100題 - No34

会いたい
趙雲が己の体の変化に気付いたのはつい最近のことだった。
妙に身体が気だるく、熱っぽい。
小さな咳を繰り返すことも時折あった。
ただの風邪だと思っていた。

けれど時が経ってもそれが治癒する気配はなく、徐々にではあるが悪化しているようにも思えた。
それでも趙雲はそのことを気のせいだろうと別段気にすることもなかった。
武将故体力には自信があったし、何より休んでいる暇などない。
薬師に診せることもせず、多忙な日々は過ぎていった―――




趙雲が馬超と深い関係を結ぶようになってから、もう幾年月が流れたのか。
「どうかしたのか?
少し…顔色が悪い」
だからやはりというべきか。
最初に自身以外で趙雲の変化に気付いたのは馬超であった。
何度が咳を繰り返す趙雲を見て訝しげにそう尋ねてくる。

趙雲は微笑すると、静かに首を振った。
「別にたいしたことはない。
ただの風邪だろう…」
告げたその言葉に偽りは無かった。
本当にこの時はまだ己の体調の異変をそれほど重要視してはいなかったから。



けれど。
病魔はゆっくりと―――しかし確実に趙雲の体を蝕んでいた。



趙雲がはっきりとそれを自覚させられたのは、馬超とそんなやり取りを交わしてからしばらくたってからのことだった。
その夜は、趙雲の邸で馬超と差し向かい酒を酌み交わしていた。
その途中、またも趙雲が咳き込み始めた。
今までになく激しく。
趙雲の手にしていた杯が、そこから滑り落ち、床に転がった。
「子龍!?」
俯き、苦しげに咳を繰り返す趙雲に馬超が慌てて駆け寄った。

趙雲の肩を抱き、その顔を覗き込んだ。
触れた趙雲の体は熱く、熱があるらしいことは直に分かった。
その顔もまたすっかりと色を失っていて、辛そうに固く目を閉ざしている。
「子龍!」
自分の名を必死で呼ぶ馬超を、趙雲はうっすらと目を開けて見遣る。

大丈夫だ……と口を開こうとしたその言葉の代わりに、趙雲の口から零れ落ちたのは赤い液体。
口元を抑えた趙雲の指の間からそれが滴り落ち、趙雲の白い衣を朱色に染めた。
―――っ、子龍!!」
悲鳴のような馬超の声に、趙雲は考えるよりも先に体が動いていた。

立ち上がり、傍らの馬超の腕を捕らえると、そのまま凄い力で扉の方へと歩いて行く。
体を押し付けるようにして扉を開け、趙雲の行動の意味を見出せず呆然とする馬超を外へと追いやった。
そして直に扉を閉ざすと、中から閂を下ろしてしまう。

「子龍!おい、何をする!
ここを開けろ!」
馬超が怒鳴り、扉を激しく叩く。
そこに背を凭せ掛け、趙雲は強くかぶりを振った。
「駄目だ、孟起。
…お前も分かるだろう―――
どうやら私は肺を患っているらしい…伝染する死の病を。
こんな状態になるまで私は大したことはないと思い込んでいた。
すまぬ…もっと早く気付くべきだった―――そうすればお前を近づけたりはしなかったのに。
早くここから離れろ……早くっ…」
一気に捲くし立てた後、再び趙雲は激しく咳き込み始めた。

「ここを開けろ!」
必死に趙雲を呼ぶ声。
それが意識を失う前に、耳に届いた最後の越えだった。





結局その後、馬超が扉を蹴破り部屋の中に入り、倒れ伏す趙雲を寝台に運んだ。
家人に薬師を呼びに行かせ、馬超は趙雲が意識を取り戻すまでその傍から離れようとはしなかった。
やはり薬師の診立てでは、肺の病だということだった。

しばらくして目を覚ました趙雲は傍らに馬超の姿を認めると、途端に険しい表情になる。
馬超が口を開くよりも先に趙雲は叫んだ。
「ここから離れろと言っただろう!
早く出て行け!
私の側に近付くんじゃない!」
「嫌だ」
馬超は身じろぐ気配も見せず、間髪いれずそれを拒絶する。

馬超の意思の強さをそこに感じたが、こればかりは趙雲も折れる訳にはいかなかった。
「頼む…頼むから、孟起!
一刻も早く出て行ってくれ!!」
趙雲は懇願するように語気を強めるが、馬超は首を振る。

次の瞬間、趙雲が咳き込み始めた。
眉を寄せ、苦しげな趙雲の姿に馬超は何も出来ない自分がもどかしかった。
せめて少しでも楽になるようにと、何度も趙雲の背をさすった。
それでも趙雲は身を捩り、馬超の手から逃れようとする。
「出て行け…孟起…早く」
咳の合間に、趙雲はそう何度も繰り返す。

見かねた薬師が二人の間に割って入った。
「貴方がここいては却って趙将軍の加減を損ねます。
どうか、どうかお引取りを」
薬師にそう言われてしまっては、馬超に為す術はなかった。
「また…来るから」
後ろ髪を引かれる思いで、馬超はしぶしぶ部屋を出て行った。

その気配を感じ取り、ほっと胸を撫で下ろした趙雲だったが、その手は吐血によって赤く染まっていた。
残された時間はそう長くはないだろう―――趙雲は紅の手を見つめながらまるで他人事のように冷静に感じていた。





書簡をしたため、趙雲はそれを劉備亡き後帝位に就いた劉禅へと託した。
病に倒れ、もう将としてそして武人として、戦場に立つことが出来そうにもなく申し訳なく思っていること。
このような状態で生き永らえるつもりはないこと。
だからどうか一刻も早く死を賜りたいと。

