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目を覚ますと、趙雲にとってそこは懐かしい部屋だった。 良くここを訪ねてきたものだ。 あの満ち足りた幸せな日々はもう随分と前のように趙雲は感じる。 「目が覚めたか?」 枕元から問いかけられ視線を移すと、この部屋の主である魏延が座っていた。 額に感じる冷たさに手をやれば、濡れた布が置かれていた。 「私は……眠っていたのか?」 「あぁ。 無理もない…熱もあるし、随分と疲れているようだったからな。 もうしばらく休んでおけ」 だが趙雲はそれに従わず、額の布を手に取ると、ゆっくりと起き上がった。 「いや…もう大丈夫だ」 身を横たえていたのは、魏延の執務室に設えられた長椅子の上だった。 彼のものらしい衣が身体に掛けられていた。 窓の外に目を遣れば、空は赤く染まり、もう夕暮れなのだと知る。 本当に随分と長く眠っていたようだ。 相変らず頭は痛んだが、眠ったせいか少しは身体も軽くなったように思える。 魏延は手の伸ばし、趙雲の額へ掌を中てる。 「まだ熱がある。 まぁこんな所ではゆっくり休むことなどできはせぬだろうが……」 ゆるゆると趙雲は首を振る。 そんなことは断じてないのだ。 自分の邸よりもここの方が余程安らげる。 最早邸は寛げるべき場所ではなくなっている。 あの男の気配が色濃く残っているから―――。 だがそれを魏延に告げることはできない。 「邸まで送っていこう。 仕事熱心なのも良いが、もう少し自分の身体を労わってやれ」 「本当にそのような気遣いは無用だ。 武人がこれしきの熱で邸まで帰れぬなど良い笑い者だ。 一人で大丈夫だ」 趙雲は魏延を安心させるように微笑みかけると、立ち上がった。 それに対して魏延は何事か口を開けかけるが、それを遮るように扉を叩く音がした。 「誰か来たようだぞ。 手間を掛けさせてすまなかった。 ではな」 それ以上の言葉を待たずに、趙雲は扉を開けた。 外には武官らしき男が一人立っていた。 男はこの部屋の主ではなく、趙雲が現れたことに驚いたようだった。 「魏延殿なら中に居られる」 それだけ告げると、趙雲は男の脇を通り過ぎ、後ろ髪引かれる思いを断ち切って魏延の執務室を後にした。 出来ることなら、あのままあの部屋にいたかった。 彼ともっと話をしたかった。 けれどあれ以上留まれば、もう戻れなくなりそうで……。 強い決意をして、彼に別れを告げたのだ。 今更後戻りをする訳にも、するつもりもない。 元はといえば自分があの男―――馬孟起に憎まれていることが起因なのだ。 彼には何一つ関係のないことなのだから。 長く続く回廊の先に、人影を見つけて趙雲は足を止めた。 柱に背を持たせかけ、腕を組んで趙雲の方を見つめている。 馬超であった。 趙雲の表情は瞬時に険しいものになる。 馬超は薄っすらと笑みを浮かべたまま、趙雲の方へと歩き始める。 「そう怖い顔をするな、子龍。 魏延殿に対する表情とは酷い違いだ」 「……何の用だ?」 「相変らず我が想い人は冷たい。 具合が悪いと聞いて、心配して参ったというのに」 「お前に心配される筋合いなどない。 第一、私は別段体調を崩してなどいない」 馬超に対して弱みは絶対に見せたくなかった。 睨みつける趙雲を馬超は満足そうに見返す。 「そうか、それは良かった。 ならば今朝の約束を覚えているな? 無理にとは言わぬがな」 そのまま馬超はまた歩きし、回廊の向うへと消えた。 今朝去り際に馬超は告げたのだ。 今宵は自分の邸へ来いと。 無理強いはしないと言いながら、その実趙雲がそれに逆らうことはしないと分かっていて。 夕闇の中、趙雲は一度強く目を閉じる。 やがて、決意を固めたかのように瞼を上げると、趙雲もまたその場を立ち去ったのだった。 場所が変わろうが、為されることは同じなのだ。 何故馬超が自分をわざわざ呼び寄せたのか趙雲には理解できなかった。 それもまたこの男の気まぐれなのか。 それを見透かしたように、馬超が尋ねてくる。 趙雲を寝台に組み敷いた状態で。 「どうしてお前を呼び寄せたか分かるか?」 煌々と灯の灯された室内。 西方のものと思しき調度品が並んでいる。 趙雲が馬超の邸を訪れたのはこれが初めてのことだった。 