100題 - No18

旧友
陰口を叩かれる事は日常茶飯事だった。
若くして次々と武勲を立てる趙雲に嫉妬にかられた周囲の風当たりはきつかった。
生意気だと多数で暴行を受ける事多々あった。
けれど趙雲は身体にも心にもどんな痛みも感じではいなかった。
河北の名門袁紹に仕えているのはこの地に病身の母がいる為。
懸命に勲功を積むのも袁紹に忠誠を誓っているからではない。
手柄を上げれば与えられる俸禄が増えるから。
そして母に良い薬を買い与えることが出来るから。
ただそれだけの為に、趙雲はここにいた。

必要最低限の以外のことで他人と口を聞こうともしなかったし、関わり合おうとも思わなかった。
言いたい輩には好きなように言わせておけば良いし、殴って気が済むのなら殴れば良い。
今日もまた鍛錬の後、何人かに周りを囲まれた。
趙雲は無表情に、それでいて瞳だけは氷のような冷たさを宿して、微動だにせずに前を見据えていた。
それが周りの人間の怒りに火をつける。
「そういうお高い態度が生意気なんだよ!」
それが合図だったように趙雲を地面に引き倒し、一斉に殴りかかってくる。

抵抗する気など端からなかった。
そんなことをすればこのような愚鈍な連中と関わる時間が長引くだけだ。
馬鹿馬鹿しい。
ただある程度の時間が過ぎるのを待っていれば、満足して去って行くのだから。

「お止めなさい!」
そんな中割り込んでくる凛とした声。
「多勢に無勢など……醜いことこの上ありません。
美しくない者は去りなさい!」
趙雲の周りを囲んでいた者達は一斉に声のする方へ視線を向け、舌打ちすると走り去って行った。
「大丈夫ですか?」
地面に伏した趙雲を覗き込んでくる男。
痛む身体をゆっくりと起こして、趙雲はその男を見遣る。
すらりとした長身の男が笑顔で趙雲に手を差し出している。
その男に趙雲は見覚えがあった。
確か数日前に他所から派遣されてきた将だ。
名前は確か……。
「お気遣いは無用です、張コウ様」
差し出された手を掴むことなく、趙雲は立ち上がり、身体に付いた汚れを払う。
張コウは気分を害された様子もなく、変わらず柔らかい笑顔でそんな趙雲を見ている。
「様は止めて下さい。
貴方とそれ程歳が違う訳でも……第一そういうのは柄ではありませんので」

戸惑っている趙雲を気にも止めず、張コウは趙雲を片隅の井戸まで誘った。
そして懐から取り出した布を井戸水に漬し、趙雲の顔の汚れを落としていく。
大丈夫ですからと趙雲が固辞してみても、張コウは止めようとはしない。
張コウの方が身分的には趙雲の上だ。
趙雲はそれ以上抗う事もできず、されるがままになっていた。
「あぁ…こんな綺麗な顔に傷を付けて……。
小さな傷なのですぐには治るでしょうが……もったいない」
男の……ましてや他人の顔だ。
どうなろうが関係ないだろうと趙雲は思うが、張コウは心底口惜しそうだった。
「ここに来てから貴方のことが気になってずっと見ていましたが、貴方の力ならあのような者達を捻じ伏せることなど容易いでしょうに……」
「関わり合いたくはありませんから」
趙雲の言葉に張コウはうんうんと頷いた。
「そうでしょうねぇ……他人を羨むだけで何の努力もしないような醜い輩を殴れば、折角の綺麗な手が汚れてしまいますからね。
ああいう美しくない者達が我が軍にいるかと思うと嘆かわしい限りです」
そういうことではないのだが…と言い淀む趙雲をよそに張コウは一人で納得しているようだ。
まったくもっておかしな男だ。

「どうして私のことを……?」
趙雲のことが気になっていたと先程張コウは言っていた。
「美しかったから」
「は?」
「美しかったからですよ…貴方が。
周りのどんな妬みも陰口も気に掛ける事なく……一心に槍を揮う貴方の姿がとても。
きっと貴方はまだまだ強くなります。
けれど―――ここは貴方の本当の居場所ではないのかもしれませんねぇ」
しみじみと言う張コウに趙雲はただ首を傾げるしかなかった。

本当の居場所……?
何を言っているのだろう…この男は。

そこで趙雲はふと我に返る。
調練以外でこれ程他人と長く時間を共にしたのは初めてだった。
いつの間にかこの男の調子に乗せられている。
「私はこれで……」
一礼して立ち去る趙雲に、張コウはニコニコと手を振っていた。





それからも度々張コウは趙雲に話し掛けてきた。
最初のうちは疎ましく思っていた趙雲も、いつの頃からか張コウが側にいることが気にならなくなっていた。
張儁乂という男は実に飄々としていて、ごく自然に心の内に入ってくる。
それでも元来人と関わることが苦手な趙雲は張コウに特別何かを語ることはなかったが、偶に口を開けば彼はそれを楽しそうに聞いていた。
それが例えどんな些細なことであっても。
彼と居ると楽しいとさえ思ってきている自分に趙雲は心底驚いていた。

