100題 - No58 |
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いつも願っているのはあの人の幸せ。 あの人が笑っていてくれれば、それでいい。 例えそれが自分に向けられたものではなくとも。 ずっとそう思っていた。 それなのに―――。 扉を軽く叩くと、馬岱は中からの返事も待たずに扉を開けた。 それはいつもの朝の慣例。 「兄上、朝餉の用意が…」 声を掛けながら部屋に入り、顔を上げた所で馬岱は続く言葉を飲み込んだ。 珍しく既に目を覚まし、身を起こした従兄弟の姿が寝台の上にあった。 入ってきた馬岱に対し、馬超は人差し指を唇に当てる。 そんなことをされなくても馬岱は既に言葉を失っている。 馬超の傍らに横たわるもう一人の存在に気付いた瞬間に。 うつ伏せて眠っているらしいその人は、馬岱が入ってきたことにも気付かず身動きひとつしない。 よほど深い眠りについているのだろう。 艶やかな長い黒髪を傍らの馬超が愛しげに撫でていた。 それが誰であるのか顔を見ずとも馬岱には分かった。 従兄弟にそんな柔らかで優しい表情をさせられる人はただ一人しかいないから。 この蜀に降って以来、馬超がずっと想い焦がれていた―――長坂の英雄と呼ばれるその人。 掛布からはその人の白い素肌の肩が覗いていて、隣の馬超もまた何も纏ってはいない。 二人が何をしていたかなど一目瞭然だった。 例えば飲んでいるうちに酔って、そのまま同じ寝台で眠りについただけ……という訳ではあるまい。 馬岱はそっと部屋を出た。 二人の邪魔をしないようにと。 馬超がずっと想い続けていたその人と遂に結ばれたのだから。 閉じた扉に背を凭せ掛け、馬岱は小さく息を吐き出した。 あんな幸せそうに微笑む馬超を馬岱は随分と久しぶりに見た。 馬岱を除く一族を失ったあの日から、笑うことを忘れてしまったかのように馬超は笑顔を見せなくなった。 瞳は常に曹操への…引いては一族を守りきれなかった自身への憎しみに彩られ、近付けば牙を剥く手負いの獣そのものだった。 その馬超が再びあのような表情を見せる日が来ようとは、蜀に降るまでの馬岱には想像もつかなかった。 長坂の英雄―――趙子龍と出会ってから、馬超は少しずつ変っていった。 凍り付いていた表情が徐々に柔らかくなり、憎しみに彩られていた瞳に優しい光が取って変った。 趙雲と過ごすうちに、彼に惹かれそして愛しさを抱くようになっていく馬超の変化に馬岱はいち早く気付いていた。 誰よりも馬超と長い時を過してきた……苦楽を共にしてきたのだから。 良かったと思う。 嬉しいとも思う。 馬超の幸せを何より願ってきた自分にとっては何よりのことだ。 にもかかわらず―――胸にわだかまるこの気持ちは何だろう。 邪魔にならないようにと部屋を出たが、なによりもあそこに留まっていたくはなかった。 馬超の傍にいる趙雲を見たくはなかったのだ。 もやもやとした黒い感情が渦を巻いている。 本当はその感情の正体にとっくに気付いているくせに―――。 知らぬ振りは止せ―――。 そう心の内から響く声がする。 馬岱はそれを振り払うかのようにかぶりを振る。 違う! そう否定したところで、その負の感情は消えてはくれない。 幸せそうに微笑を浮かべる馬超の姿を思い浮かべれば、胸が締め付けられる。 何故それを自分には向けてくれないのかと。 その馬超の傍らで眠っていた趙雲を思い返せば、心が妬けつくような痛みに苛まれる。 どうして馬超の隣にいるのかと。 そう―――これは嫉妬だ。 自分を見てくれない馬超に対しての。 そして馬超の心を捕らえた趙雲に対しての。 逃げるようにしてその場から立ち去り、馬岱は自室に駆け込んだ。 寝台に突っ伏すと、とうとう耐え切れなくなった涙が溢れてきた。 「うっ……」 嗚咽を堪えるように馬岱は唇を噛み締めた。 甦るのはあの日。 馬超が全てを失ってしまった日。 故郷を追われ、一夜を過ごした山の中。 「二人きりになってしまいましたね……」 ぽつりと漏らした馬岱の言葉が呼び水となったのか。 見つめ合った馬超と馬岱は、自然に引き合い―――そうしてそのまま身体を重ねた。 馬超にとってはただどうしようもない寂寥感とやるせなさを埋める為の行為だったのかもしれない。 だが馬岱にとっては、ずっと憧れ追い続けてきた馬超と肌を合わせていることに、悦びと嬉しさが心も身体も満たしていた。 