100題 - No25

思い出
―――いよいよだ。

朝の光の中、趙雲は寝台に腰掛け、目を閉じる。
そうすれば甦る過去の出来事。
今なお趙雲の心に沈み、毒を放つ忌まわしいその思い出。
だが普段それを思い出すことは少なくなった。
―――彼のお蔭で。

馬孟起という男と出逢い、惹かれ合った。
彼の力強さと気高さ。
そして一族を失っても決して輝きを失わぬ彼の瞳が趙雲は好きだった。
馬超と出逢ってからの日々はこの乱世にあってとても穏やかで、趙雲の心は満たされていた。
だからこそ……思い出されるその日が近付くにつれ、趙雲の不安は大きくなっていく。

馬超にそれを言うつもりはなかった。
例え話したとしても、一笑に付されるような気がしていた。
自身でさえ馬鹿げていると思っているのだから。

「どうした?」
声と共に後ろから伸ばされた腕が腰に廻され、趙雲の思考は遮られた。
趙雲は何でもないというふうに静かに首を振る。
振り向くとまっすぐにこちらを見つめている、色素の薄い双眸とぶつかった。
趙雲は寝そべったままの馬超に軽く口付けると、腰に廻された腕をぴしゃりと叩く。
「さぁ、そろそろ出仕せねばならん。
お前もいつまでもそうしてないで、さっさと用意をしろ」
―――ずっと夜が続けば良いのに。
そうすればお前を離すことなくこの腕に抱いていられる……」
しぶしぶ腕を離した馬超の呟きに、趙雲は呆れたように溜息をつく。
「何を馬鹿なことを言っている……。
―――だいたいそんなことになりでもしたら、私の身がもたん」
見も蓋もない趙雲の物言いに、馬超は思わず苦笑する。
「“私もずっと孟起の傍にいたい”とかそういうことが言えぬのか、お前は。
まぁそれがお前らしいがな。
仕方がない……今宵まで我慢するか」
「今日は駄目だ」
身支度を整えていた趙雲が間髪入れず言う。
馬超は眉根を寄せる。
「何故?」
「…予定がある」
「予定って……?」
もうすっかり支度を終えた趙雲は馬超をきつく睨みつけた。
「私には私の都合というものがある。
その全てをお前に言わねばならぬ謂れはない」
そのまま趙雲は馬超の答えを待つこともなく、部屋を後にした。

閉じた扉に背を凭せ掛け、趙雲は手を握り締め、固く目を閉じていた。
やがて大きく頭を振り、歩き出した。
過去の記憶を消し去るように―――





その夜―――
趙雲は窓から空を仰ぎ見ていた。
だが厚い雲が空を覆っており、月も星も見えない。
今にも雨が降り出しそうだ。
それもまたあの過去の日と酷似している。
きっと偶然だと…自分に言い聞かせ趙雲は背を向けた。
「!!」
いつの間に入ってきたのか、馬超がそこに立っていた。
―――今日は予定があると言ったこと……忘れたのか?
帰れ」
趙雲の声は低く、その瞳は険を帯びている。
射抜くような鋭い視線を受けてもしかし、馬超は怯みはしなかった。
「…誰と会うつもりだ?」
「何?」
「俺以外の誰かと会うつもりなのだろう?
だから俺とは会えぬと……」
馬超の瞳に昏い光が宿る。
そんな馬超を趙雲は今まで見たことはなかった。
ゆっくりと趙雲に近付き、そしてその両腕を捕らえる。
「…諸葛亮か?それとも……姜維か?」
「違う!そんなことではない!」
趙雲は頑なに首を振り、馬超の手を振り解こうする。
だが馬超は更に力を込め、趙雲の骨が軋むほどに締め上げる。
趙雲が苦悶の表情を浮かべても、馬超はその力を緩めはしなかった。
「…一体誰に抱かれるつもりだ?」
耳元で囁かれた言葉に、カッと趙雲の頬に朱が射す。
それは怒り。
理不尽な言い掛かりを付けられた挙句の暴言。
「離せ!!
お前は……私が誰にでも身体を許すような、そんな人間だと思っているのか!?
ふざけるな!」