友人というのはこういうものなのだろうか―――

今まで友というものを持ったことがない趙雲にはそれはよく分からない感情だった。





そんな矢先、趙雲の病身の母が亡くなった。
趙雲の中で何か張り詰めていたものが切れて、ふと自分を振り返ってみた。
母の為に袁紹の元にいた。
だがその母が亡くなった今自分がここにいる意味は何なのか。
袁紹に対する忠誠心など欠片も持ち合わせてはいないのに。

―――旅に出ようと趙雲は決めた。

張コウにそう告げるとそれは寂しいですねと呟いた後、
「やはり貴方の居場所はここではなかったんですねぇ。
貴方のことをもっともっと美しく輝かせてくれるそんな場所がきっと見つかりますよ」
そう言っていつものように柔らかく微笑んだ。
「…短い間でしたが、私は貴方のことをその……」
言葉を濁す趙雲の言わんとすることを張コウは見透かしていた。
「友人だと思ってくれていたのでしょう?
嬉しいですねぇ……私は最初からそのつもりでしたけど。
貴方の旅の無事を…そして貴方が素敵な居場所を見つけられることを友人として心から祈っています」





そして趙雲は旅立って…公孫サンの元を経て、劉備と出逢った。
心の底から付いていきたいと…命を賭して仕えたいと思える人物だった。
劉備の義兄弟である張飛も関羽も自分を快く迎えてくれた。
その後の流浪の末、諸葛亮という軍師を得、蜀という国を興すまでになった。
そして…あの人と巡り逢った―――
自分の居場所がここだと心の底から思わせてくれたあの人に……。





そんな趙雲が張コウと久方ぶりに顔を合わせたのは戦場だった。
魏と蜀の戦いは決着を見ず、両軍共退却の合図が出されたその中で―――二人は相見えた。
趙雲は驚きで目を見開き、張コウは懐かしそうに目を細めていた。
「お久しぶりですね、趙雲殿。
―――少しだけお話しませんか?」
あの頃と変わらぬ笑顔を見せて馬首を返す張コウに、趙雲は少し逡巡した後従った。

やがて川辺にたどり着いた二人は馬から降りるとその岸辺に並び立った。
「お元気でしたか?」
「ええ……。
張コウ殿が魏におられたとは驚きました…」
「官渡での戦いの折に……ね。
貴方は劉備殿の元へ参られたのですね」
頷く趙雲を張コウはじっと見つめた。
「貴方はちゃんと自分の居場所を見つけられたのですねぇ。
表情が随分と柔らかくなられました。
雰囲気も優しくなられましたね」
―――そんなに私は昔と変わったでしょうか?」
趙雲自身それ程自覚はなかった。
「ええ…。
あの頃の貴方は抜身の剣のようでした。
触れるもの全てを切り裂くようなね。
それはそれでとても綺麗でしたけど……どこか作り物めいていました。
血の通わない人形のように。
今の貴方はあの頃のよりもずっと綺麗になられましたよ、とても生き生きと輝いていらっしゃる。
貴方がそんな場所を見つけられて私は本当に嬉しいのですよ」
「ありがとうございます」
趙雲が嬉しそうに微笑むと、張コウはおや…と片眉を上げた。
「ふふっ……貴方が笑った顔を初めて見ましたよ。
うん、その顔が一番良い。
―――誰か大切な人が出来ましたね?」
いきなり図星を指されて、趙雲はどうすれば良いのか分からず目を伏せた。
その目元がうっすらと赤く染まっているのを張コウは見逃さなかった。
「貴方にそんな顔をさせることが出来るようになったのはどんな人なんでしょうねぇ?」
張コウは興味深そうに趙雲の顔を覗き込んでくる。
今も昔も何故かこの男の前では隠し事ができない。
仕方なしに趙雲は口を開いた。
―――気高く強く…そして何より優しい人です。
いつも私を包み込んでくれて…私がここにいて良かったと思わせてくれる…そんな人です」
「見事にのろ気られてしまいましたね」
「な…何を…。
貴方が……知りたいと言うから…っ!」
怒りなのか羞恥なのか、真っ赤になって抗議する趙雲に張コウは声を立てて笑った。
「冗談ですよ。
からかい甲斐のあるところはあの人とそっくりです」
優しい瞳をして張コウは川面に視線を移す。
そこに誰かを思い浮かべているようだ。
「貴方にも……そういう人が…?」
―――素敵な人ですよ…とてもね」
もう一度趙雲に視線を戻して、張コウは手を差し出した。
「そろそろお別れです。
今度お会いする時は刃を交えることになるでしょう。
そんな私が言うのもおかしいかもしれませんが…どうかお元気で―――
趙雲はその手をしっかりと取った。
「貴方も……お元気で」

歩む道は違ってしまい、きっとこうやって話す事はこれで最後だろうけれど…それでも張コウとはこれからも良い友人だとそう思える。
彼もまた同じように思ってくれている…そんな気がする。
それは彼の昔と変わらぬ笑顔がそう告げている様に思えたから。





二人はそれぞれ馬に跨り、そのまま別々の方向へと走り去った。
旧友同士の短い再会はこうして終わった―――






written by y.tatibana 2003.08.29
 


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