100題 - No52

ただ懐かしき
通い慣れたその道を馬超は辿る。
もう夜も遅い。
目指す邸の門扉の前に立ち、馬超は一度立ち止まる。

そこから視線を巡らせれば、この邸の主の寝所の窓が辛うじて見えるのだ。
灯りが消えていれば、馬超はそのまま帰るつもりだった。
だがそこからは薄っすらと光が漏れていた。

それを認めて、馬超は門扉をくぐる。
そこで再び馬超は足を止めた。

風に乗って微かに聞こえてくる声がある。
それは馬超自身もよく知った人間のもの―――この邸の主のものだった。
ただの声ではなかった。
それは歌声であった。

彼の歌声を聞いたのも初めてであったが、馬超が思わず足を止めたのはそのせいではなかった。





哀しい旋律だった。
淡々としてはいたが、とても哀しい。
そんな歌だった。





その部屋に入ると、邸の主―――趙雲は窓辺に立ち、酒の杯を手にしたまま、歌っていた。
星空をぼんやりと眺めて。

馬超が部屋に入ってきたのに気付き、趙雲は歌うのを止めた。
けれど相変わらず視線は外へと向けられたままだった。

「今日は片付けねばならん仕事が山程あるから、徹夜になりそうだと言っていたのではないか?」
突然の闖入者にも、趙雲は驚いた様子もない。
外を見つめたまま馬超へ向けてそう尋ねる。
「俺が本気でやる気になれば、あれしきの仕事すぐに終わる」
「すぐという割には随分と遅い時間にお出ましだな」
うっ…と言葉に詰まる馬超に趙雲は小さく笑った。
「だいたい日頃から真面目に片付けておかないから、そういうことになるんだ」
「悪かったな。
生真面目な誰かさんと違って、俺は嫌なことはなるべく後に残しておく性質なんだよ」
むくれたように馬超は言うが、円卓の上を見て、思わず顔が綻んだ。

酒と幾種類かの料理がそこに置かれてた。
料理の方は手を付けられた跡はない。
分量はどう見積もっても二人分。

それはつまり趙雲は馬超がこうやってやって来ることを見越していたということ。
そして馬超の分の食事も用意し、待ってくれていた。

馬超はそこに設えられた椅子に腰を下ろす。
目の前の酒を杯へと移し、取り合えずとばかりそれを傾ける。
「そう言えばさっきお前歌ってたよな?
お前の歌声なんて初めて聞いた」
「歌などもうずっと長い間歌っていなかったからな……」
「随分哀しそうな旋律だったが、何の歌だ?」
なんとはなしに馬超は問い掛ける。
「別れの歌だ」
返された言葉に馬超は思わず、趙雲を見た。

だが相変わらず趙雲の視線は星空へと向けられたままだった。
―――あの歌を教えてくれた人がそう言っていた」
「どうして急にそのような別れの歌など歌う、子龍?」

酷く嫌な予感が馬超の胸を過ぎった。
それは常に心の奥底にあったもの。
趙雲と関係を持つようになってからずっと、消えることなくあった不安。

「そろそろ別れを告げる潮時かと思ったからだ……馬超殿」
思わず乱暴に、馬超は持っていた杯を机に叩きつけた。
そこから飛散した酒が馬超の手や卓の上の料理を濡らす。





そう―――未だに趙雲は馬超のことを字では呼ばない。
趙雲と身体を重ねるまでの関係になって長くはないが、決して短くもない時を過してきた。
その中で、馬超は気付いた。
趙雲の心の中には自分以外の誰か別の人間がいることに。

趙雲は何も言わない。
けれど―――その存在が馬超と趙雲の心を未だ隔てているように馬超は思えてならなかった。
趙雲を抱いていても、時々彼がそこにいないような錯覚に襲われる時があった。
趙雲が馬超を字で呼ばないのは、馬超のことをそれ程までに想ってはいないことの証拠ではないのかと。

そして遂に決定的な言葉が趙雲の口から出た。
いつかはと思いながら、それでも趙雲を手放すことなど考えられず、自身を誤魔化しつづけてきたのだけれど。





「やはりお前は俺のことなど何とも想っていなかったということか!!」
とうとう突きつけられた現実に、馬超は声を荒げた。
立ち上がり、震える拳をぐっと握り締め趙雲を見遣る。
怒りと悲しみと……絶望と。
胸が張り裂けんばかりに痛んだ。

すると趙雲はようやく馬超の方へと視線を移した。
酷く驚いた表情でもって。
「何を言っている?」
「別れを告げる潮時だとお前が言ったのだろう!!」
馬超に睨みつけられ、趙雲は二、三度目を瞬いた。
そうしてようやく合点がいったようにあぁ……と小さく呟く。

「どうやら誤解しているみたいだな。
別に貴殿と別れようと言ったのではない。
…それとも貴殿は私と別れたいのか?」
「なに!?」
今度は馬超が目を瞠る番だった。
言葉は発せられず、ただ馬超は否定を示すように首を振る。

