100題 - No31
注:この小説は100題「裏切り」の続きです。

―――軍師殿と寝た……それだけだ。





そう平然と言ってのけた趙雲の顔を馬超は食い入るように見つめる。
趙雲は笑っていた。
とても可笑しそうに声を立てて。

けれど馬超には彼の心が壊れて悲鳴を上げているように思えて仕方がなかった。
「嘘だろう…?子龍」
押し殺したような低い声で問う馬超の、自分の腕を捕らえていた手を乱暴に振り払って趙雲はなおも笑い続けてた。
「嘘などついてどうする?
軍師殿と寝た―――抱かれたんだ。
優しかったぞ…軍師殿は」
その言葉に思わず頭にカッと血が昇った。
馬超は反射的に手を振り上げた。

ようやく笑いをおさめた趙雲が冷め切った目でそれを見返す。
―――貴殿にその資格がおありか?馬超殿」
びくりと馬超の身体が震えた。
振り上げた手をそのままにぐっと馬超は拳を握り込む。
そうしてそのままゆるゆると手を下ろし、答えもなくただ趙雲を見つめた。

そんな馬超を見て趙雲は再び嘲るような笑みを作った。
「貴殿には感謝しているぞ。
男と身体を合わせる行為がどういうものか、教えてくれたのは貴殿だからな。
女となら色々と面倒なことが起こるやもしれぬが、男とならそんな杞憂も必要ない。
後腐れなく、ただ欲を満たせるのだから……これ程便利なことはあるまいて。
そうであろう?馬超殿」
辛そうに顔を歪めて、ただただ頭を振る馬超を見据えて、趙雲は追い討ちを掛けるようになおも続ける。
「私がどこの誰と身体を重ねようが、貴殿には関係のないことだ。
私を虚仮にしにきたのではないというのなら、いつまでここにいるつもりだ?
早く想い人の元にでも帰ればよかろう。
迷惑だ」
冷たく言い捨てて、趙雲は馬超に背を向ける。
そのまま馬超を一顧だにすることもなく、趙雲は邸の中に入って行った。

固く閉ざされた扉が、まるで趙雲の心を表している様で―――馬超の胸を抉った。
趙雲にあのような言動を取らせたのは、自分が深く彼の心を傷付けたからだということは充分すぎるほどに、馬超には分かっていた。
そのような趙雲に自分のどんな言葉も届きはしないのだろう―――そう思うと何も言うことが出来なかった。

けれど趙雲が諸葛亮に抱かれた。
その事に激しい怒りと嫉妬が渦を巻いている。
未だ信じられないという思いもある。

そして―――馬超もまた傷付いている自分を自覚していた。
趙雲と諸葛亮のことを知って。
関係のないことだとはっきりと言い捨てられて。

勝手なものだ―――

馬超は自嘲する。
全ての元凶は己であるというのに。
きつく拳を握り締めていた手からは、いつの間にか血が流れ落ちていた。
だが馬超は全くそれに気付かず、閉じられた扉をじっと見つめていた―――





諸葛亮は膨大な量の書簡に目を通し、次々にそれを処理していく。
それでも為すべき事は日々減るどころか、増えていくばかりだ。

「丞相は働き過ぎです!
少しは休まれては如何ですか?」
それは問いかけではあったが、実際には姜維に強引に丞相府の一室から追い出された。
苦笑しつつも、姜維の言に従い少し休もうと、諸葛亮は城の中庭に出、大きく息を吸い込む。
陽の光を浴び、外の空気に触れると、頭も体もとてもすっきりとしてくるようだ。
やはり随分疲れているのだろう。
「働き過ぎ……ですか」
誰に言うでもなく、姜維の言葉を思い返して、独り呟く。

同時にもう一人……ひたすらに職務に打ち込む人物を諸葛亮は思い描いていた。
ずっと昔から―――諸葛亮と出逢った頃から彼は劉備の大儀の為にただ一心に働いてた。
曹操の大軍の中、ただ一人劉備の嫡子阿斗を救う為駆けて行き、長坂の英雄と称えられた彼。
常々諸葛亮はそんな彼の事が気に掛かっていた。

