100題 - No17 注:死ネタ注意! |
|
涙を流さずに泣き続ける貴方のことが酷く気に掛かった。 そして―――… ただ一度、とめどなく涙を流して泣く貴方のことを少しでも癒したいと思った。 それが私の――― 馬超が蜀に降ってどれくらいの時が流れたのか。 誰かと諍いを起こす訳でもなければ、人当たりが悪いという訳でもない。 与えられた務めは確実にこなし、武も噂に違わぬ腕の持ち主であった。 けれど、良くも悪くも馬孟起という男が目立つことは一度もなかった。 静かなのだ……彼は。 そうまるで空気のようにそこにいることを感じさせない。 ある日の夕刻、城を出たところで趙雲はそんな馬超と出くわした。 「お暇でしたら飲みにでもいらっしゃいませんか?」 特に親しくもない馬超をそう誘ったのはほんの気紛れだった。 頷いた馬超を伴って趙雲は屋敷に戻り、家人に用意を整えさせると、二人は向かい合って静かに杯を傾け始めた。 「貴方とこうやってゆっくりと語らうのは初めてですね、馬超殿」 趙雲は微笑んで、馬超の杯に酒を満たした。 「そうですね……。 長坂の英雄殿とこうして酒を酌み交わせるとは光栄です」 応える様にゆったりとした笑みを浮かべて、馬超もまた趙雲へ酒を注いだ。 「殿は近々魏への出兵を考えておいでのようですよ」 魏王である曹操は馬超の一族を虐殺した張本人。 馬超はその曹操を討つ為に蜀に降ったのだと聞かされている。 しかし……趙雲から魏への侵攻の話を聞いても馬超の表情は全く動かなかった。 「そうですか……」 ただ一言。 そう呟いただけだった。 激昂でもするかと思っていた趙雲は、驚きをもってまじまじと馬超の顔を見つめる。 「魏は……曹操は貴方の仇ではないのですか? その為に貴方はこの国に来られたのはないのですか…?」 「―――曹操は確かに俺の一族を虐殺しました。 けれど…それを招いてしまったのは俺の思慮の浅はかさからです。 曹操の元に向かう父達を止められなかった…策を弄され妻と子を失った…。 それは全部俺が招いたことです。 それに…曹操を討てば死んでいった者達が生き返る訳ではないでしょう? 復讐など……自分の罪から逃れたいというただの自己満足に過ぎません。 そんなものを果たす為にまた多くの犠牲を払うなど…馬鹿馬鹿しいではありませんか…」 「では…何故…?」 「俺がこの国に降ったのは…岱にきちんとした主に付き従って欲しかったから。 俺の元にいればあいつは国というものが何であるか、軍を率いるのがどういうものであるか…そういうものを知らないままだ。 もっと大きな世界を見せてやりたかったのですよ」 優しい口調―――馬超が如何に今や唯一の肉親である従兄弟の馬岱を大切にしているかが伝わってくる。 決して目立たずただ静かに馬岱を見守っている…そんな感じを受けた。 抱いていた印象とは随分違う。 馬超が蜀に降った当初、口さがない者達が彼の事を悪し様に言うのを耳に挟んだことがある。 “一族が虐殺された時も涙一つ流さなかった” と―――。 とてもそのような冷酷な人間とは思えなかった。 「どうかされましたか?趙雲殿」 「いえ……失礼ながら貴方のことをもっと冷たい人間かと思ってたもので…」 そう言うと、馬超には思い当たる節があったのだろう…小さく笑った。 「一族が虐殺されても涙も流さなかったという話ですね。 実際……その通りですよ。 涙を流しても何かかが変わるわけでもない。 そんなもので俺の罪は消せはしませんから。 ―――冷たい人間ですよ、俺は」 静かに目を伏せ、馬超は杯を呷った。 その瞳に微かな翳りが落ちるのを趙雲は見逃さなかった。 哀しくないはずはない。 それを他の人間には見せようとはしない。 一族を屠られたことを自分の罪として…心の内にそれを刻み付けている。 