100題 - No49 |
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その知らせが齎されたのは、風が冷たさを含み始めた初秋のことだった。 窓辺に立ち、馬超は空を仰ぐ。 丸い月が空に輝いていた。 趙雲が戦へと発って行ったのは桃の花が開く頃だった。 武人であれば戦により長く離れ離れになることは当たり前のことだ。 それでも馬超の胸に巣食う寂寥感は日増しに強くなる。 想うだけならば責められる謂れはないだろう。 だがもうすぐ会えるのだ。 戦に勝利したという知らせは、早馬にて数日も前に届けられた。 今はこの成都に向かって帰還の途についている筈だ。 「子龍…」 待ち続けたその人の名が無意識の内に馬超の口を突いて出た。 城門で出迎えて、始めは何と声を掛けようか―――馬超は月を見上げながら想いを馳せる。 その時、 「兄上!」 静寂を破るように荒々しく戸が開かれ、馬岱が駆け込んできた。 執務が立て込んでいて今日は遅くなると、朝馬超にそう告げていたのに、どうしたことだろう。 その上、常日頃の彼らしくない慌て振りに、馬超は不審を示すように眉根を寄せた。 「何かあったのか?」 「趙雲殿がお怪我を負われたそうです! 共に指揮を執られていた張飛殿の計らいで、先程部隊より一足早く成都にお戻りになられました。 城でその話を耳にして、兄上に急いでお知らせ……」 馬岱の話が終わるのを待たず馬超は部屋を飛び出していた。 馬超は月に照らされた道を懸命に駆けていた。 半年振りになる趙雲の邸までの距離がどうしようもなくもどかしかった。 ようやく辿り着いた邸の中に声を掛けることもなく入り、主の部屋を目指す。 中の家人達は一様に驚いた様子だったが、馬超の只ならぬ雰囲気に誰一人声を掛ける者はいなかった。 「子龍!」 願いを込めてその名を呼び、馬超は趙雲の自室に足を踏み入れた。 「騒々しい奴だな……何をそんなに慌てている?」 馬超の不安を余所に、落ち着いた声が返ってくる。 白い夜着を身に纏い、趙雲は寝台の上に身を起こしていた。 懐かしいその声を聞き、彼の姿を一見した限りでは酷い怪我ではないように思えた。 だが、馬超の表情は凍りついていた。 趙雲の両目を覆い隠すように幾重にも包帯が巻かれているのを見て。 「お前…目が……?」 「情けない話だが、寸での所で矢を避けきれなくてな。 だが刺さった訳ではない。 ただ両の瞼を翳めただけだ…大した傷ではない」 覚束ない足取りで馬超が近付いてくるのを気配で察し、趙雲はそちらへと顔を向け、小さく笑う。 「笑い事ではないだろう!」 まるで他人事のように言う趙雲に、馬超は苛立った。 大したことはないと告げられても、傷を負った箇所が箇所だけに決して馬超は胸を撫で下ろせはしなかった。 それどころか不安は大きくなる。 「それで…目は……? 傷が癒えれば元通り見えるようになるのか?」 「医師の見立てでは神経は傷付いてはいないだろうということだ。 恐らく視力自体に影響はないと言っていた」 「恐らく!? 絶対ではないのか? それでは万が一ということも有り得るかもしれぬのではないか!?」 馬超が声を荒げるのに、当の本人は軽く肩を竦めて見せた。 「絶対などということはこの世にはあるまいよ。 まぁ……見えなくなったらその時はその時だ」 「子龍…お前…」 馬超は続けるべき言葉を失う。 あまりにも平然とした趙雲の態度に。 事の重大さを理解していないように思えてならなかった。 「どうした、孟起? さっきまで怒鳴っていたかと思えば、今度はだんまりか?」 馬超の心のうちなど知る由もないのか、趙雲はまた可笑しそうに笑った。 馬超はそんな趙雲をきつく睨みつけた。 「お前、本当に目が見えなくなったとしてもそうやって笑っていられるのか? もっと真剣に考えろよ…」 だが趙雲は笑顔を崩そうとはしない。 「深刻になれば私の目は絶対に見えるという保障が得られるのか? いくら悩んだところでなるようにしかならん。 ならばそんなもの考えるだけ無駄だというものだ。 第一お前がそれ程悩む必要などあるまい―――あまり考え込むと禿るぞ」 言ってからからと笑う趙雲に、馬超は大きな溜息を吐く。 心底呆れていた。 けれど。 それ以上にその前向きな強さに改めて感じ入る。 