「芸人は兵士じゃない、聖域に存在してるんだ」
内戦が終わり、フランコ政権下のスペイン。マドリードでとある劇団が興行を再開しようとしていた。爆撃により妻子を失った喜劇役者ホルヘも1年ぶりに戻ってくる。彼と相方エンリケは芸人志願の孤児ミゲルを引き取り、3人で暮らし始める。劇団は反体制派を弾圧する政府の監視下にあり、内偵者が送り込まれていた。
予告編からは少々苦手な感じを受けてたけど、とても面白かった。はじめ「芸人と政治」のあり方についての物語と受けとめてたけど、最後には「芸人の目を通した」ストレートな反戦映画だなと思った。
独裁政治下を生きる芸人たちを描いた中盤までも面白いし、終盤は怒涛の展開。明かされる意外な事実、その後のサスペンス、ラストの「感動」、どの描き方にも心躍る。しかし今年観た他の映画を顧るに、戦争で苦しんだ人たちを題材にこの手のやり方で感動を味わってしまっていいのかとも思う。
(話がそれるけど、後日「一枚のハガキ」を観たら、描写がシンプルなため人の死などの不幸がギャグに感じられるという、分かりやすく言えばカウリスマキ映画のようなことが起こっており楽しかったので、「ペーパーバード」で大音量のドラマチックな音楽をバックに妻子を亡くす冒頭の場面を想起し、色んな姿勢があるもんだなあと思った)
主人公ホルヘは冒頭のような考えの持ち主で、仲間いわく「怖いもの知らず」。皆の前で総統の物真似をしたり、「総統のニュース映像は感動ものだ」と言われると「銃殺しながら涙でも流すのか?」と返したり。当の上映会では、映写機をいじって面白おかしくしてしまう(ニュースDJとでもいおうか?)。しかし「芸が命!」というわけではないし、「家族」を持つことで変わる部分もある。
仲間にも色んな者がいる。「この年になると選択肢がなくて」と言う痔持ちの花形歌手が、巡業先の村長を歌で落とす場面など、芸人の本領発揮という感じで楽しい。一方そのパーティの隅で、若い女の美しさをただ「観賞」する大尉がいるのも面白い。それから犬も出てくる!
またこれも予告編からは分からなかったけど、本作は男二人が「夫婦」として子どもを持ち家族となる話でもあった。ホルヘの相方エンリケが「同性愛者」であることが、冒頭のカフェで示唆される場面がしっとりしておりいい。前半では、彼が裁縫や料理を得意とする様子が「分かりやすく」挿入される。穏健派の彼は軍人に向かって対等な口を利き自分の意見を述べるホルヘをたしなめ、「家族」でブエノスアイレスに逃れることを提案し続ける。
セックスの介在しない二人は、理想のパートナーだ。ホルヘに「お前の元カレ(という字幕はちょっと合わない気が・笑)たちに怒られるな」と言われたエンリケは「あいつらは愛も友情も知らないさ」と返す。またヤケになるホルヘに「お前を愛してる者だっているんだぞ」とも言う。「誰?」「おれさ」、続けて隣のミゲルも「ぼくもだよ」。
終盤、作中キーとなる人物の「戦争が終わってよかった」という言葉に対し、ホルヘは心情を吐露する。「戦争は終わったが、愛する者を失うと、全てがどうでもよくなる。望みは誰かを殺すか自分が死ぬかだ」。しかしその後、母親と再会する望みを捨てないミゲルに「愛する人はいつも一緒だ」と言う。誰かの存在が生きる理由になることがあるのだ。
(11/08/31・銀座テアトルシネマ)
題材から「キンキー・ブーツ」を思い起こしてたけど、勿論これはまた違う話。何度か遭遇した予告編の「家族だから、いつかきっと分かり合える」という宣伝文句に違和感を覚えてたけど、観てみたら、分かったふりをするような話ではなかった。めぐりめぐるようなカメラ、地に足ついた「幻想的」な映像が特徴。
