100題 - No8 |
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初めて出逢ったのは、まだ国はおろか城さえ持てず放浪していた頃だった。 配下の兵は極僅か……それでも漢王室復興の大義を果たす為、戦乱の中生き抜いてきた。 義兄弟の契りを結んだ関羽・張飛という比類なき力を持つ豪傑二人と共に。 義勇兵として各地を転戦し辿り着いた北方の地で彼と出逢った。 「趙雲…字を子龍と申します」 目の前の青年はそう名乗って拱手する。 思わず息を呑む端麗な顔立ち。 けれどもそれよりも私の目を惹いたのは、趙雲と名乗った青年の微かな笑みとその瞳。 決して心の底から笑ってなどいない……どこか哀しげな寂しさを感じさせる微笑。 そして漆黒の瞳は翳りを帯びている。 誰もが彼の容貌に目を捕られ、それには気付いていないようだ。 それとも私の感じたそれが錯覚なのだろうか。 「劉玄徳と申す」 私が差し出した手を、あの微笑みのまま握り返してくる。 ひやり……とした感覚。 それはまるで微笑が物語っているように、彼の心の温度を表しているような気がしてならなかった。 その容貌と細っそりとした体つきから文官かと思った彼は武官なのだという。 「そんな腕で武器なんかもてんのか?」 翼徳は疑わしげに、彼の姿に何度も無遠慮な視線を這わせていた。 私もまた口には出さなかったが、心底驚いたことを今でも鮮明に覚えている。 しばらくその地に留まる事になり。子龍とも度々会う機会があった。 子龍はあまり多くを語らなかったが、それでも彼の実直さと人柄の良さは充分に感じ取れた。 けれど時折見せる微笑は、やはり寂しさを宿していた。 そんな彼が何故だか私は無性に気になった。 事あるごとに子龍の事を気に掛けることが、どうやら翼徳には気に喰わなかったらしい。 まるで小さな子供のようだが、自分の感情にまっすぐ素直な所が翼徳の長所でもあり短所でもまった。 私の知らぬ間に翼徳は子龍に勝負を挑んだらしい。 私がそれを知ったのは、翼徳本人が随分興奮しながら自室に入ってきた時だった。 「兄者! あいつ凄いぜ!」 いきなりそう言われても事情の分からぬ私はただ面食らうのみだ。 事情を聞いてようやく状況が飲み込めた私は当然翼徳を諌めた。 だが翼徳は私の言葉など耳は入っていないようだった。 興奮冷めやらぬという風情で捲くし立ててくる。 「本当に凄い奴なんだって、あいつ。 俺と対等に遣り合える奴なんて雲長兄しかいないと思ってたけど、あいつ俺の蛇矛を軽々と躱したんだよ。 槍捌きも見事だし、あの細腕にあんな力があったとは吃驚だぜ」 結局決着はつかなかったらしいが、翼徳はしきりに感心していた。 実際私も驚嘆した。 まさか子龍が翼徳と張り合える程の武の持ち主だとまでは思ってもいなかったから。 「兄者、あいつを俺たちの同志に加えよう! 絶対力になるぜ」 翼徳はえらく子龍のことが気に入ったようだ。 例え敵対する者でも、自らが認めた人間には敬意と親愛の念を抱く……それが翼徳だった。 私としても出来ることなら子龍に自軍に加わってもらいたかった。 だが…―――。 「無理を申すでない、翼徳。 それが叶わぬことはお前も分かっておろう」 その時、子龍には仕えている別の人間がいた。 自分達はその客将としてここに留まっているに過ぎないのだ。 その配下である子龍を、例え彼が是と言っても自軍に加えることは道に反する。 結局子龍とはそのまま別れる事になった。 「ご健勝で」 別れ際、子龍はそれだけ言って静かに頭を下げた。 翼徳が何か言いたそうだったが、それを目で制して私は頷いただけで何も言わずに背を向けた。 けれど何故だか子龍とはまた会えそうな気がしていた。 運命―――というものなのだろうか。 そんな大袈裟なものではなかったのかもしれない。 だが趙子龍という男とは不思議な縁で繋がっている―――。 あの寂しげな微笑がいつまでも心に残っていた……。 やはり子龍とはそういう運命だったのか。 それからしばらく後、私は子龍と再会した。 一人で各地を旅していたのだと言う。 