それを見て趙雲は静かに微笑んだ。
そのまま再び、外へと視線を投げかける。
「どうして私が貴殿と別れたいと思っているなどと思った?」
投げ掛けられる問いに、馬超はしばし逡巡する。
けれどずっと抱いてきた心の蟠りを告げてしまうには、今が絶好の機会だと思った。
「お前の心の中に俺とは違う誰か別の人間がいる―――俺にはそう思えてならない。
お前が想いを寄せているのは俺などではなく、その人間なのじゃないかと……」

それを聞いて趙雲は小さく息を吐いた。
「そうか―――気付かれてはいないと思っていたが……。
だが勘の良い貴殿のことだ、時間の問題だとは思っていた」
それはつまり馬超の想像への肯定を意味していた。
「けれど誤解はしてくれるなよ、馬超殿。
私は貴殿のことを特別な人間だと思っている。
そうでなければ男に抱かれたりはせん」
趙雲はきっぱりとそう言い切った。
そこにどんな迷いも嘘も馬超には感じ取れなかった。

「では誰と別れようというのだ?」
「貴殿も気付いた―――私の心の中にいるという存在と」
「それは一体……?」
「今はもうこの世にはいない人だ。
あの別れの歌を教えてくれた。
槍を振るうこと以外何も知らなかった私に、様々なものを教え、与えてくれた人……」
月明かりに照らされた趙雲の横顔は、深い憂いを帯びていた。
その瞳は星空ではなく、どこか遠くを見ているようだ。
記憶をなぞるように。





―――子龍…。

懐かしく呼ぶ声がする。
駆け寄れば、いつも優しい笑顔がそこにあった。

―――先ほどの槍さばき見事であった。
きっとお前はまだまだ強くなる。

そう言って、大きな手で頭を撫でてくれた。
もう子供ではないのだと粋がってみても、両親を早くに亡くした身にとってそれは心に暖かさを齎した。
誉められる事が嬉しかった。
もっともっと強くなって、この人の役に立ちたいと思った。
いつかこの戦乱の世の中をこの人が治めてくれるのだと信じていた。

そんな中、とある戦で大敗を喫した。
あの人は多くの屍の中に佇み、降りしきる雨の中、歌を口ずさんでいた。

―――これは別れの歌だ、子龍。

哀しい声と、その旋律が深く胸を抉った。
ただ涙が零れた。
もう二度とこの人に悲しい想いをさせたくはなかった。





「お前はそいつのことを愛していたか?」
「そうだな……愛していたのだろうな。
優しさを教えてくれたあの人を。
けれど―――酷く憎んでもいたよ」
そうさらりと告げる趙雲に、馬超は瞠目した。





―――子龍…。

常とは違う低い声。
引き寄せられ、抱き締められた。
冷たいと感じたのが、重ねられたあの人の唇だと気付いたのはしばらく経ってからだった。

い…嫌です……。
止めて下さい!

離そうとした身体を乱暴に組み敷かれた。
そのまま衣を裂かれる。
外気に素肌を晒され感じる冷たさよりも、触れてくるあの人の手の方が冷たかった。

いつもの優しい笑顔も、暖かな温もりもそこにはなかった。
どれだけ懇願しようとも、その行為が止められることはなかった。
痛みに耐え切れず悲鳴を上げ、涙を流しても―――決して。

ただ延々とその地獄のような時間は続いた。

何があの人をそういった行為に走らせたのか。
いくら考えても明確な答えは出せなかった。
あの人はただ詫びるばかりで、ついぞ理由を話してはくれなかった。

あの時はもう戦況が芳しくはなかった。
その焦りからだったのか。
それとも……配下以上の情を抱いてくれていたのか。





「あの人の元を離れてからも、貴殿の言う通り、私の心の中にはあの人がいた。
正の感情も負の感情も大きすぎて、消し去ることなどできなかった。
けれど……貴殿と出会って、愛され抱かれているうちに気付いた。
あの人のことを思い出す回数が減ったことに。
そしてそこにあるのは愛しさでも憎しみでもない―――ただ懐かしさだけになっていることに。
だからもうそろそろ別れられるとそう思った」





心を支配する存在に別れを告げて。
ただ懐かしい思い出として、記憶にあるようにと。





趙雲は再び、歌いだす。
哀しいその旋律が、今の馬超には酷く優しく感じられた。





歌を終え、趙雲は馬超の傍へと寄る。
「ずっと苦しめて悪かった。
―――私はお前のことを心の底から愛しているよ、孟起」
真っ直ぐに向けられる眼差しと、そして初めて趙雲に呼ばれた字が、馬超の中の不安を最早跡形もなく消し去る。
身を寄せてくる趙雲を、しっかりと抱き締めた。
確かに趙雲はここにいた。
「今度は俺が歌を教えてやる。
西涼に古くから伝わる歌をな」
「どういう意味の歌だ?」
「愛の歌」
間髪入れずに馬超が答えると、腕の中で噴き出す気配がした。
「散々その歌で、女を誑かしていたのだろう?」
「失礼な奴だな。
断じてそんな真似はしていない」

そう言って、今度は馬超の歌声が、静かに響いた。
それは優しい旋律の―――子守唄にも似た穏やかな歌だった。






written by y.tatibana 2004.10.08
 


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