100題 - No44

かのひとを待つ
もう駄目か…。





何度もそう思っては、それを振り払うようにかぶりを振り、姜維は手にした槍を握る手に力を込める。
周囲には数多くの味方の屍が横たわっている。
姜維はきつく唇を噛み締める。
諸葛亮から指揮を任されたというのに、この有様。
自分の不甲斐なさに、涙が零れそうだった。

敵の伏兵に気付かなかった。
陽動するような敵の動きをもっと思慮すべきだったのだ。
現に共に此度の戦へと赴いてきた馬超は姜維に忠告した。
敵の動きがおかしい、何か策があるのやもしれぬと。

だが姜維には敵が自軍に気圧されているようにしか思えなかった。
敵の本陣に向け、特に守りの薄い左右から攻め押せば落せると判断した。
馬超には右方からの攻撃を、もう一方には姜維が向かった。
馬超は最後まで敵の動きに疑念を感じているようだった。
けれどそれを姜維は押し切った。
諸葛亮から初めて指揮を任され、気持ちが逸っていた。
何としてでも勝利をおさめ、諸葛亮の信頼に応えたかったのだ。

それがこの結果だ。
反対側の馬超もまた伏兵に囲まれ、苦戦しているとの知らせが姜維の耳にも入っていた。
どうやって詫びれば良いのだろう―――
詫びるどころか生きて戻れるのだろうか。
それともここで果てることが、何よりの罪滅ぼしになるのかもしれない。

とうとう姜維は地に膝をついた。
もう心身ともに限界を迎えていた。





だが―――





遠くから声が上った。
土煙をあげ、多数の馬影が徐々にこちらに近付いてくる。
姜維は反射的に顔を上げた。
敵の増援かと思った。
もはやこれまでだと。

「姜維殿!」
しかし掛けられたのは、自分の名を呼ぶ良く知った声。
「趙…将軍」
向かってきた馬上のその人を呆然と見上げる姜維に、趙雲は薄く笑みを作った。
「ご無事で何より。
諸葛亮殿の命により援軍に参った」
その言葉に姜維が周りを見渡せば、確かに趙雲が率いていてた兵達が、思わぬ援軍の出現により浮き足立った敵の伏兵を攻める様が目に入った。

「ご迷惑を……」
項垂れた姜維は途中で言葉を飲み込んだ。
そしてはっと何かに気付いたらしく再度馬上の趙雲へと視線を移した。
「どうして私の元に来られたのですか?
馬超殿も苦戦されているのです……もちろん聞き及んでおられるでしょう?」
「伝令から聞いたよ」
趙雲は至極あっさりとした様子で頷いた。
逆に姜維の方は随分と焦っているようだ。
「では何故、馬超殿の元へ向かわれなかったのですか?
それとも馬超殿の方へは誰か別の方が?」
「いや、私の隊しか援軍にまわせる兵の余裕はなかった」
姜維は目を見開いた。
「でしたら、余計にです。
私などより、馬超殿の方を!」
だが趙雲迷う素振りも見せずに首を振るのだった。

姜維にはそんな趙雲の態度が理解出来ない。
何故なら、馬超と趙雲はただ共に将というだけの関係ではない―――それ以上の深い関係だからだ。
姜維はそれを知っていた。
二人が口付け合う姿を偶然見てしまったから。
真っ赤になって唖然と立ち尽くす姜維の姿に気付いた二人は、僅かに顔を見合わせて小さく笑っただけだった。
けれどその一瞬に流れた二人の雰囲気で、それが戯れなどでないことは姜維にも分かった。

その馬超を差し置いて、何故自分の方を助けに来てくれたのか。
普通で考えるならば、馬超の元へ向かうだろうに。

「さぁ、姜維殿、一度陣に戻ろう。
残念だがこれ以上ここにいても犠牲を増やすだけだ」
そんな姜維の困惑を他所に、趙雲は馬首を返す。
「待って下さい!
馬将軍は―――
「今から向かったところで間に合うまいよ。
何も死ぬと決まった訳でもない」
趙雲のその声からはどんな感情も読み取れなかった。
まっすぐ前方を見つめたまま、趙雲は強く言い切った。

「もしここで死してしまうのならば―――それまでの男であったというだけだ」

と。





趙雲の援軍の甲斐あって、姜維は命を落すことなく自陣に帰り着いた。
そこを守っていた兵に、姜維は真っ先に馬超の行方を尋ねた。
まだ戻っていないとの答えに、姜維は肩を落す。

「私のせいだ…私が馬将軍の意見にもっと耳を傾けていれば……」
「過ぎたことを嘆いてもどうにもならぬよ、姜維殿。
大事なのは、今日のことを今後どれだけ活かせるかだ」
趙雲は項垂れる姜維の肩に手を掛ける。
「私が死ねば良かったんです―――この敗戦の責は全て私にあります。
丞相に合わせる顔もありません……」

途端に、頬に痛みを感じた。
ぶたれたのだと気付くのにしばしの時間を要した。
「甘えるのもいい加減にするといい。
貴殿が死んでそれが何になる?
それは貴殿自身が楽になるだけだろう。
本当に悔いているのなら、どれだけ恥辱に塗れても生きろ。
生きてこれから自分に為せることを懸命にすること……それが生きているものの務めだ」

痛かった。
頬ではなく―――心が。
涙が溢れてきた。

視線を傍らの趙雲に移す。
厳しい表情だった。
それでもその瞳は優しかった。
馬超のことはおくびにも出さない。
強い人だと思った。
そして己の未熟さを思い知らされる。