これこそが趙子龍なのだと。 自分が魅かれたのは、この男の心身ともに備わったその強さなのだ。 「お前には敵わないな」 ようやく微かに笑みを浮かべて、馬超はそっと趙雲の頬に触れた。 「もし万が一のことになれば、俺がお前の目になってやる。 俺はお前の傍を離れたりしないから……」 「お前が私の目になるってことは、四六時中一緒にいるということか? それは遠慮したいな。 鬱陶しくて堪らん」 素気無い台詞とは裏腹に、趙雲の声音は優しい。 「それが嫌なら目が元通りになることを祈ってでもおくんだな」 言って、馬超は触れるだけの軽い口付けを趙雲の唇に落とした。 そのまま馬超が身を離そうすると、それを遮るように趙雲の頬に添えていた馬超の手の上に、彼が己の掌を重ね合わせてきた。 「それだけでいいのか?」 問われた言葉の意味が、馬超には分からなかった。 するとそれを察したのか、趙雲が再度口を開く。 「半年振りだぞ? もう満足したのか?」 ようやく趙雲の言わんとしている事を理解し、馬超は苦笑する。 「お前は怪我人なんだぞ。 しかも戦帰りで疲れているだろうに…無理はするな」 「怪我といった所で、大したことはないと最初に言っただろう? 私が知りたいのはお前の本心だ。 お前がどうしたいかを聞きたい」 「それは……抱きたいに決まっている。 お前にもっと触れたい」 馬超の答えに、趙雲は満足げに頷いた。 「そうか、ならば私と同じだな。 私もお前が欲しい。 だから遠慮などするな―――お前らしくもない」 「本当にお前という奴は……もっと色気のある誘い方は出来んのか?」 「五月蝿い」 言いながらも、互いに漏れるくすくすという楽しそうな笑い声。 そして長く離れていた時を埋めるように、二人は何度も抱き合った。 共に横なった寝台の上で、趙雲は掠れた声で呟く。 「例え本当に目が見えなくなったとして、心残りなのはもう殿の槍として戦えなくなってしまうことだけだな。 武人としてあの方の大義の為に最期の時まで戦い抜くことが、私の望みだからな」 「俺の顔がもう二度と見れなくても、それは構わぬのか?」 趙雲の髪を飽くことなく梳きながら、わざと拗ねたような口調で馬超は尋ねる。 対する趙雲は人の悪い笑みを口元に刻んだ。 「お前の顔などもう見飽きたからなぁ」 「酷い言われようだ」 「だから―――実際見なくても、お前がどんな表情でいるかは手に取るように分かる。 今もさぞ締まりのない顔をしているんだろう」 「どんな時でも口の減らぬ男だな」 実際にずばりと言い当てられ、馬超は途端に苦虫を潰したような表情になる。 「図星だろ? 本当に分かり易い…」 趙雲は愉快そうにくつくつと喉の奥で笑う。 「黙れ」 「嫌なら黙らせてみろ」 さすればと、笑みを刻んだ趙雲の唇を馬超は己が唇をもって塞ぐのだった。 それを契機に再び二人は快楽の淵へと落ちていった―――。 その後、日は流れ、いよいよ趙雲の包帯を外す時が来た。 初老の医師が、丁寧に包帯を解いていく。 それを馬超は傍らで固唾を呑んで見守っていた。 例え趙雲の目が元通り見えなくなったとしても、彼に対する想いは絶対に揺らぐことはない。 けれど、もちろん見えることに越したことはない。 また共に戦場を思い切り駆け廻りたいから。 「ゆっくりと目を開いて下さい」 包帯を外し終わった医師がそう告げるのに従って、趙雲はゆるりと目を開く。 そのまま何度か目を瞬く。 「……」 趙雲は沈黙したまま俯いた。 その様子に馬超の鼓動が不安に強く脈打った。 「子龍…? どうした…!? 見え…ないのか……?」 馬超は俯いた趙雲の顔を覗き込む。 だが趙雲は声を押し殺して笑っていた。 「見えているさ、はっきりとな。 お前の情けないその顔が」 それを聞いた瞬間、馬超は趙雲を抱き締めていた。 部屋にいる他の人間のことなど完全に頭から消え去っていた。 すると今度は趙雲が焦った様子で、上ずった声をあげる。 「こら…っ! やめぬか、孟起! このような人前で……!」 だが馬超はますます腕に力を込めた。 今の今まで散々に心配させられたのだ。 これくらいの仕返しは許されるだろうと。 written by y.tatibana 2004.08.22 |
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