100題 - No1 |
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本当は告げるつもりなどなかった。 一生。 この胸の中に秘めておくつもりだった――――。 「趙雲様……」 戸の外から聞こえる控えめな家人の声に、趙雲は目を覚ました。 辺りを支配しているのは闇だ。 僅かに戸の外に仄かな光が浮かび上がっていた。 家人が火を灯した蝋を持っている為だろう。 「どうした?」 寝台から身を起こしつつ問う。 「このような夜更けに申し訳ございませぬ。 ……実はお客人がお見えなのですが…」 「…客?」 趙雲は眉根を寄せた。 常識的に客が訪ねて来るなど正気の沙汰とは思えないような時間だ。 だが客の名を聞いた時、趙雲は何か火急の事態が起こったのだと思った。 その人物は丞相・諸葛亮がその才を見込み、自分の後継者とするべく計を用いて降らせた者。 恐らく諸葛亮からの何某かの指令を伝える為に来たのだろうと。 「客間にお通ししているのだろう? すぐに行く」 「それが……」 趙雲の言葉に、何故か家人が言い澱んだ。 聞けば中への招きを拒んで、未だ外に居るのだという。 幾ら勧めても頑なに拒むのだと。 怪訝に思いつつも自分が行くと告げ、家人を下がらせた。 寝台から降りようとした趙雲の腰に後ろから伸びた腕が廻された。 「放せ……聞こえていたのだろう? 客人を迎えねばならん」 呆れたような趙雲に、寝台にだらしなく寝そべり片腕で趙雲を捕らえていた男が楽しそうに笑いを漏らす。 「こんな夜更けに訪ねてくるとは無粋な奴だな」 「何を言っている……まったく。 お前がここにいることなど彼が知っている筈なかろう」 溜息と共に趙雲は腰に廻されていた腕を強引に解く。 「相変らず素っ気無いな、貴方は」 その言葉の内容に反して、男の口調は軽い。 チラリと後ろの男を睨みつけ、趙雲は寝台から降りると手早く身なりを整える。 「感心する」 その様子を眺めていた男の呟きに、趙雲は片眉を上げ疑問を表す。 「貴方はそうやってすぐに趙子龍に戻れるのだな……と。 みなが知っている常に冷静沈着で職務に忠実な人望厚き趙子龍に。 先程まで俺の腕の中であれほど乱れていた人間とはとても思えん」 途端に趙雲の瞳は険を帯びる。 「……ここで死にたいのか?」 男は怯む様子もなく、くすりと笑う。 「流石に死ぬのは遠慮したい。 まだまだ貴方を抱き足りないのでね」 「口の減らぬ男だな…お前は…」 忌々しげにそう吐き捨てると、趙雲は部屋を出た。 外に続く戸を開けるまでは気付かなかったが、外は雨が降っていた。 その雨の中、真夜中の来客は俯いたまま立っていた。 「どうかされたのか?姜維殿――――」 趙雲の声に、来客はゆっくりと顔を上げた。 まだあどけなさが残る青年の顔。 その青年……姜維は虚ろな瞳で趙雲を見た。 「……このような時間に突然お訪ねして申し訳ありません」 ポツリとそう言って、また俯いた。 「いや、かまわぬよ。 何かあったのではないのか?」 その問い掛けに姜維は弱弱しく首を振る。 「兎に角中へ。 そのように雨に濡れて…。 すぐに湯の用意をさせよう」 けれど姜維が動く気配はない。 「姜維殿?」 返ってくるのは沈黙のみ。 一体なんだというのだろうと趙雲は内心溜息をつく。 どうやら何か不測の事態が起こった訳ではないらしい。 では何故突然訪ねてきて、黙って雨の中に立っているのか。 だからと言ってこのまま放っておく訳にもいくまい。 趙雲は姜維を中に入れようと、彼の手を取ろうとした。 趙雲が姜維に触れたその瞬間、姜維は弾かれたように顔を上げ、思いもよらぬ強い力で趙雲の手を振り払った。 流石に趙雲もムッとした。 「……用がないのならお引取り願おう」 冷たい視線を投げかける趙雲を、姜維は意を決したように見返した。 まるで睨みつけるように強く――――。 「……いるのでしょう?」 