それが馬岱に馬超に対して従兄弟以上の感情を抱いていたことに気付かせる。 けれど、抱き合って、明けた朝。 馬超は言ったのだ。 「すまなかった」 と。 それはやはり馬超が自分のことを従兄弟以上には思ってはいないのだと、ただ感傷に流されただけの行為だったと馬岱に改めて知らせるには充分な言葉だった。 現にあの日以降、馬超とは身体を重ねてはいない。 それは馬岱に酷い悲しみと切なさを与えた。 それでも誰一人側に近づけようとしない馬超が、馬岱だけは傍にいることを許した。 他人とは違う和らいだ雰囲気で馬岱には接してくれる。 それだけでも馬岱にとっては嬉しかった。 馬超にとって自分は他の人間とは違う……ほんの少しでも特別な存在であるのだと―――そう思うだけで。 けれど―――。 今あの人の側にいるのは自分とは別の人間。 今まで見たことのない満ち足りた表情をあの人に齎したのは、自分ではなく…。 あの人が幸せならそれ以上を望まないと思っていた。 けれど現実にそうなってみれば、浅ましい心は求めるのだ。 あの人の全てを自分のものにしておきたいと。 もう自分の居場所はあの人の側にはないのだと思い知らされることが、これ程までに絶望を感じさせようとは思ってもみなかった。 どうしようもなく趙雲が憎かった。 彼が容姿だけでなくその中身も如何に優れた人間であるかは、馬岱もまた日々を過ごすうちに理解していた。 馬超が惹かれたのも頷ける。 だが理屈ではないのだった―――馬岱の身の内に湧き上がってくるこの感情は。 その後は、馬超と趙雲が共にいることを目にすることが多くなった。 仲睦ましい二人の姿を目撃しては、馬岱は気付かれぬよう走り去った。 趙雲を伴って馬超が邸に戻ってくることも、またその逆に馬超が邸へ戻らない日も続いた。 何も知らない馬超は、馬岱に趙雲とのことを嬉しそうに話す。 表面上はにこやかにそれを聞いている馬岱であったが、本当は耳を塞いでしまいたかった。 そんなある日、馬岱は城内で趙雲と出くわした。 途端に心にあの嫌な感情が生まれてくる。 それでもそれを抑え込み、馬岱は穏やかに微笑み会釈し、通り過ぎようとした。 だがふと足を止め、振り返る。 「趙雲殿」 そう呼び止めれば、趙雲もまた立ち止まり、馬岱の方へと身体を返した。 「どうかされましたか?馬岱殿」 「執務が終わったら、裏手の丘で待っていると兄上が申しておりました。 危うくお伝えするのを忘れてしまうところでした」 すみません……と頭を下げる馬岱に、趙雲は恐縮したように首を振った。 「あぁいえ、どうぞお気になさらず…。 分かりましたとお伝え願えますか?」 「はい、確かに」 馬岱はもう一度深く礼をすると、その場を立ち去った。 本当は、馬超から伝言など聞いてはいなかった。 その場で思いついたでまかせだった。 いくら待とうが馬超は現れはしない。 子供じみた嫌がらせだ。 馬鹿げていることは百も承知だ。 そんなことをしてもどうなる訳でもないのに―――馬岱は罪悪感から逃れるように足を速めるのだった。 その夜、馬超は一人で邸に戻ってきた。 「珍しいですね……兄上お一人とは」 そう仕向けたのは自分であるのに、馬岱は平静を装って馬超を出迎えた。 「子龍を迎えに行ったのだが、何故かどこにも居なくてな…。 城の者に聞いても知らぬと申すし、子龍の邸にも寄ってきたのだが、まだ帰って来ていないらしい。 ならばここに来ているのかとも思ったが……来てはおらぬようだな」 「ええ、お見えになってはおられませんよ」 「おかしいな…」 困惑した様子の馬超に、馬岱の胸は微かに痛んだ。 「突然のお誘いでどこか飲みに行かれたのではないですか? どなたからも信頼の厚い方ですし、そういったお付き合いもありましょう」 「それもそうだな…」 ようやく納得した面持ちの馬超を、馬岱は一室へと追い立てる。 「さ、兄上も早くお食事になさいませ。 夕餉の準備は整っております故。 趙雲殿ではなく私とではご不満でしょうが……」 「そんなことはないぞ。 そう言えばお前と二人で食事をするのも随分と久しぶりだな」 「本当に…偶には私の相手もして下さい」 冗談めかして馬岱は言うが、それは何よりの本心だった。 久方ぶりの馬超と二人きりの時間。 嬉しい筈なのに、心は浮かない。 原因ははっきりしている―――趙雲のことだ。 今ごろ趙雲は騙されたことに気付いているだろう。 怒っているだろうか。 