100題 - No5

血筋
「はぁ……」
もう何度ともしれない溜息を漏らす青年。
青年の頭を悩ませている原因は、彼の従兄弟。
自分以外の一族を曹操に虐殺され、蜀に降った。
あの頃の従兄弟は見るに耐えない程痛々しいものだった。
決して自分以外の人間とは馴染もうとはせず、ただ曹操への復讐心のみが彼を生かしているようだった。
それが今や…―――

「はぁ……」
また溜息。
「どうしたんだよ、岱?
さっきから溜息ばかりついて」
近く迫った遠征の為の軍議の席。
馬岱の隣に座っていた溜息の元凶である従兄弟の馬超が声を掛けてきた。
「……聞こえていたんですか?」
と…思わず言いたくなるのを馬岱は堪えた。
何せ馬超は軍議が始まって以来、じっと目の前に座る人物を食入る様に見つめていたから。
遠征での各部隊の役割や策について説明する諸葛亮やそれについて意見を述べる諸将達には見向きもしない。
如何なる言葉も耳には入ってはいないだろう。
「…何でもありません。
それよりも、ちゃんと皆の話を聞いて下さい、兄上」
ひそひそと耳打ちするが、馬超が気にする様子は一向にない。
「へーへー」
気の抜けるような返事をして、そのまままた眼前の人物へと視線を移す。
その人物とは趙雲子龍。
長坂の英雄と讃えられ、劉備を始め諸葛亮や諸将からの信頼も厚い。
「相変らず綺麗だよなぁ〜、趙雲殿。
お前もそう思うだろう?」
「兄上……今はそのようなことを言うべき場ではありません」
痛む頭を押さえつつ呆れたように馬岱は言う。
「相変らず堅ぇなぁ…お前は」
「何を仰っているんですか…全く。
……趙雲殿も怒っていらっしゃいますよ…」
趙雲は軍議が始まってからの馬超の絡みつくような視線に完全無視を決め込んでいたようだったが、徐々にその眉間に刻まれる皺が深くなっていた。
「はぁ……」
また無意識の内に溜息が出た。

趙雲と出逢ってから馬超は変わった。
否…変ったというような可愛いものではない…まさに別人だ。
来る日も来る日も趙雲を追いかけ、どれだけ邪険にされても諦めない。
趙雲は確かに誰の目から見ても整った美しい顔立ちであったし、想いを寄せる者も決して少なくないだろう。
同性にそういった好意を抱く事自体、戦場では珍しいものではなかったし、馬岱にも何の嫌悪感もなかった。
だが……まさかあの馬超がこれ程までに誰かのことを一途に追う日が来ようとは思ってもみなかったのだ。
西涼太守の息子として育った馬超は、傲慢さなどはなかったがやはり気位が高かった。
けれどその端正な容貌と優れた武勇が人々の羨望を集め、女達は黙っていても彼の元に寄ってきた。
不遜だが、身内や下の者には優しい…そんな馬超の従兄弟であること…同じ血筋であることが馬岱には誇らしかった。
それが……今やこの体たらく―――

おじ上……。
僕は情けなくて涙が出そうです…。

恋をすると人は変わるという。
誰かを愛しく思う気持ちは大切であると馬岱も思う。
けれど…こうまで人は変わってしまうものなのか!?
馬岱自身色恋には疎かったので、どうにも理解し難いのだった。

馬岱の心の内など知る由も無い馬超は軍議が終わり、早々に立ち去ろうとした趙雲に声を掛ける。
「趙雲殿!」
「……」
趙雲は一瞬足を止めかけたが、聞こえなかったことにしようと決めたらしい。
そのまま馬超の呼び掛けを黙殺して部屋を出て行く。
だがそれで引き下がる馬超ではなかった。
回廊を早足で歩き去る趙雲を追いかけつつ、背後から大声で呼ぶ。
「趙雲殿ー!」
「……」
「趙雲殿ーーーっ!」
三度目で遂に趙雲が折れた。
立ち止まると明らかに怒りを押さえ込んだ引き攣った笑顔で振り返る。
「……何の御用かな?馬超殿」
「もう帰られるのですか?
でしたら俺の屋敷で酒など如何ですか?」
「申し訳ないが、まだこれから雑務が残っている故…。
お誘いは有り難いのだが、失礼させて頂く」
馬超の誘いを無下に断ると、趙雲はさっさと身を翻した。
「相変らず冷たいですね…趙雲殿。
そんなに照れなくても良いのに…。
趙雲殿ってば!」
しつこく言い募る馬超にとうとう趙雲がキレた。
「五月蝿い!
誰が照れてなどいるものか!
貴殿の頭の中は一体どのようになっているのだ!?
何度も言った筈だ。
私は貴殿のことを何とも思っていないし、これから先も未来永劫どうこうなることもない!」
回廊には何人もの人間がいたが、誰もこの二人のやり取りを気にする者はいない。
何事もないように通り過ぎて行く。
この風景はもう蜀では日常茶飯事になっていたのだ―――