他人と必要以上に関わらず、そして自身の身体のことさえ省みない彼が、いつか身体を壊すのではないかと。
諸葛亮の目から見ても、それ程に彼の忠義には目を見張るものがあった。
そう時を置かずして陣営に加わったこともあったのだろう。
彼とは他の人間と比べて親しくはしていた。
それでもやはりある一線からは決して踏み込ませてはくれなかった。

そんな彼が変わったのは一人の男が蜀に降ってからだ。
彼の他人を寄せ付けない張り詰めた空気が薄れ、随分と柔らからな雰囲気を纏うようになった。
いつも城に夜更けまで残っていた彼が、日が暮れると共にその男と城を後にするのを何度か目にしたこともある。
ある時彼の襟元から僅かに覗く、その痕を見た時確信した。
二人の関係を。

その時感じた胸を焦がす感覚に、自分が彼に想いを抱いていたことにようやく気付かされた。
もちろんそのことを告げるつもりは微塵もなかった。
これまで通り、彼とは同じ旗のもとに集う者として過ごしていくだけだ。
実際にそうやって変わらぬ日々を送ってきた。

あの日までは―――

あの男の邸から、今まで見たこともない傷付いた表情の彼と出くわすまで。
彼は瞬時にそれを覆い隠してしまったけれど、諸葛亮は確かにその表情を見た。
あの男と何かあったのだろうと。
それも些細なことではなく、何かとても大きなことが。
すぐにそう察しがついた。

「よろしければ酒など如何ですか?」
立ち去ろうとした彼の背に、思わず諸葛亮はそう声を掛けていた。

すると彼は―――静かにけれどはっきりと頷いたのだった。





諸葛亮の邸に招かれた趙雲は、彼の私室で共に杯を傾けてた。
特に何か言葉を交わす訳でもない。
諸葛亮は何も尋ねてはこなかった。
昔からそうだった。
彼は言葉よりも相手の瞳や所作で心を読む。
だがそれをあえて口に出すことはない。
趙雲にはそれが心地よかった。

それでも荒れ狂う感情は趙雲を苛んだ。
もう何も考えたくはなかった。
千千に乱れる心を一刻も早く鎮めたかった。
全てを忘れてしまいたい。

趙雲は何度目かで空になった杯を卓上に置いた。
そのまま真っ直ぐに諸葛亮を見る。
諸葛亮の瞳はいつもと変わらず、そこにどんな感情を読み取ることも出来なかった。
ただ穏やかな湖面のようだ。
―――今宵はこちらに泊めて頂けますか?」
趙雲の問い掛けに、諸葛亮は僅かに目を細めた。
そしてこの部屋に入って初めて、諸葛亮が口を開いた。
「それは誘われているのだと……理解しても宜しいのですか?」
「ええ…軍師殿さえよろしければ」
趙雲はゆったりと微笑んで見せた。

だがその笑顔の下には、心に深く傷を負った趙雲がいることを諸葛亮は見抜いていた。
他の人間に縋らずにはいられない程に彼は傷を受けている。
―――彼がそれを望むなら……傷付いた心が少しでも癒されるのなら…例えそれが自分を贄とした一時だけの逃避だとしても趙雲を責める気にはならなかった。

諸葛亮はゆっくりと立ち上がる。
趙雲の傍らに立ち、そっと彼の頬に手を滑らす。
手を取り、趙雲を立ち上がらせると、寝台へと彼を導いた。
趙雲をそこへ横たえると、抑えていた彼への気持ちが溢れてくる。
その想いを込めて、諸葛亮は彼の首筋に唇を落としたのだった―――





強い視線を感じて、諸葛亮の思考は遮られた。
視線の主は諸葛亮を睨むように見据えたまま、ゆっくりと近付いてくる。
諸葛亮はそれを軽く受け流して、口元に笑みを刻んだ。
「おや…馬超殿。
そのような厳しい顔をして、如何されました?」
「真実なのか…?」
諸葛亮の目の前に立った馬超はただ短く低い声でそう問う。
それが何を指しているのか解らぬ程、諸葛亮は愚かではない。

