「お前が書いたのは世界一ありふれた話だな、
女に恋をし、他の男に取られ、自殺するなんて」
…と、親しみを込めゲーテをからかう旧友たち。その「若きウェルテルの悩み」の創作過程を下敷きとするこの映画だってその通り、「よくある」恋物語。それがとても良かった。
(と思ったけど、これは「今」から振り返った映画ならではのセリフなんだろうか?だって「ウェルテル」は「古典」なんだから)
ただしゲーテは死んだりしない。ラスト、街角にあふれる「ウェルテル」スタイルの青に黄色の若者たち。恋した相手と何があろうと、最後に「やられた!」とにやりと出来るなら、それが一番かもしれない。当のシャルロッテは「これは実話ですか」と聞かれ、「実話以上のもの…文学よ」と答える。
原題「Goethe!」のイメージ通り、とくに前半は軽快でテンポがよく楽しい。冒頭はまるで学園ラブコメの「都会から田舎への転校」の一幕のよう(この場合「転勤」だけど)。
冴えないやつと友達になり、パーティで女の子と出会う。徹夜の後で遠乗りし、裸で泳ぎ、好きな人の家を訪ねる。終盤には「薬」も出てくる(笑)陳腐な言い方だけど、例えば「若者」を、「恋」を描くのに、舞台は何だって構わないんだなと思った。
ゲーテは常に飛んだり跳ねたり、片時もじっとしておらず愛くるしい。陽気で気の利く彼と元気なシャルロッテの組み合わせが最高だ。気の合う二人の「遊び」っぷりに胸が高鳴る。手遊びに連弾、プロフィールを描くのはやってみたいなと思わせられた(後の場面での使い方もいい)。恋する相手を目の前に、初めて詩を読む場面も楽しい。
しかし、恋に溺れてばかりのゲーテに対し、シャルロッテは必要な時に現実に即したことを口にする。観ている私もはっとさせられる。
ゲーテの「恋敵」を演じるのがモーリッツ・ブライブトロイ、今年劇場で会うのは「ソウル・キッチン」「ミケランジェロの暗号」に続いて三度目。堅物で気の利かないエリートを、それでも憎めない感じに演じている。前二作に比べたら「分かりやすさ」「滲み出る可笑しさ」はないけど、その佇まいにより、作品全体がラブコメというよりロマンチック寄りになっていた。
(11/10/31・TOHOシネマズシャンテ)
「お嬢様が不良に憧れるんだろ、分かるよ」
「分かってないわ、スウェイジの野性的なところがいいのよ」
ロマン・デュリス&ヴァネッサ・パラディによるラブコメ。いわゆる古き良き「映画」の引用やアメリカ的な作りの根っこに、フランスの心が流れてるという感じ。何てこと無いんだけど、とても気持ちに沿う映画で、満ち足りた気分になった。
デュリス演じるアレックスの職業は「別れさせ屋」。オープニングはこの手の「仕事人」映画につきものの、主人公の凄腕ぶりを示す一幕なんだけど、「手練手管」の描写がしょぼい上にだらだら長い。以降、全篇に渡ってシマリがないんだけど、それが何だか心地いい。デュリスの(役作りによる)間抜け顔に合ってるからかな?彼の出演作はここ数年ずっと観てきたけど、これほどのコメディは初めて。コスプレに「日本語」、中盤には立ちション姿も見られる。
パラディ演じるジュリエットの「弱味」は「ダーティ・ダンシング」(とジョージ・マイケル)。「30歳のフランス女」には不似合いな気もするけど(そもそもパラディなんだからもっと年上の設定でいいと思うんだけど)、「プラダを着た悪魔」(原作)じゃ2000年代初頭に大学出たばかりの主人公が夢中なんだから、欧米じゃ「定番」なのかな。ちなみに私にとっても、映画を好きになった切っ掛けの一本だ。
予告編でもちらっと映るけど、作中デュリスは「ダーティ〜」のDVDを観ながら踊りの練習をする。終盤、彼がスウェイジのダンスを始めた瞬間、今年の「劇場で最も体温上昇した場面」の一位が、「『イップ・マン』でサモハンがテーブルに飛び乗った瞬間」からこちらに変わった。
本作における「ダーティ・ダンシング」の意義は、ダンスだけじゃない。例えば冒頭に挙げたセリフ。アレックスが「休火山」と見抜いた通り、ジュリエットはもともと「激しい」性分なんだけど、学生時代のある出来事により自分を抑制して生きている。つまり、彼女が「ダーティ〜」のスウェイジを好きな理由は「異世界への憧れ」ではなく、単に「野性味があるから」なのだ。
加えて「君とは住む世界が違う」「全てを捨てるわ」という会話。「ダーティ・ダンシング」の舞台は60年代初頭、ラストに山荘の支配人が口にするように「ある時代」が終わろうとしていた頃。しかし身分の違いは厳然としており、若い二人は苦労を重ねる。一方本作で、ジュリエットの父親は娘に対し「お前は素直で仕事のできる素晴らしい女性だ」と言う。「現代」の「大人」であれば、いや女に仕事、お金、あるいは気持ちさえあれば、どんな相手とでも一緒になれるのだ。まあかなり今更、だけども。
面白いのが、ジュリエットの父親がアレックスに仕事を依頼した理由。疑いを口にするアレックスの姉同様、「具体的」な何かがあるのかと思いきや、「あの男はいいやつだが、お前の人生、退屈になるぞ」ってだけ(笑)娘の本質を見抜き、よかれと思う方向に伸ばそうとしていたわけだ。ただ、婚約者に対し、訳も告げずに去るのはよくないなと思った。
ジュリエットの女友達の存在もいい。ホテルに押しかけてきて、迷惑を掛けるばかりで特に何をするわけでもないんだけど、ジュリエットは「いてくれてありがとう」と抱きつく。偏見だけど、こういうのがフランスぽいなと思った(笑)
同居人いわく「『黄金の七人』ぽいところが楽しかった」。確かにアレックスと姉、その夫の3人によるチームプレイも見もの。姉夫婦のバーでの(他人同士のふりをした)やりとり「浮気をする気かい?」「ないわ、でもあなたとならいいかも」「…オレは傷ついたぞ!」「何言ってるの」なんてのも可笑しい(文字にしてもよく分からないな・笑)
姉役について「ミックマックで冷蔵庫に入ってた人みたい」とも言うので調べたら、その通り同一人物だった!なんでそんなに覚えてられるのか驚き。ジュリー・フェリエという女優さんで「さすらいの女神たち」「PARIS」にも出てるそう。どちらも観たのに覚えてない…
(11/10/30・ヒューマントラストシネマ有楽町)
なんてロマンチックで可愛らしい映画だろう!終盤のストップモーションに涙があふれた。
(以下「ネタバレ」しています)
冒頭、戦地の記憶から列車内で目覚めるという展開に「ジェイコブズ・ラダー」を思い出した。もっともこちらの電車は中二階席やダンキンドーナツ!に自転車置き場などがあり、ニューヨークの地下鉄とは比べ物にならないほどゴージャスだけど(通勤列車というので「恋におちて」を連想)。なお「ジェイコブズ〜」と本作じゃ内容や文法は全く違い、どちらにもそれぞれの良さがあるけど、「死」が救いになるというところは似通っていた。
原題「Source Code」とは、人間の死亡直前の8分間の意識に入り込むというプログラム。ジェイク・ギレンホール演じる主人公の任務は、列車爆破事故の被害者を利用したプログラムの中で「8分間」を繰り返し、犯人を見つけ出すこと。ジェフリー・ライトによる博士が「量子が云々」と説明するんだけど、私にはよく分からない。ラストに出てくる「オブジェ」から、この映画では、あれはああいうことなんだ(なのかな?)と解釈した。
ダンカン・ジョーンズ監督の前作「月に囚われた男」同様、昔の少女漫画みたいだなと思わせられた。映像において、主人公が「自分が思う自分」のルックスをしているというのがまず「綿の国星」方式ぽい(鏡などには他人の目による姿が映るんだけど)。
ヴェラ・ファーミガ様のファンとしては、彼女が登場直後「私は誰?」とモニターに顔を近づけてくる場面に悶絶。本作ではミッションの内容とミッションそのものの謎が同時進行するが、主人公視点には徹さず、早々にファーミガ様(たち)の様子を「客観的」に映し出すことで、恐怖を和げている。彼女はこの映画の「優しさ」の象徴でもあった。
(11/10/28・新宿バルト9)
ガン宣告を受け「エンディングノート」を作成・実行してゆく父親を、娘がカメラで捉えたドキュメンタリー。
「本日はお忙しい中、わたくしごとで御足労いただき、誠にありがとうございます」
全篇に渡り、監督自身が、宮崎あおいみたいな声で、死んだ父親を代弁する形で「ユーモア」混じりに語る。これが私には受け入れ難く、辛抱しながら観た。
本人はそんなこと思ってないだろ!という憤りではない。そもそも「映画」なんだし、「娘が父を撮った」この作品の場合、こういう演出もアリだろう。しかし、監督自身について「段取りが上手くゆかず生まれてしまい」「嫁にも行かずカメラで私を追い回し」、ラストで「私に成り代わって好き勝手喋ってる」と言うようなセンス、加えてエンディングで流れる曲を歌うハナレグミの声も苦手なので、映画全体の雰囲気が自分に合わなかったということだろう。
冒頭、娘に向かって「会社命!」とふざける砂田さん(本心でもあろう)。こういう、いわゆる熱血サラリーマンの、しかも兄弟姉妹三人の家庭って、公務員共働き家庭の一人っ子だった私にとっては「未知の世界」だ。そういう意味で面白く観た。砂田さんは最期に奥さんに「ごくろうさま」と言うけど、うちなら無さそうだな、なんて思ったり(そういうカタチの「苦労」はしてないから)。
しかしドキュメンタリーとしては、例えば最近なら「Peace」などを観てるから、どうしても比べてしまい、少々物足りなさを感じた。(作中)もうすぐ死ぬってあたりで、BGM付で両親の若き日の映像を長々入れるのも、センチメンタルが過ぎて好みじゃない。クレヨンしんちゃん「オトナ帝国の逆襲」でのヒロシの回想シーンを思い出した(この作品はあまり好きじゃない)。もっとも物足りないのも、センチメンタルになるのも、父から娘、娘から父への気持ちゆえかもしれない。