原題は「浮遊機雷」という意味、作中そう呼ばれているのは主人公の祖母。決して「めでたしめでたし」という姿勢じゃないラストシーンが面白く、私には爆弾の群れが舞っているように思われた。それでいいんだ。
ローマで恋人と暮らすトンマーゾの実家は、「家名」という名の老舗パスタ会社。彼は兄アントニオの社長就任を祝う集まりで、家業を継がず小説家になること、同性愛者であることを告白すると決めていた。しかし先にアントニオが「ぼくはゲイだ」と発表。父親は兄を勘当し、トンマーゾを跡継ぎとして引き留める。
こんな邦題だけど、パスタはほとんど出てこない(…ことからも、終盤の展開の予想はつく)。祖母からパスタの食感のエロティックさを聞いたトンマーゾが、人目を盗んで数本むさぼってみるくらい(笑)
役員のアルバは、トンマーゾがパスタに飽きてると思ってか?彼を招いてのディナーにサンドイッチを振舞う。私の「イタリアのサンドイッチ」のイメージから離れた、耳を落として三角に切った白パンに、卵やブロッコリーをたっぷり挟んだもの。一家の食卓は家政婦の担当で「家庭的」ではない(が、指示はきっちりねっちり出す・笑)。朝のテーブルにもクッキーが並ぶ。そう、わけあって本作にはパスタより甘味が多く出てくる。
トンマーゾの母は胸に十字架のペンダント、父は入院先にも聖なんとかみたいな絵を貼っている。同性愛は「ありえない」が、長年の愛人がいる(この「愛人」がいかにもでいい)。
化粧気のない祖母がトンマーゾに言う「甘く耐え難い日々、実らない愛に終わりはない」という言葉は、借り物じゃない、心身からきた重みがある。もっともたまには、こういう婆さんじゃなくて爺さんが出てくればいいのにと思う。「女は強い」なんて無責任なことを言うやつが出てくるから(誰も強くなくてもやってける世界にしようと思わないのか?)。
町のかばん屋?で、母と叔母が近所の人と面と向かっての中傷合戦になる場面、場内は沸いてたけど、笑えなかった。自分がいくら考えを持ったところで、世界にはああいう場所があり、どこかで自分とつながってるんだもの。
(11/08/28・シネスイッチ銀座)
「トワイライト」のロバート・パティンソンが原作に惚れ、制作総指揮と主演を兼ねた作品。登場時アパートのベランダに出てるので、「陽に当たってる!」とお約束の突っ込みをしてしまった(笑)
ある夜、ある駅のホーム。電車を逃した母と娘を悪漢が襲い、助かったと思いきや、彼らの顔をじっと見てしまった母親は撃たれて即死。しばらく後、父親(後に警官だと分かる/クリス・クーパー)が娘を抱きかかえ連れ帰る。
…というオープニングは面白いんだけど、主人公タイラー(ロバート・パティンソン)が出てくると体温は下降。場面は替わって10年後、ニューヨークのぼろアパート。裕福な家を出て「自堕落」な生活を送るタイラーは、亡くなった「兄さん」の年齢に近付こうとしており、そのことについてガンジーやらモーツァルトやらを引用しながらつぶやく(後に、それらは彼が毎朝思い出のカフェで書いている日記だと分かる)。これがどうも心に迫ってこない。救いは親友とのふざけ合いだけど、それもいまいちぱっとしない。全体的に、面白くなりそうなのを、ロバートが消して回ってるという印象を受けた。
初めて彼が魅力的に見えるのは、大学生アリーに声を掛ける場面。結局「トワイライト」のような「恋愛もの」に向いてるのか〜というわけではなく、「新たな関係」に乗り出すきらめきのようなものが上手く出ている。それともたんに、私は彼の笑顔の方が好きだからだろうか?