ようやく発せられた言葉だったが、趙雲にはその意図が分からなかった。 「何を……?」 「いるのでしょう? この屋敷の中に、馬将軍が」 趙雲は一瞬目を見張った。 けれど瞬時にその表情を覆い隠し、微笑んだ。 「さぁ……どうだろう。 だがここに馬超殿がおろうが居まいが、姜維殿にどのような関係が? 仮に居たとして、同じ兵を預かる将として、彼と酒を酌み交わしていたとて何ら不思議はあるまい」 「……俺は見たんです。 今日…貴方と馬将軍が修練場で口付けているのを…」 趙雲は舌打ちしたい気分だった。 執務はとっくに終わったあの時間に、まさか修練場でのあれを見られていたとは。 人影などもちろんなかった筈だ。 けれど万が一の可能性を考え趙雲は拒んだのだが、結局馬超の強引さに負けてしまったのだ。 馬超に呼ばれて、あの場所に行った時点でどうなるか分かってはいたのだが…。 「……偶然通り掛かった時に見てしまいました。 貴方は行為に夢中なようで、俺の存在にお気付きではないようでしたが……」 姜維はそう言ったが、実はそれは嘘だった。 姜維がそれを目撃したのは偶然ではない。 思ったより執務に時間を取られ、ようやくそれを終えた姜維が下城しようと回廊を歩いていた時、遥か前方を歩く影に気付いた。 どれだけ距離があろうともそれが何者であるかはすぐに分かった。 彼が蜀に降って以来、諸葛亮以外で憧れそして尊敬し…そしていつしか恋焦がれるようになった人物であったから。 彼を惹きつけてやまないその人は、あの諸葛亮ですら一目置く人物。 漆黒の髪と瞳を持つ美しい人だった。 引き寄せられるようにそのまま彼を追った。 本当は声を掛けようと思ったのだ。 てっきり彼も下城するものだと思っていたから。 けれど、彼は城門とは別の方へと歩いていく。 声を掛ける機会を逃し、姜維は彼の行く先が気に掛かりそのまま気付かれぬようひっそり後をつけた。 ややすると彼が修練場に向かっているのだと気付いた。 このような時間に向かうには相応しくないその場所へと進んでいく彼にますます姜維は疑問を抱いた。 修練場には先客が居た。 闇夜の中でもはっきりと分かる金の髪。 一族を曹操に虐殺され、姜維同様蜀に降った男…馬孟起だった。 馬超は修練場に現れた彼を当然のように引き寄せた。 修練場の一角に建つ厩の影に身を潜めて様子を伺っていた姜維は、 どくん…… と心臓が高鳴るのを感じた。 彼は最初抵抗していたようだが、やがて諦めたように馬超に身を委ねた。 これ以上見てはいけないと姜維の心が叫ぶ。 けれど呪縛にかけらたように目を逸らすことはできなかった。 そして現実は残酷に突きつけられた。 そのまま激しく馬超が彼に口付けるその姿を目の当たりにした――――。 しばらくすると、二人は何事もなかったかのように修練場を後にした。 その時、馬超がちらりと姜維の方を見た気がした。 …いや気のせいではない。 一瞬だったがはっきりと目が合ったから。 そして馬超がからかうような笑みを浮かべたから。 かっと全身が熱くなるのを感じた。 それは怒りか、羞恥か、後ろめたさか。 けれどそれらの感情をどうすることもできず、ただ姜維は立ち尽くすしかなかった――――。 どれくらいそうしていたのだろうか。 ようやく姜維はその場を離れ、歩き始めた。 彼にその想いを伝える気は本当になかった。 きっと自分のことなど相手にしてもらえる訳がないと思っていたから。 けれど彼が他の男に抱きしめられ口付けられているその姿を見て、ただ想うだけの自分に腹が立った。 想うだけでは伝わらない。 伝えなければ何も始まらない――――。 気が付いたら彼の屋敷の戸を叩いていた。 だがその屋敷の中に入ることは固辞した。 きっと寝所には彼と彼を抱く馬超がいる。 その屋敷に何も知らぬような顔をして入ることなど出来ようか。 つまらない意地だと思う。 しかし、実際こうして彼を目の前にすると何も言えなかった。 彼と馬超が睦み合っている現場を見たのだと…そんな事を言うためにここに来た訳ではないのに。 