100題 - No59

最早勝利は確実だった。
それが気の緩みになったのか。
馬超は鋭く空を裂く音に、咄嗟に反応できなかった。

「孟起!」
名を呼ばれた同時に、突き飛ばされた。
―――っ」
息を呑む音と人の倒れる気配。
馬超は身を起こし、振り返る。

倒れ伏すその人を、馬超は呆然と見つめる。
背に数本の矢が刺さり、その身体は微動だにしない。
血の気を失い、固く目を閉ざした彼の横顔を目の当たりにして、馬超の鼓動は早まった。
馬超が見慣れた…いつも生き生きとした表情はそこにはなかった。

最悪の結末が馬超の頭を過ぎった。
確かめなければ―――そして一刻も早く自陣に運んで手当てを施さなければ…。
そう意識しても尚、身体は一向に動かない。

と、響く銅鑼の音。
その音に、敵が一斉に引いてく。
敗戦を悟った敵方の退却の合図だったのだろう。

それを耳にしても、やはり馬超は立ち尽くしていた。
倒れている彼を見下ろして、ただじっと。
彼もまたやはり身動き一つしない。

「馬将軍!」
馬超の名を呼びながら駆けて来た青年は、倒れ伏す彼を見て、目を見開いた。
「趙将軍!?」
青年は屈み込み、慎重に彼の背に刺さった矢を抜いていく。
それでも彼は呻き声さえ漏らしはしなかった。
「趙将軍!しっかりして下さい!」
青年の必死の呼びかけにも、彼は反応を示さなかった。

それらが、馬超に最悪の結末を決定付ける。
「う…あ……」
意味を為さない声を漏らし、馬超はがくりと膝を付く。





倒れた彼の姿が、過去と重なった。
大切な者を守りきれなかった己の罪。
また、同じ過ちを繰り返した。
二度とあんな想いは沢山だ。
悲しみと絶望に苛まれ、生ける屍の如く過ごしていくのは…。
もう―――嫌だ。





馬超の意識があったのはそこまでだった―――





馬超が目覚めた時、まず目に入ったのは心配そうに覗き込む、従兄弟馬岱の顔だった。
ぼんやりとする頭で周りを見渡せば、見慣れたそこは自室のようだった。
「目が覚められましたか?兄上」
「俺は…一体……」
呟いて寝台の上に身を起こす馬超を、気遣うように馬岱が支えた。
「戦場でお倒れになられたのですよ」
「戦場で…?」

先の戦に出陣したことははっきりと覚えている。
けれど―――そこから先の記憶が酷く曖昧だった。

「俺はどこか傷でも負ったのか?戦場で倒れるなど…」
「いいえ、特には…」
馬岱は静かに首を振る。
だが馬岱の表情はどこか沈んだような翳りを帯びていた。
馬超は不審げに首を捻る。
己の身体を見ても、どこにも変った箇所もなければ痛みもない。

「一体どうしたのだ、岱?」
「兄上…戦でのこと覚えてはおられないのですか?」
「先程から思い出そうとしているのだが、靄がかかったようにはっきりせんのだ。
何かあったのか…?」
馬岱は馬超の言葉に目を伏せた。
そのまま口を噤んでしまった馬岱に痺れを切らした馬超が、馬岱の肩に手を掛けた。
「どうした?おかしいぞ、お前」
するとようやく決心したのか、馬岱が重々しく口を開いた。
「兄上は、ご無事だったのですが……趙雲殿が…」

再度馬超は首を傾げた。
心底不思議そうに。

「趙雲殿?誰だそれは…?」
「あ…にうえ?」
馬岱は弾かれたように顔を上げ、馬超を食い入るように見つめた。
馬超は相変わらず訝しそうな表情だ。
冗談を言っているようには馬岱には見えなかった。