彼が北方の地で仕えていた人物がどうなったのかもちろん知ってはいたが、それについて触れることはしなかった。 子龍もまた何も言わなかった。 ただその瞳が以前よりも濃い翳りを落しているように思えた。 子龍は私達と共に行くことを了承してくれた。 それを最も喜んでいたのは翼徳だった。 色々と世話をやいているようだ。 子龍の物静かな物腰……そして寂しげな微笑はやはり変わってはいなかった。 ある時、翼徳がふと洩らした。 「俺は子龍の事が心配なんだ。 最初は全然気が付かなかったけど、あいつ笑うときいつも寂しそうなんだよ。 まるでこの世にただ一人取り残されたように孤独な目をしてる―――」 どうやら翼徳も気付いたらしい。 孤独―――。 まさにそうだ。 子龍はどれだけ大勢の人間の中にいようとも、自分を壁一枚隔てた向こう側へ追いやっている。 無口だが一見人当たりの良さそうに見える。 第一あの容貌だ…寄ってくる者は後を絶たないに違いない。 だが実際のところ子龍は他人と接することが本当は苦手なのではないのだろうか。 恐れてると言ってもいい。 正確にはどう接すれば良いのか分からないのかもしれない。 以前聞いた彼の生い立ちから考えると頷けるものがある。 あまり恵まれた幼少期ではなかったようだ。 そんな子龍の孤独を癒すことが出来ないだろうか。 それは偽善だろうか。 けれど彼の心からの笑顔を見てみたい―――そう思った。 どうやら翼徳も同じ事を考えていたらしい。 ささやかな酒宴の席上、子龍の盃に酒を注ぎながら言った。 「これからは俺たちのことを兄だと思え、子龍。 お前は俺たちの末弟だ。 遠慮はするな、何かあれば何でも俺たちに相談しろ」 いきなりそう言われて、子龍はきょとんとしている。 無理もない。 「何が遠慮するなだ。 今までお前が一番下だったというのに、急に兄貴風を吹かせよって。 子龍、こやつなど頼りにならぬぞ。 頼るのなら、兄者か儂にするといい。 何せお前は我らの弟だからな。 そうですな、兄者?」 雲長が豪快に笑って、こちらに視線を向けたのに頷いて応える。 「酷でぇよ、兄者達!」 翼徳は真っ赤になって怒っている。 「ハハハ……そう怒るな翼徳。 ―――まぁ、そういうことだ、子龍。 改めてこれからよろしく頼むぞ」 私の言葉に子龍は静かに微笑む。 「ありがとうございます―――。 私などには勿体無いお言葉……」 やはりそれは寂しさをのせた笑み。 いつか―――彼の孤独を癒すことが出来るだろうか。 時は流れ、私は一国を擁するまでになった。 子龍はずっと槍となり時には盾となり、誠心誠意仕えてくれた。 少しづつではあったが、子龍の瞳に宿る翳りが薄くなっているような気がしていた。 けれどまだまだ彼の心を癒すには時が必要なのかもしれない。 焦る事はない…そう思っていた矢先、雲長が討たれたという知らせが齎された。 そうしてそれと間を置かずして翼徳も…。 いずれも呉に連なる者の仕業であった。 私の絶望と怒りは相当のものだった。 呉を攻め滅ぼしてくれようと、兵を挙げた。 子龍は強くそれを止めた。 今まで子龍が何かを否定したり、拒否したことがあっただろうか。 なかった筈だ。 だがそれがその時の私の怒りに油を注いだ。 子龍はどんな時でも自分に従ってくれると思っていたからだ。 まさに愚の骨頂だ。 今になって思えば、あの時子龍が挙兵を止めたのは至極当然のことだというのに。 私怨で怒りに任せて攻めても、上手くいく筈などない。 子龍はこの国のことを想い、そんな私を諌めてくれたのだ。 けれど、あの時の私は怒りに我を忘れてた。 「お前には分からぬのだ! 我ら兄弟の絆の強さなど。 だからそのような薄情なことが言えるのだ! お前の言葉など聞かぬ、退がれ!! 顔も見たくない」 吐き捨てた言葉を、子龍は黙って受け止めていた。 その表情には何も浮かんではいない。 一礼すると、子龍は私の前から立ち去った。 ハッとした。 今私は何を言った!? ―――子龍のことを自分達の弟だと言いながら、自分達の絆の強さなど分からないと言った。 