「お前の考えていることになど興味はない」 趙雲は冷たさを宿した声音でそう吐き捨てる。 すると馬超はまたくつくつと可笑しそうに笑うのだ。 「そうか。 ならば言わずにおこう」 そのまま馬超の唇が落ちてくる。 趙雲の願いは一つ。 一刻も早くこの地獄のような時間が終わることだけ。 ただそれだけだった―――。 だがいつもに増して馬超は激しく趙雲を抱いた。 唇を噛み締めて、趙雲はひたすらに耐える。 与えられるは快楽などではなく、苦痛だった。 心を通わせていない人間といくら肌を合わせようとも、そこに悦楽など生まれる訳がない。 と、そこへ、コツコツと扉を叩く音が響いた。 趙雲は目を見開くが、馬超は特に驚いた様子もない。 「何用だ?」 趙雲から離れる素振りも見せず、扉の向うへ問いかける。 「お客様がお見えになられているのですが……」 馬超は口元に笑みを刻むと、汗に張り付いた前髪を掻き揚げた。 「こちらへお通ししろ」 そう答えを返すと、ますます驚きを露にする趙雲を尻目に、馬超はようやく趙雲から身体を離した。 「……ッ」 その瞬間を趙雲は息を詰めて耐える。 馬超は薄絹を身に纏うと、寝台の趙雲を見遣る。 「しばしそのまま待っていろ。 客人の相手が済むまでな」 「ふざけるな!」 趙雲は馬超を怒鳴りつけ、身を起こす。 正確には身を起こそうとしただけで、それは成功しなかった。 思ったように身体に力が入らないのだ。 寝台に横たわったまま、趙雲は怒りに身体を振るわせた。 このような姿を誰かに見られるなど屈辱以外のなにものでもない。 「心配するな、子龍。 お前の姿は見えぬようにしておいてやる」 馬超はそう言うと、部屋の隅に置かれていた大きな衝立を手にし、それを寝台の側へと立てた。 「これならば見えぬだろう。 せいぜい声は出さぬことだな」 言って馬超は衝立の向うへ姿を消す。 趙雲が反論する間もなく、扉が開く音がした。 「このようなお時間にお呼び立てして申し訳ない。 さぁ、どうぞお入り下され」 馬超が客人を招き入れているようだ。 「いえ、お招きありがたく存じる」 その声を聞いた瞬間、趙雲の鼓動が一つ強く打った。 「!!」 無意識のうちに漏れそうになる声を寸での所で趙雲は押し止めた。 「しかもこのような格好で失礼する、魏延殿」 趙雲が間違えよう筈もないその声の主に、馬超は詫びる。 あのような薄い衣一枚で、寝所で相手を迎える。 まして魏延ほどの人間ならばこの部屋にいる別の人間の気配を感じ取っているだろう。 どれだけ懸命に趙雲が息を殺していたとしても。 馬超が何をしていたかなど一目瞭然のはずだ。 「ご都合が悪ければ、また明日にでも参るが…」 「ご気分を害されたか? 誠に申し訳ない。 今日は都合が悪いというのに、どうにも納得しなかったようで―――ここに訪ねて参ってな…。 今も客人を迎えるから部屋を出ようとしたら、行かないで欲しいと我儘を申して。 それでこんな場所にお招きすることになってしまった。 本当に聞き分けのない者で、俺もほとほと手を焼いているのだよ……」 違う!! 叫びだしそうになる声を趙雲は懸命に耐えた。 何もかもが馬超の虚言だ。 「気分を害してなどはおらぬよ。 馬超殿がこちらで良いと仰るのならば某に異論はない……。 ただ少し驚いているのだ。 夕方に突然貴殿から文を頂いたものだから」 「なかなか時間が取れなかったのだが、貴殿とは一度ゆっくりと話をしていたいと思っていた。 武芸に秀で、皆からの信頼も厚いと聞く。 どうも俺はまだ蜀の面々には受け入れてはもらえないようでな」 「そのようなことはなかろう。 貴殿ほどの武人であれば直に皆の羨望を集められるだろう」 「そうであれば良いのだが…。 さぁ、どうぞ座ってくれ」 椅子に腰掛ける気配の後、二人の会話が途切れ、酒器の立てる硬質な音が響く。 沈黙を破るように、くぐもった笑い声を上げたのは馬超だった。 「先程から随分と衝立の向うを気にされておられるな」 ぎくりと趙雲の身体が震える。 「あぁ、すまぬ…、貴殿の情人があちらにおられるのは分かっているのだが。 その―――」 「何か?」 言いよどむ魏延を馬超が促す。 「とても見知った者の気配を感じるのだ。 ただの勘違いだと思うのだが……」 「ほう…」 低く、冷たさを含んだ馬超の声。 けれど何処か楽しさをも感じさせる。 