「少し休むと良い…疲れているだろう?
戦場であっても、身体を休めることも必要だ」
姜維は素直に頷いた。
今の自分がここにいても何も出来ないことは自身が一番良く分かっていた。
頭も身体も重い。

陣幕に入ると、姜維は意識を失うように直ぐに眠りに引き込まれていったのだった。





馬の嘶きが、姜維の意識を眠りの淵から呼び覚ました。
目を開ける。
東から陽が差し込んでいる。
ここに入った頃には確か西の空を赤く染め、陽が沈みかけていた。
姜維は跳ね起きた。
まさか明くる日まで眠ってしまうとは。

姜維は幕を潜り、外へと出た。
まだ陽は昇り始めたばかりらしい。
地平線の向うにその姿が見える。
昨日の喧騒が嘘のように、早朝の陣は静まり返っていた。
見張りの兵が何人かいるだけだった。
みな昨日の戦で疲れきっているのだろう。

姜維は歩き出そうとした足を止めた。
拓けた大地の向うから一頭の馬がこちらに向かって来る。
先程聞いた嘶きはあの馬のものだったろうか。
それからかなり遅れる形ではあったが馬群も見える。

あれは―――

馬上には見覚えのあるその威風堂々とした姿。
金色の兜に朝日が反射している。
馬超だ。
兵も全滅を免れたのだろう。
馬超の後ろを追うような馬群は馬超の隊の者達に違いなかった。

そうして姜維の足を止めさせたもう一つの姿。
姜維から少し離れた場所で腕を組み、じっとやって来る馬上の人物を見つめている。
趙雲だった。
趙雲は鎧姿で、その戦袍も汚れきっている。
そう昨日の姿のままだったのだ。

「趙将軍…貴方は……」
知らぬ間に、姜維は小さな呟きを漏らしていた。
だが趙雲は気付いてはいないようだった。
ただ前方に眼差しを注いでいる。
それ以外何も目にも耳にもはいってはいない様子だ。

恐らく趙雲はずっと待っていたのだ。
食事も取らず、眠りもせず―――じっとあそこで馬超が戻ってくるのを待っていた。
馬超を切り捨てるようなあの冷たい言葉の裏側には確信があったのだろう。
必ず馬超は生きて戻ってくると。
信じていたからこそ、趙雲は姜維の元に駆けつけた。

陣へと辿り着いた馬超は趙雲の前まで馬を進めると、地面に降り立つ。
馬超が趙雲に微笑みかける。
そんな優しい表情の馬超を姜維は初めて見た気がする。
いつもは姜維をからかってばかりの男と同一人物とは思えない。

二人に気付かれぬうちに、そっと幕内に引っ込んだ方が良いだろう。
姜維もまた馬超の無事を喜び、此度のことを謝罪したかったのだが、今は再会した二人の邪魔をすべきではない。

だが、その時趙雲がとった行動は姜維の予想を遥かに越えていた。
熱い抱擁を交わしたのでも、口付けた訳でもなく……。

拳を握り締めると、趙雲は馬超の頬を思い切り殴りつけたのだ。
「遅い」
そして吐き捨てるように短く言葉を投げつけると、趙雲は身を翻し、さっさと奥へと遠ざかっていく。

馬超は手を殴られた頬にあて、俯いている。
その表情は窺い知れなかったが、身体が微かに揺れている。
怒っている―――
咄嗟に姜維はそう思った。

それが呆然と二人の様子を眺めていた姜維の身体を動かした。
姜維は馬超に慌てて駆け寄った。

違うのだと告げたかったのだ。
趙雲が寝ずにずっと馬超の帰りを待っていたことを。
援軍に向かわなかったのは、馬超のことを心から信頼していたからに違いないのだと伝えたかった。
そうでなければ悲しすぎるではないか。

「馬将軍!
趙将軍は決して貴方のことを…」
覗き込んだ馬超の表情を見て、姜維は再び驚愕した。

馬超は怒っていたのではない。
声を殺して、心底可笑しそうに笑っていたのだ。

馬超は顔を上げ、姜維の髪をくしゃくしゃに撫でた。
「分かっているさ、姜維。
お前に言われなくてもな。
―――全く素直じゃない奴……。
でもまぁ、あいつらしいというか何と言うか……生きて帰ってきたんだなってしみじみ実感するな」
馬超は笑顔のまま、趙雲が去って行った方向を見遣る。
「さて、天邪鬼な恋人のご機嫌伺いにでも参るとしますか」
冗談めかした口調で言って、馬超は歩き出す。

歩きながら肩越しに馬超は振り、姜維を見た。
「いつかみたいに覗き見すんなよ、姜維」
二人が口付けている姿を見た日のことを言われているのだと直ぐに理解する。
「そんなことしません!」
真っ赤になって姜維は叫びを上げる。
「お子様には少々刺激が強いからな」
からからと笑って、馬超は去って行く。
それは正しくいつも姜維をからかってばかりいる馬超の姿で。
「馬将軍!!」
姜維の怒りは果たして馬超に通じたのか―――馬超は姜維の視界から消えていったのだった。

いつの間にか不思議とあれ程重く暗かった心が軽くなっている。
暗雲の中から、暖かな光が差し込んでくるのを姜維は確かに感じていた。






written by y.tatibana 2004.04.26
 


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