奥さんに背中を掻いてもらってる砂田さんが、薬を取るためにちょっと席を立つ、背に触れたままの奥さんの手、ああいうちょっとした画がいいな、ドキュメンタリーの素晴らしさだなと思う。
また終盤になると、一日一日が丁寧に撮られ、濃密さを感じ、面白いなと思う。ただ、私も肉親の死に目に立ち会ったことはあるけど、他人のそれは普通なら見られないものだから、その「珍しさ」を面白く感じてるのかもしれない。
エンドクレジットのサンクスリストに「東京の」友達、とあったけど、砂田さんが車窓の外を眺める中央線に始まり、神宮外苑のいちょう祭り、サザンテラスのイルミネーション、虎ノ門病院の個室!から見える東京タワー、最後は麹町からお棺を乗せた車が赤坂に出て終わりという、実に「東京」を舞台にした映画でもあった。始めは単に「知ってるとこだ〜」と楽しく見てたけど、振り返ると、あれこそ砂田さんの生きた町なんだなと思う。
(11/10/26・新宿ピカデリー)
「海を渡ってナチスをぶち殺したいか?」
「人を殺したくはないけど、悪人は嫌いです」
とても面白かった。「強さ」についてふと考えさせられる前半、ひたすらアメリカの馬鹿カッコいいを体現した後半、どちらもよかった。突っ込んだことは語らず、ただ滑らかに進んでいく物語が楽しい。
身長はどうなるんだろ?と思ってたら、変身後の第一声が「背が伸びたよ」だったので、気がきいてるなと嬉しかった(笑)
冒頭は、悪の将校役のヒューゴ・ウィーヴィングのナチス帽の似合い様くらいにしか心惹かれなかったけど(脱ぐとがっかりさせられる/後半は帽子というかナチスどころじゃなくなるけど・笑)、クリス・エヴァンス演じる主人公のもやし青年、日本風に言えば「一寸の虫にも五分の魂」を持つスティーブが出てきて面白くなる。
スティーブは映画館で戦意高揚の宣伝フィルムに文句を付ける男をたしなめ、路地でぼこぼこにされる。「戦争」においては彼がいくら士気を高めようと何も出来ず、彼を痛めつけた相手の方が役に立つかもしれないんだから面白い。もっともスティーブがなぜ「国のため」を思うのか、彼にとって「悪」とは何なのか、全く分からないけど、スタンリー・トゥッチ演じる博士によれば彼は「善意」の持主なので、それが何かに従ったり反発したりする、ということなんだろう。
スティーブがテストを受けるために送られた訓練場では、女性将校ペギー(ヘイリー・アトウェル)がハートマン軍曹の一億分の一程度の迫力で兵士をしごいている。うち一人が「イギリス人」であることを持ち出し彼女を馬鹿にすると、拳でもってぶっとばされる。するとその場はおさまり、皆は彼女に敬意を払うようになる。この話において、ペギーが「強い」必要ってそう無いと思うんだけど、なぜ彼女は腕力を備えてるんだろう?と考えた。しかし例えば私だって、「社会」の中じゃなく、単に誰かと対峙しているのであれば、相手が「男」であっても、自分の方が「強い」という確信があれば、全然怖くない。結局そういうことなのだと思った。
後にスティーブもペギーに対し「美人なのになぜそんな仕事を?」などと失礼なことを言い、「女性と話したことがないのね」と返される。もっとも彼の場合は女性と接したことがないため女性について考える機会もなかったわけで、心根は「素直」だからペギーも好感を抱く。そのへんは上記「BLITZ」のステイサムと同じか(笑)
スティーブが血清を打たれ超人になると、話は転がり始める。例えば変身直後のスパイダーマンは自由自在に飛び跳ねて自分の能力に慣れていくが、本作に「遊び」はない。スティーブはいきなり「国のため」に働く。またこの捕物は、恩人である博士を殺されたことへの復讐も兼ねている(もっとも二人の間にそれほど「絆」があったようには感じられないけど・笑)。その活躍により「キャプテン・アメリカ」として祭り上げられる、国債を売る広告塔となり人気を博す(このくだりの、一つの価値観しか認めない狂気がすごい!)、「現地の兵士」には笑い飛ばされ「コーラスガール」などと言われる、秘かに訪ねてきたペギーに励まされる、捕らえられた友を助けに行く、仲間を得て真の「キャプテン」になる。この流れがすごく上手くて楽しい。
もっとも楽しいのは「流れ」であって、戦闘シーンそのものは大したことがない。私はそちらにあまり興味がないので楽しめたのかもしれない。しょぼいダースベイダーみたいな格好した敵の軍団と、キャプテン率いる有象無象ぽい兵士たちがごちゃごちゃするだけ。それまで座ったり立ったりしてるだけだったトミー・リー・ジョーンズもいきなり活躍するので驚いた。最初に挙げたセリフから、なるほど〜だから武器が盾なのか(人を殺したくないから防御するのみなのか)と思ってたら、全然殺しまくってるのが可笑しい。
一番笑えたシーンは、海に落ちた少年の「僕はいいから!」、初めて新聞に載った時のスティーブの写真(イラスト?)、爆弾に書いてある地名、この3つで争うことになるかな?ってこれら全て、意図された笑いじゃないけど…
(11/10/23・新宿バルト9)
冒頭、オヤジを馬鹿にする不良少年どもをどっかんどっかんいう音に合わせて殴り倒すジェイソン・ステイサムに、そういう映画なのかと思いきや、いい意味で期待は裏切られ、ステイサム無双じゃない、色んな男を揃えた刑事「ドラマ」となる。でもってラストに再びすこーんと突き抜ける。渋さといびつさが混じった、妙な面白さを感じた。
色んな男が「揃ってる」のがポイントだ。つながりは固いが、やたらつるんだりしないので観易い。
後半に入って更に惜しげもなくイイ男が投入されるのにびっくりした。何か「裏」があるのかと思ったら、ヒロイン?の恋人の美男というだけの役どころ。こういうの新鮮でいい。演じるのはルーク・エヴァンズ、検索したら「タイタンの戦い」や「ロビン・フッド」に出てるらしいけど、観たのに覚えてない。ブラッドリー・クーパーのイギリス版という感じを受けた。
ステイサムは古風な男女観の持主だが「素直」なので、「ゲイ」にも「女」にも人気だ。「ゲイでも構わないぞ」「(寝ている間に)オレにさわったか?」。「(PC操作は)女の仕事だろ?」と言われた女性警官が「such a dinosaur!」と嬉々としてやってあげる。職場ではみ出し者の男性と仲良くすることには、性的な快感があるものだ。その後の「婦警さんたちと寝てるんでしょ」「オレを誤解してる」というベタなやりとりもいい(笑)
全篇にさらりと描かれる「イギリス」も楽しい。冒頭、暴力を振るうステイサムの後ろをわざとらしく通り過ぎる二階建てバスに始まり、警察内の狭苦しいカフェで紅茶にクッキーつまんだり、集合住宅&その庭で追跡劇が繰り広げられたり。バーでステイサムが残すクラッカー、私が食べたかった(笑)
(11/10/18・新宿バルト9)
私は貝類が大の苦手なので、冒頭、役所広司が焼いたサザエをほじくり出してねちょねちょ食べるシーンで気分が悪くなってしまった。3Dで見なくてつくづく良かった。全篇に渡って「食べ物」は生々しく、そういう人間の業みたいなものを感じさせるのが狙いなのかな。
太平の世の江戸時代。巷では食い詰めた浪人による「狂言切腹」が流行っているらしい。
ある日、井伊家上屋敷に津雲半四郎と名乗る侍(市川海老蔵)が現れ切腹を願い出る。面会した家老の斎藤勧解由(役所広司)は、以前同じ様に訪ねてきた千々岩求女(瑛太)が腹を切るまでの顛末を語って聞かせた。
原作となった小説「異聞浪人記」は未読、その映画化「切腹」('62)は観たことがある。仲代達矢の話ならそりゃ聞いちゃうよなあ、と思ったのを覚えている。
本作でもそのほとんどは「市川海老蔵の語る内容」なんだけど、「切腹」ではじりじり迫ってくるのが、こちらではどどーんと提供されるので、途中で映画の魔法が解けて、例えば満島ひかりと瑛太が二人きりの場面など、これは海老蔵、ほんとは知らないはずなんだよなあと我に返ってしまうことがあった。とはいえ内容は分かりやすく、海老蔵の演技もなかなかで、十分面白かったんだけども。
印象的だったのは、観賞後、近くの老夫婦が「悔しい!悔しい!」と言い合ってたこと。
そう感じるのも無理はない。描かれるのは、半四郎の「武士なんて誰がそこに座ることになるか分からない」というセリフに沿った無常な世界。井伊家の鎧兜について将軍が「手入れをしたのか?」と聞き、勧解由が「誇りですから」と答えるラストシーン、家紋をバックにしたエンディングが皮肉で効いていた。これは「無かったことにされる」者たちの話なんである。
作中の「猫」がその象徴でもある。一家(半四郎とその娘の美穂、その夫の求女)は求女のもとに居付いていた猫を飼うことになるが、ふいと出て行ったかと思うとある日戻ってきて死んでしまう。一方勧解由も猫を飼っており、こちらはしまいまで、でっぷり泰然と暮らしている。似たような白い猫だが、もらわれた先によってこんなにも違う。同じ猫が演じてたら面白いのに、と思う(笑)
猫といえば、前述の猫を埋めるための穴を掘る場面での満島ひかりは、猫が乗り移ったかのように見えた。彼女主演の化け猫映画なんてものを見てみたい、と思ってしまった(笑)また這いつくばって吐血し、それを隠そうとする場面でも猫みたいだった。
と思いきや、しばらく後に瑛太もよつんばいになってあることをする。こっちは犬みたいだった。
面白いなと思ったのが「狂言切腹」の噂について。そもそもああいう時代、ああいう「噂」はどのように広がっていたんだろう?勧解由は部下から、半四郎は近所の町人(笹野高史)からその存在を教えられる。いずれも教える側は「自分には関係ない話」として、その内容を舌先で転がし楽しんでいる。
求女はどう知ったのか、半四郎からか別ルートからか。オリジナルではそのあたりに触れられていたっけな?