きっと彼の心は泣いている。 赤い涙を流し続けている。 強い…… けれど、 哀しい人――― そう趙雲は思う。 そしてそんな馬超のことが趙雲はとても気に掛かった。 馬岱が死んだ―――。 伏兵に囲まれ、そのまま…命を落とした。 その知らせを趙雲は屋敷の自室で聞いた。 それを聞いて真っ先に思い浮かべたのは馬超のことだった。 彼は成都から遠く離れた任地へ赴いてた。 確か長くいたそこからつい先日戻ってきていた筈だ。 まるでそれを見計らったかのように齎されたその訃報。 使いの人間に馬超の様子を尋ねると、彼はただ頷いただけで何も語らなかったらしい。 涙を流すこともなかったと―――。 趙雲はその夜、馬超の屋敷を訪れた。 庭先に求める人物はいた。 空を仰いで……馬超は涙を流していた。 初めて見る馬超の涙。 溢れ出るそれを拭おうともせず、馬超はただ静かに泣いていた。 「涙を流しても何も変わらないと……そう思っているのに……。 何故でしょうね…涙が止まらない―――」 趙雲が来たことを気配で感じ取っていたのだろう。 馬超は空を見上げたまま呟く。 彼の中で渦巻く哀しみや痛みが一気に溢れ出してきたようだった。 馬岱という最後の心の堰を失って。 「…もう誰もいなくなってしまった。 ―――これが俺の罪に対して下された罰なのでしょう」 流れ続ける涙と彼の事が痛ましくて、哀しくて―――趙雲は無意識の内に体が動いていた。 あらん限りの力で強く馬超を抱き締める。 「趙雲殿…?」 戸惑ったような馬超の声。 しかし、趙雲は何も言わずただ馬超を抱き締めていた。 その温もりが馬超を包み込む。 「―――人の肌がこれ程暖かいということを…もう随分と忘れていた……」 馬超の腕が趙雲の背に廻され―――、 そのまま二人は… 夜を共にした―――。 墓石の前に佇む一人の男。 金の髪が俯いた彼の表情を隠している。 ―――あの日……貴方は哀しみを包み込むように強く抱き締めてくれた。 貴方の温もりがとても心地よかった。 抱き締め返した貴方の身体が余りにも細くて驚いたけれど……それを深く考えることもせず、貴方の温もりに縋るように貴方を抱いた。 それから数日後……貴方が亡くなったと知らせを受けた。 ずっと病で臥せっていたのだとういう。 長く成都を離れていて、貴方がそのような状態であろうとは知りもしなかったし、想像もしなかった。 けれどそれを聞いてもやはり信じられなかった。 貴方はあの日心の箍が外れた俺の元を訪ねて来てくれたから。 それを伝えると、使者は驚いたように目を見開いて首を振った。 そんな筈はない…とても起き上がれるような状態ではなかったと。 その時改めて、貴方の細すぎる身体と…そして透けるほどに青白かった肌を思い出した。 どうしてあの時もっと考えてみなかったのだろう…おかしいと思わなかったのだろう。 それは抱き締めてくれる腕の力強さや、貴方の肌が余りにも暖かかったから…。 そんな病身の貴方が俺の元に来てくれた真意は何だったのか。 憐れみ…同情…それとも―――? 今となってはもうそれを確かめる術もない。 優しい…… けれど、 残酷な人――― ずっと忘れていた人の肌の温もりを…その心地よさを思い出させておいて―――。 そのまま逝ってしまった。 そして残されたものは、また一つ増えた消えない痛み―――。 これもまた下された罰なのか―――。 その日、五虎大将と称された一人の男が蜀から姿を消した―――。 涙を流さずに泣き続ける貴方のことが酷く気に掛かった。 そして―――… ただ一度、とめどなく涙を流して泣く貴方のことを少しでも癒したいと思った。 それが私の――― 最期の願い。 written by y.tatibana 2003.08.15 |
|
back |