100題 - No7

寂しさ
窓から吹き込んでくる初秋の風が、湯上りの火照った体に心地良い。
趙雲は酒を見たした杯を卓の上に置き、窓辺に寄る。
夜空に浮かぶは見事な満月。

彼が出発してもうどれくらい経ったのだろう。
もうとっくに目的地に着いて、陣を張っているだろうか。

戦いが幾月にも渡って決着のつかないことは稀なことではない。
馬超と一線を越えてからも、こうして長く離れる事に寂しさを感じたことなど一度もなかった。
自分達は武人であり、兵を預かる将なのだ。
その事に誇りを持っているし、まして共に在る時も常にお互いの傍らで過ごすようなそんな甘い関係でもなかった。
その距離感が程好く、趙雲は現状に満足していた。
けれど……今この胸に巣食う寂寥感は何なのか。
思えば出陣する前の馬超の様子もいつもとは違っていた。





出陣の前日、ふらりと馬超は趙雲の屋敷にやって来た。
それ自体はいつもの事だったので別段驚くでもなかった。
お互いが抱きたい抱かれたいと思えばそれぞれの屋敷を訪れ、そして目的を果たせばそこに長居はしない。
また、他愛のない話をしながらただ酒を酌み交わす…そんな時もあった。
それでも馬超が趙雲の屋敷で朝を迎える事はなかったし、その逆も然りだ。
しかしその日の馬超は違った。
まるで飢えを満たすかのように何度も何度も趙雲を抱き、趙雲はこれまでにない激しさにただ翻弄された。
ようやく馬超が身を離した時、趙雲は指一本さえも動かすのが億劫な程ぐったりと体を横たえていた。
馬超はそんな趙雲を自分の胸に抱き寄せると、労わるように趙雲の艶やかな黒髪を手で梳く。
いつもならばとっくに身なりを整え、帰って行く筈だ。
唯でさえ明日は出陣であるというのに。
「…どうか……したのか?」
不審に思って尋ねる趙雲に、馬超は微かに首を振る。
「何も……」
ただそう言って飽くことなく趙雲の髪を撫でている。
体の倦怠感に抗い難い眠気が襲ってくる。
言葉を続けようと思うのに、趙雲は馬超の温もりを感じながら眠りに落ちていった。

目を覚ました時、ぶつかった視線に趙雲は目を見開いた。
窓から射す光が夜明けを知らせている。
「まだ……いたのか?」
「随分な言われようだ」
肩を竦めて馬超は苦笑する。
「偶には貴方と共に朝を迎えたいと思ったのですよ。
……貴方の寝顔も存分に堪能させてもらったし…そろそろ行こうかな」
馬超は寝台から降り立つと、床に散っていた衣を身に付け始めた。
「…どうかしたのか?」
趙雲も半身を起こすと、昨夜も問うた言葉を再度その背に投げかける。
―――今度の戦い…曹操自身が出てくるかもしれないそうです」
「!?」
曹操…馬超の一族を虐殺した彼の憎むべき相手。
その復讐を果たす為に馬超は蜀に降ったのだ。
とうとうその好機が巡ってきたということか。
「……」
趙雲は何事か言いかけて止めた。
代わりに小さく溜息を吐く。
「そうか…。
だが……無茶はせぬことだ。
曹操の本隊ともなればそう易々と勝たせてはもらえまい」
「分かっていますよ」
まるで他人事のような口調。
こちらに背を向けている馬超の表情は分からなかったが、硬く握り締められた拳がその口調とは裏腹に彼の決意を現しているようだった。
そのまま振り返りもせず馬超は部屋を出て行こうとしたが、何を思い立ったのか寝台の趙雲へと踵を返す。
「?」
見上げてくる趙雲の前髪を掻き揚げると、馬超はその額へと静かに口付けを落とした。
「…なっ……何を!?」
突然の事に驚いて、反射的に顔を赤く染める趙雲に、馬超は唇を離すと不敵に笑った。
「今更…こんな事で恥ずかしがるとは可愛いところもあるのですね、趙雲殿」
「馬超殿!」
「はははっ……、では」
馬超はおどけた調子でひらひらと手を振ると、今度こそ趙雲の自室を後にした。
趙雲は赤面したまま額に手をやる。

―――不意打ちだ。

まさかあの馬超が朝っぱらから…ああいう行為に出るなど誰が想像できようか。
そしてこれしきの事がこうも恥ずかしいものとは。
趙雲はしばらく馬超が出て行った戸口を忌々しげに睨みつけていたのだった―――





おかしなことだらけだ―――

あの時の馬超の態度―――
趙雲は月を見上げながら思いに耽る。
あれはまるで…、
もうこれで最期だからと…、
自分との別れを惜しむようではなかったか―――
「まさか……な」
そう否定してみても釈然としない。
自分の中のこの言いようの無い寂しさは、馬超がもう二度と戻っては来ないだろう事を本能的に悟っているからではないのか。
今までどれだけ長く遠く離れていても寂しさなど感じなかったのは、馬超の人並みならぬ強さを知っていたから。
必ず生きて帰ってくることが分かっていたから。
だが、今度ばかりは…―――
どんな事態に陥っても常に冷静さだけは忘れるなと常々趙雲は馬超に言ったものだ。
戦場で我を失う程愚かな事はないのだと。
けれど曹操を前にして、果たして馬超が冷静でいられるだろうか。
曹操を討ち果たす事は馬超の悲願。
恐らく馬超は例え一人であっても曹操の元へ突撃し、刺し違えてでもその首を取ろうとするだろう。