「ならば、ご覧になられるか?」 「!!」 趙雲は目を見開き、息を飲む。 がたりと椅子を鳴らし、誰かが立ち上がる。 そしてゆっくりとした足取りで近付いてくる気配。 声が喉に張り付いたように言葉が出ない。 衝立に手が掛かる。 「ご覧になるが良い、これが俺の愛しき蒼い龍だ」 倒れる衝立の音。 披(ひら)ける視界。 交じり合う視線。 「し……りゅ…」 呆然とした魏延の声と表情。 目の前の机を支えに、ゆらりと魏延は立ち上がる。 「い…やだ…嫌……だ」 掠れる声で途切れ途切れに趙雲が呟く。 それでも魏延の眼差しは趙雲から逸らされることはなかった。 「嫌だ! 見るな、文長! 私を見るな!!」 とうとう趙雲は叫んだ。 悲痛な悲鳴にも似た声。 腕を交差させ、魏延の視線から逃れようと趙雲は己が顔を覆う。 「どうした?子龍。 俺以外に肌を見せることはそれ程嫌か? 先程まであれだけ俺に愛撫を強請っていたのに」 ただ一人楽しげに笑う馬超が、趙雲の枕元に腰を下ろす。 趙雲の髪を一房手に取ると、魏延へと見せつけるようにそれに口付けを落とす。 ふざけるな! なにもかもお前の戯言だ! 心の中で幾ら馬超を罵倒しようとも、それを音にすることは趙雲には出来ないのだ。 強いられるだけの関係であっても。 激しい憎悪に気が狂(ふ)れてしまいそうだった。 否―――いっそ狂ってしまえればどれだけ楽になれるだろうか。 反論することも叶わず、ただ趙雲は怒りに震える唇を噛み締めることしかできなかった。 「すまぬな、魏延殿。 どうやら子龍は貴殿がここにいることが酷く苦痛なようだ。 申し訳ないが、今日の所はお引取り願えるだろうか? 後日またゆるりと酒など酌み交わそう」 馬超は再び立ち上がり、微動だにせず趙雲を凝視している魏延の元へと向かう。 馬超の言葉が聞こえているのかいないのか、魏延は動こうとはしない。 「魏延殿」 馬超に肩を揺さぶられ、魏延はそこでようやくゆっくりと馬超を見る。 だがそのまま再度趙雲へと視線を移す。 「子龍…お前本当に馬超殿と?」 投げ掛けられる問い掛けは、趙雲にとって胸元に剣を突きつけられたようなものだった。 「魏延殿はお前の答えが知りたいそうだ。 答えて差し上げると良い、子龍」 馬超が追い討ちをかけるように促す。 こくりと―――ただ一度……顔を隠したまま頷くだけが趙雲には精一杯だった。 声は出なかった。 言葉にはとても出来なかった。 「そうか。 ならば俺が言うことは何もないな」 魏延の静かな声が胸を刺す。 見えない血がそこから溢れ出す。 そして、扉が開き、閉まる音。 そのまま魏延の気配は消えた。 その瞬間、趙雲の瞳から涙が零れた。 今までどれだけ馬超に屈辱を味わされようとも、涙を流しはしなかった。 それなのに、耐えようとしても涙は後から後から溢れてくる。 「これで……満足か? 人の心を踏みにじることがそんなに楽しいか? それほどまでに私が憎いか?」 顔を覆っていた腕を解き、趙雲は涙に濡れた瞳で馬超を睨みつけた。 今になれば分かる。 馬超が自分の邸へ来いと言ったことも。 あれは気紛れなどではなかったのだ。 夕方魏延の執務室に訪ねてきた武官。 あれもまた馬超の差し金なのだろう。 今日魏延を呼び寄せる文を託ける為の。 何もかも馬超によって仕組まれたことなのだと。 「憎い…? 俺はお前を憎んでなどおらん。 お前の方こそ何度言えば分かってくれる? 俺はお前を愛している」 「嘘だ!」 「愛していると言っているだろうに」 何故分かってくれないと言わんばかりに、仰々しく溜息を吐いて、馬超は寝台の趙雲へと踵を返す。 趙雲の涙は未だ止まることなく、零れ続けている。 それでも視線は馬超を射るように鋭い。 「そのお前の瞳に映るのは俺だけでいい。 他は必要ない」 馬超は衣を脱ぎ捨てると、再び趙雲へと覆い被さってくる。 「殺してやる…。 いつの日か必ずお前を殺してやる!」 吐き出される呪詛の言葉。 それすらも馬超に取っては甘い痺れになる。 「そうか。 お前に殺されるのならばそれも本望だ」 そうしてまた、狂気に満ちた長い夜が始まるのだ―――。 written by y.tatibana 2004.09.25 |
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