(11/10/17・新宿ピカデリー)
楽しかった〜上出来上出来!という感じ。「TSUNAMI」の監督がプロデュース、主役二人が再度共演したアクションもの。凄腕ライダーとアイドル歌手が、爆弾魔に脅され爆弾を配達して回るはめになる。
冒頭、アイメイクが涙で落ちて喜劇調になってる女の顔、やがて彼女の乗ったバイクがトラックの下に直角に滑り込むのを、前から後ろから上からと見せてくれるところで、こういう映画なんだなと分かる。エンディングには久々の(私は「マッハ」ぶりかな?)NG集、といってもほぼスタントマンによるもの、最後に両足骨折しつつ「命を捧げます!」と言ってるらしいスタントマンの病室を監督と主役二人が見舞って「クイック!ファイト!」で終わり。最初から最後まで泥臭い。
「ハリウッドの最新システム」で撮影されたというアクションシーンにも、ハリウッド映画とは違う「身近」感というか、手を伸ばせばさわれそうな感じがある。って、触りたくないけど(笑)
何たって第一の見せ場が、「Misirlou」のばったもんの更にばったもんみたいな音楽に乗せて、口開けたアホ面×たくさん、疾走してぶつかりまくる乗り物×たくさん、逃げ惑う人々、ダンボール、万国旗、消火栓、とどめにデブの頭に生ゴミのバケツ!なんだからたまらない。
一つのネタをしつこく引き伸ばすのも特徴だ。「スピード」よろしく走ってる車からバイクに乗り移ろうとする場面(道に立ってるおっさんが「マトリックス」状態になる)や、高速道路で居眠り運転のトラックの荷台からガスボンベが次々落ちてくる場面、あんなにひっぱるなんて。でも面白いからいい。
しかも最後に主人公はバイクを捨て、列車パニックものに。一本の映画で美味しすぎる。
息詰まるクライマックスでも、「間抜け」による笑いを忘れないのがいい。この時代に加藤茶ばりの「くしゃみ」に爆笑させられるなんて。ある場面では「トップ・シークレット」の水中西部劇を思い出してしまった。その後のオチにつぐオチも楽しい。
コメディ部分をほぼ一手に引き受けるデブの警官(元「暴走族」)役のキム・イングォンは、いま調べたら、「TSUNAMI」でライター点けたら大爆発!のあの間抜け役。何度も繰り返される「頭がでかくてヘルメットが被れない」ネタが活きてくるラストには感心(笑)
詳しくは書かないけど、「犯人」の正体が私には新鮮だった。「こういう映画」であることを逆手に取ってるのか、あるいは何も考えてないのか(笑)ともかく足元を掬われる。
「日本人役」の役者さんの全然聞き取れない日本語に字幕が付いてたのも有難い。いつも悩まされてるからなあ。
(11/10/14・シネマート新宿)
フィンランド映画祭で逃したのを、ヒューマントラストシネマ渋谷のレイトショーにて観賞。お馴染みの姿とは全然違う「本物のサンタクロース」に挑む少年と大人たちの物語。
普段見慣れた映画とは少々勝手が違うので、たまに放り出されたようになるのも含め(笑)なかなか面白かった。地域色と工夫でもって「エンターテイメント」を作り出してるあたり、数年前に公開された「築城せよ!」の新鮮さと面白さをちょっと思い出した。こういう映画にあたると嬉しい。
淡谷のり子ぽい省エネ顔の主人公・ピエタリ少年は、フィンランド北部の国境近くで父と二人暮らし。父親はトナカイ狩りとその解体で生計を立てている。近所の住民も同様らしく、始めの方にトナカイの囲い込み猟が出てくるのが面白い。
「本場」の素朴なクリスマス・アイテムも色々出てくる。サンタを恐れるピエタリは、アドベントカレンダーの「24」を、まずはセロテープで、しまいにはでかいホチキスで止めてしまう。最後の舞台となる工場の扉もでっかいアドベントカレンダー風なんだけど、皆は小さな扉からちまちま出入りしてるのが笑える。
父親が焼く、よく言えば素朴なジンジャークッキーも、朝食からおやつ、「ドーベルマンに投げて気をそらせる肉片、のようなもの」にと大活躍。小花模様のエプロン姿の父に向かって息子は「ママのと同じ味だ」。母親は亡くなったのか出て行ったのか…
中盤、ドライヤーを盗まれた仲間の「ここじゃローテクだけど、ロシアじゃ貴重品だぞ」というようなセリフ、先日「ラップランド・オデッセイ」でもフィンランド人とロシア人の関係を見たばかりだから面白かった。同じ国の映画を続けて観ると、そういう重なりの楽しさが味わえる。
(11/10/12・ヒューマントラストシネマ渋谷)
銀座テアトルシネマにて、ニュープリント版を観賞。20代の頃のオールタイムベストの一つ。今観てもやっぱり楽しいけど、できれば、もっともっと大きなスクリーンで見たかった。
オープニング、薄明るい海の水面と小さな汽船にマーラーの交響曲。クレジットの最初はダーク・ボガード。ビョルン・アンドレセンの名前が「introducing」されるのがいい。この役を演じるのはそうでなければならない。以前に見たことあるのを思い出すようじゃいけない。
昔も今もビョルンの「タジオ」に美を感じない私にとって、本作は全体の8割を占める(そんな印象がある)ダーク・ボガードの演技、とくに顔芸を堪能する映画。初めて大きなスクリーンで見たこともあり、その表情の演技がほとんど喜劇のノリなことに驚いた。半分ほどはタジオを見てのにやけ顔なのが可笑しい。なんて言うと安っぽいようだけど、そういう意味ではない。丁寧で分かりやすく、血が通っている。今こういう演技をする役者っていないように思う。
見ていて面白いのは、画面に映る8割がアッシェンバッハ(ボガード)の顔なら、残りの1割はタジオ(ビョルン)の顔、最後の1割は「全く関係ない人」たちの顔だってこと。そうした大勢をひっくるめて「脇役」であるともいえる。
ホテルに集う人々はもちろん、言うことをきかない「無許可」の船頭、荷物をよそへ運んでしまうスタッフ、ホテルのテラスへやってきてお金をせびる芸人たち、伝染病についてバカ丁寧に教えてくれる銀行員。アッシェンバッハは「最上級の部屋」を用意されるほどの「大物」ながら、オモテに現れている小心を嗅ぎつけられるのか、どこへ行っても軽く扱われる。世の皆は、彼の事情などどこ吹く風で好き勝手にやっている。当たり前のことだ。
それにしても、こんなに回想シーンが多い映画だってことを忘れていた。冒頭のアッシェンバッハの「砂時計の砂が落ち切る寸前になって初めて残り少ないことに気付く」というあのセリフに始まり、彼の回想により、物語の「テーマ」はあますところなく説明される。
アッシェンバッハは「美」とは絶え間ない努力により生み出されるものだと信じ、そのために生きてきたが、死ぬ寸前に、友人に言われた通り「美とは自然発生するほかない」ことを体感する…そういう話なのだ。これだけ骨格をしっかり見せておきながら、なおかつ「余地」がある、感じられるというのが、私にとってこの映画の面白いところ。
シルヴァーナ・マンガーノの登場シーンの素晴らしさ、タジオの振る舞いの意味、病に冒されることの不思議なエロスなど、他にも色々思いに耽ってしまう。
「若さ」を単純に善きものにできるというのは、幸せなことだなとも思わせられた。
(11/10/11・銀座テアトルシネマ)
事前に当館でも上映予定の「ゴーストライター」の予告が流れたんだけど、どうってことない話(だけど主人公にとっては大した話)を面白く観せてくれるという点では、ちょこっと似てるんじゃないかと思った。映画の醍醐味って、そういうところにこそ感じる。
とある「事故」の短い映像に続いて、「事故に見せかけた殺し」のプロ集団の仕事を描いた冒頭がまず面白い。ピタゴラスイッチ的というか、メンバーであるブレイン、おやじ、デブ、女の4人も歯車の一つとなってターゲットの息の根を止める。確認してその場を去るブレイン、ルイス・クーの様子もいい。
