100題 - No57 |
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どうしてこんなことになったのだろう……。 仰向けに倒れたまま、馬超は木々の間から僅かに覗く空を仰ぐ。 ぼんやりとしていた意識が徐々に覚醒し始める。 それに呼応するように僅かに身体を動かせば、全身に鈍い痛みが走った。 思わず眉根を寄せる。 だが、それが馬超を完全に現実に引き戻した。 劉璋に乞われ、援軍として馬超は成都に向かった。 麾下には従兄弟の馬岱と僅かかな兵のみ。 そんな自分の元に助けを求めてくるとは、余程戦況は芳しくないのだろうとすぐに察しがつく。 敵は劉備玄徳なる人物が率いる軍。 赤壁で曹操に勝利をおさめた後、拠るべき土地を得る為、益州に進軍してきたらしい。 本心では劉璋がどうなろうと、益州が誰の手に渡ろうが知ったことではなかった。 にも拘らず、援軍に応じたのは馬岱の強い勧めがあったからだ。 劉璋からは劉備軍を打ち払った末には、一郡を与えようという親書が届いていた。 自分達の領土であった涼州は曹操によって奪われてしまったから―――馬岱は兵の為……そして何より馬超の為に、拠点が必要だと考えているようだ。 けれど馬超にとってはそれすらどうでもいいことだった。 己が何の為に戦い、武器を振るうのか、分からなくなっていていた。 一族を失い、故郷を追われたあの日から。 それでも戦い続けるのは何故なのか。 その答えを出せぬまま、馬超は虚無感を全身に纏ったまま、ただ流されるように生きていた。 援軍と言っても高々数百の兵しかいない。 まともにぶつかっても、飲み込まれるだけだ。 そう判断した馬超は少数であるのを逆手に取って、劉備軍の本陣へ奇襲を掛けた。 突然の攻撃に相手は浮き足立った。 混乱する劉備軍の中、馬超はただ大将である劉備だけを探した。 一際立派な鎧を纏い、多くの兵が周りを固める男を馬超は認めた。 すぐにそれが劉備であろうことは分かった。 劉備の首さえ取ればそれで終わりだ。 槍を握る手に力を込め、そこへ向かい一直線に馬超は駆ける。 しかし―――。 馬超と劉備の間にすばやく滑り込んでくる影。 白馬に跨った男が、馬超の前に立ち塞がる。 端正な顔立ちの、細身の男だった。 そして何より印象的だったのはその瞳。 馬超を喰らい尽そうかというような強い意志を秘めた眼差し。 そんな激しさを宿しつつも、とても澄んで綺麗な瞳だった。 挫折も。 屈辱も。 絶望も。 何も知らない。 ただ信じ、守るべきものの為に一途に生きている。 そんな瞳。 今の己とは正に真逆だ。 だが涼州にいた頃は自分もこんな目をしていたのだろうか。 嫉妬とも、羨望とも取れる感情が馬超の中で渦を巻いた。 そして湧き上がる昏く残酷な思い。 目の前のこの男を滅茶苦茶に踏み躙ってやりたくなった。 馬超は馬首を返し、男を誘うように駆け出した。 男の方もまた一刻も早く主君から馬超を引き離したかったらしく、誘いに乗って追ってくる。 駆けながら打ち合った。 数度槍を交えただけで、男の力量は存分に知れた。 互角―――。 自分と対等に渡り合えると思う人間に出逢ったのは初めてのことだ。 ますます屈服させてやりたくなった。 だが、互いの力が均衡しすぎていた為か、相手の動きしか見えていなかった。 桟道が脆くなっていることに二人共気付かずにいた。 二人が馬を駆け、槍を打ち合わせる激しい動きに、桟道は耐え切れずに―――とうとう崩落した。 粉々になった木片は、谷底へと落ちて行った。 二人の身体諸共に……。 そうして現在に至る。 生茂った木々が衝撃を随分と和らげてくれたらしく、馬超は生きていた。 頭を廻らせれば、やや離れた場所に倒れているあの男の姿があった。 