100題 - No32
注:この小説は100題「裏切り」→「
の続きです。

追う
まだ霞む意識の中、最初に感じたのは己の手を握る誰かの強い力と暖かさ。
そして目にしたのは見慣れた室内。
趙雲が己の状況を理解するのにそう時間は掛からなかった。

―――そうか…無様にも倒れてしまったのか……私は。

「気が付いたか?」
控えめに傍らから掛けられる声。
握り込まれている手に更なる力が篭る。
顔など見ずとも、それが誰であるかは分かる。

趙雲は声の方向とは真逆に顔を背けた。
「…手を離せ……」
低く短くそう告げるが、包み込む温もりが離れていく気配はなかった。
振りほどこうにも、身体に全くといって良い程力が入らなかった。
「過労だと薬師が言っていた。
しばらくゆっくり休め」
優しく諭すような口調に対して、趙雲は皮肉気に口元を歪める。
「ご忠告痛み入る、馬超殿。
だが…言ったはずだ―――私がどうなろうが貴殿には全く関係のないことだと」

その言葉に馬超は眉根を寄せ、辛そうに唇を噛む。
だがすぐに意を決したように口を開いた。
「子龍―――俺がお前に近付いたのは確かにあの女の言った通りだ。
決して誰も近づけようとしない、そんな噂通りの人間なのかどうか確かめてやろう。
それが真実ならば落としてやろう―――面白味も何にもない退屈な日常が少しは楽しめるかもしれん……そんな軽い気持ちだった」
語られる言葉に趙雲は何の反応も示さない。
ただ冷めた瞳で、窓から覗く空を見据えているだけだ。

だが馬超はそれを意に介さず続ける。
今言ってしまわなければもう二度とこのように趙雲と二人きりになれるような機会は巡って来ないだろうとそう思っていた。
「だが実際お前と関わる様になって日々を過ごしていくうちに、俺は本気でお前に惹かれ始めた。
お前の何ものにも決して屈服しない強さと気高さに心奪われた。
その反面…自身を省みないお前のことがとても気に掛かった。
だから俺がお前の安らぎになれればと…そうなりたいと―――切に思った。
好きだと告げたあの言葉に偽りはない。
俺はお前のことが本当に―――

「黙れ!」
それまで沈黙を保っていた趙雲が叫ぶように言って、馬超を遮った。
視線は逸らせたまま、趙雲はせせら笑った。
「随分と都合の良い話だな、馬超殿。
それで私にどうしろと言うのだ?
そのような戯言を信じろと?」
そこでようやく趙雲は頭を廻らせ、馬超を睨みつけた。
冷め切った瞳はそのままに。
「全て終わったこと…過去のことだ。
もう私に構わないでくれ、迷惑だ。
はっきりと言わねば分からぬのなら言ってやる―――私はもう貴殿のことなど何とも想っていない」
突き付けられる言葉に馬超の表情がはっきりと強張った。

「そうか…」
苦しげに呟いて、そのまま静かに顔を伏せる。
「だが―――何と言われようとも俺はお前のことが好きだ。
それだけは譲れない真実だ」
馬超に握られた趙雲の掌にぽたりと雫が落ちた。
その感覚に思わず趙雲は息を呑む。
俯いた馬超の表情は伺い知れなかったが、そのまま彼は握った趙雲の手を額に押し当てた。
「赦してくれなどととは言わん。
けれどどうかこれ以上無茶をしないでくれ…もう少し己の身体のことも考えてくれ…。
この願いだけは聞き入れて欲しい、頼む」
搾り出すような声音で言って、馬超は漸く趙雲の手をゆっくりと寝台へと戻した。
そのまま立ち上がり、背を向けると、馬超は部屋を出て行った。

残された趙雲は虚空を睨み据えたまま、暫く身動ぎもせず、やがてゆるゆると頭を振ると固く瞼を閉ざした。
まるで心の内に湧き上がって来た何かを、拒絶するかのように―――





馬超が趙雲の邸を出たところで、諸葛亮と出くわした。
偶然……ではないようだ。
彼はどうやら馬超が出て来るのをそこで待ち構えていたようだ。
「趙雲殿のご様子は如何でした?」
「自らの目で確かめればよかろう。
子龍も貴殿のことを待っていることだろうしな」
諸葛亮を目の前にすると、嫌でも思い出されてならない。
趙雲が諸葛亮と身体を重ねたこと、そして中庭で目の当たりにした抱き寄せられそれに応える趙雲の姿を。

