100題 - No30 |
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息を呑むほどに整った容貌。 だがひとたび戦場に立てば、その顔に似つかぬ鬼神の如き働きを見せる比類なき武の持ち主。 周りからの信任も厚い。 けれど…必要以上に他人と関わろうとはしない―――それが伝え聞いた長坂の英雄と呼ばれる男の人となりであった。 初冬の身を切るような朝の空気。 もう陽が上ってから数刻は経つが、気温が上がる気配は一向にない。 寝台に寝そべっていた馬超は、床に落ちかけていた掛布をそっと胸元まで引き寄せる。 腕の中で眠りについている趙雲が寒くはないようにと。 だが馬超の肌が余程暖かく心地よいのだろうか。 趙雲は規則正しい息を繰り返して、寒さを感じている風でもなくぐっすりと寝入っている。 馬超は空いた手で、趙雲の癖のない艶やかな黒髪を梳く。 しばらくそれを繰り返していると、微かに趙雲が身じろいで、ゆっくりとその瞳が開かれた。 二、三度目を瞬いた後、顔を上げると、優しくその様子を見つめる馬超と眼差しがぶつかった。 すると趙雲は慌てて視線を逸らす。 何度身体を重ねても、どうやら趙雲にとって共に迎える朝のこの瞬間がどうにも気恥ずかしいらしい。 昨夜の行為に比べれば、如何ほどのものかと馬超は思うのだが、それが何とも趙雲らしい。 「すまぬ…起こしてしまったな……」 そんな趙雲の態度が愛しく、彼に気取られぬよう馬超は小さく笑いを漏らす。 「い……いや…」 俯いたまま趙雲は首を振るが、はたと何事かに気付いて、慌てて身を起こした。 途端に身体の奥に感じる鈍い痛みに趙雲は思わず息を詰める。 「無理はするな、子龍」 気遣うように掛けられた声に、趙雲はムッと眉を潜めた。 「何を暢気な事を行っている!? 今日は朝から軍議があるのを忘れた訳ではあるまい。 何故先に目が覚めていたのなら早く私を起こさぬのだ、孟起!?」 「お前があまりにも気持ち良さそうに眠っていたから、起こすに忍びなくてな。 余程疲れているのかと気を使ったんだ」 悪びれもせずしれっと答える馬超を趙雲は睨み付けた。 「……一体誰のせいだと思っている…?」 不機嫌そうな趙雲の言葉に馬超は可笑しそうに笑う。 「―――俺のせいだろうな。 昨夜は随分と無理をさせたから。 だから―――」 言いざま、身を起こした趙雲の腕を取り、再度胸に抱きこんだ。 ふわりとした温もりが趙雲を包み込む。 「責任を取ってこのままこうしているから、お前はもう少し眠るといい」 「なっ…馬鹿を言うな! 早く軍議に行かねば……」 起き上がろうとする趙雲を逃がさぬよう、馬超はその腕に力を込めた。 「どうせ今から行っても間に合わぬさ。 偶には何もかも忘れてゆっくり休め。 お前は少し働き過ぎだ。 自分の体を省みないのは、お前の悪い癖だと何度も言っただろう?」 どうあっても馬超は自分の体を離す気はないのだろう…と趙雲は諦めたように溜息を吐く。 確かに馬超に出会うまでの趙雲はただがむしゃらに進んできた。 命を賭すに値する主に出会い、その大義の為―――ひいてはこの乱世に生きる民が笑って暮らせるよう―――その想いだけが趙雲を突き動かしていた。 自分のことなど考えたことも、そんな余裕もなかった。 それを諌め、己のことをもっと大事にしろと―――とても真摯な瞳をして、そう叱り付けるように言ったのが馬超だった。 最初はおかしな男だと思った。 それ以後も気が付けば自分の傍には馬超がいて、何かれとなく世話を焼いてくる。 深く人と関わることは昔から苦痛だった。 だからずっと他人と必要以上の接触をもつことは極力避けてきた。 蜀に降って間もない馬超はまだそんな自分のことを知らぬのだろうと、冷たくあしらっていた。 そうすれば嫌でも自分がどういう人間だか理解するだろうと。 しかし予想に反して、一向に馬超は趙雲に関わることを止めようはしない。 「何故、貴殿はそうも私に構うのだ?」 ある日趙雲はそう聞いたことがあった。 すると馬超はさも意外そうな表情をした後、苦笑した。 「―――お前のことが好きだからに決まっているだろう。 誰が何とも思っていない人間に、これ程までに執心するというのだ? 俺も一軍を預かる将だ…そこまで暇ではないぞ。 ―――当然気付いているものと思っていたが……相当鈍いな、お前は」 何を言われているのか分からず、趙雲は眉根を寄せるが、馬超の言葉を反芻し、ようやくその意味を理解した。 鈍いと言われたのは腹立たしかったが、自分のことを好きだと言われた驚きのほうが勝った。 今まで色恋とは無縁だった。 縁組の話もあったし、想いを寄せられたことも幾度もあった。 けれどそのどれひとつとして心が動かされることはなかった。 それなのに今、馬超の想いを聞き、驚きが去った後胸の中に残っていたのは確かに嬉しさだった。 いつの間にか馬超という男の存在は、自分の心を随分と侵食していたようだ―――。 「本気…か?」 尋ねる趙雲に、馬超は穏やかな笑みを浮かべつつ頷く。 「無論だ。 伊達や酔狂で、この俺が男になど想いを告げるものか」 それを証明するかのように馬超は趙雲を引き寄せ、抱き締めた。 趙雲が拒絶しないのを認め、ゆっくりと口付けを落としてきた。 ―――それが二人のはじまりだった。 そうしてこうやって共に朝を迎えることが当たり前になった。 趙雲は再び目を閉じる。 すぐに襲いくる眠気に意識が吸い込まれていく。 やはり日頃の疲れが随分と溜まっていたのだろう。 気付かぬうちに蓄積している趙雲の疲労を、誰よりも早く感じ取ってくれるのは馬超だった。 趙雲は安心しきった様子で、馬超に身を預け、また眠りに落ちていった。 結局趙雲が馬超の邸を後にしたのは、もう昼も随分過ぎた頃であった―――。 馬超の私邸からの帰路、趙雲が引き返したのは偶然だった。 昨日城からそのまま馬超の邸を訪れた為、諸葛亮から借りた書物をうっかり置き忘れてまま出てきてしまったのだ。 馬超の寝所の扉の前で「入るぞ」と声を掛けようとした趙雲の耳に声が届いてきた。 それは聞きなれぬ女の声だった。 クスクスと楽しそうな女の笑い声。 「まさか本当にあの趙雲様を落としてしまうなんて……信じられませんわ。 決して誰にも靡かないと有名な方でしたのに―――。 先程こちらから出て行く趙雲様をお見掛けしました。 あの方とは思えぬ程とても穏やかな表情をしてらして……驚きました。 けれど―――お可哀想に……。 貴方はただわたくしを手に入れるためだけにあの方に近づいたというのに―――」 「!!」 趙雲は女の言葉に目を見開いた。 聞きたくないと思うのに、呪縛に掛かったようにその場から動けなかった。 対する馬超の声は聞こえてはこない。 「あの趙雲様をものに出来たら、わたくしは貴方のものになって差し上げると約束しましたわね、馬超様。 そのようなこと絶対に出来ぬと思い、申し上げましたのに……。 流石は錦馬超様―――わたくしも約束を決して違えたりはしませんわ」 続く衣擦れの音と、女の吐息。 趙雲は扉を見つめたまま、まだ動けずにいた。 「誰だ!?」 外の気配を感じ取ったのだろう、馬超の鋭い声と共に扉が開かれた。 そこに趙雲の姿を見つけた馬超の表情が見る見る間に驚きに凍り付いていく。 趙雲はといえば逆にもうそこにどんな感情も浮かんではいなかった。 だがまっすぐに馬超を見据える瞳は、明らかに怒りと悲しみが渦を巻いていた。 「子…龍……」 途切れ途切れに名を呼ばれた時、ようやく趙雲の体の呪縛が解けた。 次の瞬間。 力の限りに馬超を殴りつける。 その勢いで馬超の体は部屋の床へと叩きつけられた。 小さく上がる女の悲鳴。 薄衣一枚だけの姿で、立ち尽くしている女の顔に趙雲は見覚えがあった。 確か城に出入りしている豪商の娘だ。 美しいと評判の女で、言い寄る男が後を絶たないのだと耳にしたことがある。 だが彼女はそんな男達に無理難題を押し付けては、彼らを手玉にとっているのだとも。 ―――そうか……そういうことか。 私としたことがとんだ茶番に付き合わされていたものだ。 ゆっくりと床の上に身を起こす馬超を趙雲は侮蔑の眼差しでもって見下ろした。 「愚かしくもお前を信じきっていた私の姿はさぞ見物だったことだろうな。 愉しかったか…?私のそんな姿を見て。 馬鹿な奴だと嘲笑っていたのだろう……?」 「違う!!」 馬超は頭を振って立ち上がる。 趙雲に殴られた拍子に切ったらしく、馬超は唇の端から血を流していた。 だが今の馬超にはそれに気付く余裕もなかった。 「子龍…俺は…」 「煩い!