「いい加減諦めたらどうですか?兄上…」
鍛錬場で兵の様子を見守りながら、傍らでやる気なさげに立つ馬超に馬岱は呆れた口調で言う。
これが趙雲の部隊との合同での鍛錬ならば、馬超の態度は明らかに違うのだろう。
そう思うと馬岱は情けなさにまた溜息が出そうになる。
「諦めるって…何を?」
「何を?じゃありませんよ!
趙雲殿の事ですよ!
あそこまで冷たくあしらわれているのですよ…。
どう考えても脈なんてないじゃないですか!」
すると馬超は何が可笑しいのか、声を上げて笑い出した。
「あはは…俺が趙雲殿を諦めるなんて事する訳ないだろうが。
諦めたらそれで終わりだし、楽にもなるんだろうけどな。
今俺は生きてるなぁ……って感じがするんだよ。
もちろん一族の事を忘れた訳でも、曹操への憎しみが消えたわけでもないけどな…。
あの人と逢ってから毎日が楽しくてしようがない。
何だか不思議そうな顔をしているな?
―――お前にもいつかそういう人間が現れた時、分かるさ」
馬超はくしゃくしゃと馬岱の髪を掻き回すように頭を撫でる。
「ま、お前はまだまだお子様だからなぁ〜」
「子供扱いしないで下さい!」
真っ赤になって抗議する馬岱に馬超はニヤニヤとした笑みを浮かべるだけだ。
カチンときた。
「あっ!趙雲殿!」
言って、馬岱があらぬ方向を指差す。
「えっ、どこどこ!?
趙雲殿〜〜〜」
途端に馬超は馬岱の指の先へと視線を彷徨わせる。
が、そこには当然誰もいる筈もなく―――
―――!」
「ほんと兄上って…
馬鹿ですね」
馬岱の冷たい視線が突き刺さる。
「ぐはっ……!
こら、岱!
お前騙したなーーーっ!」
先程までと立場が逆転する。
馬岱はやれやれとばかり肩を竦める。
「…お前、いつからそんなに可愛げがなくなったんだよ!
昔は『兄上〜、兄上〜』って俺の後ばかり追っかけてきてたくせに。
あ〜あ、あの頃のお前はホント可愛かったよ…」
「一体いつの話をしてるんですか!?
あ〜、やだやだ。
昔を懐かしむだなんて年取った証拠ですよ」
「なんだとー!」
「事実でしょうが!」
一番哀れだったのは二人の不毛な言い合いを、止めるべきか放っておくべきか、ほとほと困り果てて立ち尽くす鍛錬中の兵士達…だったのかもしれない。