馬超は何もかも忘れてしまった訳ではなかった。
ただひとつの事を除いては、依然と何ら変ってはいない。
そう―――趙子龍という彼の人のことを忘れてしまった以外は…。





「心の問題でしょうね」
諸葛亮は向かい合って座る馬岱へと静かに語る。
ひらひらと羽扇を扇ぐ諸葛亮の表情はいつもながら淡々としていて、感情を読み取らせない。
「倒れて動かない趙雲殿の姿を見て、馬超殿の心の均衡が崩れてしまったのでしょう。
馬超殿の凄惨な過去と趙雲殿の姿が重なり―――それが趙雲殿のことを忘れさせてしまった」
「そんな!酷いです!」
激昂し、立ち上がったのは、諸葛亮の隣に座っていた姜維だった。
「趙将軍は馬将軍を庇ってあの様なことに―――
それなのに馬将軍が趙将軍を忘れてしまうだなんて、酷すぎます。
そんなの唯逃げているだけじゃないですか!」
「馬超殿を責めるべきではありませんよ、伯約。
誰しも心に脆さを抱えているもの。
馬超殿にとってはそれだけ趙雲殿のことが大切だったのでしょう」
「ですが!」
尚言い募ろうとする姜維の台詞を遮ったのは、部屋に入ってきた馬超だった。

「丞相に姜維ではないか。
参られていたのなら声ぐらい掛けてくれれば宜しかったのに」
「療養中の貴方にあまりお気遣いをお掛けするのも忍びなかったもので。
こちらで馬岱殿から貴方の様子を伺っていたのですよ」
諸葛亮がそう穏やかに告げるのに、馬超は苦笑して見せた。
「別段怪我をしている訳でもないのに、岱が大事を取って休めというものだから…。
明日からは出仕致す故」
「あまりご無理はなさらぬ様に。
ですが、拝見したところお元気そうで安心致しました。
さて、伯約、私たちは城に戻りましょう」
馬超の方を見ようともせず、立ち尽くしてる姜維へちらりと視線を送り、諸葛亮もまた席を立った。


「…して…どうしてですか!?
私はやはり納得がいきません!」
姜維は叫ぶや否や、馬超へと詰め寄った。
その剣幕に驚いた様子で、馬超は目を瞠る。
そんな馬超の胸倉を掴むと、姜維はきつく相手を睨みつけた。
「趙将軍のこと、何故忘れてしまわれたのです?
貴方にとって何を失おうと、あの方のことだけは絶対に忘れてはいけないことでしょう?
なのに自分が苦しいからとあの人のことを忘れて、そうやって平然な顔をしておられる。
貴方は卑怯だ!」
馬超には姜維の怒りの意味が分からなかった。

何を言っているのだろう?
自分は何も忘れてなどいないのに。
趙将軍…それは自分が目覚めた時に馬岱が口にした趙雲という人物のことなのだろうか?
しかしどう記憶を辿ってみても、その中に趙雲と呼ばれる人物はいないのだ。

「お止めなさい、伯約。
馬超殿が知らぬと仰られるのなら、そういうことです。
我々が言うべきことは何もありません」
「ですが、丞相!
それではあまりにも趙将軍が…」
「何度同じことを言わせるつもりですか?
行きますよ」
諸葛亮は馬超に軽く会釈すると、部屋を後にした。
姜維もまた涙を浮かべた瞳で今一度馬超を見遣ると、しぶしぶといった様子で諸葛亮の後に続いた。
彼らを見送る為に馬岱もまた部屋を出た。

取り残された馬超の心は揺れていた。
普段温厚な姜維があれ程激昂するのを初めて目の当たりにした。
けれどやはり趙雲という人物のことは何一つ記憶にないのだ。
姜維の言うように本当に自分は趙雲という人物を忘れてしまったのだろうか?
だとするのならば、自分にとって趙雲とはどのような位置付けにある人物だったのか?
忘れてしまう程の人間だったのだから、顔見知り程度だったのかもしれない。
しかし、絶対に忘れてはいけない人だと姜維は言った。
あんなにも必死になって。

分からない…。
何も。
思い出せない――――。

ただ微かに胸が痛むのを、馬超は感じた。





それは馬超が出仕を始めて数日後のことだった。
執務を終え、馬超は帰路についた。

あれからずっと趙雲というその名が頭から離れない。
城の人間に尋ねてみても、みな曖昧に首を振るだけで、明確な答えを返してはくれない。
誰かから口止めされているようでもあり、馬超を気遣っているようでもある。
趙雲……と胸のうちでその名を呟くと、必ず胸が痛んだ。
最初は微かだったそれが、日々痛みを増していくようだ。

そんな風にぼんやりと考えに沈んでいたせいだろう。
馬超がはたと我に返った時、彼は意図せぬ場所を歩いていた。
自邸へ向かっていたはずなのに、そこは邸へ続く道ではなかった。
だが周りの風景に馬超は見覚えがあった。