長く艶やかな黒髪が四方に散っていた。 男はぴくりとも動かない。 馬超は痛む身体を無理矢理動かし、ゆっくりと立ち上がる。 全身に視線を走らせるが、打ち身以外に特に目立った外傷はないようだ。 死んでいるのかと一方の男の傍へ寄れば、微かに胸が上下していて、生きているのだと知る。 だが、右の大腿部から夥しい血が流れ出している。 転落した際、尖った岩か、突き出した木にでも傷付けられたのだろう。 「長坂の英雄……か」 馬超は何の感情も浮かんではいない瞳で、気を失っている足元の男を見下ろして呟く。 刃を交えながら、馬超が名を問うた時、「趙子龍」だと男は名乗った。 どうりで強い筈だ。 しかし、これだけの出血量だ。 このまま放っておけば、確実にこの男は死ぬだろう。 このような所で死ぬことなど想像もしなかったに違いない。 どうすることも出来ず、絶望に苛まれながら死に逝くか―――。 そうなってしまえばいい。 馬超は皮肉げに口元を歪めた。 と。 男が―――趙雲が微かに身じろぐ気配がして、その両目が開かれる。 焦点が定まらず彷徨っていた視線は、やがて馬超をしっかりと捕らえた。 弾かれたように、趙雲は身体を起こそうとするが、それは叶わない。 激しく痛む右足に触れると、ぬめりとした感触がある。 趙雲はそれで全てを悟ったらしく、身を起こすことを諦めたようだ。 けれど横たわったまま、今朝しい眼差しを馬超へと向けている。 だがそこに絶望の色はない。 澄み渡って綺麗なままだ。 「貴殿はここで死ぬ」 冷酷に馬超がそう告げてみても、趙雲の瞳は力強い光を宿したまま揺るがない。 馬超はそれを正視していられなくなり、視線を外した。 自分の何もかもを見透かされているような気がした。 馬超の中に苛立ちが募っていく。 それを押し込め、馬超は自分の戦袍の袖口を破る。 趙雲の傍らに膝を付くと、趙雲の鎧を外し、これ以上血が流れ出さぬようにと傷口にきつく破った袍をきつく巻きつける。 急に手当てを施し始めた馬超に、流石の趙雲も面食らっているようだった。 「どうして……助けるのです?」 「貴殿をこのまま死なせたくはないからだ。 ―――だが、勘違いせぬことだ。 貴殿がそのまま何も知らぬような澄んだ目をして死ぬことが許せない。 今まで何も失ったことなどないのだろう? 絶望や挫折を味わったことも」 馬超は趙雲の方を見ようともせず、冷たく答えを返す。 だがそれを趙雲は鼻で笑った。 「私には守るべき大切な方がおられます。 その方の為に私は槍を揮い、そして誰より強くなろうと決めたのです。 何があろうとも決して貴方のような抜け殻のような人間にはならない!」 そう趙雲は迷いもなく強く言い切る。 やはり何もかもすっかり見抜かれている。 目的も持てず、ただ流され生きてる自分のことを。 湧き上がる羞恥心と、そこから生まれる怒りを馬超は拳を強く握って耐えた。 「―――では、その自分が死んだらどうする? 守りきることも出来ず、目の前で殺されたのなら……」 「それでも私は戦い抜くのみです。 その方の遺志を継いで、その大義の為に」 趙雲は傍らに膝を付き、俯いたままの馬超を見つめる。 「貴方の一族が曹操に虐殺されたことは知っています。 それでも貴方が戦い続けるのは何故ですか?」 「……」 馬超は答えない。 否、答えられなかった。 「虚ろな心で、確固たる意志も持たない貴方に、将として兵を率いる資格はない! そのような気持ちのままで武器を持ち、人を殺める貴方を私は軽蔑します」 「五月蝿い!!」 耐え切れずに、馬超は叫んだ。 握り締めた拳を、地面に叩きつけた。 「貴様に何が分かる!? 口先だけなら何とでも言えるさ。 目の前で血族を殺されることがどれ程辛いことなのか……何も知らないくせに!」 