涼やかに趙雲は微笑むと、馬超を先導するように部屋を出ようとする。 背を向けた趙雲へ馬超は足早に近付くと、趙雲が気配に気付いて振り返るよりも先に後ろから彼を抱き締めた。 「馬超殿……」 趙雲はさして驚いた様子もなく、腰に掛かる馬超の腕を解こうとする。 だが馬超はさらに力を込め、それを拒む。 そうしてそのまま趙雲の項へと口付けを落す。 昨夜も幾度となく口付けたその場所に。 「馬超殿……」 再度趙雲が馬超の名を呼ぶ。 呆れを存分に含ませた声音でもって。 「まだしっかり目が覚めていらっしゃらないようですね。 もう朝なのですよ。 このようなことをすべき時ではありません。 早く朝餉を済ませて城へ向かいましょう。 貴方も私も為すべきことはたくさんあるのですから」 趙雲の言葉に馬超は目覚めて三度目となる溜息を盛大に吐いた。 趙雲に悟られぬよう己の心の中で―――。 馬超が趙雲を捕らえていた腕を解くと、 「では、参りましょう」 と、馬超のことを振り返ることもなく、趙雲は何事もなかったかのように部屋を出て行く。 趙雲と深い関係を持つまでになってからそれなりの時間は過ぎた。 どちらかの邸で共に夜を過ごすことも、最早生活の一部になっている。 にもかかわらず、馬超は趙雲と共に朝を迎えたことはなかった。 朝になれば、今日と同じようにいつも趙雲は隣にはいないのだ。 馬超が目を覚ます頃には、しっかりと身支度を整え、涼やかな表情をした趙雲がいる。 睦み合った夜の名残など全く感じられぬ姿で。 共に朝を迎え、その肌の温もりを感じたい。 時には執務のことなど忘れて、共にゆるりと流れる甘い時を過ごしたい。 そう考えることはそれほどいけないことなのだろうか。 愛する人と少しでも長くいたいと思うのは至極当然のことではないのか。 馬超は何度となく趙雲に己の正直な気持ちを伝えたことがある。 けれどその度に趙雲は、まるで幼子に言い聞かせるように言うのだ。 「困った人ですね…。 錦馬超ともあろう方が、そのような子供じみたことを仰るものではありませんよ。 私達は武人であり、兵を預る将なのです。 そのように私事に感けている時間はありはしませぬ」 と。 冷静沈着―――。 趙雲のことを評する時、誰もがまずそう口にする。 それは例え恋人である馬超の前でも変わることはない。 朝昼は言うに及ばず、夜抱き合っている時でさえ、彼が我を忘れて快楽を追うことなどない。 常に自制心が働いていて、どんなことにも動じることのないゆとりのような雰囲気をその身に纏わせている。 それが馬超には堪らなく趙雲との距離を感じさせるのだ。 けれど―――馬超は一度だけ見たことがあった。 趙雲が声を立てて思い切り笑っている姿を。 あれはまだ趙雲と深い関係を持つ前のこと。 馬超は田植え前の水を張った田の脇を歩く趙雲の姿を見掛けた。 声を掛けようかと思ったが、別段趙雲と仲が良いという訳ではない。 趙雲はといえば、一心に手元の書簡に目を通しながら歩いていく。 馬超に気付く様子もない。 どうやら余程真剣にその書簡を読んでいるようで、周りのことはなにも目に入っていないようだった。 外でまで熱心なことだと、呆れと驚嘆半分で馬超は結局声を掛けることなく、歩き出した。 だがしばらく行った所で、派手な水音が耳に届いた。 思わず足を止め、馬超は音の方へと振り返る。 そこには水田の中で尻餅を付き、呆然と目を見開いている趙雲がいた。 書簡に熱中するあまり、足を踏み外して、脇の水田に落ちてしまったのだろう。 丁度趙雲の側を歩いていた何人かの農夫もぎょっとしたように立ち竦んでいる。 趙雲の白い衣は泥に塗れ、手にしていた書簡も泥水の中だ。 そんな中、誰よりも早く動いたのはその場にいた数人の子供達だった。 楽しそうな笑い声を上げて、趙雲と同じように水田の中に飛び込む。 子供達には趙雲が遊んで水田に飛び込んだように見えたのか。 大人である趙雲がそうしていても怒られないのだから、自分達も怒られるようなことはないと思ったのか。 子供達は土と混ざり合った泥水を、歓声と共に掛け合う。 そうしてそれはもちろん趙雲にも及び―――。 そこに至って趙雲はようやく見開いていた目を、何度か瞬いた。 あの男のことだ。 恐らく子供達を叱りはしないだろう。 そして取り乱すこともなく、何事もなかったかのように去って行くのだろう。 そう馬超は想像していたのだが…。 実際は違った。 趙雲もまた笑顔を浮かべると、子供達と戯れだした。 それは心底楽しそうに。 泥に塗れることに厭う素振りも見せず、まるで子供のように無邪気な笑い声を上げて。 馬超は我が目を疑った。 まさかあの趙子龍が……と。 けれどその笑顔が馬超の中には深く刻み込まれた。 それが趙雲という男に好感を抱き始めた出来事だった―――。 あの時以来、馬超は趙雲のそんな笑顔を見ていない。 趙雲はあの場に馬超がいたことに最後まで気付いてはいなかったが……。 それでも―――思わずにはいられない。 趙雲は自分のことなど特別に想ってはいないのではなかろうかと。 あんな風に心を許した表情を見せられる程には。 