100題 - No2

本当に呆気なく……彼は逝った―――
生前誰よりも生命力に満ち溢れ輝いていた。
一族を虐殺されても、他国に降ることになっても、ただ前のみを見て進む。
そんな人間だった。
誰がそんな彼の若過ぎる死を予測しただろう。
戦場でなら兎も角も、病でなどど。

寝台に横たわる彼の顔は安らかだった。
命が消えるその瞬間まで悔いなく生きた…そんな満ち足りた死顔。
否……とても逝った人間のそれには思えなかった。
ただ眠っているかのようで。
けれど、その枕元に縋り付き、周りを憚らず涙を流す彼の従兄弟の姿を見て、やはり彼は逝ったのだと確信する。
特に彼と親しかった訳ではない。
寧ろ彼の事を疎ましくさえ思っていた。

彼は貴方を愛した人だから―――
そして貴方が愛した人だから―――

横に立つ貴方の様子をそっと伺う。
貴方はただ静かに彼の顔を見つめていた。
その漆黒の瞳には何も感情らしきものは浮かんではいない。
涙を流すこともなく、ただただ静かに―――
何を想い、何を感じているのか…。
その表情からは何も読み取れなかった―――

彼が死んでも何が変わる訳でもない。
確かに五虎大将の彼を失ったことは、戦力的に見れば大きな損失と言えよう。
けれどそれでこの国が滅びることはない。
日々は変わらず流れていく―――
貴方は常と変わることなく精力的に執務をこなす。
その穏やかな微笑みも、彼の生前と何ら変わりはない。
周りから見れば貴方は何一つ変わっていないように見えただろう。

けれど……。
彼よりも遥か昔から貴方を見てきたから。
そしてずっと貴方を想い続けていたから。
貴方があることを避けていることに…、
―――私は気付いてしまった。



その夜、私は貴方を屋敷に招いた。
軍務について相談したいことがあるのだと言うと、貴方は快く招きに応じてくれた。
「突然お呼び立てして申し訳ありません」
そう言って詫びた私に、貴方はいつものように微笑んで微かに首を振る。
「いいえ、お気になさらないで下さい」
「ありがとうございます。
……さぁ、どうぞこちらへ」
先頭に立ち、貴方を一室へと案内する。
その部屋に入った瞬間、貴方の端正な顔が僅かばかり歪んだのを私は見逃しはしなかった。
けれど気付かない振りをする。
「どうぞお座り下さい」
席を勧めると貴方の瞳は傍目にも分かるほど戸惑いに揺れた。
やがて貴方は静かに息を吐くと、諦めたように私の勧めた席に座した。
だが何かに耐える様に膝の上で拳を握り締めると、そのまま俯いてしまった。

その席の前の円卓には様々な料理が並べられていた。
もちろん私が指示して用意させたものだ。

私が向かいの席に座っても貴方は俯いたままこちらを見ようとはしない。
私はそれを気にする素振りも見せず、ゆったりと微笑んだ。
「城から直接こちらに来て頂いたので、まだ夕餉はお済みではないと思いご用意させて頂きました。
まずはお召し上がり下さい。
お話はその後にでも」
「はい……」
貴方らしからぬ弱々しい声。
「どうかされたのですか?
さぁ……どうぞ」
「軍師殿…、私は……」
漸く貴方は顔を上げ何事かを告げようとしたが、私はそれを有無を言わさぬ強い瞳で封じ込めた。
「……」
貴方は言葉を飲み込むと、膝の上で握り締めていた手を躊躇いがちに箸へと伸ばした。
その手は微かに震えていた。
ゆっくりと料理の一つを取り、意を決したように口に運んだ。

次の瞬間、貴方は口元を押さえ、席を立ち上がると部屋から駆け出した。

ああ……やはり。
貴方の後を追いながら、私は自分の推測が正しかったのだと知る。

貴方は庭の片隅にある井戸の傍に蹲り、激しく咳き込んでいた。
「大丈夫ですか?」
声を掛けると、水で濯いだ口元を拭い、貴方は虚ろな瞳で私を見上げた。
「申し訳ありません……私は…」
言い澱む貴方の言葉を私が続けた。
「どうしても食事が咽を通りませんか?
……貴方はずっと食事を避けておられるでしょう?」
「気付いて…いらっしゃったのですね…」
頷く私に、貴方は泣き笑いのような表情を見せる。
「どうしでも……どうしても体が受け付けてはくれぬのです。
頭で分かっていても、食べ物を口に入れた瞬間どうしようもない嫌悪感が込み上げてきて…」
「…それは体ではなく心が受け入れていないのですよ。
貴方の心が生きようとはしていないからです。
……それ程までに彼の許にいきたいのですか?」
貴方の漆黒の瞳が見開かれる。
「貴方と彼の関係を私が知らぬとでも?」
貴方は私から視線を逸らし、項垂れるように俯いた。
「…瞳を閉じ横たわる彼を見ても、私には彼がこの世から居なくなったなど信じれませんでした。
ほんの少し前まで戦場を共に駆けていたのです。
戦場での彼はとても生き生きとしていて、あのように逝ってしまうなどと微塵も思っていませんでした。
だから、感情が麻痺してしまったのか…まるで他人事のように彼の顔を見つめていました。
けれど時が経ち、彼が本当にいなくなってしまったのだと実感するにつけ、どうしようもない空虚感で何も咽を通らなくなってしまって……。
自分がどうしたいのか…それすらも分からなくて―――
「来なさい!」
私は貴方の腕を捕らえると、無理矢理立ち上がらせた。
貴方の腕は武将のそれとは思えないほど細くなっていて、よくこれで今まで通り鍛錬をこなしていたものだとある意味感心した。