冒頭に示されるのは「本番」だけど、中盤では、事故を起こすのに必要な「雨」を待って準備と待機を繰り返す様子が何日分も描かれる。焦らされての「本番」とその後の意外な展開は、息もつかせない。
またブレインが一度だけ行う、その場にあるものを使っての咄嗟の殺しも面白い。
ルイス・クーって、それほど色んな役柄を見てきたわけじゃないけど、今、何をやらせても最もはまる役者の一人じゃないかと思う。妙味ってんじゃないけどしっくりくる感じ。美形なので見ていて気持ちいいし。
彼が演じる暗殺集団のリーダーは「アジョシ」「的」な過去を持つ、「殺し」のプロ。しかし事故に見せかけるという仕事なので、肉体的に優れているわけじゃない。終盤、部屋の中で「影」におびえてどうすることもできない場面など面白い。
クライマックス、登場人物にも、観ている側にも予想できない「あること」が啓示のように起こる。それを受けてブレインは、疑っていた男が他人に耳打ちしていた話の内容まで「分かって」しまう。分かるわけないんだから妙な場面だけど、そのトンデモすれすれの味わいが、この作品のキモだ。
暗く猥雑な香港の街も主役といってよく、何てこと無いビルの階段や駐車場が怖くてしょうがない。観ている間は、決して行くまいと思う(笑)
それからビデオテープやタバコの空箱で作った街角の模型で殺人計画を練る場面が、ジオラマ好きの私にはたまらなかった。
食事シーンについては、バスの中で(!)ラム・シューが(!)ルイス・クーからもらったパンを(!)食べるというのが、それだけで楽しい。ラム・シューが自転車のカゴに菜っ葉を入れて走る画もいい。って、いずれも「楽しい」シーンじゃないけど。
(11/10/08・新宿武蔵野館)
ブエノスアイレスで夫と息子二人と暮らす主婦マリア。50歳の誕生日プレゼントを切っ掛けにジグゾーパズルの面白さに目覚めた彼女は、パズル大会のパートナー募集の告知に目を留め連絡を取る。相手の富豪紳士は彼女を気に入り、週に二度のレッスンが始まった。
冒頭、とても柔らかそうなパン生地を切り分け、いい音を立てる鶏の丸焼きを裂く手。指の細い、爪の小さな、少女のような手は、作中何度もアップになる。しばらく後に映る顔は、イチ専業主婦というには美しすぎる面差し。戦闘遺伝子のないシガニー・ウィーバーという印象を受けた。
大勢にてきぱきと料理を振る舞い「私はあとで(食事する)」と言うマリアが、そのパーティの主役だというオープニングが面白い。アルゼンチンには誕生日を迎える当人が客をもてなす習慣があるそうだけど、それだけじゃないと思わされる。後の息子の「みんな母さん頼りだな」というセリフや、彼女の帰宅が遅い日に息子たちが炊事した跡の惨状から、彼女は要領が良く綺麗好きで、自分でやるのが一番ラクなのかもしれないと想像する。ダンナも落ちた皿くらい拾えよと思うけど(笑)
チラシでは「Shall We ダンス?」が匂わされてるけど、そういう内容ではない。「仲間」や「努力」の要素は皆無だし、「パズル」の快感や「大会」の興奮(がこちらに伝わってくること)も、新たに知る「世界の広さ」もない。ただただ主人公が体験し、感じること、その変化が描かれるだけ。それがなかなか面白い。最初から最後まで貫かれる、独特の緊張感がいい。
マリアはもともと友達もおらず、パズルがらみで知り合う女は、彼女が富豪紳士に好かれてるというんで嫌がらせしてくるようなのだけ。その替わり「パズル」を介さない、紳士宅のメイドやパソコン屋?の店番の女性との、ほんのちょっとしたやりとりが楽しい。
特に面白いのがメイドとのやりとり。日頃の自分の役割を仕事としている、そう年の変わらない彼女に、マリアは興味を持つ。紳士に自作のお菓子を味わってもらえなかった次回、メイドに「どうだった?」と聞くのが印象的。
夫の表情がとてもよかった。夜中にパズルに夢中の妻をなじり「あなたたちこそおかしいわ」と言われた後の、子どものようなべそかき顔。大会の夜、遅く帰って来た妻にベッドの中で後ろから抱きしめられた時の、いかにも満足そうな顔。
こうした類の物語では、主人公は「パートナー」といわゆる倦怠期にあり、自分を「性的」な存在として扱ってくれる相手に出会い心惹かれる…という展開が多いけど、本作はそうじゃないのがいい。冒頭から、マリアと夫のセックス、というか、夫婦間のセックスが日常的なものであることが示される。お互いに誘い合い、楽しんでいる。とりわけ夫は熱心で、出掛ける際のキスや「愛してるよ」のセリフは性的なそれだ。一方マリア自身の感じるエロスは、他人との行為だけでなく、素足の快感や体を丁寧に洗うなど、自分の体を確認するような場面にも表れている。
マリアが持参したお菓子を食べようとしない時点で、紳士もまた、お金と暇があるだけで同じじゃないかと思った。もっともそうしたことが悲観的に描かれているわけではない。知らないより色々知ったほうがいい。
(11/10/06・TOHOシネマズシャンテ)
フィンランド映画祭2011にて観賞。上映前に監督の挨拶、後にティーチインあり。
失業中の主人公が恋人を引き止めるために仲間とデジタルチューナーを買いに行く、一夜の旅の物語。面白かった。
上映前に監督が「この作品は友人の脚本家の体験から作った」「男女平等のフィンランドといえども男の役割とされていることがある、電化製品の購入など…」と言うので、そりゃ大変だなあと思いつつ観始める。しかし主人公ヤンネが恋人から預かったチューナーの購入費で飲んでるうちに電気屋が閉まってしまう、仲間二人を連れて帰宅、うち一人が恋人が掃除したばかりの部屋に酒をこぼす…という描写に、なんだまたいわゆる「ダメ男・仲間」ものか、と少々がっかりした。でも観ているうちに印象が変わってくる。
警官に追われたヤンネが「バチェラーパーティの最中なんだ」とごまかす場面があるように、確かに一見「ダメ男」たちのロードムービー、フィンランド版「ハングオーバー!」だ。でもそれは「一見」。そもそもこの映画は「自殺の木」で始まるんだもの、登場人物の背景が違う。監督によれば「フィンランドの地方では若い男性の失業率が4割を超えている、そういう人達を元気付けるために作った」。
「アナログ放送が終わるなんて、俺が何か悪いことしたか!」と雪原で叫ぶヤンネ。冬には「マイナス15度」になるあちらでは、日本よりずっと、うちの中でテレビを観る幸せが大きいんだろう。作中では、行く先々の家でテレビのスポーツ番組が観られている。
家に帰ったヤンネは、ベッドに眠る恋人と男に朝食を持っていく(「ベッドイン」は誤解なんだけど)。男が心配したように銃に手をかけることもなく、にこやかにお盆を掲げて。しかし彼女は彼を愛していた。その頃、彼と道のりを共にした友人は、村の「自殺の木」をせっせと切り倒していたのだった。なかなかいいラストシーン。もっともこれは、主人公の根性と恋人の愛あっての、映画ならではの結末だけど。
監督は私と同世代(70年代半ばの生まれ)、主人公は「1978年」生まれ。冒頭、バーでカウリスマキ映画みたいな音楽が流れるので、飲み屋ならそうなのかと思いきや、終盤、主人公が車で聴くのも演歌みたいな曲。フィンランドってほんとにああなんだなあ。その隣で、冷えた裸足の指を車のヒーターであっためる友人の姿がいい。
映画祭の会場がたまたまビックカメラの入ってるビルだったんだけど、監督いわく「向こうにはこうした大きな電化製品の店はない、主人公が住むラップランドの場合、電化製品を買おうとしたら一番近いのが(作中出てくる)200キロ離れたロヴァニエミなんだ」「撮影中に食事を頼んだら、100キロ先の店まで買いに行ってたよ。戻ってきて、コーヒーを忘れたとまた出て行った・笑」。本作は、そんなふうな距離感覚の人たちの話なんだとか。意外とそれは感じなかったけど(笑)
