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夜―――。 扉を叩く音はなくなり、静寂に支配された室内。 馬超はその暗闇、目を閉じ佇んでいた。 馬超のことを好きだと告げた趙雲に初めは驚きを通り越して呆れた。 一族を虐殺された馬超に対する憐憫の情がそんな馬鹿げたことを言わせているのだと思っていた。 そんなものはまっぴら御免だった。 だが、趙雲はそれを頑なに否定し、馬超への想いを信じて欲しいと言い募った。 それならばと―――ある時趙雲を抱いた。 それはただ己の欲だけを満たし、趙雲の身体と心を踏みにじるだけの行為。 それでも馬超への想いは偽りではないと、屋敷を訪ねてくる趙雲に幾度となくその行為を繰り返した。 けれど変わらぬ力強いまっすぐな瞳に、いつの頃からか馬超にはそれが趙雲の心からの想いだと理解した。 だがそれに気付かぬふりをして関係を続けてきた。 誰も必要ないという気持ちは、またその誰かを失うことが怖いことの裏返しだった。 過去に囚われたまま、未来へと未だ踏み出せない。 それでも人とのよすがを欲し、趙雲を突き放せずにいた。 しかしそんな己の利己で縛り付けるような人間ではない―――趙子龍という男は。 彼の前へ向く強さに、ようやくそれをはっきりと自覚させられた。 だから……、 「もう来ないでくれ」 そう告げた。 胸が酷く痛んだ―――そしてそれは今なお疼き続けていた。 あれから趙雲とはまともに顔を合していない。 馬超の方が意識して趙雲を避けていた。 近く行われる魏への侵攻についての軍議の折に、一度見かけただけだ。 軍議の後、馬超は早々に退出した。 言葉を交わすこともなかった。 趙雲との関係を断ち切ったのは自分だ。 あれで良かった……ああすべきだったのだ―――そう言い聞かせても心が波立つ。 扉を叩く音を期待してる自分がそこにはいた。 「今更……だな」 自嘲し呟いた言葉は、静謐な夜の空気に呑み込まれていった。 そうしてまた一人、過去に取り残される―――。 戦場に立ち、馬超は槍を握る手に力を込める。 魏との戦。 馬に跨ると自然と力が漲ってくる。 やはり武人なのだ……自分は。 改めてそう思う。 この張り詰めた空気が気持ちを昂ぶらせる。 そして―――余計なことは何も考えられなくしてくれる。 ずっと頭を離れない彼のことも……。 攻撃の合図。 同時に馬超は馬腹を蹴り、駆け出した。 そうしてあとはただ無心に槍をふるった。 次々と倒れ伏す敵兵。 一瞬視界が開けた。 その先に馬超は一人の男を見た。 周囲の全てを圧倒するかのような凄まじい威圧感。 それはまさしく馬超の仇―――曹操であった。 馬超は軋むほどに奥歯をかみ締め、きつい眼差しを前方へと向けた。 ようやくまみえることが出来た。 この男を倒すためだけに馬超は蜀に降ったのだ。 「その首……もらい受けるぞ、曹操!!」 叫んだ馬超の前に立ちふさがる多くの兵と、そして現れた隻眼の男。 「孟徳の元へ行かす訳にはいかん」 「どけっ!」 馬超の槍を隻眼の男は、弾き返し剣を向けた。 不敵な笑みを浮かべ、馬超を一瞥した曹操は馬首を返し、ゆるりと後方へ馬を進め始めた。 徐々に遠くなっていくその後姿。 馬超はその後を追おうとするが、敵に阻まれ、進むことができない。 ―――ここまできて俺は……奴に傷一つつけることさえも叶わぬのか……。 悔しさに馬超は拳に力を込める。 隻眼の男と対峙しつつ、周りを囲む兵を薙ぎ倒していくが、敵兵は減るどころか次々と数を増すばかりだ。 さしもの馬超も息が上がり、疲労の色は隠せなかった。 「将軍…、どうか今はお退き下さい! このままでは……」 いつの間にか残り少なくなった自軍の兵にそう進言されても、馬超はどうしても曹操の首を諦め切れなかった。 馬超を過去に捕らえる要因を作ったその男の命を。 「馬超殿!」 と―――後方から掛かる声。 それはあの日以来、久方ぶりに耳にする声だった。 反射的に馬超は振り返った。 駆けてくるのはやはり―――趙雲であった。 「ここは私が引き受けます。 貴方は曹操を……」 「どうして……?」 呆然とした短い問い掛けに、趙雲は優しく微笑んだ。 「貴方の配下が知らせてくれたのですよ。 ……今はゆっくりと話をしている時間はありません! 曹操を追って下さい」 「だが…」 言い募ろうとした馬超の言葉を、趙雲は強く頭を振り遮る。 「曹操を討つ為、貴方は蜀に参られたのでしょう? このような好機…二度とは巡ってこないかもしれない。 ―――貴方を捕らえて離さない過去の楔を断ち切るのです、馬超殿! そして、どうか未来を見据えてください。 