それでも彼は決してそのことを馬超には言うまい。 例え自分がどんな目に合おうとも、決して他人を窮地に陥れるようなことはしない……趙雲がそんな人柄であるのは周知の事実だ。 それでもやはり馬岱の中の罪悪感は時を経る毎に増していくのだった。 食事を終え、馬岱は部屋に戻る。 そのまま眠りについてしまおうと寝台に身を横たえたが、眠りは一向に訪れない。 どれくらいそうしていたのか。 馬岱は意を決したようにとうとう起き上がった。 そして部屋を出、そのまま邸をも後にした。 向かったのは城の裏での丘。 いくらなんでももう居るはずがないと思っていた。 それでも馬岱は確かめずにはいられなかったのだ。 だが―――予想を裏切り、趙雲はそこにいた。 木陰に立ち、夜空に浮かぶ月をじっと眺めている。 何を思っているのか凛としたその横顔からは全く読み取れない。 「趙雲殿…」 動転する気持ちのまま、無意識のうちに馬岱は声を掛けていた。 月へ向かっていた視線が、別段驚いた様子もなくそっと馬岱へと移される。 「どうしてまだここにおられるのです…? もう貴方も分かっておられるでしょう? 兄上はここへは……」 来ませんと言いかけた馬岱を遮るようにして、趙雲が口を開いた。 「知っていましたよ」 「え?」 「馬超殿がここに来られないことは初めから知ってました。 あの後馬超殿と顔を合わす機会がありまして、その折にそれとなく尋ねたところ怪訝な顔をされてましたので」 馬岱は瞠目する。 「では何故、ここに?」 「貴方をお待ちしていたのですよ、馬岱殿。 貴方ならきっとここに参られるだろうと……」 その言葉はさらに馬岱に混乱をもたらした。 そんな馬岱に趙雲は微かに笑みを浮かべた。 「ずっと貴方とゆっくりお話をしたいと思っておりました。 貴方が私を快く思われていないことは分かっていましたので」 馬岱は拳を握る。 何もかも趙雲にはお見通しだったという訳だ。 己の未熟さと羞恥に消え去ってしまいたかった。 「私には…貴方と話すことなど……何もありませぬ」 最後の負け惜しみのように、馬岱は唇を噛んで趙雲を睨みつけた。 それでも趙雲は穏やかな面持ちを崩さぬまま、続けた。 「ご存知ですか?馬岱殿? 私がずっと貴方に嫉妬していると」 「!?」 「私と知り合うずっと前から貴方は馬超殿の傍にいた。 私の知らないあの人を貴方は知っている。 馬超殿が全てを失った時傍にいて、支えたのは貴方です。 そんな貴方が羨ましいし、妬ましい。 それにね、馬超殿はいつもいつも私に貴方の話をなさるのですよ。 西涼で貴方と過ごした日々のこと、夜通し語りあったこと、酒を酌み交わしたこと、喧嘩したこと―――それは楽しそうに」 「兄上が…?」 「えぇ、貴方がいなければここに自分はいなかったとも……そう繰り返し何度も」 涙が頬を濡らしていた。 それは馬超と趙雲の想いが通じ合ったあの日に流したそれとは違う。 嬉しさが引き起こしたものだった。 自分も馬超の役に立っていたのだと。 何も出来ずただ傍にいることしかできなかったと思っていたのに。 堪えきれずに嗚咽を漏らす馬岱の背を、労わるように趙雲が撫でる。 そんな優しさに趙雲を貶めようとした己の卑小さを思い知らされる。 「貴方が……もっと…嫌な人間なら…良かった……」 そうすれば何の躊躇もなく嫌いになれたのに。 憎み続けられるのに。 「私はそんなに出来た人間ではありませんよ。 申し上げたでしょう?私は貴方に嫉妬しているのだと。 貴方という存在が誰よりも怖い」 「趙雲殿…」 「それでも私は負けるつもりはありません。 私にとっても馬超殿はとても大切な方ですから……例え貴方であっても渡さない」 強い意志を感じさせる言葉。 挑むようにそう言われて、馬岱の中で新たにある感情が芽生えた。 絶対に諦めたくないと思う気持ち。 馬超の身も心も手に入れたいと。 ただ趙雲のことを妬んでいるだけでは何も変らないではないか。 「私だって兄上のことを想う気持ちは負けはしません。 今は貴方の元にいても、いつか必ず振り向かせてみせます」 顔を上げ、負けじと言い返せば、趙雲が笑みを深くした。 それにつられるようにして、馬岱もまた笑った。 本当に心の底から笑ったのは久しぶりだった。 written by y.tatibana 2004.12.18 |
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