だがこの時の馬超は激しい嫉妬に支配されていた。
この所何事かを考え込むことが多くなった趙雲。
もしかして自分以外の誰かに心惹かれているのではないかという疑念が生まれた。
打ち消しても打ち消しても、一度芽生えたそれは消え去ることはなく燻り続けてた。
そして今日。
理由も告げず、会えぬと言われ、それは確信に変わった。

そんな馬超にはどんな言葉も通じなかった。
馬超はそのまま趙雲を傍らの寝台へと組み敷いた。
体重を掛けて趙雲の体を押さえ込み、捕らえていた彼の腕を漸く離すと、その衣に手を掛けた。
強引に衣を剥ぎ取っていく馬超を、趙雲は何とか押しのけようとする。
「嫌だ……やめろ!」
「どうしてそれ程に俺を拒む?
やはり……誰か別の人間と―――
趙雲が殴りつけようとした手はすんでの所で取られ、馬超は趙雲の首筋に口付けを落としていく。
その痕を刻み付けるように強く―――
趙雲が逃れようと身を捩っても、がっちりと馬超に押さえ込まれていて叶わない。
「嫌だ…嫌だ……」
うわ言のように趙雲は繰り返す。
体格差で勝る馬超にこうやって押さえ込まれてしまえば、逃れることなど出来はしないのに、それでも趙雲は必死でそこから抜け出そうとしている。

これまでも趙雲が疲れている時など拒まれたことはあったが、馬超が抱き締め口付けると、結局は困ったような笑みを浮かべながらも趙雲は受け入れてくれていた。
けれど今は本気で趙雲は馬超を拒んでいるようだった。
それがまた馬超の嫉妬にさらなる火をつける。
止まらなかった。
そのまま強引に馬超は趙雲を抱いた。
どれだけ優しく愛撫を施しても最後まで趙雲の口からは拒絶以外の言葉は紡がれず、馬超から逃れようとしていた。
いつも感じる充足感は欠片もなく、ただ虚しさと疲労だけが馬超の心に圧し掛かっていた―――





重苦しい夜が明け、雨の音が馬超を眠りの底から掬い上げる。
体には趙雲の衣が掛けられており、身を起こしそれが体から滑り落ちると、思わず身震いするような寒さが肌をさす。
随分と冷え込んでいるようだ。
ようやく馬超は冷静さを取り戻していた。
昨夜は嫉妬にかられて随分と趙雲に酷いことをした。
あれ程拒んでいたというのに……。
言い分を聞く余裕すらあの時の自分にはなかった。

傍らには趙雲の姿はない。
馬超は急いで部屋を出た。
趙雲の姿を捜し求めて―――

求める人物は直ぐに見つかった。
趙雲は庭先に立ち、雨の中を空を見上げて佇んでいる。
硬く目を閉ざしたその姿は一心に祈りを捧げているかのように馬超には思えた。
ともすれば雨音に消されそうな、趙雲の微かな呟きが馬超の耳には届く。
「どうか……連れて逝かないで―――
―――私から彼を奪わないでくれ……。
どうしても連れて逝くというのなら……私を……」
常ならざる弱々しさ。
今にも雨に溶けて消えてしまいそうだ。
「子龍!」
馬超は思わず駆け寄り、強く抱き締めた。
決して消えてなどしまわないように。
「…孟起」
戸惑ったような趙雲の声。
だが昨夜のように触れても抵抗するようなことはなかった。
「一体どうしたというのだ!?
昨日から…いやここ数日ずっと……」
「……」
趙雲は無言だった。
だが今度こそ馬超は趙雲の言葉をきちんと聞くつもりだった。
無理強いをする気はない。
趙雲が話してくれるまでこうしてじっと黙って待とうと。
そんな馬超の決意が通じたのだろうか。
趙雲はしばらく逡巡した後、諦めたように口を開いた。
「……きっとお前は馬鹿なことだと笑うだろう。
私自身ですらそう思うのだから―――
それでもやはり偶然とは片付けられぬのだ……あの悲しい思い出は」