(11/10/04・角川シネマ有楽町)
「恋愛映画って、最後に流れる中途半端なポップスのおかげで、
内容はどうでも、見てよかったと思わせられるのさ」
途中から何だ、こんな話かと思ってしまったけど、ジャスティン・ティンバーレイク &ミラ・クニスの主役二人がとにかくチャーミングで楽しい。冒頭ジャスティンが「尻の穴」を見せる時点でつかみはオッケーって感じ。「出会えてよかった」のタイミングも完璧だ。
自分はセックスに「関係」ありきじゃないから(事後に対処するから)、本作の「SEXしても友達。それが二人のハッピールール?」という宣伝文句に、「関係」ありきタイプの人が「社会」や「自分」にどう対処していくんだろう?と期待してた。そうしたら極めて「普通」のラブコメだったので、拍子抜けしたわけだ。
それに、例えばなぜ「甘い言葉」は「友達」の間では厳禁なのか、セックスにはなぜそういうことがつきものなのか、単に「厳禁」と言われても、私としてはそういうことが引っ掛かって先に進めないんだけど、結局、全く「一般論」の内側で過ぎていくのでいまいち乗れず。まあこれも、「普通」のラブコメとして観てれば気にならない点だろう。ミラ・クニスの「私のこと、純粋に『女』としてはどう思う?」などというセリフは、あまりに「一般的」すぎてがっかりしたけど。
冒頭、それぞれ恋人に振られる二人。「プリティ・ウーマン」とジョン・メイヤー、「となりのサインフェルド」などカルチャーへの言及が多い。贅沢にもジャスティンの歌真似まで観られる。
フラッシュモブのくだりは、例えば「(500)日のサマー」のダンスシーンみたいのを、「今」ならこんなふうにもやれるんだ、というアピールに感じられ面白かった。他にも色んな「今」が盛り込まれている。聖書の場面には笑ってしまった。
エンディングのお遊びには、たまたま数日前に観たメル・ブルックスの「大脱走」を思い出し可笑しかった。話はそれるけど、学生時代に「基礎教養」として頑張って観てた時にはメルがうざくてしょうがなかったけど、今は楽しめた。犬も可愛いし。
ジャスティンの父親役に今年何度目だ!のリチャード・ジェンキンス、姉役にジェナ・エルフマン。誰だこの西川峰子みたいな感じのいい女性は?と思ってたら、エンディングでジェナと分かりびっくり。声で分かるはずなのに〜と思いきや、私の中で彼女の声は雨蘭咲木子なんだった(笑)更に同僚にはウディ・ハレルソン、水上ってだけのつながりだけど、大好きな「ダイヤモンド・イン・パラダイス」を思い出しにやついてしまった。
(11/10/01・新宿武蔵野館)
2001年、チャールストンの海辺で出会ったサヴァナ(アマンダ・サイフリッド)とジョン(チャニング・テイタム)の物語。911を機に二人の関係に変化が起きる。
原作小説は未読、監督にラッセ・ハルストレム。5年前の作品ながら今年公開された「ザ・ホークス」は面白かった。それほどじゃないけど、こういう作品を映画館で観られたら満足。
冒頭、サヴァナが座ってる所に隣人ティム(ヘンリー・トーマス=「E.T.」のエリオット少年)の息子がやってきて、去っていく様子がとても自然で…「自然」ならいいのかって話だけど、とにかく感じが良くて、更にその後、父親の言葉を真似てはしゃぐ場面の輝きには驚愕。ああいうのが撮れるってすごい。
二人は出会った傍から惹かれ合うが、サヴァナがジョンに対し「あなたのお父さん(リチャード・ジェンキンス)に会ってから云々」と告げるあたりで、初めて不穏な空気が流れる。私の目からすると、彼の父親に接する態度など、サヴァナは少々管理者的というか、よくない意味で「教員タイプ」、はっきりいってうざい(笑)もっとも結果的にジョンは、父親のその点に目を向けさせてくれたことに感謝するんだけど。
ジョンの方にも、他人に暴力を振るった過去があることが示される。二人には欠点だってあるけど、なんでこんなやつ、こうすればいいのに、などとは思わない。私ならこうなのに〜という感想を抱くだけに終わらない、いい恋愛映画だ。登場人物に、あくまでも「寄り添って」いる感じ。
原題は「Dear John」、離れ離れになった二人の手紙のやりとりが物語の柱となっている。二人の手による手紙が郵便局の巨大な無人機をゆく場面や、戦地に投下される場面などが何度も差し挟まれる。パラシュートを大きく捉えた画が美しい。
また全てにおいて抑えた描き方がされる中、「手紙」に関しては大技?が使われる。ジョンがサヴァナに初めて書いた手紙、彼女が彼に「2ヶ月」ぶりに書いた手紙、彼が父親に書いた手紙、それらの文面は明らかにされないか、後々まで隠されるか、もったいぶって示される。
初めてのキスと、空港での再会の場面に飛びつき抱っこあり。これが見られる映画には甘くなってしまう。アマンダのような、鈍重感のある人がやるからいい(笑)
チャニング・テイタムについては、「G.I.ジョー」でのバカ面イメージしかなかったのがしっかり払拭された。被弾から回復し、鏡の前で久しぶりに軍服に袖を通す場面が印象的。リチャード・ジェンキンスは勿論素晴らしく、その「手」には泣かされた。
10分で撮ったような、唐突ながらさり気ない、悪くないラストシーンには、「White Palace」(ぼくの美しい人だから)を思い出した。全然違うんだけど、何となく。高校生の頃はまって、原作小説も映画も何度も観たものだ(もっとも小説と映画じゃ派手さが違うけど)。
(11/09/25・新宿ピカデリー)
昨年のお気に入り映画ベスト10の一つ「すべて彼女のために」のアメリカ版リメイク…ということで、比べながら観てしまった。
開始早々、ラッセル・クロウ演じる大学教授の主人公は授業で「ドン・キホーテ」を取り上げ、「理性を無くすことで難局を乗り越えられる」とか何とか露骨なセリフを口にする。ということは「理性的」な世界を前提としてるわけで、主人公と他者とのやりとりがミニマムだったオリジナルとは違い、登場人物全てが「理由」を持ち、肉付けがなされている。
それが130分超と長くなったゆえんかな?こちらでは一つ一つの山がでかい。泥臭い失敗!カーアクション!など長丁場のサスペンスを持続させてるのはすごいけど、さすがに最後の方は飽きてしまった。
オリジナルでは、妻は面会時にまず夫に抱きつく。夫はホテルで一息ついた妻の姿に見惚れる。二人の間の子どもは単に一つのキャラクターだし泣き叫びもしないので邪魔にならず、そこが観ていて気持ちよかった。こちらでは二人の息子に重点が置かれているだけでなく、「子ども」がちょっとしたキーになっている。悪者の嘘のくだりには少々白けてしまった。
本作でも、夫は病院のエレベーターで、混乱する妻に対し「俺を見ろ」とキスをする。一騒動の後、妻は指輪をはめた手を夫のそれに寄せる。しかしあくまでも、「家族」としての二人を描いているように思われた。逃亡後ホテルに落ち着いてからの場面にも、それが表れている。
「すべて彼女のために」では、脱獄アドバイザーが主人公に「相手は国家だ」と念を押す。私は「男と女」が「国家」に逆らう、そちらの物語の方が好みだ。本作には、家族も国もまあ色々あるよね、という空気を感じた。
オリジナルで印象的だった、教員の主人公が授業中に計画を練る場面と、彼の父親がジャケットの(以下略)という場面が残ってたのが嬉しかった。
ラッセルに関しては、もう少し若くて新鮮な感じの役者で見たかった。オリヴィア・ワイルドの方とも、年齢差ありすぎるし。
妻役のエリザベス・バンクスはオリジナルのダイアン・クルーガー同様、投獄後もそう顔が変わらない(元々整っている&「普段」もそう手をかけていない)。夫がちょっと外してる間に化粧で大変身してるような女性でも面白いのに、と思う(笑・だって、車で待ってる間にせっかくの化粧ポーチを使うべきじゃん?)