睨みつけてもやはり諸葛亮の涼しげな表情が崩れることはない。
「貴方はもう趙雲殿のことを諦めるのですか?」
諸葛亮の問い掛けに馬超は眉を顰めた。
「何が言いたい?」
すると諸葛亮はその表情のままさらりと言ってのけた。
「私は―――趙雲殿を抱いてはいませんよ」
と。

「何だと…!?」
目を瞠る馬超に、諸葛亮はくくっ…と喉の鳴らして押し殺すように笑う。
「この間、貴方に告げたことは偽りです。
本当はあの日、趙雲殿とは何もありませんでした」





あの日―――
趙雲の望むまま寝台に彼を横たえ、今迄の想いを込めるように諸葛亮は彼の首筋に口付けを落とした。
その時、気付いた。
趙雲の身体がほんの僅かに震えていることに。
そして彼の首筋から顔を上げ、趙雲を見れば―――

彼は泣いていた。
ただただ静かに。
じっと天を見上げる漆黒の瞳から涙が溢れ出しては零れ落ちた。

「趙雲殿……」
諸葛亮がその名を呼んでも、反応を示さない。
趙雲の瞳はここにある何も映してはいないように、諸葛亮には思えた。
心もまた同様に。
趙雲が何を想い涙を流しているのか―――それは考えてみるまでもないことだった。

諸葛亮は趙雲の腕を取りその身体を起こすと、そっと彼の身体を抱き締めた。
そこに至って趙雲はようやくはっと我を取り戻し、泣いていることに気付いたようだ。
「…っ……私は…」
しかし趙雲は自分が何故涙を流しているのか理解していない様子だった。
心は痛みを訴えているのに、それを趙雲は認識できないでいるようだ。
混乱する趙雲を抱き締めたまま、諸葛亮は何も語らず彼の背をあやす様に撫でていた。

それだけだった。
それ以上の事は何もない。





告げられた真実に馬超は心に沈んだ重石が一つ消えていくのを感じた。
だが同時に湧き上がる疑念。

「どうして俺にそれを話す?」
すると諸葛亮は目を伏せた。
それは馬超が初めて目にする、諸葛亮の寂しげな表情だった。
「本当は言うつもりなどありませんでしたよ。
貴方の目の前であの人を抱き締めた時、あの人は私に応えるように腕を廻してきました。
けれど、その腕が…そして身体があの日のように震えていることに気付きさえしなければ。
そして趙雲殿が倒れたりしなければ―――
貴方の為に真実を告げた訳ではない。
認めたくなどありませんが、趙雲殿の心がまだ貴方を求めているのが分かってしまったからです。
趙雲殿自身はその想いと、決して貴方を赦せない想いがせめぎ合って気持ちを持て余しているようですが……」
諸葛亮は大きく溜息をついて、再度視線を上げた。
「私が言いたかったことはそれだけです。
―――それでは私は趙雲殿を見舞って来ますよ」
驚いているのか、信じられずにいるのか、何とも反応できずにいる馬超をその場に残して、諸葛亮はさっさと趙雲の邸の中へ入って行った。






諸葛亮が部屋に入ると、趙雲は寝台に状態を起こしてそれを迎えた。
「このようにお見苦しい姿で申し訳ありません」
「何を仰っているのです。
私のことはお気になさらず、どうか横になって下さい」
「いえ…もう大丈夫です。
倒れるなど本当に武将にあるまじきとんだ失態を…」
心底申し訳なさそうに詫びる趙雲の側に腰を下ろして、諸葛亮は穏やかに微笑んだ。
「あまりに無理をなさるからです。
それ程までに馬超殿のことを想っていらっしゃるのですか?」
趙雲はムッとした様子で眉を顰めた。
「…どういう意味ですか?」
「馬超殿のことを忘れてしまいたい一心で、異常な程に執務に励んでいらしたのでしょう?
けれどいくら執務に打ち込んでもやはり馬超殿のことを忘れることが出来ずに、心と身体の調和が崩れてしまったのではないですか?」
「違います!」
趙雲は諸葛亮を睨みつけ、声を荒げた。
「あの男のことなど……私は…」

諸葛亮は静かに首を振った。
「もう―――お止めなさい、趙雲殿。
あの夜貴方は涙を流していたではないですか。
抱きしめた時も震えていたではありませんか。
貴方がいくら否定しようが、心は馬超殿を求めているのですよ」
諭すように言われても趙雲は何度も大きくかぶりを振り、それを拒む。

