100題 - No11

幼い子
時間が足りない……。
丞相として為さねばならないことが沢山ある。
内政のこと…外交のこと…それこそ山のように。
国が大きくなるにつれ、比例するようにそれは増えていく。
城から館に戻っても、休むどころか食事を摂る間も惜しんで、政務に励む。
今日もまた諸葛亮はただ一人自室で机に向かい、書簡に目を通していた。
眉根を寄せ、厳しい表情を崩さず一心に。

そんな諸葛亮の元に来客があったのは間もなく夜半にさしかかろうかという頃。
訪問者の名を聞き、諸葛亮は自室まで案内してくるよう家人に命じた。
暫くすると家人に案内されて、その人物が部屋に入ってきた。

細っそりとした……けれど均整の取れた体と端正な顔立ち。
その顔に穏やかな微笑をのせて、趙雲子龍は拱手した。
「お久しぶりです、軍師殿」
諸葛亮も立ち上がり、趙雲と向かい合った。
「今日…任地から戻られたのですね。
お元気そうで何よりです、趙雲殿」
「このような時間にお訪ねして、ご迷惑とは思ったのですが…」
「いいえ、構いませんよ。
まだまだ休むつもりはありませんでしたから…」
諸葛亮の言葉に一瞬趙雲の顔が曇った。
机に積まれた書簡に目をやって、眉を顰める。
「…相変らずのようですね、貴方は。
先程案内してくれた方も、随分と心配しておられましたよ…。
貴方があまり休んでおられる様子がないと―――
執務にご熱心なのは宜しいですが、大概になさらぬと体を壊します」
「心配して下さっているのですか?
…大丈夫ですよ、無理をしているつもりはありませんから」

いつでもこうやって私の事を気遣ってくれる…貴方。
主公に幕僚として迎えられてからずっと貴方は穏やかな微笑で私を包んでくれていた。
私を取り巻く環境も…そして立場も…様々なものが過ぎていく年月の中で変化していったけれど、貴方の微笑だけが出会った頃と何も変わらない。

諸葛亮の先程までの厳しい表情が嘘のように自然と柔らかくなっていく。
諸葛亮は手を伸ばすと、趙雲の頬にそっと触れた。
冷やりとした感覚―――
その上に重ねてくる趙雲の手もまた、彼の頬と同じように冷え切っていた。

「外は…それ程寒いのですか?」
その問いに趙雲はくすりと笑みを漏らした。
「ええ…とても。
明日は雪かもしれません。
それにしても貴方らしい…執務に真剣になり過ぎて周りのことは何も…温度すらも気にならなかったとは。
この部屋も随分と冷え切ってますよ」
言われてみて諸葛亮は初めて気が付いた。

確かに寒い―――

趙雲の指摘どおり、書簡に目を通すのに集中するあまり外の寒さどころか、部屋の中の温度すら感じてはいなかった。
「すぐに火を……」
しかしそれを制するかのように、趙雲は重ねた手に力を込める。
「趙雲殿…?」
訝しむ諸葛亮に趙雲は再度笑みを投げかける。

それは誘うようなあでやかな笑み。
瞳もまた艶かしく色めいている。

惹きこまれる―――
まだまだやらなければならないことは沢山ある。
視線の端に積み重なった書簡が映った。
だが……。
抗うことは叶わなかった。

―――貴方が暖めてくれますか?」
趙雲の腕を取り、引き寄せ―――彼の耳元で囁く。
趙雲が微かに頷くのを感じ取って、諸葛亮は彼の首筋に口付けを落す。
それだけで諸葛亮は自分の体が熱くなっているのを感じた。
趙雲の武人とは思えない白い肌の其処此処に赤い後を散らしていく。
そうして傍らの寝台へと趙雲を導き、組み敷くと、見上げてくる漆黒の瞳とぶつかった。
いつでも真っ直ぐで、自分を捕らえて離さない瞳。
諸葛亮が趙雲の髪紐を解くと、それが合図だったように趙雲は瞳を閉じた。
後はただ本能の赴くまま、諸葛亮は彼の体に溺れていった―――