黙れ!!」 趙雲は馬超の言葉を遮り、氷のような冷たい視線で馬超を射抜く。 「もう戯言はたくさんだ―――。 ―――邪魔をしたな…」 吐き捨てるように告げると、趙雲はもう二度と足を止めることもないままに馬超の私邸を後にした。 「趙雲殿…?」 なんという間の悪さか。 馬超の邸を出てすぐに趙雲は諸葛亮と出くわした。 様々な感情が渦を巻いていて、趙雲の心の中は滅茶苦茶の状態だった。 けれど趙雲はそれを瞬時に覆い隠す。 自分の感情を偽り、押し殺すことは昔から得意だった。 それを窘めたのも馬超だった。 自分の気持ちに素直になれと……感情を押し殺すことは美徳でも何でもないからと―――そう言って。 そんな馬超を信じた結末がこのザマだ。 己の甘さと浅はかさに吐き気がする。 「趙雲殿……今日はどうかなされたのですか? 朝の軍議で姿をお見掛けしませんでしたので……」 問われて趙雲はごく自然に微笑んで見せる。 「申し訳ありません…軍師殿。 今朝は少し身体の具合が優れなかったものですから」 「そうですか…それで体調の方は?」 「ご心配痛み入ります。 ご覧の通りもうすっかり回復致しました故、明日からの執務には何ら問題はありませぬ」 「それは良かった」 それ以上諸葛亮は今朝のことには触れなかった。 しかし洞察力に優れた彼のことだ。 自分と馬超の関係を知っているのではないか?……趙雲は常々そう思っていた。 現に今も馬超の邸から趙雲が険しい表情で出てきたことに関して何も聞こうとはしない。 じっと趙雲を見つめてくる諸葛亮の探るような視線は、本当に何もかも見透かされているような気持ちにさせる。 今しがたの馬超の出来事も全て―――。 「それでは私はこれで。 失礼します」 それから逃れるように、けれども表面上は平静を装って、趙雲は立ち去ろうとする。 その背に諸葛亮は静かに声を投げかけた。 「宜しければ、酒などご一緒に如何ですか?」 と。 一刻も早くこの場を去り一人になりたいと思っていたのに、その諸葛亮の誘いに頷いたのは何故なのか―――。 本当は―――。 誰かに縋らずにはいられなかったのかもしれない。 一人でいると荒れ狂う感情に自分を呑み込まれてしまいそうで。 その時ようやく…… 自分が酷く傷付いているのだと…… 趙雲は悟った―――。 門柱に腕を組んで寄りかかっている男の姿を認め、趙雲は一瞬足を止めた。 だがまたすぐに歩き出す。 男は―――馬超はじっと趙雲が近づいて来るのを見遣っていたが、趙雲は無表情だ。 まるでそこに何者も存在していないかのように、馬超の脇をすっと通り過ぎ、自邸に入ろうとする。 だがその腕を馬超が捕らえた。 その瞬間、趙雲はそれを強い力で振り払い、キッと馬超を睨み付けた。 やはり馬超を睨める著雲の漆黒の瞳は、冴え冴えとした冷たさを宿していた。 「気安く私に触るな……」 低く冷たい声音。 「子龍…俺は……」 「貴殿に字で呼ばれるような謂れはないぞ、馬超殿。 それにもうたくさんだと言った筈だ。 つまらぬ言い訳など聞きたくもない。 全て終わったことだ。 ―――それともまだ私の事を嘲い足りないのか? 一体どこまで私を愚弄すれば気が済むのだ?」 「そうではない! 聞いてくれ、子龍…」 「―――お引取り願おう」 素気無く言い捨てて、背を向けようとした趙雲の腕を再度馬超は捕らえ、引き寄せる。 「触るなと言っただろう!」 振りほどこうとするその腕を、更なる力を込めて今度は離しはしなかった。 だが、その視線がある一点を捉えた時、馬超は言葉を発することも忘れ、そこから目を離せなくなった。 趙雲の首筋―――。 そこにくっきりと刻み付けられた真新しい鬱血の痕。 馬超の視線の先に何があるのかを、ややして気付いた趙雲は嘲るように笑った。 「別段珍しいものでもあるまいて」 「子龍……お前…」 搾り出すようにようやく言葉を紡ぐ馬超をよそに、趙雲は全く何でもないという様子で口を開いた。 「軍師殿と寝た―――それだけだ」 心底可笑しそうに声を立てて笑う趙雲のその笑顔が、 馬超には酷く歪んで……壊れて見えた―――。 written by y.tatibana 2003.11.22 |
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