100題 - No6 |
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秋が終わりを告げ、本格的に身を切るような冷たい風が吹き始める頃、馬超は決まって空を仰ぎ見る。 馬超が蜀に降ってからもう何度目かを迎える冬。 空を見上げ思いを馳せるのは、彼の生まれたところ……西涼の地―――。 自室の庭に面した扉を開け、戸口に寄りかかるように身を預けて、飽くことなく空を見る。 厚い雲に覆われていて日は見えないが、夜が明け始めた空は段々と明るさを増してきていた。 「……馬超殿」 後ろから掛かる控えめな声。 振り返ると薄衣一枚を纏っただけの趙雲が立っていた。 「すみません……、起こしてしまいましたか?」 趙雲は微かに首を振ると、馬超の隣に並んだ。 襟元から胸にかけて覗く白い肌には馬超が刻み込んだ赤い痕が彼方此方に鮮やかに散っていた。 馬超の視線に気付いた趙雲は慌てて胸元を隠すように衣をかき寄せた。 その目許は薄っすらと染まっている。 これがあの長坂の英雄だと誰が想像できるだろう。 こうやって自分の前では武将としての仮面を脱ぎ捨ててくれる彼が堪らなく愛しい。 クスクスと笑いを漏らす馬超を横目で睨んで、趙雲は視線を空へと移した。 「…故郷の事を思い出しておられたのですか?」 「ええ……」 「貴方の生まれたところは、どんな処だったのですか?」 趙雲の問いに、馬超もまた彼に倣って空を見上げる。 今はもう帰ることの叶わないあの北方の地―――。 「西涼は……広々とした草原がどこまでも続いていて、馬でその大地を思い切り駆けるとまるで風と一体化したような…。 あの爽快感はとても言葉では言い現せません。 でも……俺が一番好きだったのは、冬の景色です。 雪で辺り一面真っ白に染まって、遮るものはなにもない広大な大地を眺めていると、心が洗われるようで…。 よく一人雪の中に佇んで、その景色を眺めていたものです」 そんな馬超を見て、従兄弟の馬岱は『この寒い中、気がしれない』とぼやいたものだ。 「この頃にはもう…あそこは雪が降っていました。 だからいつもこの時期になるとつい空を見上げてしまう…」 あの頃は…城に帰ると父や弟がいて、妻と子供が自分を笑顔で迎えてくれた。 外で冷え切った体を暖めてくれる…優しい人々。 充足した、永遠に続くと思って疑わなかった日――――。 「帰りたいと思われますか……?」 いつの間にか趙雲の漆黒の瞳が馬超を真っ直ぐに捕らえていた。 「いいえ」 即座に答える。 それは虚勢でも何でもない。 空を見上げるのは確かに自分の生まれ育ったあの場所を思い出しているから。 だがそこにあるのはただ懐かしさだけだ。 帰りたいとは……今はもう思わない。 そう―――彼と出逢ってからは。 「俺は幸運にも……帰るべき大切な場所をまた見つけましたから」 言って、趙雲の肩を抱き、自分の方へと引き寄せる。 あの頃と勝るとも劣らない温もりがここにある。 何時もなら恥ずかしがって抵抗してみせる趙雲も今はただ静かに馬超に身を委ねた。 「貴方の生まれたところはどんな場所でしたか?」 趙雲を抱きしめながら耳元に囁く。 「私は……はっきり言ってよくは覚えていないのです…。 両親を早くに亡くしましたし…、戦火の中各地を転々をしてましたから。 一つの場所に長く留まった記憶がありません…。 正直…語るべき故郷をもつ貴方を少し羨ましく思います。 ですが、不幸だと思ったこともありません。 そんな過去があって、今の自分がある。 生まれたところは無くとも、今とても幸せだと感じるから…」 「……貴方のその幸せの中に俺はいますか?」 「 」 答えは吹きつけた強い風に掻き消された。 だが馬超の耳にはそれがはっきりと届いていた。 今の自分はきっと随分と情けなくも、満ち足りた顔をしているだろう。 「そろそろ中に入りましょう。 風が随分と冷たい……。 貴方に風邪を引かす訳にはいきませんからね」 パタン……と閉じた扉に舞い落ちた白い一片。 この辺りでは随分と早い初雪がはらはらと降り始めていた―――。 written by y.tatibana 2003.05.23 |
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