だが劉禅はそれを許さなかった。
赤子の頃より何度となく命を救ってくれた趙雲に対して劉禅は人並みならぬ恩義を感じていた。
必ず治してやる。
各地の腕の良い薬師を呼び集めているからと。
絶対に死ぬことはならぬ。
そう書かれた劉禅からの返事が届いた。

本当は胸を突いて、果ててしまおうかとも思っていた。
だが主君たる劉禅の命に背くことは、趙雲には出来ようはずも無かった。

馬超に感染させてしまったのではという一番の不安は杞憂だったようで、彼は毎日欠かさず、邸を訪ねて来ているようだ。
だが趙雲の側にいればいつ感染してしまうか分かったものではない。
邸の人間もごく数人を残して、暇を取らせた。
何人かの兵達に邸の門前で、馬超も…そして他の人間も決して中には入れぬ様押し留めさせていた。

だが他の人間ならいざ知らず、いつまでも馬超を押し留めておけるとは趙雲は思っていなかった。
絶対に馬超には生きて欲しい。
だから迫りくる死を待つよりも、自ら命を絶ってしまいたかったのだ。

だがそれが叶わぬ今、趙雲は再び筆を取った。
今度は丞相諸葛亮へ宛てて。
すぐに返答があった。
趙雲の願いを聞き入れるとそこにはそう記してあった。

趙雲の望み。
それは町外れにある長く無人の小さな邸に居を移したいと。
そこは厚い鉄の扉が唯一の出入り口である堅固な邸。
その昔訳あってとある貴人を幽閉するのに建てられたらしい…邸と言う名の牢獄。
そうして趙雲は望み通り、その邸へと移った。

寝台と文机だけが設えられた質素な寝所。
天井は随分と高く、そこに近い位置に一箇所明り取りの小さな窓があるだけで、後は四方を石壁に覆われ、昼間でも薄暗い。
邸の唯一の出入り口である分厚い鉄の扉は、中から閂がかけられるようにした。
その脇の床に接する部分にもまた小さな扉があった。
人が通れるような大きさでは到底なく、それは書簡など必要な物をそこから受け取るために誂えられたものだ。

ほぼ外界から閉ざされた邸。
もう趙雲は誰も自分に近づけるつもりはなかった。
いくら馬超と言えども、鉄の扉を叩き壊すことは出来まい。
閉ざされたこの邸の中で、趙雲はただ一人最期の時を迎えるつもりだった―――





入り口の鉄の扉を激しく叩く音に、文机の前に座し書物に目を通していた趙雲は弾かれたように顔を上げた。
「子龍!ここにいるのだろう!?」
馬超の声だった。

まだここに移ってきて、たったの数日しか経ってはいないというのに。
いずれ知れることとは思っていたが、これ程早くとは趙雲も予想してはいなかった。

趙雲は堅く目を閉ざし、何も答えない。
「黙っていても俺には分かる。
お前がこの扉の向こうにいることが。
ここを開けてくれ、子龍!」
何度も拳を叩きつける音が、室内に響いてきた。
「俺は病なんて恐れていない。
そんなものより遥かに恐ろしいのは、お前と会えないことだ。
お前に会いたい……会いたいんだ」
悲痛な声色と、扉を殴打する音が趙雲の心を刺した。

思わず趙雲は耳を塞いだ。
それでもそれらは耳に届いて、趙雲を苛んだ。



永遠に続くかと思われた時間は、しかしようやく終わりを告げた。
「俺は…絶対に諦めぬからな…子龍」
反応を全く示さない趙雲に、馬超は一旦引き下がろうと決めたらしい。
その言葉を最後に、辺りに静寂が戻った。
それでも息を殺すようにして、趙雲はしばらくその場から動けなかった。
唇を噛み締め、双眸は悲しみで翳っている。

どれくらいそうしていただろう。
「ひっ…!」
扉の外から届いた短い悲鳴に、趙雲はゆっくりと立ち上がった。
寝所を出て、すぐ右手にある鉄の扉の前で趙雲は外の気配を探った。

誰かいる。
だが馬超ではない。
それは気配で分かった。

「どなたか?」
短く問えば、
「わ…私は諸葛亮様より貴方様に書簡をお届けするよう承った者です…」
そう女の声で答えが返ってきた。
だが何かに怯えているように声が震えている。
鉄の扉の脇の小さな扉からその書簡が差し入れられて来たのだが、その手も震えていた。

「どうかされたのか?」
「扉に…扉に……」
それだけ呟くと、女が失礼しますと慌てて走り去る音が聞こえた。

趙雲には訳が分からなかった。
扉に何があるというのだろう。
こちら側からでは何も変化はみられないのだが。
不審に思った趙雲は閂に手を掛けた。
外の気配を探り、誰もいないことを感じ取ると、それを外しゆっくりと扉を開けた。
外へ出て、趙雲はその扉を見遣る。

「!!」
思わず息を呑み、目を見開く。

扉には赤いものがべったりとこびり付いていた。
それは真新しい血の痕。

間違いなくそれは馬超のもの。
激しく扉を殴打し、時には爪を立て引掻いたのかもしれない。
馬超の手の皮膚が破れ、流れ出したものだろう。
だがそんなことは厭いもしなかったようだ。
ただ趙雲に会いたい一心で。

趙雲は震える指で、その痕にそっと触れた。
馬超の想いが痛い程に伝わってくる。
趙雲の中で張り詰めていたものが事切れて、涙が溢れ頬を伝った。
「…許してくれ、孟起……。
私も会いたい。
会いたくて堪らない。
けれど私は…お前に生きていてもらいたいんだ―――

呟きはただ静寂な空気に呑み込まれていく。
そして再び、鉄の扉を閉ざす重々しい音が、辺りに響き渡ったのだった―――






written by y.tatibana 2004.01.10
 


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