(11/09/24・新宿ミラノ1)
公開初日、都内唯一の上映館である銀座シネパトスにて観賞。かなり空いていた。
監督は「戦争のはじめかた」のグレゴール・ジョーダン。検索したらオーストラリア出身で、ヒース・レジャー主演「ケリー・ザ・ギャング」なんてのも撮っていた。内容は覚えてないけど面白かった記憶はある。
「国内の3都市に核爆弾を3つ仕掛けた、4日後に爆発する」
マイケル・シーン演じる「イスラム教徒のアメリカ人」が自分撮りしている映像に始まる、冒頭10分ほどにまず引き込まれる。キャリー・アン・モスが街の雑踏で子どもと微笑み合うも、とある理由でその母親に警戒される。彼女はFBIの対テロ捜査官。職場の仲間の顔付きややりとりに、なんとなく70年代ぽいものを感じる。場面が替わり、サミュエル・L・ジャクソンとその妻の「普通」ではない家に、銃を構えたFBIの職員がやってくる…
原題は「Unthinkable」、曜日ごとに章に分かれてはいるけど、「4日間!」という事にものすごく意味があるわけじゃない。一言で言えば「アメリカがテロリストに『尋問』で挑む」話。もっともその面白さは、尋問によるサスペンスというより、アメリカにおける色んな立場の交錯、縮図を見るところにある。
サミュエル演じる尋問スペシャリスト「H」は、始めの方こそ「常人とは違う勘のよさ」などを見せつけるが、スーパー仕事人というわけではない。いわく「俺のほうが囚われてるんだ」。組織に属さない「鼻つまみ者」と、彼が「唯一良識を持ってる」と認めるブロディ(モス)の仕事ぶりが交互に描かれる。
開始早々、Hがブロディに「君が飴で俺が鞭の役だ」と言うので拍子抜けした。とはいえ日本じゃ飴と鞭という「言葉」が手垢にまみれすぎているだけで、やり方としては実践的なのかもしれない。「切り札」にも驚いたけど、そちらも実際、そういうものなのかもしれない。
現場には更に、ザ・軍人といった感じの上官が「核爆発よりましだろ」「こんなやつの言うことが聞けるか」などとのさばっている。「彼はアメリカ人ですよ!」「国籍を剥奪したからいいだろ」というやりとりにはぎゃふんとさせられた(笑)
しかしこれが「普通」の感覚なんだろう。そう、作中では「普通」という言葉もフューチャーされる。
警察っぽい職業に就く多忙な女性、というといまだにヘレン・ミレンの「第一容疑者」を思い出してしまう。本作のキャリー・アン・モスは毎日野暮ったい同じスーツを着、トイレの場面では、ヘレンのように化粧直しするわけじゃなく、単に一息つくだけ。
女といえばHの妻が、自分たち夫婦の過去を話す場面も印象的だ。後にHは「あいつはすぐ話したがるからなあ」と言う。「でも最後までは話さなかったろ?」。なぜすぐ話すのか、なぜ最後まで話さないのか。
もし「組織に属さない」者が居なかったら、テロリストに「愛する」妻子が居なかったら、この話はどんな風になるだろう?と想像した。この二つの要素はいかにも「映画的」だから、それがなければ、より「現実的」なんじゃないかと思ってしまうから。
(11/09/23・シネパトス銀座)
ドニー・イェン演じる「陳真(チェン・ジェン)」は、「ドラゴン 怒りの鉄拳」におけるブルース・リーのキャラクター。ドニーは既に95年のテレビドラマ「精武門」で陳真を演じており、本作はその後日談だそう。
「ドラゴン 怒りの鉄拳」の内容はほとんど記憶にないけど、印象的だったので唯一覚えていた「東亜病夫」(アジアの病人)の額?が、本作でもキーとなる。
第一次大戦中、ヨーロッパ戦線でこき使われる中国人労働者たち。一瞬ニュース映像かと思いきや、憂い顔のドニーがちゃっかりアップで登場。その後、タイトルが出るまでの怒涛の展開に、早速体温が上昇、肩に掛けてたショールを剥いだ。以降、エンディングまで心の中でショール剥ぎっぱなし。映画としての面白さは「イップ・マン」の方がずっと上だけど、とにかくドニー度がヤバい。
カンフーものって、ずばり「カンフー」を扱ってない限り、銃を使わない理由が「こじつけ」に感じられちゃう場合もあるけど、本作では、冒頭の一幕でまず「ドニー相手じゃ銃の意味ないな」と思わせられてしまう。
また最後の一戦のベタな描き方(一旦倒れたドニーが失った仲間のことを思い立ち上がる、戦闘の途中に回想カットが挿入されるなど)からも、ドニーがやりたかったのはまさに「怒りの鉄拳」、感情が産み出す闘いなのだと分かる。
タイトルの後、場面替わって1925年の上海、ナイトクラブ「カサブランカ」。オーナーはアンソニー・ウォン、花形歌手はスー・チー。ドニーさんは?と思っていたら、お得意のアレでもって登場。これに限らず、場面ごとのドニーの登場の仕方がかっこよすぎで笑えて困る。全力で走って去る後姿も見もの。
全裸拷問シーンでまずは立位背面ヌードを見せてくれたり、ラストファイトで本来脱いではいけないはずの正装を脱ぎ捨ててくれたり、全編に渡って、本人とファンにとってはたまらない場面が続く。
ドニーのアクションは勿論面白いんだけど、日本軍が反日中国人をリスト通りに殺していくくだりも最高。殺し方はバラエティーに富んでおり、見せ方も素晴らしい。加えてたまに、ドニー扮する「仮面の戦士」が乱入して日本人の方をぶち殺してくれるんだからたまらない。停まってる車の窓から飛び込んでくドニーがかっこよすぎる。
日本軍も中国側も首絞め、というか首吊りを多用する。作中の「日本人をやっつけろ!」みたいなビラにも首吊りの絵が添えてあった。中国には独特の首吊り文化があるんだろうか?
出てくる女たちは、ドニーの妹を除き、女であることが仕事。だから皆、仲間意識を抱いている。将軍同士の会食の席で、面倒な状況に愛人同士が目を見交わす、ああいう描写がいい。
スー・チーの「撃っちゃうじょ〜」みたいなキャラには、ああいうやり方もありかと思わせられた。彼女とドニーとのくだりはまさに「ラブロマンス」という感じ、それこそ映画「カサブランカ」の世界。ドニーさんにおでこくっつけられたら、どんな匂いがするだろう?
(11/09/19・新宿武蔵野館)
楽しかったけど、期待してたほどじゃなかった。登場人物が多すぎ、話が複雑すぎていまいち入り込めず。さらわれた!→うぉー!→皆殺し!→涙がぽろり、ってだけでいいのに。
冒頭、ウォンビンとキム・セロンの触れ合いが長々と描かれる。ウォンビンが買ってきた花(後で意味が分かる)をセロンが花瓶に活けると急に怒鳴って取り上げるなど、漫画みたいな描写が多いこともあり、少々飽きてくる。
生々しい「悪」が次から次へと出てくる。皆イイ顔なので…イイ顔すぎて飽和状態になり勿体無いばかり。キム・ソンオ演じる「弟」は、最近じゃ「探偵はBARにいる」の高嶋弟と並ぶ直毛変態系悪役だ。白い粉!トイレ!とオモシロ要素満載なのに、どれもおざなりなのも残念(粉は違う国か・笑)。
ハリウッドぽいこなれた映像から滲み出る韓国風味。冒頭、セロンの母親が車に乗ってひゃっほー!とやっているのを男が「馬鹿な女」と蔑むように吐き捨てる場面。爆発の瞬間の男の目のアップには笑ってしまった。「もしもし警察ですか!」にも笑っちゃったけど、周囲が静まり返ってたので恥ずかしかった。
ウォンビンは、少なくとも本作では、世界一の黒目の持主。駄菓子屋で、キム・セロン目線、じゃないけど見上げた角度のカメラで彼に「怒ってる?」と言われる場面、お前はどこのくらもちふさこのキャラだってほどヤバかった。
(11/09/18・新宿バルト9)
他の作品が混んでたこともあり、アーロン・エッカート目当てで、ミラノ1にて公開初日に観賞。新宿地区では他にバルトやピカデリーで上映してることもあってか、午後の回は3、4割の入り。
犬顔つながりじゃないけど、キャラクターからしても、主役は20年前ならハリソン・フォードだなと思った。同居人いわく「もっと前ならポール・ニューマン」。冒頭、海辺をジョギング中に部下に追い抜かれる古参軍曹(アーロン)という図が「ハートブレイク・リッジ」みたいだから、30年前ならイーストウッドか(ちょっと年取りすぎか・笑)