レナ・オリン演じる母親が「あなたのおかげで皆つながってる」と言うのは、あながち気遣いからではなく、描かれるのはあくまでもタイラーを中心とした人間関係だ。アリーが「恋人」として身内の集まりに出たり久々の父との食事に同席したりする場面では、「一族」という人間関係の広がりが味わえ面白い。ちなみにアリーには当面の「一族」は父(クリス・クーパー)しかいない。
男たちはそれぞれ誰かを愛しているが、互いの「利益」の相反により、ぶつかり合いが起こる。タイラーは二人の「父親」とぶつかるが、その場面はいずれもあっけない。本当に「ぶつかって」いるだけだ。また母親の新しい夫には一切関わらず、彼の方も、集まりでは後ろに手を組んで立っている。
ピアース・ブロスナン演じる、家族を顧みないエリートの父親は、息子に怒鳴り込まれた後、とある被害に遭った娘(タイラーの妹)を学校に送るようになる。タイラーがオフィスを訪ねると、父のPCには家族の写真が…この場面にはさすがに白けた(笑)
その後、話は意外な展開を見せる。今年一番の「どんでん返し」…という言い方はふさわしくないか、勘のいい人なら舞台設定で気付くかも、とにかくショックを受ける。冒頭の場面とのつながりも、それに向けて話が進んでいたことも分かるけど、それによって面白度が増してるかは疑問だ。
レナ・オリン様は、「アウェイク」ほど出番もなければ演技も見せないけど、お金持ちの妻という点は同じ。どのドレス姿もすてきだった。
(11/08/25・シネマート新宿)
オープニングのアニメーションでは、「悪役」のケヴィン・ベーコンも「仲間」として踊ってるから、どういう映画なんだろう?と思ってたら、ああいう内容だから、混乱してしまった。映画が終わると死んだ人も一緒に歌い踊るエンドクレジットみたいなものか、と思うことにした。
冒頭から何かっていうと笑わせられ、なんてよく出来たコメディだろうと感心するも、途中ふと、私がこれを笑う理由はなぜだろう?と考えてしまい、そうこうするうち、あれっこれは…と黙り込む。
フランク(レイン・ウィルソン)は人生で一番輝いてた時を絵にして飾っている(ラストもアレだし)。私なら、自分が登場する絵を見ながら暮らすなんて気が重い。また妻のサラ(リヴ・タイラー)が去ると、鏡に映る自分に「泣くのはみっともない」と思う。たまたま映った風じゃない、自分を外から見るのがクセなんだと思った。それはキリスト教的な感覚かもしれない。
印象に残ったのは、ダイナーでフランクとサラが彼女の母親?に結婚の話をする回想シーン。母親が「フランクに不満があるわけじゃないけど、せめてもう一年待って」と反対するのを、フランクはポテトを食べるのをやめないまま聞いている。サラが何か言うと、母は「あなたはどこかで聞いた言葉をつなげてるだけ」と言う。娘は「私が正しかったらどうするの!」と反抗する。リヴ・タイラーの、確かに「借り物」っぽい、馬鹿っぽい喋り方に、この場面で初めて気付いた。だからどうってんじゃない、フランクにとって彼女は「意味」のある存在だった。
映画館のくだりでは「シリアル・ママ」を思い出し(そういうシーンがあったわけじゃないけど)、久々に観たくなった。
(11/08/24・新宿武蔵野館)
「世界最高齢の小学生」のギネス記録を持つ、当時84歳のキマニ・マルゲの実話を元に制作。監督に「ブーリン家の姉妹」の英国人監督、ジャスティン・チャドウィック。
舞台はケニア。勝手にドキュメンタリーと思い込んでいたので、オープニング、草原の中の美女や思いつめたような男の顔などの「スタイリッシュ」な映像に驚く。こういう映画なのかと気持ちを切り替えても、ラジオDJが「全国民に対する無償教育制度」のスタートを高らかに告げ、子どもたちが出生証明書を手に走り抜け、送迎バス?の運転手がドアを開けながら「教育は未来への扉だ!」と叫ぶと更に中から子どもたちがあふれ出す…といった映像に、いくら何でも「作られ」すぎの感を受け馴染めなかった。しかし見ているうち、このような大きな問題を扱うには丁度いいデフォルメ具合だと思えてくる。
本作はおじいさんが「小学校」の中で色んな目に遭う話ではない。マルゲは子どもたちにすんなり受け入れられ、勉学に励む。まず早々に、彼が「読み方」を学ぶ主な理由が、何やら古ぼけた「手紙」のためだと分かる。かつて受けた残虐な仕打ちのフラッシュバックが、彼を悩ます。教育委員会?の上層部は、老人を小学校にふさわしくないと排除しようとする。加えて教員ジェーンのポリシーとその暮らし…仕事のために夫と別居生活をしていることなどが描かれる。彼女は機転を利かせてマルゲを学校に留めることに成功するが、二人は様々な嫌がらせを受ける。