そのまま強引に貴方を元の部屋まで連れ戻す。
常ではまずないであろう声を荒げ乱暴な所作の私を、貴方は呆然と見つめていた。
どんな時も冷静沈着で冷徹な軍師。
それがみなが知る私。
そういう風に自分を演じ続けてきたから。
けれど今はそんなことはどうでも良かったし、そんな余裕もなかった。

私は円卓の上に並ぶ料理の中から粥を盛った椀を取ると、少量を口に含み、貴方の顎を捉えるとそのまま口移しに流し込む。
「……!」
驚いた貴方は顔を逸らして逃れようとするが、私は空いた手で貴方の後頭部を押さえ込み、それを許さない。
貴方の咽が動き、口移しにした粥が飲み込まれたのを感じ取って、私は唇を離した。
貴方が何かを言い掛けたが、それを封じ込めるように私はまた口移す。
そうして何度も何度もそれを繰り返す。
貴方は眉根を寄せ、まるで苦行に耐えるかのように苦悶の表情を浮かべていた。
普通ならば貴方が私の手を逃れることなど容易い筈だ。
けれどそれすらも出来ない程貴方は衰弱しているのだろう。
幾度その行為を繰り返したのか。
椀の中が空になって、ようやく私は貴方を解放した。
貴方は肩で息をしながら、私を睨みつけた。

強い瞳―――
そうそれが貴方だ。
それでいい。

「生きなさい」
私は強い瞳を見返しながら、微笑む。
「生きて、生きて、生き抜け……と。
―――彼から貴方へと託された言葉です」
「彼から……?」
「ええ―――



彼が亡くなる数日前…、彼に呼ばれて託された言葉。
あいつが崩れ落ちそうになったら、伝えて欲しいと。
あいつは強いけれど、反面とても脆い部分があるから。
けれどそれを周囲に気付かせまいとして無理をして、自身を傷つける。
感情を無理矢理押さえ込むなと何度も言ったが、どうやらその役割も終わりらしい。
だから貴殿に託す。
楽しいのなら笑い、腹が立つのなら怒れ…そして悲しいのなら泣くといい。
立ち止まってもいい…けれど振り返るな。
そうしてこの乱世を生きて生きて生き抜け―――
その時が来たら迎えに行くから…その時まで前を見て進んでいけ。
その名に恥じぬ…龍の如き力強さをもって―――
病身とは思えないような生き生きとした強い口調。
そしてその瞳は、貴方を想ってだろう…とても優しかった。
どうして私にそのようなことを託すのだと聞くと、彼は同じ想いを抱く者だから―――とただそれだけ。
正直貴殿の事はいけ好かない奴だと今でも思ってるがな…そう付け加えて彼は豪快に笑った。



「彼らしい……」
呟いた貴方の瞳から、ポタリ…と涙が零れ落ちた。
一度流れ出したそれは次から次へと堰を切ったように溢れてきているようだった。
けれど貴方はそれを拭おうともせず、ただ感情の赴くままに任せていた。
彼が逝ったあの日から止まっていた貴方の心が動きだした。
「これが…最後です。
彼の為に涙を流すのは、これが最初で最後です…。
今度彼と出逢った時に、まっすぐと彼の強い瞳を見返せるように…私は悔いなく生き抜いて行きたいと…思います」
とめどなく涙を流しながら、貴方は穏やかに笑った。

とても綺麗な涙だった―――
貴方にこんな涙を流させる彼を羨ましくも思い、また苦々しくも思った。
だだ彼の言いなりになるなど癪だ…。
私は貴方を引き寄せ、強く強く抱き締めた。
―――ッ!」
貴方は驚いたようだったが、やがて私の胸に顔を埋めて、もう何も言わずただ泣いていた。
これくらいの役得がなければやってられない。
私は貴方を抱き締めながら、彼に向かって胸の中で精一杯の悪態をつく。



私のこの想いは告げるつもりなければ、届くこともないだろう。
元よりそのつもりだ。
きっと貴方は愛し愛された彼と同じように、力強くその生を駆け抜けて行くのだろう。
ただそれを見守っていければ…それで良い―――
けれどこの先もしも……貴方が涙を流す事があったなら、それを受け止めさて欲しい。
それが叶えばどんなに幸せだろう。
それがささやかで……けれど贅沢な私の願い―――






written by y.tatibana 2003.05.01
 


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