「はぁ……」
と、もはや習慣となった溜息と共に、馬岱は城下を歩いていた。
馬超は相も変わらず、趙雲を追いかけては相手にされないという報われない日々を送っている。
趙雲のどこにそれほど馬超は魅かれたのだろうか?
ふとそう考え始めた時、なんという巡り合わせか、前方にその趙雲が歩いていることに馬岱は気付いた。
「趙雲殿!」
声を掛けると、趙雲はゆっくりと振り返った。
険を帯びた、冷たい瞳と共に。
いきなり睨みつけられて馬岱は面食らったが、趙雲も馬岱の姿を認めると途端に困惑したような表情になった。
「あ……馬岱殿であったか…、申し訳ない」
「?」
「あぁ……いや、貴殿の従兄弟殿かと思ったのだ。
よく声が似ておられる故…」
自分はそれ程までに従兄弟の声に似ているのだろうか…馬岱は小首を傾げる。
「して、何か御用がおありか?」
「いえ……いつも兄上がご迷惑をお掛けして…」
申し訳なさそうな馬岱に、趙雲は軽く息を吐く。
「いや…貴殿のせいではあるまい。
だがどうも馬超殿は冗談が過ぎるようだ……」
「冗談?」
「私の事を好きだなどと…冗談以外の何ものでもあるまいて。
周りから堅物だ何だと言われる私をからかっておられるのだろう。
冗談だと分かっているのだから軽く流せれば良いのだろうが、そういうことはどうにも苦手で…。
ついつい本気で言い返してしまう。
そんな私の反応が馬超殿には面白いのだろう」
馬岱は唖然とした。
まさか馬超の想いがこうも全く通じていないとは。
クスッ…と思わず笑いが漏れた。
「何か……?」
「いいえ…」
この年上の従兄弟の想い人を可愛らしいと思ってしまったのだ。
そんな事を言おうものならきっとまた趙雲はからかわれたのだと思って怒ってしまう。
この人は他人から寄せられる気持ちにかなり疎いのかもしれない。

二人は他愛も無い会話を交わしながら、何とはなしに歩き出した。
馬超と共にいることが必然的に多い為、思えばこうやって二人で話すことは初めてだった。
馬岱は趙雲の事を余りよくは知らなかった。
従兄弟の想い人ということ以外は。
だが話してみると趙雲が如何に実直で真面目な人間かということが分かる。
そしてとても純粋で、容貌だけでなく心も同じくらい綺麗な人だということも。
そういう所に馬超は魅かれたのだろうか。
―――分かる気がした。

「やはり馬岱殿は馬超殿に良く似ておられる。
声や顔立ちもそうなのだが…こう醸し出される雰囲気が…」
「えーっ!
あの馬鹿の兄上にですか!?」
心底嫌そうに言った……つもりだった。
けれど―――内心はやはり嬉しかった。
何だかんだ言っても、馬岱は馬超のことを尊敬しているし、憧れているのだ。
趙雲はそんな馬岱の心の内を見透かしたのだろうか。
フッ……と優しく微笑んだ。

どきりとした。
初めて見た趙雲の笑顔。
いつもは眉間に皺を寄せているか、取り澄ましていているかのような冷酷な印象を与える趙雲が…。
あまりに綺麗で見とれてしまう。
と、趙雲のその表情に気を取られていて、地面に転がっていた石に気付かず脚を捕らわれた。
「うわっ…!」
そのまま思い切り転んでしまう。
「大丈夫か?馬岱殿!?」
趙雲も派手に倒れた驚いたようで、倒れた馬岱の傍らに蹲る。
「す…すいません。
大丈夫ですから……」
恥ずかしさに顔を赤くして、馬岱は仰向けになると上半身を起こした。
「そこ…血が出ている」
倒れた拍子に肌蹴た衣の裾から除く右足を見れば、確かに膝頭が血で滲んでいた。
趙雲は自分の衣の袖口を破ると、それを馬岱の傷に巻きつける。
他に傷はないかと確認する趙雲を、馬岱は何も言えずに見入っていた。
大した傷ではないのに、高価そうな衣も何の躊躇いも無く破り、手当てを施してくれた。
無様に転んだ馬岱を笑うでもなく、趙雲は真剣そのものだ。
息をすればその吐息が掛かる距離にある趙雲の横顔。
憂いを含んだかのような漆黒の瞳とそれを縁取る長い睫、そしてすっと通った鼻梁に馬岱は今更ながら改めて趙雲の美しさにハッとさせられる。
呪縛にかかったように目が離せない。
心臓の高鳴りを確かに馬岱は感じていた。

これって……もしかして…。

馬岱はようやく趙雲から視線を離し、天を仰ぐ。
そして溜息。
それはいつもの従兄弟に向けらたものではなく、自分へと向けたもの。

おじ上……。
こうして同じ人に魅かれるのも……、
やはり、
血筋なのでしょうか…―――






written by y.tatibana 2003.05.18
 


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