このような盛り沢山な要素に加え、落語で言えば「長屋の仲間」的人々、怒ると杖を振り回して相手を叩くマルゲのキレぶりなどがアクセントとなっており、うまく言えないけど「古きよき日本映画」にも通じる雰囲気がある。
何度も挿入されるマルゲの回想シーンは、「今」と同じ、あるいはもっと鮮やかで生々しい映像として撮られている。服装や髪型、家の造りなどが私の目には「今」とそう変わらず、どのくらい前のものなのか分からない。実際、映画によく出てくる国より(ラストに映るナイロビはともかく、その村においては)変化が小さいし、そもそも私が普段ケニアの文化に触れていないからだろう。
しかし本作は、そんな私でもある程度理解できるよう、分かりやすく作られている。回想シーンではただただ、マルゲが受けた残虐な仕打ちを描き、その説明として、ジェーンの「部族主義なんて」「今は皆が同じケニア人よ」に始まり「いいケニア女のように口を閉ざしてろっていうの?」などのセリフが置かれている。マルゲは「自由」について、子どもや国の偉いさんたちに向かって語る。
「手紙」は、ケニア大統領がマルゲに賠償の権利を認め、建国について謝辞を述べるものだった。しかし彼自身は「幼い頃は白人の農場で働き、その後は自由のために戦ってきた」ため読み書きを知らず、それをずっと読めなかった…という事実に涙がこぼれた。ジェーンはマルゲの部屋で「すごく昔の写真」を目にするが、その時から何十年もの間、どうして生きてきたことだろう。彼の他にも、そうした人たちがどれだけいたことだろう。
今の日本の学校じゃ、高齢者との触れ合いをわざわざ設定してるくらいだから、作中、子どもたちの親が大騒ぎするのがいまいちぴんとこない。勿論「一つの机に五人、床に座ってる子もいる」状態だから、まずは子どもをという気持ちも分かるけど。ともあれ基本的な教育が、心の余裕の基礎になるんだなあと思わされた。
(11/08/21・岩波ホール)
太平洋戦争開戦前夜の上海を舞台にした、アメリカ・中国・日本合作もの。主役の米国諜報部員にジョン・キューザック、その親友の愛人に菊地凛子、中国人裏社会の実力者にチョウ・ユンファ、その妻にコン・リー、彼らの周囲をうろつく日本人将校に渡辺謙。
予告編から想像はしてたけど、よくも悪くも、ちょっとした小品という感じ。ジョンキューのナレーションと暗い画面に「真夜中のサバナ」を思い出してた。もっともああいう「何か」はない。ジョンキューの、当時とそう変わらない顔の下にはひどく膨張した体があるけど、親友の死に立ち尽くす場面では昔の彼のようだった。ちなみに同居人は、他にこの役をやるならキアヌかな〜と言っていた(笑)飄々と運よく生き延びる感じは、確かに合ってなくもない。
「ただ親友のために」諜報部員となったアメリカ人ポールと、「大勢が犬死にしてるのに、一つの命なんて」とレジスタンスに身を投じる中国人アンナの人生が「魔都」で交錯する。そして開戦。
渡辺謙の役は「最後に勝つのはいつだって女さ/忘れられるからな/男は騙されてると思っていてもダメ/それが原動力なんだ」などと言ってのける、ちょっとむかつく「ロマンチスト」。とはいえ女に「魅せられ」「翻弄され」る男、という構図ではなく、ジョンキュー演じる主人公も女をちゃんと惹きつけてるのが、観ていて気持ちいい。
ガンアクションについては、最近「復讐捜査線」「この愛のために撃て」のような上等のものを観ていることもあり、どうにものっぺり感じられた。こっち向いて撃ってくるだけ。ただユンファが活躍する場面は面白い。
コン・リー演じる金持ちの妻は、着てみたいと思わされる衣装ばかり身に纏うけど、菊池凛子は、まあそういう役柄なんだけど、寝巻きガウン姿だったり布で覆われたりとぼろぼろ極まりなかった。
(11/08/20・新宿ピカデリー)
マイク・リーの2008年作を、三大映画祭にて観賞。ロンドンを舞台に、サリー・ホーキンス演じる主人公ポピーの「happy-go-lucky」な日常を描く。
