100題 - No43 |
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湯浴みを終え、自室の寝台に腰掛ける。 ふっーと大きく息を吐き出し、趙雲は濡れた髪を手で梳く。 今日もようやく一日が終わった。 とはいっても、もう既に夜半を過ぎ、数刻眠りにつけばまた多忙を極める一日が始まる。 一軍を預る将として、趙雲には日々為すべきことが多い。 もう少し休んだ方がいい―――と友である馬超はことあるごとに忠告する。 けれど趙雲はいつも笑ってそれに首を振る。 無理をしている訳ではない。 強がっているのでもない。 趙雲にとって日々の執務は心の充足を齎すのに必要不可欠なものだった。 自分の働きが、僅かでもこの蜀という国の益となるのならば。 それがあの方に対して己が出来得る唯一のことなのだから。 趙雲が劉備に出逢ったのは、もう随分と昔の…まだ趙雲が公孫サンの配下であった頃だ。 けれど劉備を初めてまみえた時の衝撃を今でもはっきりと趙雲は覚えていた。 強い意志を感じさせる瞳と、優しい笑み。 そうして何故だか他人を惹きつけて止まないその雰囲気。 漢王室の復興をと願い、その大望を語る劉備に趙雲もまた魅せられた。 身命を賭して仕えたいと心から思える人物にようやく出逢えたのだ。 だがそれは叶うことなく、一度は離れ離れとなったしまった。 「そなたとはまた会えうな気がする。 その時こそ、私の元に来てくれるか?」 そう言い残した劉備の言葉が、趙雲の希望だった。 その為に日々の鍛錬に今まで以上に励んだものだ。 いつの日か再び出逢えるその時に備えて―――。 果たして願いは叶った。 互いに紆余曲折を経て、趙雲は劉備の旗の元に加わった。 劉備は心底それを喜こび、趙雲を手厚く迎え入れてくれた。 まだあの頃の劉備は各地を彷徨う流浪の将であった。 それでも彼の周りには常にたくさんの人々がいて、皆が彼を慕っているのがよく分かった。 劉備もまた身分の上下なく、誰に対しても誠意を持って接していた。 そんな劉備を見ていると、やはりこの方の元に来て良かったのだと、趙雲は感じ入るのだった。 この命ある限り、劉備の傍にいたいと。 その劉備と身体を重ねるようになったのはいつの頃からだったのだろう。 突然抱き寄せられて、熱っぽく囁かれて、趙雲は動くことも出来ず呆然となっていた。 「お戯れを…」 そう呟くのがやっとだった。 けれど劉備は強い口調でそれを否定した。 「戯れなどではない。 私はそなたのことが好きだ。 初めて出逢った時から心奪われていたのやもしれぬ……それに気付いたのはつい最近になってからのことだったが。 この気持ちに偽りはない」 劉備はそれ以上何も言わず、ただ趙雲を抱き締めていた。 そうしてしばらくすると混乱と戸惑いが去り、趙雲の胸に去来したのは確かな喜びだった。 趙雲もまた劉備の事を敬愛するのと同時に、それ以上の感情が生まれていたことにこの時初めて気付かされた。 相手は自分が使えるべき人物。 これは許されぬ感情だ。 無意識のうちのその感情に蓋をしてきたのかもしれなかった。 今も未だこのまま先に進んでいまってはいけないと思う気持ちがある。 それでも趙雲は抱き締めてくれる劉備の手を離したくはなかった。 一度硬く瞳を閉ざした後、趙雲もまたゆっくりと劉備の背に腕を廻した。 劉備は嬉しそうに微笑んで、趙雲の頬に手の伸ばしその顔を引き寄せると、唇を重ねたのだった―――。 時が過ぎるにつれ、徐々に劉備の力は大きくなり―――やがて蜀という国を建国するまでになった。 趙雲にとってそれは何事にも替えがたい喜びと誇らしさだった。 だがそれは同時に劉備と趙雲との距離を遠く隔てていくことになった。 昔のように劉備が趙雲の元を訪ねることも容易くなくなり、今ではもう城の外を気軽に出歩くことなど出来なくなっていた。 それは至極当たり前のことだ。 劉備は今や蜀漢の帝であるのだ。 流浪の頃とは立場が違う。 そして趙雲もまた蜀を担う将として、五虎大将と称されるようになった。 