「生きて……帰って来い…」
呟きは闇に飲まれていく。
自分達はきっと傍から見れば随分と冷めた関係なのだろう。
甘い睦言など交わしたこともなかった。
だがそれは馬超のことを何とも思っていないということではない。
大切だと……思っている。
ただそれを面と向かって口に出す程自分は若くも素直でもないだけだ。
そうでなければ男になど抱かれたりはしない。
こんな風に寂しさを覚える事も―――





馬超が行方を絶ったという知らせは、それからしばらくしてもたらされた。
曹操の本隊が現れた途端、周りの制止を振り切って、敵陣に攻め込んでいったのだという。
まもなく曹操の本隊は兵を引き、戦い自体は膠着状態が続いている。
予想していた通りの事態に趙雲は皮肉げに口元を歪める。
覚悟はしていた。
けれど―――、いざ現実を突きつけられ感じる大きな喪失感に、彼が自分にとって如何に特別だったのかを改めて思い知る。

伝えれば良かったのだろうか?
大切なのだと。
必ず生きて戻って来いと。
そうすれば彼は無謀な真似などしなかったのだろうか。
そう思うことはただの自惚れか―――

戦いはとうとう決着がつかぬまま互いに兵を引く形で終わりを告げた。
続々と帰還してくる兵士達。
ある者は笑顔で家族に駆け寄り、ある者は涙を流しながら家族と抱き合っている。
兵士達に労いの言葉を掛ける劉備に付き従ってきた趙雲は、人々の輪から離れた場所でその様子を眩しそうに眺めていた。

ふと…見つめた城門の先。
一番最後に現れた馬影に趙雲の目は釘付けになる。
白馬はゆっくりと近付いてくる。
劉備もそれに気付いたようだ。
丁度城門に入ってきたところで劉備が駆け寄ると、馬上の人物はひらりと馬から飛び降りた。
―――馬超だった。
劉備が何事かを嬉しそうに語りかけ、馬超もそれに応えている。
距離があり過ぎて、趙雲には二人の会話の内容は聞こえない。
歩み寄ろうと思うのに、何故だか足が動かなかった。
今の自分は一体どんな表情をしているのだろうか。
安堵や怒りや嬉しさ…心の中で様々な感情が渦巻いていて……。
逡巡しているうちに、目が合った。

一瞬―――

すぐに趙雲は視線を逸らす。
呪縛から解き放たれたように、体が動いた。
駆け出した。
馬超へ…ではない。
趙雲は身を翻して、城門とは反対方向へと走り去る。
どれくらい走っただろうか。
不意に腕を捕まれ、そのまま強い力で引き寄せられた。
気付いた時には強く抱きしめられていた。
「や…めろっ!
こんな所で……、皆がいるのだぞ!」
「城門から随分離れてます。
第一、皆自分達のことで頭が一杯で誰も見てはいませんよ」
もがく趙雲を逃がさぬ様、馬超はその腕に更に力を込める。
それでも趙雲は抵抗していたが、それが無駄だと悟ると仕方なく力を抜いた。

流れる沈黙に先に口を開いたのは馬超だった。
「出陣前…貴方の屋敷を訪れた時、これで最期になるだろうと貴方を抱いた。
俺は……自分の命がどうなっても曹操の首が取れれば良かった。
けれど敵に囲まれ、死ぬのかもしれないとそう思った時…浮かんだのは貴方の顔でした。
まだ死ねない……いえ…死にたくないとそう思いました。
あれで最期だと納得していた筈なのに、どうしても貴方に会いたい気持ちを抑え切れなかった。
周りの制止も聞かず敵陣に突撃した挙句、曹操の首も取れずに戻ってきてしまいました。
情けない奴だとお思いでしょう…。
けれど後悔はしていません。
こうしてまた貴方をこの腕に抱く事が出来たから―――

趙雲にも言いたいことは色々あった。
だがそれが混ざり合って、何から告げれば良いのか分からなかった。
だから趙雲は反射的に馬超に背を向けたのだ。
しかし、こうして馬超に抱きしめられ、彼の言葉を聞いていると自分が言いたい事はただ一つなのだと気付く。

違う―――

本当は馬超の姿を見た瞬間に口をついて出そうになったのに、それを押し込め気付かない振りをしたのだ。
今更ながら素直になれない自分に、趙雲はほとほと飽きれた。
一度目を瞑り、息を吸い込むと、趙雲は意を決して口を開く。

―――会いたかった」

趙雲もまた馬超の背に腕を廻した。
あとはもう言葉もなくただただ強く抱き合っていた。
お互いの存在を確かめ合うように―――






written by y.tatibana 2003.05.29
 


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