「いいえ、違いますよ」
「!?」
その答えに目を見開く馬超を見て、だが諸葛亮はくっと喉の奥で笑った。
―――そう言えば貴方は満足ですか?」
「貴…様……」
ぎりっと奥歯をかみ締め、馬超は諸葛亮を睨みつけるが、諸葛亮の方は変わらず涼しげな表情だ。
「貴方とあの人との間に何があったのかは知りません。
ですが、あの人がとても傷付いているのが分かりました。
その傷を負わせたのは誰です?
他ならぬ貴方なのではありませんか?
私はあの人を少しでも癒したいとそう思いました。
だから―――私はあの人を抱きましたよ、馬超殿」

馬超の瞳が絶望の色に染まった。
だがこの男の絶望など、あれ程他人との接触を厭っていた彼が他人に縋るほどに負った趙雲の心の傷に比べれば如何ほどのものなのか―――諸葛亮はそう思わずにはいられなかった。





その時庭の脇の回廊を向こう側からこちらに歩いてくる趙雲の姿を諸葛亮は認めた。
趙雲もまた庭に対峙する二人の姿を認めると、ぎくりと足を止めた。
強張ったその表情はやはりすぐに覆い隠される。
馬超もその気配に気付き、振り返るが、もう趙雲は平然とこちらへ向かって回廊を歩き始めていた。
何か言いたげな馬超を気に留めるふうでもなく、諸葛亮に軽く会釈するとそのまま通り過ぎようとした。

「お待ち下さい、趙雲殿」
諸葛亮に呼び止められ、無視するわけにもいかず、趙雲は立ち止まった。
諸葛亮はそんな趙雲の傍に寄るや否や、彼の腕を引き、突然のことに態勢を崩した趙雲を抱き締めた。
「軍師殿!?」
「じっとして下さい、趙雲殿。
馬超殿が私と貴方のことをお尋ねになられたので、それを証明して差し上げようかと」
そう言うと、趙雲の体から力が抜けた。
そればかりか諸葛亮の背に腕を廻してくる。
それを目の当たりにして、馬超の眉根がきつく寄せられた。
そのまま踵を返し去っていく馬超の背を、諸葛亮は趙雲を抱き締めたままじっと何事かを考えるように見送っていた。





あの事があってからどのくらいの刻が流れただろうか。

―――もう終わった、過去のことだ。

趙雲はまたただ一心に職務に打ち込んだ。
以前の生活に戻るだけ……。
ただそれだけのことだ……と。

馬超とは同じ将である以上顔を合わせないという訳にはいかなかったが、趙雲も子供ではない。
それは職務だと割り切って、誰と変わることもなく接していた。
馬超の視線が自分を追っているのは感じていたが、もちろんそれに応えてやる義理まではない。

第一趙雲には理解できなかった。
自分に近付いたのが、女の為だと言うのならば、その目的が達せられたにも関わらず何故自分にあのような眼差しを投げかけてくるのかと。
謝罪でもしたいのだろうか。
それともまだ下らぬ言い訳を伝えたいのか。
そんなもの自分が求めているとでも思っているのだろうか。

愚かな…。

今日もまた趙雲の部屋からは遅くまで、灯の光が消えることはなかった―――





軍議の後、立ち上がると趙雲は軽い眩暈を感じた。
この所、ずっと満足に休息を取ってはいなかった。
身体が悲鳴を上げているようだった。

部屋を出ると、馬超がその前に立ち塞がった。
趙雲は眉を顰める。
「何か御用でもおありか?」
「もういい加減にしろ」
どうやら馬超は怒っているらしかった。
「何を突然…訳の分からぬことを。
いい加減にしろとはどういうつもりか?」
「お前……自分の顔色を見てみろ…真っ青だ。
体調が悪いのだろう?
無理し過ぎだ―――早く邸に戻って休め」

趙雲の身体を気遣うその言葉―――それは以前から何度も言われた台詞。
まだそれを言うのか……。
「何のつもりかは知らぬが―――余計なお世話だ」
素気無く言い捨てて、趙雲は馬超の脇を通り過ぎた。

だが―――
数歩進んだ所で、視界がぐにゃりと歪んだ。
それを趙雲が意識したときには、もう己の身体は傾いていた。
態勢を立て直すことも侭ならぬまま、意識が遠のいていく。
「子龍!!」
床に叩きつけられるかと思った身体は、誰かによって抱き留めれた。





意識を手放すその瞬間―――





趙雲は覚えのある暖かい温もりと、懐かしい匂いが、自分を包んだのを感じた―――





written by y.tatibana 2003.12.05
 


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