「腑抜けの貴方の気持ちなど分かろうとも思わないし、分かりたくも無い。 可哀想だと涙でも流して、憐れめば貴方は満足なのですか? そんなにも辛いのならばもういっそ己の胸を槍で突けばいい。 そうすれば悲しみも苦しさも―――何も感じなくて済む」 「黙れ!」 趙雲の言葉を遮るように叫ぶと、馬超は趙雲の上に圧し掛かった。 相変らず趙雲は真っ直ぐに澄んだ瞳を馬超に向けてくる。 それがどうしようもなく馬超の加虐心を煽った。 酷薄な笑みを浮かべて、趙雲を睨みつける。 「失ったことが無いから、そのような奇麗事が言える。 滅茶苦茶にしてやる。 何も出来ぬことが如何に絶望を齎すのか教えてやろう」 馬超は趙雲の胸元の戦袍を力任せに引きちぎった。 今の趙雲の怪我の状態から言って、満足に抵抗できる訳もない。 乱暴に犯してやろうと思った。 そうしてその後で、殺してやる……。 同じ男に―――ましてや敵である人間に無理矢理に汚されても、取り澄ました表情のまま今と同じようなことが言えるのだろうか。 綺麗な瞳でいられるのか。 首筋に口付けを落とし、露になった胸元には手を這わす。 だが、趙雲は少しも抵抗する様子をみせない。 両手は馬超を押し返そうともせず、地面に投げ出されたままだ。 この行為の意味が分からない訳ではあるまい。 抵抗するだけ無駄だと、端から諦めているのか。 その瞳は絶望にそまっているだろうか。 恥辱に端正な顔が歪んでいるだろうか。 そんな趙雲の表情を見たくて、馬超は顔を上げた。 だが―――馬超の予想を裏切り……。 その視線の先。 趙雲は笑っていた。 驚愕に目を見開く馬超を嘲笑うが如く。 気でも違ったのかと思ったが、趙雲の瞳は何も変わっていない。 「……何が可笑しい? 自分の置かれている状況が分かっているのか?」 馬超の低く搾り出すような問い掛けにも、趙雲は不敵な笑みを浮かべたままだ。 やがて、声をも出して、笑い始めた。 「私も甘く見られたものだと思うと、どうにも可笑しくて。 貴方に抱かれるくらいで、何故私が絶望しなければならないのです? それで私の中の何かかが変わるとでも? 残念ながら私は貴方が考えているような、潔癖で気位の高い人間ではありませんよ。 抱きたいのならばどうぞお好きなように。 いくら私を犯して、身体を支配しようとも私の心までは支配出来ない。 私の心が貴方のような人間に汚されることは絶対にない」 この力強さは一体どこから来るのだろう。 きっと誰が何をしようが、この男を屈服させるころは出来ないのだ。 綺麗な瞳を僅かでも曇らせることなど出来ない。 羨ましい―――。 素直にそう思った。 同時に酷く自身が惨めに思えた。 虚無の中に身を置く自分が。 馬超はゆるゆると首を振ると、趙雲の上から退いた。 「俺は……」 そのまま掌に顔を埋める。 どこからか馬の蹄の音が聞こえる。 そして懸命に名を呼ぶ声。 「……どうやら貴殿を探しているようだな」 馬超は俯いたままゆっくりと立ち上がる。 もっと趙雲と話してみたいと思う。 そして知りたいとも。 けれど今の自分には彼を真っ直ぐに見ることはやはり出来そうになかった。 自分の在り方を……そして戦う意味を真剣に考えてみたい。 その答えが出た時こそ、趙雲の瞳をしっかりと見つめることができるような気がした―――。 そうしたら―――。 「もう一度、逢ってはくれぬか? いつになるかは分からない……けれど……また逢いたい」 馬超の言葉に頷く気配がある。 馬超はそのまま身を翻すと、森の中へ姿を消した。 その数ヵ月後―――馬超は蜀に降った。 written by y.tatibana 2004.12.04 |
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