様々な想いが胸に渦巻いて言葉にならないのだ。 「あれは……ただの戯れだ。 姜維殿はお若い故、まだ分からぬと思うが、年を重ねると色々とあるのだ」 しばらくの沈黙の後、趙雲はまるで子供に言い聞かせるように優しく言う。 それが更に姜維の自尊心を酷く傷つけた。 「それも……戯れですか?」 姜維はゆっくりと趙雲の首筋を指差す。 自身の首筋を見ることは出来なかったが、趙雲にはそこに何があるのか想像はつく。 あれ程見える所に跡を残すなと言ったのに…。 今すぐ寝所に行って、殴りつけたい気分だった。 きっとあの男は何も知らずに眠っているに違いない。 趙雲は諦めたように深く息を吐き出した。 「……それで、姜維殿はわざわざそのような事を仰る為にここに参られたのかな?」 姜維は静かに首を振る。 「では……何だというのか? 誰かにこのことを伝えたいのならば、お好きなように。 私も馬超殿も一人身ゆえ、さして困る事などない。 色々と言う輩はいるだろうが、そんなものを気にする程神経は細くないのでな」 「違う……俺が言いたいのは…」 ようやく口を開いたかと思えば、また口篭る。 趙雲はいい加減苛立っていた。 目の前の若者の心の内がまったく読み取れない。 だが姜維は大きく息を吸い込むと、意を決して告げた。 「俺は……趙将軍、貴方が好きです」 「……はっ?」 随分間の抜けた顔を今自分はしているだろうという自覚が趙雲にはあった。 けれどそれだけ姜維が告げた言葉は趙雲の考えの及ばぬものであった。 「ですから、俺は貴方の事が好きなのです!」 言ってから真っ赤になって、姜維はまた俯いてしまった。 「……私も姜維殿に好感を持ってはいるが…」 戸惑いを隠せない趙雲を、姜維は顔を真っ赤に染めたままキッと睨みつけた。 「俺が言う好きはそういう意味ではありません! 俺はもう子供じゃない。 貴方を抱きたい……馬将軍のように。 そういう意味の好きです」 「……」 今度は趙雲が黙り込む番だった。 そんな趙雲の腕を掴み自分の方に引き寄せると、姜維は先程指差したその箇所に唇を押し当てた。 そして素早く身を離す。 「!!」 「これで信じて頂けましたか? 貴方にとって俺はまだまだ足元にも及ばない人間なのかもしれない。 けれど、貴方を想うことは俺の自由だ。 いつの日かきっと貴方を振り向かせてみせます! 覚悟しておいて下さい、趙将軍!」 憑き物が取れたかのように、晴れ晴れとした表情で姜維は笑った。 そして深々と頭を下げると、そのまま雨の闇夜の中に身を翻した。 趙雲は首筋に手を当て、ただ呆然と姜維の背を見送るしかなかった。 「くくくっ……、若いなぁ」 後ろからさも可笑しそうに笑う声。 趙雲は恨みこめて振り返る。 「……いつからそこにいた?」 「すこし前からだな。 あいつが貴方に告白する辺りから。 あいつ必死だったみたいで、俺の姿なんて目に入ってなかったみたいだが」 馬超は悪びれる様子もなく、しれっと答える。 「ご感想は?」 趙雲は馬超を睨んだ後、姜維が走り去って行った闇に今一度目を遣る。 そうしてふっと柔らかい笑みを浮かべた。 「かわいいものではないか。 ああやって、真っ直ぐに想いを伝えられるのも悪くないものだな。 もう随分とそういうことも忘れていたがな…」 「おや? もしかして脈ありなのか? あいつが聞いたら飛び上がって喜びそうだな」 クスクスと馬超も笑いながら、趙雲を後ろからそっと抱きしめた。 「だが……そう簡単には渡す訳にはいかないな」 「……人の心など移ろい易いものだ。 まして私を繋ぎとめておく事は容易くはないぞ」 「ふふ……しっかり肝に銘じておくさ」 こうして嵐のような真夜中の訪問劇は幕を閉じたのだった―――。 written by y.tatibana 2003.04.26 |
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