冒頭、自転車で町をぶらつくポピー。カメラと彼女の間を通り過ぎるトラックの荷台や歩道の柱などが、「普通」の映画と違うというか、「映画の意図」に従ってないというか、そもそもそうした「意図」が無いように思われて、もっと彼女を「ちゃんと」見せてよ、ともどかしい反面、大げさだけど、映画の中に一緒に生きてるような感覚を覚える。
書店で店員の男性に「すてきな帽子ね」などと話しかけるも相手は無視。しかし彼女が「不愉快?」と問うと「いいや」と答える。自転車を盗まれバスに乗り、大きく揺れると隣の中年男性に話しかける。彼もそれなりの笑顔を返す。彼らの心情は「分からない」。これにも冒頭と同じ、映画の中に居るような感じになる。
ポピーは独身の小学教師、同業で10年来のルームメイトのゾーイとマンション住まい。仕事の後は、なんとか教室で体を動かしたり、バーで飲んだり。服装は大抵、網タイツに「履きやすい」ブーツ。サリー・ホーキンスは「デザート・フラワー」でもロンドンのtopshopの店員で、こんな感じの格好して、女同士で暮らしてた。彼女ほどそういうのが似合う女優もいまい。素晴らしい口のゆがみ具合に見惚れる。あんなウザ女を「公認」で演れるなんて、楽しいだろうな(笑)
「未来を生きる君たちへ」のくそ教師(そういうふうに描かれているわけだけど)にむかついた後なので、ポピーの、「発見」したらすぐ「対処」、プロ任せというやり方は非常にまともに見えた。まあ元の「世界」が違うともいえるけど。
「人生設計」を説かれるくだりでは、彼女が「30歳」というので驚いた。30じゃ全然アリ、すぎるだろう。
いわゆるラブシーンがやたら「リアル」で、へんな言い方だけど、まるで自分がしているみたいに感じられた。「女体」で「エロス」を表現してる映像にはない心地よさ。また、翌朝の何気ないいちゃつきや、男と知り合った後に教官の車に乗り込んだ時の、いつもと違う空気(自分のせいでも、相手のせいでもある)などの感じがよく出てた。
ラストシーン、ポピーとゾーイが公園の池でボートを漕いでいる。オールを一つずつ持って。
「タバコをやめようかな」と言われたポピーが「私は何をやめようかな?」と返すと、ゾーイいわく「『いい人』をやめれば?」。え、ポピーってたんに好きで「能天気」なわけじゃないんだ、と初めて知りびっくりした。そういう驚きを味わうのも、一つの映画の見方か。もっともゾーイがどういう意味で「いい人」と言ったのかは分からない。どうにも解釈できるところが面白い。
ちなみにゾーイはほんとに「ゴージャス」で、私こそパートナーになりたいと思わせられた。
(11/08/19・ヒューマントラストシネマ渋谷)
原題は「復讐」。
冒頭の舞台はアフリカの難民キャンプ。医師アントンが医療活動に従事している。巷では妊婦の腹が切り裂かれる事件が頻発していた。
第二の、というかその後の主な舞台はデンマークの港町。アントンの息子エリアスは、学校でいじめに遭っているところを転校生のクリスチャンに助けられ、仲良くなる。クリスチャンはエリアスをいじめる相手をトイレで殴り、ナイフを突きつけ自分たちに近付くなと脅す。
ある日、アントンは路上で見知らぬ男に殴られる。自分たちの「復讐」に成功したエリアスとクリスチャンは、男の職場を探り当て「復讐」を促す。父は彼らを連れてそこを訪ねる。「殴った理由を知りたい」と言うと相手は殴りかかってくるが、構わず何度も頬を差し出す。その後、子どもたちに向かって言う。
「分かるだろ?」
「『何が』?」
「あいつは相手にする価値もない、愚か者だ」
しかしアントン自身もその後、やり場のなく火照った体を水に沈める。こちらが「相手にする」つもりがなくても、ほとんどの場合、暴力は向こうからやってくる。私としては、理不尽な暴力なんて、わざわざ映画で提示されなくてもしょっちゅう遭ってきたよ、と少々白けつつ、妊婦を切り裂く「ビッグマン」が袋叩きにされる場面では、その輪に近寄っていく者たちの後姿に、自分だってあの場にいたら、ああして「見物」し、「復讐」の甘美さを味わうのかも、と少々どきっとする。
「アフリカ」において、この物語の後も暴力が絶えることがないのは明白だが、エリアスとクリスチャンが属する二つの「家族」は、少々急いたようにも思われる展開を経て、映画の終わりには団円となる。実際には「彼らのその後は分からない」はずだけど、そういう描き方は積極的にはされていない。何となく「閉じた」感じを受けた。これはどういうことだろう?「自分」の周囲に見えなくとも暴力は常にある、ということを示唆してるのだろうか?