本作の目線はずっと地べた。主人公の属する小隊はテレビのニュースで、あるいは避難した先の建物のPCで、「危機勃発」の様子や途中経過を知る。見上げても狭い空、周囲は煙で定かじゃない。
そもそもエイリアンもので、地上での銃撃戦がメインというのが珍しい。それこそシューティングゲームのようだ。近しいもんだから、解剖して急所を探したり、至近距離で撃ったのが覆い被さってきたり、体液に触れてもいいの?と心配になる(笑)
映画が始まってまず引っ掛かるのが、「2時間後に指定エリアを空爆」という作戦について。乱暴さには百歩譲っても、主にテレビのニュースで告知してるだけなのに、具合の悪い人など皆避難出来てるの?と思う。まあ「目線が地べた」だから、よそで何か対処してるのかもしれない。
見張り中の隊員二人の「あいつらも上官の命令で戦ってるのかな」「そんなこと言ってるヒマないだろ」という会話や、父親が明かす少年の「友情目当てできたのかも」という言葉はとんでもなく浮いて感じられた。結局、家族と故郷のために頑張る俺達を映画にしたい!敵はエイリアンなら文句ないだろ、という話に思えてしまう。
終盤、武装強固にして出直す際のノリノリぶりが可笑しい。「鹿がいたら!」「突っ込め〜」には笑ってしまった。数年前の映画「G.I.ジョー」にも通じる馬鹿さだ。
ミシェル・ロドリゲスの「私たち、最高!」にはさすがに白ける。ちなみに彼女、始終顔の真ん中の方しか見えないので、エンドクレジットまで誰だか分からなかった。
(11/09/17・新宿ミラノ1)
先日、NHKの番組「ディープピープル」落語家編を観た。三枝と昇太、談春のトークって、なんでこの三人?という感じだけど、この映画の予告を見た時にもそう思ったものだ(この場合、私にギターの知識がないから)。でも観ているうちにそういうの、どうでもよくなる。バランスのいいドキュメンタリーで面白かった。
ジ・エッジ、ジミー・ペイジ、ジャック・ホワイトがギターと共にスタジオに集合。セッションの合間に、彼らが「ルーツ」を訪ねて自らを語る様子、過去の写真やライブ映像などが散りばめられる。「ギター」の深遠に迫るというより、三人がギターを、音楽を通じて生きる様が浮かび上がってくる。
オープニング、農場?でコカコーラの空き瓶を使い弦楽器を作るジャック・ホワイト。いわく「ギターなんて買わなくたっていい」。スタジオへ向かう車内で「おれたちが集まったら殴り合いだな」「二人を煙に巻いてやるんだ、それでテクニックを盗むのさ」などと突っ張ってみたり、「9歳」のジャックにロック魂を伝授したり、彼の登場場面はインパクトと彩りがある。
サンハウスのレコードを掛け、ジャケットを膝に熱っぽく語る(それにしても、レコードとめるの早すぎだろ・笑)。前髪うざいな〜と思ってたところが、その後に出てくる昔のペイジの方が勿論うざいので、何らかのスピリットが表れてるのかな、だからペイジはジャックを可愛がってるのかな、と思った(笑)
私はU2っていいと思ったことないんだけど、ジ・エッジのパートの後にライブ映像が挿入されると、いつまでも観ていたいという気持ちになる。U2聴いてる人、ギターの知識がある人には今更なんだろうけどど、作中の彼のとある解説に、ああ、だからU2はああいう音なんだ〜と分かってすっきりした。
突然「スパイナル・タップ」が出てくるので何かと思えば「10分も15分もソロ演奏をやるなんて自己満足に過ぎない/この映画には笑うより泣けてきた」(笑)ちなみにジャックの「テクノロジーはクソだ」というようなセリフの後、カットが変わるとエッジがMacのコンピュータを使ってるというくだりもあり、そういうちょっとした段差に笑う。彼はそういう「段差」を作るための強固な存在なのかなと思った。
終盤はU2が結成された高校の廊下で「ここに貼ってあったんだ、メンバー募集のチラシが…」としみじみさせてくれた後、ダブリンの海岸での作曲風景。全編通じて、穏やかな表情の下の闘志のようなものを感じさせた。
ジミー・ペイジについては、やってきたことを順に追い、「現在」ではにこにこしてるだけで最高にフォトジェニック。ヤードバーズ加入直前の写真などとくに素晴らしい。中にはあんな映像、なぜ撮ってあるの?というものもあり。
自宅のレコード棚の前で、14歳の頃に出会った曲に合わせてギターを弾く真似をする際のはじけるような笑顔がチャーミング。ちょろちょろ弾いてくれるギターも絶品で、「Ramble On」の「光と陰」に、ああこんなシンプルなことなんだ、と幻惑される。ヘッドリー・グランジで、ジョン・ボーナムのドラムについて語る場面も面白い。エンドロール前の映像も目に焼きついて離れず。
エンドロールでは、3人がアコースティックギターを抱えてザ・バンドの「The Weight」を演奏。彼らを囲む多くのスタッフやカメラごと外から捉えた映像がよかった。
(11/09/14・TOHOシネマズ六本木ヒルズ)
「昔の彼だけを記憶にとどめることにしよう」
「こうも考えられるわ、ナチスにもいい人はいるって」
1938年のウィーン。ユダヤ人の画商の息子ヴィクトル(モーリッツ・ブライブトロイ)は、かつての使用人の息子で幼馴染のルディ(ゲオルク・フリードリヒ)に、父が秘かに所有するミケランジェロの絵を見せた。その後、ナチスに入党したルディの密告により、ルディ一家は絵を奪われ収容所送りとなる。ベルリン本部はその絵をムッソリーニとの取引に利用しようとするが、贋作であることが発覚。ヴィクトルは本物入手の命を受けたルディに囚われる。
とても楽しかった。面白い話が手堅く撮られている。最高に豪華なテレビドラマという感じ。だってあのラストカットは「映画」じゃない、悪い意味じゃなく。
原作・脚本のポール・ヘンゲは「僕を愛したふたつの国/ヨーロッパ ヨーロッパ」の脚本家で81歳のユダヤ人。本作は一応ナチスものだけど、いわゆる「反戦もの」でもなければ、ユダヤ人の主人公はたんなる「被害者」でもない。あの時代を舞台とした活劇だ。「優秀なアーリア人は無敵なんだろ?」「痛いものは痛い!」/「スイスで逮捕されたの、どんなに嬉しいか分かる?刑務所には入るけど、収容所に戻らなくていいのよ」など、セリフの数々が効いている。
ヴィクトルを演じるモーリッツ・ブライブトロイ、最近どこかで見たな〜と調べてみたら「ソウル・キッチン」で主人公の兄の役だった。あの顔には「ソウル〜」や本作のような泥臭い笑いが似合う。彼の母親役に「ブラック・サンデー」のテロリストのマルト・ケラー、収容所入り後の短髪姿が印象的だ。
裕福なユダヤ人と貧乏なアーリア人の立場が逆転、後者は幼馴染に対しずっと屈折した思いを…と字面だとねっとりした話のようだけど、実際にはさらりと明るい。ルディは悪になり切れない間抜けだし、ヴィクトルは機知に富み前向きだ。これも偏見だけど、屋敷で「絵」が見つかると同時にとある知らせが舞い込んだ時の立ち回り方など、いかにもユダヤ人という感じで感心させられる(笑)
キーの一つが「ナチスの制服」。入党したルディが包みを抱えて狭い自宅に文字通り跳んで帰る場面がまず印象的だ。窮地に陥ったヴィクトルが彼から制服を奪うと、昔ながらの物語、それこそ「王子と乞食」のように、二人の立場は逆転する。
ヴィクトルと元婚約者のレナが制服姿で久々に再会する場面も面白い。お互い反ナチスなのに、制服同士なのは悪くない、といった感じ。「まだ着てるの?」と言われた彼は「まだ必要なんだ、まだ」と答える。
原題は「Mein Bester Feind」=わが最高の敵。邦題となっている「ミケランジェロの絵」は、鑑定家が「鑑定」する時以外、誰も大して見もせず、皆が振り回されるだけ。私は美術品って、あってもいいけどなきゃあないでいいと思ってるから、そこが明快で見易かったけど、ミケランジェロに興味のある人はどう感じるのかな?