更に鋭い視線で趙雲は諸葛亮を射抜くが、諸葛亮にはまた彼が泣いているように見えた。
涙は流してはいなかったけれど。
それでも目に見えぬそれが、趙雲の頬を伝っているように思えてならなかった。
「違う!違う!」
叫んで、何を思ったのか趙雲は自らの帯に手を掛け、それを解く。
肩からするりと衣を落とし、上半身が露になると、趙雲は諸葛亮の手を取り、胸元に彼の手を導いた。

「抱いて下さい、軍師殿。
貴方の言葉が誤りであることを証明して差し上げます」
すると諸葛亮の目に何とも言えぬ悲しみの色が宿った。
そしてその瞳と同じように悲しみを湛え微笑む。
「私は―――貴方のことが好きなのですよ、趙雲殿。
ずっと昔から。
本当は告げるつもりなどありませんでしたが……」
「!!」
「あの夜はそれで貴方の傷が少しでも癒えるのならと思い、貴方の望むままにしようと思いました。
けれど今はもうはっきりと貴方も自覚している筈です。
馬超殿のことを求めて止まない自分の心を。
それなのにそれを否定するために、貴方は私に抱けと言う。
心は別の所にある抜け殻の貴方を、貴方を想い続ける私にそれでも抱けと仰いますか?
そうであるなら、酷く残酷です…貴方は」
動揺の為か、諸葛亮の手を掴む趙雲の力が弱まった。

ゆっくりと諸葛亮は趙雲の手を解き、己の手を解放させると、寝台に落ちた趙雲の衣を彼の肩に掛けてやる。
「軍師殿…私は―――
暫くの沈黙の後、口を開いた趙雲を、諸葛亮が静かに遮った。
「それは私に言うべき言葉ではありませんよ。
馬超殿に貴方のありのままの気持ちをお伝えなさい」
優しい口調で言って、諸葛亮は立ち上がる。
趙雲もまた顔を上げ、彼を見つめる。
そこにはもういつも通りの丞相諸葛亮がいた。

「知らぬこととはいえ、私もまた貴方を傷つけてしまったのですね…」
「お気になさらないで下さい、趙雲殿。
貴方に気持ちを告げて、私は何だか心がとても軽いのですよ。
私ももう胸に秘めておくことは止めます。
これからは自分の気持ちに正直に貴方を追いますよ―――決して諦めた訳ではありませんから」
笑いながらそう言い残し、諸葛亮は帰って行った。

自分の気持ちに正直に―――

その言葉を趙雲もまた胸の内で反芻していた。





何日かの静養の後、趙雲は出仕した。
趙雲の執務室の前に人影があった。
馬超だった。
別段驚きはしなかった。
彼がいなければ、自分から彼の元へ赴こうと思っていたくらいだった。

近付く趙雲を馬超はじっと見据えていた。
趙雲もまた以前のようにその脇を通り過ぎたりはしなかった。
馬超の前で立ち止まり、趙雲も馬超を見つめる。
「身体はもう良いのか?」
「ああ」
「そうか…良かった」
ほっと息を吐き、馬超は一度口を噤んだ。
そして―――

「子龍…いや……趙雲殿。
俺はやはり貴殿を諦めきれない。
元に戻ることが叶わぬことは分かっている。
だから―――もう一度最初から初めては貰えぬだろうか?
都合のいい話だとは思っている。
それでも…以前に戻るのではなく、いちから貴殿との関係を築きなおしていきたいのだ」
趙雲は表情を変えることもなく、馬超へと視線を注いだまま口を開いた。

「私は正直に言って、貴殿のことを今でも赦せぬし、信じられぬ。
それでも……貴殿のことが忘れられない気持ちがあるのもまた事実だ。
未だ私の中には相反する感情が渦を巻いている。
それを押し殺そうとしてまた別の人を傷付けてしまった。
だから正直に今の自分の心を受け入れようと思う。
この想いがどうなっていくのか、それは私自身にも分からぬ。
やはり貴殿を昔のように信頼することは出来ぬやもしれん…別の人間に心惹かれるかもしれん。
それでも貴殿は私を求めるか?」

馬超は逡巡することなく頷いた。
「無論だ。
それしきの覚悟なくして、貴殿を追おうとは思わん。
どこまでも追って、いつかこの腕に抱いてみせる」
馬超の決意に返された言葉はただ一言。
「そうか」
と。

嬉しいとも、止せとも―――それ以外の何も趙雲は口にしなかった。
けれど微かに趙雲が微笑むのを見たから―――今の馬超にはそれで充分だった。






written by y.tatibana 2003.12.27
 


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