それはつまり彼の事を本当に兄弟だとは思っていないと切り捨てたようなものだ。 もちろんそんなつもりは毛頭なかった。 けれど一度口から出た言葉はもう取り消せはしない。 体の傷ならいつか癒える時もくる。 しかし……心は…。 子龍の孤独な心を癒したいと願いながら、結局一番深く傷付けたのは私なのかもしれない。 私の酷い暴言にも子龍の表情は何も変わってはいなかった。 だが…その瞳に再び濃い翳りが落ちるのを私は見てしまったから―――。 もう子龍が私に本当の笑顔を見せてくれることはないのだろう。 それでも……後には退けなかった。 子龍だけではなく多くの者が出陣を止めたが、強行した。 そして―――敗戦した。 子龍はあれ以後はもう何も言わずに、兵を率いて出陣の隊の中に加わっていた。 無謀な戦を闘い抜いてくれた。 敵に囲まれこれまでかと覚悟していた私を救い題してくれたのも彼だった。 子龍のお陰で私は生き延びることが出来た。 だが、疲労と敗戦の衝撃から、私は病の床についてしまった。 もう自分の命がそれほど永くないことを私ははっきりと悟っていた。 子龍とは、あの敗戦後から一度も会ってはいない。 彼は何度も私の元に足を運んでくれたようだったが、私がそれを拒んだのだ。 今更どんな顔をして会えば良いというのか。 情けないことに私は恐ろしかったのだ。 子龍のあの孤独な瞳と寂しげな笑みを見ることが。 自分が彼に成したことを突きつけられているようで。 思ったよりもずっと長く私の体はもっていた。 その日はとても体調が良く、私は城の庭を何とはなしに散策していた。 声が聞こえた。 楽しそうに笑う声。 その声を聞いた時、我が耳を疑った。 引き寄せられるように、声の方へと歩む。 声の主は…子龍だった。 とても優しく穏やかな瞳をして、子龍は微笑んでいた。 それはずっと見たいと思っていた彼の本当の笑顔。 花が咲きほころぶような綺麗な微笑みだった。 子龍のその瞳と笑顔は、彼の目の前に立つ人物に向けられてた。 子龍よりも僅かばかり背の高い男だった。 私からはちょうど後ろ姿になっていて、顔は見えない。 けれどその人物が誰であるのかはすぐに分かった。 その髪の色を持つ者を私はただ一人しか知らなかったから。 そうか……これが運命だったのだな。 私と子龍が出会ったのも運命。 けれど彼の孤独を癒し、真に心を許せる人間は私ではなかった。 その運命を持っていたのは今子龍の目の前に立つあの者だったのだ。 そうしてようやく子龍はめぐり会った。 良かった―――本当に。 これで心置きなく雲長と翼徳の元へ逝ける。 あのまま逝っていたら、きっと翼徳にこっぴどく責められていただろう。 最期の時―――。 私は子龍を傍に呼び寄せた。 あの時の言葉を詫びると、子龍はただ首を振った。 「謝って頂く様なことなど何もございませぬ。 殿も、関羽殿も張飛殿も…実の弟以上に私を気に掛けて下さいました。 それだけで、私は感謝に堪えません…」 「子龍……お前のことを本当に雲長や翼徳同様大切な弟だと思っていた。 あのようなことを言っておいて信じてくれぬかもしれぬが…。 どうか―――」 差し出した手を子龍は両手で包み込むように強く握り返してくれた。 ―――とても暖かかった。 錯覚なのかもしれない。 死に逝く今、感覚が麻痺していてもおかしくはない。 けれど確かに感じた温もり。 初めて出会って、差し出した手を握り返してきた彼の手のあの冷たさは全く無い。 倖せなのだろう。 子龍の心は満ち足りているのだろう。 せめて私は祈って逝こう。 それがこの乱世で少しでも長く続くように。 「有難う……子龍」 今まで本当によく私に付き従ってくれた。 次の瞬間子龍は微笑んで見せた。 庭で見たあの綺麗な……心からの笑顔だ。 それを私にも向けてくれるか…。 私は感謝しよう。 雲長、翼徳……そして子龍。 かけがえの無い弟を与えてくれた運命というものに―――。 written by y.tatibana 2003.06.11 |
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