(11/09/11・TOHOシネマズシャンテ)
公開3週目にして満席。とても面白かった。
冒頭、役名「ゴースト」のユアン・マクレガーが出版社に面接に行く場面からわくわくさせられる。隣にはくだけた姿勢でソファに沈む調子のいい代理人。「(売りは)ないです」でスベるも仕事の速さと「ハート」をアピールするユアン。最後に「ハートだぞ!」とこちらをのぞきこむ編集長のアップが不気味。力加減も考えも噛み合っていなさそうな社主と編集長のコンビの、何かありげな感じがいい。
その後、舞台はアメリカのとある孤島に。クラシカルな音楽も手伝って、なんだかすごく懐かしい、昔っぽい感じがする。これぞ映画!という感じのカットがかっちり丁寧に積み重ねられていく。ユアンの後頭部〜肩をなめて他の人物の動きを捉えた映像が多く、起きていることがよく分かる。ポランスキーの映画って、「こっちこっち!」「→」とばかりに奥で何かやってる人を捉えた画が多いような気がする。
ユアンの主演により、私にとって本作の面白さは100倍増になっている。大したことないコメントを作ったことでオリヴィア・ウィリアムズ演じる夫人に「あなたも共犯よ」と言われ、弁護士との会合の場に出る。テレビの前に座っていると皆がニュースを観るというのでどくはめになり、ソファの肘掛に腰を下ろす。この場面をやらせたら、ユアンは死ぬまで世界一だろう。
フェリーの二階から怪しい男たちを見下ろす表情、前任者の荷物が残る部屋で手を股間に挟んで座る姿。「フィリップ・モリス」ほどじゃないけど、あの年でセーターの袖が長いのが似合う可愛コちゃんぶりもすごい、眼福だ。
掃除夫に押し付けられた帽子と手袋を使うはめになり、匂いを嗅いで顔をしかめる。笑っちゃうシーンだけど、ゴーストなりに生意気にも!不愉快さを感じることもあるというか、ああいう場面っていい。
前首相を演じるピアース・ブロスナンもはまっている。同じ「英国人」でありながら、「ゴースト」と似ているところもあれば、違うところもある。ユアンいわく「オリンピックにでも出るのか?」というほど運動に精を出し、汗だくのトレーニングウェアのまま、セロリを刺した野菜ジュース片手に登場する(弁護士の前では着替える)。自家用機の中で二人が対峙するシーンの面白いこと。
孤島が舞台なので飛行機やフェリーがしょっちゅう出てくるのもいい。始めの方の「飛行機が雲の中をゆく」カットには気が抜けたけど、それ以外の飛行機・フェリーはどれも素晴らしかった。
(11/09/10・ヒューマントラストシネマ有楽町)
浅田次郎による原作は未読。終戦間近の昭和20年、陸軍トップは日本復興のためにマッカーサーの財宝を奪取。3人の男と、それとは知らず動員された一人の教師、20名の少女たちが隠匿作業にあたることになる。
真柴少佐(堺雅人)と小泉中尉(福士誠治)は任務の全貌を知らされておらず、「ありえない」軍服姿の男からあそこへ行け、ここへ行けとその都度指令を受け取って動く。「きょうはなんのひ?」ごっこのようで面白い。そもそもこの話、題材が「マッカーサーの財宝」だからか、どことなくファンタジックな感じが漂っている。「国鉄南武線」でどこをどうやってか到着しているお宝、火を付けると跡形もなく消える指令のメモ。
後に結婚すると分かっている少女(「現在」では八千草薫)と望月曹長(中村獅童)を見守るのも楽しい。級長である彼女が皆が入った後の風呂を洗っているところへ、玉音放送を聴きたくない曹長がやってくる。切っ掛けなんてこんなものだ。私があの環境下にいたら、若い男ってだけで意識してしまってしょうがないけど、彼女はさわやかなもの。
もっとも二人はその後、否応無く、切っても切れないつながりを持つはめになる。曹長いわく「軍人は、戦争が終わったら、罪もなく傷ついた人を守ってやらねば」。「現在」の彼女は「秘密を一人で抱え続けるなんてできなかった」と告白する。私としては本作で描かれる物語よりも、二人のその後の何十年ものほうがずっと興味ぶかい。
ちなみに中村獅童のみ、作中「いくさ」という言葉を何度か使うんだけど、似合ってて笑える。
…というふうに「本筋」は結構面白いんだけど、「現在」パートがとにかくたるい。何たって「回想する老人」が二人も出てくるんだから。日米双方の視点から…というのは分かるけど、どっちの話もそう聞きたくない。
また「本筋」においては重要なところをわざと見せない抑えた演出をしており、そこが好みなのに、「現在」ではセリフによる煩い説明がてんこもり。麻生久美子の「私にも見える」アピールには驚いた。
その他、例えば話の導入となる「石碑」のつるつる具合とか、キーとなる「肉筆」が(誰が書いたやつでも)みな同じような感じだとか、そういう部分がいちいち引っ掛かる。とどめに雑極まりない妊娠の扱い。
静かな映画だから、思いがけないアクションシーンがいいアクセントになっている。脚の悪い中村獅童によるスーツケースを使っての立ち回りと、終盤の堺雅人の一撃。映画全体では中村獅童の方がいいけど、アクションに関しては堺雅人の方がキレがいい。実戦経験がなく、中盤では人命を天秤にかけてしまったことを思い悩む彼が、この場面では迷いなしに行動する。
教師役のユースケが私は苦手なので、彼の第一声(もうちょっとでお昼ごはんだぞ、とか何とか)にちゃんと喋れよ〜と脱力するも、その後は役に合っていた。
(11/09/07・角川シネマ新宿)
ポスターには「一緒にいると、あったかい」とあるけど、正しくは「一緒にいると、バカになる」だろう。それが愉快だ。
何とも魅惑的なクリストファー・ロビンの部屋の映像に始まったかと思いきや、その後は全く違うテイストで攻めてくる。「クマのプーさん」の「本」をさかさまにすると、挿絵の中のプーさんがベッドから落ちて目を覚ます。昔ながらのアニメーションに加えて「本」を活かした展開が楽しい。エンドクレジット後にスクリーンに広がる、あの挿絵の森も素晴らしい。
プーさんの映画を観たのは初めてだけど、ディズニーって、原作の「クマのプーさん」、というか「本」を重要視してるんだなと思った。ランドの「プーさんのハニーハント」だって、「本」がどどーんとお出迎えしてくれるものね。
(こうした、本というか文章というか文字で遊ぶあたり、子どもの頃大好きだった「漢字の本」を思い出した)
エンドクレジットも楽しくて最高。ズーイー・デシャネルの歌に合わせて、クリストファー・ロビンの部屋の中で物語が繰り返される。ハンドメイド感にわくわくする反面、「クマのプーさん」は少年の想像した物語だから、あれはヴェールを取りのぞいた「正しい」映像だと言えるけど、それを見せてしまっていいのか?と思う(笑)また「トイ・ストーリー ハワイアン・バケーション」を想起して、そういや「クマのプーさん」って「トイ・ストーリー」でもあるんだよなあ、クリストファー・ロビンは大きくなって、ぬいぐるみと遊ばなくなる(ことを示唆して終わる)んだから、などと思う。
作中では吉本新喜劇顔負けのギャグが炸裂。オウルのあれは、私にとってはもちろん、ドリフの刑務所コント。これを初めてやったのは誰だろう?
(11/09/06・新宿バルト9)
都内で唯一字幕版を上映していたスバル座も吹替版に変更してしまってたので、どのみち吹替ならと最寄のバルト9にて観賞。日曜の夕方の回はみっちり満席。
日本版の予告編は、今年一番のサギじゃないかな?「キャンディ工場」が舞台のアニメと思わせといて、実際は半分以上が実写映像、舞台はほぼハリウッド。私としては却って良かった。
イースターの晩、サンタクロースよろしくお菓子を運ぶウサギを目撃した少年フレッドと、イースター王国の跡継ぎとして育てられたウサギのイービー。20年後、フレッド(ジェームズ・マースデン)は定職に就かないことを家族に責められ、家から追い出される。一方イービーはドラマーになる夢を捨てられず、「うさぎ穴」を使ってハリウッドにやってきた。
決められた未来から逃げようとする息子と、何もしなくてもいいから何をしていいか分からない息子。そんな二人の、いちおう大人同士の付き合いが描かれる。
とにもかくにも(予告編には一切出てこない)主役のジェームズ・マースデンがはまり役。「喋るウサギ」に驚いて台所に逃げ込み、手にするのが「フライパン」。そりゃあ子どもが見る映画だから包丁は無しだろうけど、これが似合う。「こんなつまらない仕事なんて」という物言いも、「TF3」のシャイアだと、ファンの私でさえいっぺん死んで来いと思うけど、マースデンだと腹が立たない。でもって思い付く「天職」が「イースターラビットになる」ことなんだから!今年の男の特訓映画といえば「X-MEN
ファースト・ジェネレーション」だけど、私は断然こっち。彼の夢がかなうあまりに馬鹿馬鹿しいラストには、胸がじんとしてしまった。
ちなみにストーリーの柱の一つに、マースデンが豪邸の留守番をする(&勿論トラブルに巻き込まれる)というのがあり、アシュトン・カッチャーの「セレブな彼女の落とし方」を思い出した。留守番キャラってのがある。
予告編で強調されている「工場での反乱」を起こすのが、現場監督のおっさんひよこ・カルロス。アニメの動きが可愛く、手でむぎゅっとつぶしたくなる。実際の声はハンク・アザリアが担当してるそう。イースター国王の片腕として働いてきた彼は王子のイービーを追っ払い後釜に座ろうとするが、国王からは笑いとばされる。なぜひよこじゃダメなのか、というかなぜ工場の労働者層がうさぎじゃなくひよこなのか、よく分からない。
他の要素としては、イービー追跡のために出動する特殊部隊「ピンクベレー」。「女が強い」のにも逆に飽き飽きしてるから、彼女たちが大してマッチョじゃない、ごく「普通」なのが好ましかった。プレイボーイマンションのカメラをぶち壊しちゃうのもいい。
「ウサギが喋る」という問題が、主役のマースデンとの場面では「お約束」のドタバタの元となり、ダイナーのウエイトレスとの場面では、焦るマースデンを尻目に「当たり前」として受け入れられる、そういうレンジの広さが面白い。本人役で出演してるデヴィッド・ハッセルホフに至っては眉一つ動かさず、「オレの相棒なんて喋る車だぞ」と言ってのける。ちなみにその時、隣の席でぐずる女の子にせんべいなどあげながら大変そうだったお母さんの「なるほど〜!」という感嘆の声を聞いた(笑)
(11/09/04・新宿バルト9)