「仕事」を終えたアントンが、汲み置かれた水で顔や首筋を洗う場面が多く目立った。せめて何かを消し去りたいという気持ちの表れだろうか。
他に印象的だったのは、彼と別居中の妻マリアンの、ぱちくりした目。久々に帰国した夫を車で迎える時の、どう見ても「わだかまり」のある目。それが消えていく過程。
また、学校における面談で、廊下に出たアントンの空席を挟んだ夫婦の様子や、終盤、息子の病室でマリアンが看護師に向かって「できればここにいて」と言う様子、そういうふとした場面がいい。
歯を矯正しているエリアス役の男の子が、私には「デヴィッド・ボウイの子どもの頃」にしか思われず、ずーっと、少々ときめきながら見ていた(笑)
(11/08/17・新宿武蔵野館)
「なぜ登るのかね?」
「画家はなぜ描くと思う?」
「登山家はアーティストだというのか?つまりエゴイストだな」
「パトロンと同じさ、絵が完成しさえすればいいんだ」
原作は「裸の山 ナンガ・パルバート」。登山家ラインホルト・メスナーが、70年のナンガ初登頂の際に弟を亡くした体験を綴ったもの。自身の企画持込みによる映画化だそう。
オープニングはナンガ・ルパール壁の空撮。前人未到のルートである絶壁に、人間がアリのようにへばりついている。おおっと思わせられるけど、カメラが寄って当の二人が映し出されると、なんというか、軽い。そこまで登ってきた重みが感じられない。さらに言うなら、「映画」という感じがしない。
登頂に成功した二人が抱き合って喜ぶと、場面は替わり、遠征のリーダーであったカール博士(カール・マルコヴィクス…「ヒトラーの贋札」サリー役、「マーラー 君に捧げるアダージョ」フロイト役)の講演会場。彼が「山頂に弟を捨ててきた」ラインホルトを非難すると、松葉杖をついた本人(役)が現れ、一部始終を語るという構成になっている。
チロル地方の渓谷を臨む家に育った兄弟は、山登りに夢中になり、ナンガに思いを馳せていた。墓地の壁をよじ登り、牧師に「なぜそんなことを」と叱られると「壁があるから」と答える兄と「分からない」と言う弟。牧師は「死者はともかく、生者を敬うように」とたしなめる。
成長した二人は(作中の描写からすると)あっさり遠征チーム入りを果たし、陽気にバイクで出掛けていく。時代も違うけど、「アイガー北壁」ペアが自転車で700キロを行くのに比べたら、随分ラクなものだ(笑)
「ナンガに散った兄の夢」に固執するカールは、神経質な付き合い下手で、登山家からの評判は悪い。チームの面々にも色んな人がいる(…はずなんだけど、あまり浮き彫りにされない)。めいめいの思惑が交錯し、様々な要因が重なり、なんだかめちゃくちゃだな!と思っていると「悲劇」が起こる。装備無し、ザイル無しで過酷な環境下に放り出される二人。
最も印象的だったのは、絶望的な下山の後、現地人に発見されたラインホルトがぼろ切れのように運ばれるくだり。彼らの側の事情は全く描写されないのが面白い。
ラインホルトは、この体験以降「本当の、プロの登山家」になったという。映画のエンディングでは、彼がナンガに「弟を探しに何度も出向いた」「再び装備も仲間も無く登頂した」ことが語られる。頂上で一人晴れやかな顔の写真はよかった…と思ったら、本国版のポスターはその写真が使われてるんだな。
(11/07・銀座テアトルシネマ)