身体だけではなく、心も繋がっているのだと信じていたのは自分だけの幻想だったのか。 ぎゅっと唇を噛み、馬超は拳を握る。 趙雲のことを想うほどに、こうして彼と過ごす日々がまるで絵空事のように感じられる。 日に日に増していく虚しさと寂寥感は馬超の胸を締め付ける。 「馬超殿?」 呼ばれる声に、暗い考えに沈んでいた馬超が顔を上げれば、立ち去った筈の趙雲が目の前にいた。 「いつまで待ってもいらっしゃらないので……どうかされたのですか? どこか具合でも?」 馬超は力なく首を振る。 「しかし、今日の貴方はどこかおかしいですよ。 本当に何かあったのでは?」 馬超の心の内など知る由もない趙雲は不思議そうに馬超を見つめている。 「……失礼する」 そうただ短く言い残すと、馬超は部屋を出、趙雲の邸を後にした。 それ以降、趙雲と会わない日々が続いた。 意識的に馬超が趙雲を避けていた。 何度か彼が邸に訪ねてきたことがあったが、気分が優れないと申し伝えて会おうとはしなかった。 趙雲にしてみれば急に馬超の態度が変化した理由など理解できてはいないだろう。 ―――まったく子供じみている……。 馬超は自嘲する。 勝手に一人思い悩み、自分の要求が叶えられないからと腹を立てる。 本当に幼子と変りはない。 それは馬超自身が一番良く分かっていた。 けれど、趙雲と会えば愛しさが募ると同様に、虚しさもまた渦を巻く。 少しでも鬱積する気持ちを晴らそうと、馬超は街に出た。 目的がある訳ではない。 馬超は何をするでもなく、ただ街中を歩いていた。 「馬超殿!」 と、聞き覚えのある声が行き交う人込みの中から馬超の耳に届いた。 馬超の前方からやって来るのは趙雲だった。 反射的に馬超は踵を返し、走り出す。 「馬超殿!お待ち下さい!」 趙雲の追ってくる気配を、馬超は背中越しに感じていた。 いつまでも逃げている訳にはいかないとは思っていたが、足は止まらなかった。 だが趙雲も諦めることなく、馬超を追ってくる。 だが、 「うわっ…!」 という声と共に、人が派手に倒れる音を聞いた時、ようやく馬超は走るのを止めた。 随分と走り、もう街外れまで来ている。 人の通りも疎らだ。 乱れた呼吸のまま振り向けば、先程の声の主―――趙雲が地面に伏していた。 「子龍!」 逃げていたことも忘れて、馬超は趙雲に駆け寄った。 「痛…っ」 苦痛の呻きを漏らして、趙雲はゆっくりと身体を起こす。 「大丈夫か?子龍?」 見れば倒れた時に擦りむいたらしい肘の部分から血が流れていた。 「大…丈夫です…。 石に躓いてしまったようで……見っとも無い姿をお見せしました」 恥じ入るように言う趙雲の傷付いた腕を馬超は取り、懐から取り出した布を巻きつけてやる。 「見っとも無くなどない。 貴方はどうしていつもそう完璧であろうとするのだ?」 「馬超殿…?」 一度口を開いてしてしまえば止まらなかった。 「俺の前でぐらいその鎧を脱ぎ捨ててはくれないか? 武人としての趙子龍ではなく、ただの趙子龍として。 水田で子供と泥に塗れ戯れるような―――そんな貴方を見せてはくれないだろうか?」 馬超の言葉に、趙雲が目を瞠った。 「あの時の…私の姿……ご覧になっていたのですか?」 「あぁ、本当にあの時の貴方は楽しそうで…あの笑顔が今でもずっと俺の中に深く刻まれている。 あれが貴方という人を意識し始めた瞬間だった。 冷静沈着で清廉潔癖な貴方の事ももちろん好きだ。 けれど俺は……」 だが趙雲は信じられぬと言う風に首を振った。 「私は……周囲が思っている程冷静な人間などではありません。 本当は人の心の動きに鈍くて、知らず反応が返せないだけなのに―――それが周りには冷静だと受け止められているようで…。 貴方に想いを告げられて、嬉しい反面不安でした。 きっと貴方も私のことを周囲と同じように思っているのだと。 だから貴方を失望させぬよう―――貴方の前では何があっても完璧であろうとそう心に決めていました。 長く共にいればいる程、そんな私の本当の姿を知られるのではと思うと怖かった。 だから出来る限り傍にいたいと望んでくれる貴方の気持ちを受け止められなかったのです」 「俺も…こんなことならもっと早く貴方に伝えるべきだった」 言って馬超は趙雲を抱き締めた。 「馬超殿!?このような街中で…」 趙雲は驚きの声を上げた。 けれど―――それでも抵抗はなかった。 馬超は思わず笑みを漏らす。 そうして趙雲の耳元に唇を寄せ、囁く。 「俺は貴方が大好きだ」 その瞬間、趙雲の身体が火照るのが分かった。 早くなった心臓の鼓動もはっきりと伝わってくる。 きっと顔も赤く染まっているに違いない。 その日の夜、久しぶりに二人は共に過ごした。 そして朝。 馬超が目を覚ますと、傍らには確かな温もりがあった。 その温もりに抱かれて、馬超は再び心地良い眠りの中に落ちていくのだった。 written by y.tatibana 2004.02.13 |
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