夕暮れのこの道を自分はよく歩いていた―――そう身体が覚えている。
けれどどこへ向かって?
行き先は思い出せない。
それなのに、ここを歩いている時の自分の気持ちははっきりと呼び起こせる。
一刻も早くと逸る気持ちと、嬉しさ。
そんな感情が馬超を突き動かしていた。

この道の先に一体何があるのか。
馬超は確かめようと、身体が覚えているままに歩き出そうとした。
だが実際には足が動かなかった。
まるでその先へ進むことを拒否するかのように。
頭も酷く痛んだ。

誰かの声が頭の中で響く。





「なんだ?また来たのか?」
不機嫌そうな男の声。
深々と吐いた溜息の後、
「しょうのない奴だな…。
仕方がない、酒と肴くらいは用意してやる」
そう言って、微かに笑う声がする。





馬超の記憶の中にはない声なのに、とても懐かしく感じる。
誰の声だと自問しても答えは出ない。
ただ頭と胸の痛みが増すだけだった。





夜が来て、朝を迎え、また一日が始まる。
幾度となくそれを繰り返す内に、馬超の中で徐々に違和感が増していた。

何かが足りない。
とても重要で、自分にとってなくてはならないものが。

通り雨が過ぎ去った後の空を、城下を歩いていた馬超は雨よけに走りこんだ軒下からぼんやりと眺める。
徐々に空が明るくなり、そこに美しい虹がかかった。

「おい、見てみろ―――し…」
虹へ向けて空を指し、馬超は無意識の内に声を出していた。
そこではたと我に返る。

今自分は誰の名を呼ぼうとした?
ごく自然に、隣に誰かが立っているように話し掛けようとした。
…頭が痛い……。
それを考えようと、思い出そうとすればする程に。

それでも馬超は懸命に記憶をなぞる。
馬超を支配する違和感は、もうそんな痛みをもろともしないくらい大きくなっていた。

また以前聞いたあの男の声が頭の中で響く。





「こんな所でさぼってないで、早く城に戻るぞ」
声の主は酷く呆れているようだ。

誰だ…?
お前は一体誰なんだ…?

すると、おぼろげに人の姿が浮かんでくる。
黒髪の長身の男。
年の頃は変らないように見える。

「馬岱殿がお前を探して右往左往されていた。
あまり従兄弟殿に気苦労を掛けるな」
怒っているのか、男の眉間には皺が寄っていた。
それでも真っ直ぐに見つめてくる瞳は、優しい色を湛えていた。

そうだ…。
自分はこの瞳が好きだった。
どんなに不機嫌で、怒ったような態度であっても、その瞳はいつも優しく自分を捕らえていたではないか。
何よりも大切に想っていた、この男のことを。





「子龍」
―――、一度その名を口に出してしまえば、次々と溢れ出るように記憶が甦る。

酒を酌み交わし、語り合った時間。
戦場を駆けた日々。
抱き締めた体の感触。
褥を共にした幸福感。

そしてあの日、戦場で自分を庇い、彼が倒れた姿も―――

それから逃れる為に、自ら記憶を封じ込めるような真似をした。
あんなに大切だった彼のことを忘れ去ろうとした。
弱く脆い自分を許せない。
だが、今は自分を責めるよりも一刻も早く確かめたいことがあった。

馬超は走った。
城へ向かって。
息を切らせながら、馬超はその中を彼の姿を求めて走ったが、どこにも見当たらない。
彼の執務室もがらんとして、人の気配がしなかった。

戦場で感じたあの最悪の想像が現実味を帯びてきた。
震える身体を叱咤して、馬超はとある部屋の扉を開けた。
中で座って書簡に目を通していた、その部屋の主、諸葛亮が顔を上げる。
「どうしました?馬超殿…ひどく慌てておられるご様子ですが」
「子龍は……子龍はどうなった?」
「おや、思い出されましたか」
諸葛亮は涼しげな表情のままで、別段驚いた様子もない。