吹き込んできた冷たい風に、諸葛亮は目を覚ました。
隣に手を伸ばしても、あるべき温もりがない。
不審に思って視線を巡らせると、探していた人物はちゃんと部屋の中にいた。
窓辺に立って、外を眺めている。
先程の風はそこから流れ込んできたようだ。
諸葛亮が目を覚ましたことに気付いた趙雲は、包み込むような優しい笑顔を浮かべて彼を手招きする。
薄絹一枚だけを身に付け、諸葛亮は窓辺の趙雲に寄る。

窓から見えるのは一面の銀世界―――

空を分厚い雲が覆い、次々と白い欠片がひらひらと舞い降りてきている。
雪などさして珍しいものでもないのに、趙雲が隣にいるというだけで、何故だか幻想的なものに思えてならなかった。
そのまま暫く二人は言葉を交わすことなく、外を眺めていた。
「よく眠れましたか?」
ふいに趙雲が尋ねてくる。
「ええ、とても―――
答えて、諸葛亮ははたと思い当たった。

そうか―――、貴方は気付いていたんですね。
もうずっと私がゆっくりと眠っていないことに。
眠りについてもそれは浅く、何度も目が覚める。
丞相としての責務の為か、それとも別の何かか…様々なことが心に圧し掛かり深く眠れない。
朝、目が覚めても疲れがとれるどころか、逆に体が重い。
それがもう当たり前のようになっていたのだが…。
そんな私の状態が分かっていたから…遠征から戻ったばかりのしかもあのような時間に貴方は訪ねてきた。
今朝は本当に体も軽く、頭もすっきりとしいる。
貴方を抱いたおかげで…何もかも忘れて夢も見ることもない程深い眠りに落ちたから―――

「軍師殿!
外へ参りましょう!」
唐突に趙雲が言い出す。
答える間もなく、趙雲は諸葛亮の手を取り部屋を出た。
抗おうにも、所詮武官である趙雲の力に叶うはずもない。
趙雲に導かれるまま、諸葛亮は庭へと向かう。
庭先で諸葛亮の手を放すと、趙雲は雪の中へ駆け出した。
薄絹一枚の諸葛亮は外気の冷たさに思わず身震いしたが、同じような格好の趙雲はそんな素振りなど微塵も見せず、楽しそうに雪と戯れている。
戦場での趙雲の姿からは想像もつかない。
厳しい武人としての鎧を脱ぎ捨てている今の趙雲。

―――まるで幼い子供のようだ。

諸葛亮は目を細め、口元を緩める。

私も…そして貴方の手も体も…沢山の血で染まっている。
この降り積もる雪のように決して白くはない。
けれど……。
貴方がこの雪よりも白く、汚れのないように見えるのは私だけなのだろうか?

バシッ―――

体に軽い衝撃を感じて、思考が中断される。
趙雲が雪を丸めて投げつけてきたらしい。
驚いてどう反応すれば良いのか考えあぐねている諸葛亮に二度三度とまた雪の塊がぶつけられる。
趙雲は楽しそうに笑って、足元の雪をかき集めている。

―――答えは出た。

諸葛亮もまた雪を集め丸めると、趙雲に向かって放り投げた。
それは趙雲の肩に当たって弾ける。
趙雲は無邪気に雪を丸めては諸葛亮に投げつけてくる。
諸葛亮も負けじと投げ返す。
それを避けるように駆け出した趙雲を、諸葛亮は追って走った。
そうして二人して、幼い頃に戻ったようにしばらく雪と戯れた。
じゃれ合う様に駆けて、どちらかが雪に足を捕られ、重なり合って共に雪原に倒れこむ。
最初諸葛亮が感じていた寒さはすっかり感じなくなっていた。
むしろ少し汗ばんでいる程だ。

こんなにも体を動かしたのはどのくらい久方振りだろう。
息も随分と上っているが、とても清々しい―――

どちらからともなく、クスクスという笑いが漏れた。

貴方といると何故こうも体も…そして心まで軽くなるのだろう。
いつの間にか丞相としての私の鎧すらも取り去ってくれている。
不思議な人。

「そろそろ出仕の時間ですね…」
向けられる漆黒の眼差しに、諸葛亮は僅かに首を振り、微笑を返した。
「今日は…出仕はせぬと城には使いをやりましょう。
まだまだ貴方と共に過ごしたいから―――
言って、諸葛亮が趙雲の背に腕を廻すと、趙雲も応える様にそれに倣った。





そんな二人の上に、雪は絶えることなく静かに降り積もっていった―――






written by y.tatibana 2003.07.05
 


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