それが貴方を想う人たちの願いであり―――何より私が願ってやまないことです。 ―――さぁ、早く!!」 趙雲の言うように曹操を討てば、確かに過去からは解放されるかもしれない。 けれどこれだけの敵の中、趙雲を残して行けば、いくら趙雲といえどもおそらく―――。 一瞬目を閉じ、直ぐに開ける。 それは僅かな逡巡だった。 馬超は―――その場を動かなかった。 今度は趙雲が驚く番だった。 目を瞠る趙雲をよそに、頃合を計り、馬超は退却の指示を出したのだった―――。 陣幕で鎧を外し、軽装に着替えた頃、馬超の元に趙雲が訪ねて来た。 きっと彼がやって来ると踏んで、人払いはしてあった。 曹操は取り逃がした……けれど馬超の心は晴れ渡っていた。 それはようやく押し込めていた本心を受け入れることができたから。 「先程はご助力感謝致す…趙雲殿」 穏やかに礼を述べる馬超に、趙雲は戸惑ったようにゆるゆると首を振る。 「どうしてですか?馬超殿。 曹操を討てるかもしれぬ―――あのような好機を……」 馬超は微笑んだ。 一族を失って以来、初めて自然に出た心からの優しい笑みだった。 「貴殿が駆けつけてくれたあの時……色々考えることは止めた。 自分の気持ちに素直になろうと決めた。 そうすれば答えは容易く出た。 ―――貴殿を失うことに比べれば、曹操の討つことなど大したことではない…そう思った。 曹操とまみえる機会はまたあるやもしれぬ。 だが、貴殿の命はもう二度と取り戻せはしない。 ―――貴殿に生きていて欲しい……決して失いたくない―――それが俺の本心だ」 趙雲は馬超の言葉の意味が理解出来ずにいるのか、無言で馬超を見つめている。 「今さらだとは分かっている。 随分と貴殿を傷つけてしまった。 それでも言わせて欲しい……。 好きだ―――趙雲殿」 想いを告げる馬超の口調には迷いは感じられなかった。 いつも彼の瞳に宿っていたあの昏い光も最早そこにはない。 「馬超殿…」 ようやく趙雲の口をついて出てきたのはその名のみ。 それが趙雲の驚きを如実に表していた。 そんな趙雲の手を取り、馬超は己の両手で包み込む。 「過去を忘れ去ることは出来ない。 それでも歩き出したいと……未来を見つめていきたいと今は心の底からそう思う。 俺に前に進む力を与えてくれたのは貴殿だ。 そしてできるなら貴殿と共に歩んでいきたい―――未来を」 趙雲は信じられない様子で馬超を凝視していたが、徐々にその表情が和らいで、そして、 「―――はい」 短かったが、それが嬉しさと喜びの込められた趙雲の答えだった。 「抱き締めても良いか?」 馬超の問い掛けに、趙雲はまた先程と同じ答えを繰り返す。 けれど、趙雲の身体を引き寄せ抱き締めると、趙雲の身体がやや強張ったのを感じた。 それは意識してのことではないのだろう。 当然のことだ―――馬超が趙雲にしてきたことを思えば。 趙雲の身体の強張りが解けるまで、馬超はただ優しく趙雲の髪を梳いていた。 やがて趙雲もまたゆっくりと馬超の背に腕を廻してきた。 それを感じて馬超は趙雲に囁きかけた。 「抱かせてくれ―――趙雲殿」 腕の中の身体がやはり微かに震えた。 それでも趙雲が頷く気配がして、馬超は趙雲の首筋に口付けを落す。 そして額に…瞼に……唇に―――何度も愛しさを込めて口付けを繰り返した。 趙雲の身体の震えが収まってきたのを見計らって、馬超は陣幕の中にあつらえられた簡素な寝台へと趙雲を横たえた。 いつもの様にまっすぐに見つめてくる眼差しをしっかりと受け止めて、馬超は趙雲の頬に手を滑らせる。 「―――もう決して、傷つけたりはせぬ。 貴殿を感じたいのだ……趙雲殿」 「私にも貴方を感じさせて下さい」 互いに目を閉じ、そのまま引き寄せられるように深く唇を重ねた。 後はただ、今まで擦れ違った時を埋めるように……そして互いの存在を確かめるように、熱を分け合った―――。 目が覚めると、腕の中には心地良い温もりがあった。 以前は苦しそうな息を漏らして、痛む身体を引き摺るように馬超の部屋を後にしていた趙雲が、今は安らかな寝息を立てて、腕の中にいる。 あの虚しさに取って代わる充足感に、馬超は思わず口元を綻ばせた。 趙雲を起こさぬよう気遣いながら、そっと腕に力を込め、趙雲の額に口付けた。 陣幕の隙間から朝の光が射しこんで来ていて、馬超は目を細める。 ―――昨日が終わり、新たな日の始まり。 それはまた馬超がようやく未来に向けて歩き始めた時でもあった―――。 written by y.tatibana 2003.11.08 |
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