100題 - No13 |
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曹操―――という名。 幼い頃は宦官の家系の者として、侮蔑と嘲笑を込めて呼ばれた。 やがて帝を擁し、袁紹を倒すまでの勢力になると、対立する諸侯からは逆賊と…そして服従する者からは畏怖をもって呼ばれた名。 悪名でも…己の名が世に広がることは悪くはない。 そう曹操は思う。 その中で唯一人だけ、「孟徳」と曹操を呼ぶ男がいる。 余り多くを語らない男だが、他のどんな言葉よりもその男が自分の名を呼ぶ……それが曹操には心地良かった。 蔑みも畏れも諂いも…そこにはない。 無心で乱世の覇者ならんとする曹操の剣となり盾となる。 それが夏侯惇元譲という男だ。 肩口に痛みを感じた。 それを自覚するよりも前に、曹操は剣を抜いていた。 「死ね、曹操!」 血に濡れた剣を構えた男が、再度斬りかかってきた。 曹操はその一撃を弾き返し、上体が仰け反った相手を躊躇いなく剣で切り捨ててた。 「お…のれ、曹操…」 男は憎々しげに曹操を睨みつけたまま事切れた。 右肩に手をやれば、溢れ出る血が手を朱色に染めた。 傷自体はそれ程大したことがないようであるのに、何故だか視界が霞んだ。 曹操は地に膝を付く。 剣に毒が塗られていたのかもしれない。 「曹操」…と男は憎悪を滾らせてその名を口にした。 やはり悪名として轟くか…この名は。 薄れゆく意識の中ぼんやりと曹操はそんなことを思う。 そして倒れ伏す瞬間、はっきりと耳に届いた声―――。 「孟徳!」 何故だか笑みがこぼれた―――。 「聞いておられるのですか、殿!」 寝台に身を起こした曹操の溜息を傍らに立つ人物は聞き逃さなかったようだ。 「そう耳元で怒鳴るな…文若。 聞いておるというておろう」 げんなりとした様子の曹操に、荀イクはこめかみを押さえる。 「いいえ! 殿はことの重大さが分かっておられませぬ。 近衛兵を撒いて一人で外に出られた挙句、刺客に襲われるなど…。 もう少し御自分のお立場をお考え下さい!」 「刺客も斬ったし、俺も無事だったのだから問題ないではいか」 しれっと悪びれもせず言う曹操に荀イクの雷が落ちた。 「殿!!」 荀イクの怒鳴り声に曹操は思わず耳を塞ぐ。 「剣には毒が塗られていたのですよ! 夏侯将軍が早々に殿を見つけて下さったから良かったものの、そうでなければ今頃手遅れになっておられました! 本当に貴方という方は…」 もの凄い剣幕でまくし立てる荀イクを周りの文官達が必死で宥めている。 だが曹操は相変らずどこ吹く風だ。 その時、夏侯惇が部屋に入ってきた。 文官や従者達はこれ幸いと絶妙の機に現れた夏侯惇を曹操の傍らへと導いた。 この場を上手く収めてくれるとそう信じて。 だがその夏侯惇が次に取った行動に曹操を始めとする一同は凍りついた。 夏侯惇が曹操に向かって、にっこりと穏やかに微笑んで見せたのだ。 戦場でも平時であっても常に冷静で感情を顕わにすることなど滅多にない…。 いつも厳しい表情を崩さない。 その夏侯惇が笑った。 しかも……。 にっこりと。 穏やかに―――。 その衝撃は相当に大きかった。 「げ…元譲…、お前熱でもあるのか……?」 流石の曹操も動揺しているらしい。 夏侯惇はだがその表情を崩さぬまま口を開いた。 「熱などありません、殿。 可笑しなことを仰いますね」 今度は全員が我が耳を疑った。 「と…殿? お前…本当にどうした? 俺のことを殿だなどと…口調もおかしいぞ…」 「みな、曹操様のことを殿とお呼びしているではありませんか。 私がそうお呼びして何か不都合が…? とにかくご無事でようございました。 あまり長居をして傷に障るといけません…私はこれで失礼させて頂きます」 恭しく夏侯惇は拝礼すると、茫然自失の一同を尻目にさっさと退出して行った。 「…曹操様…? 私…? あの元譲が……」 夏侯惇の余りの変貌振りに曹操は誰に言うでもなく呟く。 「夏侯将軍……相当お怒りのようですよ…殿。 最大級の厭味ですね…今のは。 ふむ―――、普通にご忠告申し上げても殿には全く堪えないことが分かっていらっしゃるようだ。 流石は夏侯将軍…勉強になりました」 荀イクは先程までの怒りは何処へやら、しきりに感心している。 それに対して我を取り戻した曹操は、面白くなさそうに眉根を寄せ、寝台に横たわったのだった―――。 城の一室で書簡に目を通していた夏侯惇はいきなり勢いよく開かれた扉に驚いた様子もなく、視線を上げることもしなかった。 観音開きの扉の中心に不機嫌な表情を隠そうともせず立っているのは曹操だ。 「元譲!」 名を呼ばれても夏侯惇は書簡に視線を落としたまま、顔を上げようともしない。 「言っておくが、俺は謝らぬぞ。 悪いことをしたとは思っていないからな。 第一、この俺があれしきのことで死ぬ訳がなかろう」 言うだけ言って、踵を返した曹操の背に夏侯惇はようやく声を掛けた。 「孟徳」 いつも通りに自分の名を呼ぶ声に曹操は立ち止まり振り返る。 夏侯惇は深い溜息と共に、書簡から顔を上げると、立ち上がった。 「俺は確かに怒っていた。 だが…それはお前に対してではない。 お前がどういう男であるかを分かっていながら、お前から目を離した自分に腹が立ったのだ。 それでつい腹立ち紛れに、お前をからかってやりたくなってな…」 曹操の前に立った夏侯惇は肩を竦めて見せた。 そんな夏侯惇をしばし唖然と見つめた後、曹操は大声で笑い出した。 「俺もすっかり忘れていたぞ、元譲。 お前がそういう男だということをな……。 この悪名高き曹操孟徳をからかうことが出来る輩などお前くらいだ」 「悪名か…。 どれだけ世にその名が広がろうとも、お前はどんなものにも惑わされるな。 決して縛られるな。 己の思うがままに進むがいい」 「ふん…言われるまでもない」 その顔に浮かぶは王者の笑み。 いずれ誰もがこの王者の前にひれ伏すだろう…そう夏侯惇は思う。 「それで良い…孟徳」 どんな時も自分を見つめる隻眼の瞳と、自分の名を呼ぶ声。 この男の存在が自分を更に強くする。 それを口に出して告げることは、恐らく一生ないだろう。 けれどそれを示すために曹操は進む。 決して振り返ることなくこの乱世を―――。 written by y.tatibana 2003.07.25 |
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