まだ趙雲が生まれた村にいた頃。
趙雲は一人の娘と心を通わせた。
明るく気立ての良い、村でも評判の娘だった。
重く厚い雲が空にたちこめていたその夜、初めて体を重ねた。
きっと近々彼女を妻に迎え、子を為し、裕福でなくても幸福な日々を送っていくのだろう―――そう満たされる心の内で趙雲は漠然と考えていた。
だが……それは直ぐに打ち砕かれることとなった。
次の日、山賊に村は襲われ……多くの人間が命を落とした。
趙雲と心身共に通わせたその娘もまた……。
降りしきる雨の中、見つけた彼女の姿は酷い有様だった。
若い娘であったが故に―――
守りきれなかった自分を趙雲は呪った。
強くなりたい……その想いが趙雲に槍を持たせた。
武人として一生を生きていこうとそう決めた。



そして時は流れ、巡り会ったその男。
彼は自信に満ち溢れ、群雄割拠の中にあって、乱世を必ず平定してみせると豪語していた。
趙雲は彼に惹かれた。
彼もまた趙雲に一際目を掛けていた。
いつの間にか閨を共にするようになっていた。
袁紹との戦を前にした夜、趙雲は彼の陣幕に呼ばれた。
空は雲に覆われて、何も見えない……そんな夜。
それは趙雲に過去を思い起こさせる。
そうだ、ちょうど今日ではなかったか…彼女と初めて体を重ねたのは―――
嫌な予感が趙雲を襲う。
自分の考えが馬鹿馬鹿しくて、趙雲は小さく笑った。
どうしたのだと尋ねてくる彼にそれを話せば、彼もまた笑った。
そのままいつものように彼に抱かれた。
だが……彼もまた翌日の戦で逝ってしまった。
首は敵に獲られ、血溜りの中倒れたその身体を趙雲は抱き締めた。
豪雨がその血も洗い流してしまったけれど、趙雲の心の傷は決して流してはくれなかった。
もう―――誰かを愛することは止めよう……趙雲は思わずにはいられなかった。



そうしてずっと周囲の心配をよそに妻を娶ることも、誰かと深い関係になることもなく過ごしてきた。
けれど彼と出逢ってしまった。
今自分を抱き締めているこの男に。
自分の心にいくら歯止めを掛けようにも、どうしようもなく惹かれる心は止められなかった。
もう今度こそは失いたくはなかった。
その日が近付いてくるにつれ、趙雲は湧き上がってくる不安を抑えきれなくなっていった。
彼女も彼も―――同じ雨の日に逝った。
どちらともその前夜、身体を重ねた。
昨日は……彼らが逝ったその前日。
だから昨夜はどうしても馬超に抱かれたくはなかった。
夜が明ければ今までと同じように彼もまた逝ってしまう…そんな気がして。
けれども結局は身体を重ねる結果になった。
そして朝目が覚めてみれば、やはり外は雨―――
何もかもが同じだった。
祈らずにはいられなかった。
天に…そして逝ってしまった彼らに―――





「笑ってくれていい…孟起。
そんなものはくだらぬ偶然だと……馬鹿馬鹿しいと」
趙雲は馬超の腕の中で泣き笑いのような表情を見せる。
―――俺は笑わん。
お前の辛い思い出を話させておいて、どうしてそれを笑える?
―――昨日は悪かった…」
馬超は趙雲の雨でしっとりと濡れた髪を愛しげに撫でる。
「偶然ではないのかもしれない。
そういう巡り合わせがあるのやもしれぬ……。
だがな、子龍。
俺はどんな運命にも負けはしない。
天も他の誰も、俺の命を奪うことはできはしない」
趙雲は顔を上げる。
ぶつかった馬超の瞳はいつもに増して強い輝きを放っていた。
雨の中でもしっかりと見て取れる程に。
馬超ならばきっと彼の言うようにどんな過酷な運命であってもそれを跳ね除ける力があると思える。
「俺を信じろ、子龍。
俺は決して倒れたりはせぬ」
趙雲は頷いて、馬超の背に腕を廻した。
「俺の命を奪えるものがるとすれば……それは一つ」
馬超は趙雲の耳元にそっと囁きかける。



「子龍―――お前だけだ」






written by y.tatibana 2003.10.11
 


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