だが傍らに控えていた姜維は射るような視線を馬超に向けた。
「今更何を仰っているのです!
忘れてしまったくせに…あの人のことを何もかも忘れて、笑っていたくせに…!」
「お止しなさい、伯約。
馬超殿が思い出されたのなら、それで良いではありませんか。
趙雲殿が傷を追ったように、馬超殿もまた心に傷を負われていたのですよ。
貴方なら―――それを乗り越えられると、私は思っていました」
静かな口調のまま、諸葛亮は続ける。
「趙雲殿があの後、どうなられたのか……それはご自分の目でお確かめなさい。
あの方の邸へ行けば、答えは分かるでしょう。
辛い現実が待っているのだとしても、貴方は行かなければならない」

馬超は大きく頷いた。
「分かっている…。
だが、どんな結末が待っていても俺はもう決して、あいつのことを忘れたりはしない。
あいつを忘れることが、如何に心に痛みを齎すのかもう分かったから」
それから馬超は唇を噛み俯いている姜維へと眼差しを移した。
「悪かった、姜維。
お前はあの時何も出来ないで呆然とする俺に代わって、子龍を介抱してくれたんだよな…。
ありがとう」
そう言い残すと、馬超は部屋を後にした。





通い慣れた道を歩き、立ち止まることなく、馬超は目的地へ向かう。
やがて見えてきた道の先の邸を前に、馬超の鼓動は徐々に早くなる。
どんな結末を受け入れると決めた。
けれど一縷の望みを捨てきれないでいるのも事実だ。

辿り着いた邸の中へと馬超は足を踏み入れる。
そしてその扉の前に立ち、扉に手を掛けた時、その手が震えるのを馬超は抑えきれなかった。





扉を開く。
そこには―――





馬超の瞳から、止め処なく涙が溢れて頬を濡らす。
「うっ……」
堪えきれない嗚咽が、馬超から漏れた。

「どうした、孟起?
そんな所に突っ立ってないで、入って来いよ。
いつもは遠慮なくずかずかと入って来るくせに」
寝台から掛かる声。
それに導かれるように、馬超はゆっくりと寝台へと近付く。

果たして彼は……趙雲は確かにそこにいた。
顔色は悪く、身体を横たえてはいたけれど。
彼にしては珍しい穏やかな笑みを浮かべて、馬超を見つめてくる。
「夢じゃ…ないんだな」
「お前の目は節穴か?
勝手に人を殺すな」
言って、趙雲は寝台から手のを伸ばし、馬超の手を捕らえた。
それを己の胸の上と乗せる。

そこから伝わってくる確かな鼓動。

「幻じゃないだろうが。
あの時受けた傷自体も大したことはない。
ただ矢に毒が塗ってあったようでな…。
幸い姜維殿が早々に適切な処置をしてくれたお陰で、命は取り留めたよ。
まだ思ったように身体を動かせず、こうして臥せってはいるがな」
何でもないことのように趙雲は言ってのける。

ほっと息を吐き、馬超は寝台の傍らに膝を付いた。
「俺は……お前を忘れてしまっていた。
辛い現実から逃げたい一心で。
俺は―――
「知っていた」
あっさりと趙雲は頷いた。
「丞相から伺っていたからな」
「……」
言葉もなく馬超は俯いた。

こんなにも薄情で弱い自分を、趙雲はどう思ったのか。
呆れ果て、愛想を尽かしてしまっても何らおかしくはない。

「私は別にお前が私のことを忘れたままで一向に構わぬと思っていた」
馬超の考えを裏付けるような趙雲の言葉。
どうしても馬超は顔を上げることが出来なかった。

「あぁ、お前何か勘違いしているな?」
趙雲は小さく笑って、俯いた馬超の頭を撫でる。
「別に私はお前のことを弱い人間だとか思ってはいないぞ。
誰しも弱さはある…もちろん私にもな。
お前が私のことを忘れたままでも構わないと言ったのは―――
そこで言葉を切り、趙雲はまだ思うように動かない身体をなんとか起こす。
そして馬超の耳元に唇を寄せ、囁いた。

―――またお前との関係を一から築いていく自信があったからだ」
「!!」
馬超はゆっくりと顔を上げる。
間近にある優しい漆黒の瞳とぶつかった。

「どれだけ時が掛かろうともまたやり直せばいいだけのことだと。
我儘で、傍若無人なお前の相手を出来るのは、私くらいのものだろう?」

そう言って今度はしっかりと笑った趙雲につられるように、馬超もまた笑顔を見せるのだった。






written by y.tatibana 2004.12.31
 


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