褥を共にし、語り合うことなど最早出来よう筈もなかった。 それでも趙雲の劉備に対する気持ちは一度も揺らぐことはもちろんなかった。 ある種の寂寥感があったことは否めないが、劉備が天に向かい昇っていく―――その姿を見られることが何よりの幸せだった。 執務に追われる日々も何ら苦痛にはならなかった。 ふと思い出に浸っていた趙雲は、我に返ると思わず苦笑した。 自分も昔を懐かしむような年になってしまったのかと。 明日も早いのだ。 思い出に耽っている場合ではない。 趙雲は眠りにつこうと、枕元の灯を消そうとした。 その時。 コツコツ……と小さく窓を叩く音が趙雲の耳に届いた。 最初は風が窓を揺らしたのかと思った。 だがもう一度同じような音を聞いて、趙雲は小首を傾げた。 立ち上がり、壁際に立てかけてある剣を手に取る。 このような夜更けに訪ねてくる人物など心当たりはない。 ましてや窓からなどと。 急ぎの用件だとしても、こんな場所から使者が来るはずもない。 「誰だ?」 窓辺に立ち、趙雲は注意深く外へと問いかける。 「私だよ」 すると、返ってきた声に趙雲は目を見開いた。 聞き違える筈はない。 この声の主を。 趙雲は慌てて、窓を開けた。 そこに笑顔で立っていたのは―――劉備だった。 「主公!! ど…どうされたのですか?このような所に…!? どうして……」 趙雲の頭は混乱していた。 幻でも見ているのかと、剣を傍らに置き、何度も目を擦る。 それでも確かに目の前にいるのは劉備その人だ。 そんな趙雲の慌てぶりが可笑しいのか、劉備は声を上げて笑い出す。 常に冷静な趙雲の慌てぶりが余程面白かったのだろう。 「夢でも幻でもないぞ、子龍」 やや冷静さを取り戻してきた趙雲が、周囲を見渡す。 広い庭には劉備以外の人影はない。 「供の者などおらぬ。 護衛の者の目を盗んで、忍んで参ったのだからな」 趙雲の疑問に先回りする形で、劉備は答える。 「何と危険なことをなさるのです! 御自分のお立場をお考え下さい。 私がすぐ城へとお供致します」 「嫌だ」 劉備は間髪入れずに首を振る。 「主公!」 「もう…昔のようには呼んではくれぬのだな」 寂しさを浮かべた眼差しが趙雲をまっすぐに見つめてくる。 趙雲は瞳を伏せた。 「今と昔とは違います。 貴方様は帝となられたのです。 私などが気安くお呼びして良い方ではありません」 劉備は手を伸ばし、窓枠に掛けられた趙雲の手に己のそれを重ね合わせた。 小さく趙雲の身体が揺れた。 「私の気持ちは何一つ変わってはおらぬぞ。 今でもそなたのことが愛しい。 なのに、私がそなたと過ごせる時は減る一方で、最近では言葉を交わすこともままならなくなった」 「それは致し方のないことです……」 「私はそなたのように聞き分け良くはない。 会いたいと…子龍に会いたくてたまらなかった。 だからここに来た」 趙雲は言葉が出なかった。 顔を上げ、劉備へと視線を移す。 そこには初めて趙雲を抱き締め、想いを告げたあの日のままの真剣な眼差しがあった。 「主公…どうぞ中へ―――。 入り口の方へお回り頂けますか? 直ぐに扉をお開け致しますので」 趙雲は静かに微笑を浮かべて、踵を返そうとする。。 だが劉備は趙雲に重ねた手を離そうとはしない。 「……」 じっと趙雲を見つめたまま劉備は動こうとはしなかった。 その意味するところを悟って、趙雲は笑みを深くした。 この方には敵わない―――そう思いながら。 「元徳殿、私も変わらず貴方のことが好きです。 昔も、今も……そしてこれからもずっと―――このいのちある限り」 それを聞いて、ようやく劉備もまた柔らかな微笑みを刻んだ。 「表に回る時間も惜しい…。 一刻も早くそなたを抱き締めて、口付けたい。 ここから中に入れてはくれぬか、子龍」 そうして差し出された手を、微笑んだまま趙雲はしっかりと取ったのだった―――。 written by y.tatibana 2004.05.15 |
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