映画「ぼくのエリ 200歳の少女」とその原作「モールス」(未読)を基にした作品。少年オーウェンにコディ・スミット=マクフィー、彼と想い合うアビーにクロエ・グレース・モレッツ。
面白いんだけど…全ての場面が面白すぎて、二人の触れ合いの情感が埋もれてしまっている。また全てがぱきぱき合理的に説明されるため、観賞後、あの未解決事件の数々はどうなるんだろうと心配になる(笑)もっとも「ぼくのエリ」と比べて観たからそんなことを思うんだろう。
それにしても、リチャード・ジェンキンス演じるおっさんの狩りのくだりがあんなに楽しいのはまずい、何の話だか忘れて見入ってた。久々に聴いた「Burnin' for you」、あの場面にこれは燃える!
映画は病院での一幕から始まる。「硫酸を浴びて顔に火傷を負った」「犯罪がらみの」中年男が瀕死の状態で運ばれてくる。やってきた刑事は、口がきけない彼に「共謀者がいれば必ず捕まる」と告げる。「彼の娘」も訪れるが、面会できないと言われ姿を消す。この場面は終盤繰り返され、何かと思えば面白い効果を生んでいる。
スウェーデンの作品である「ぼくのエリ」にそういう要素はなかったけど、本作は幼い主人公が「アメリカ」の「善」を初めて意識し、自分なりに考え、そこから逃げる物語に思われた。
冒頭、病院の受付に置いてあるテレビの中で、レーガンが「悪の帝国」スピーチをしている。「アメリカには善がある、アメリカに善がなければ…」というところで場面は「二週間前」に切り替わる。子どもたちは毎朝学校で、そうしたアメリカに忠誠を誓っている。アビーの「正体」を知ったオーウェンは、毎晩酒を飲んで眠りこけている母親には聞けないため、離婚手続き中の父親にわざわざ電話を掛け「悪は存在するのか」と尋ねる。
オーウェンが初めてのデートの前にあることをする場面での「キリスト」や、ラスト近くの「ドアを閉める」場面はダサいほど目立っており、作り手の意思を感じさせる。
オーウェン役のコディ・スミット=マクフィーくんは、めちゃくちゃ可愛いフランケンシュタインといった感じの容姿。おでこが広いんだな。何度も映される、肩甲骨の上の骨?が素晴らしい。クロエ共々、頭が小さくて脚が長いから、二人だけの場面ではちょこっと不自然な大人同士みたいだった。
二人のやりとりを見ていると、大人になるってどういうことなんだろうと思わされる。いい悪いでなく、体の変化に伴う心の変化というのもあるもの。
舞台が「83年のアメリカ」なので、主人公より数歳下の私にとっては大・懐メロ大会。冒頭にあげた「Burnin' for you」はもちろん、二人がデートするドラッグストアで流れるのはカルチャークラブの「Time」。やっぱりいいな〜と思ってたところ、店員のカッコに笑う。
おっさんがイヤホンで「Let's dance」を聴いてるのも、年齢からして、「アメリカ」っぽいこの頃のボウイから聴くようになったのかなとか、色々想像してしまった。
(11/08/05・シネマスクエアとうきゅう)
銀座テアトルシネマで開催中の「クライミング映画祭」にて。昔観たことあるけど、記憶もおぼろげだし、スクリーンで体験できてよかった。
仲良し山コンビが、ひょんなことから夢のK2に挑むことになる物語。
原題はたんに「K2」、91年公開時の邦題は「K2 愛と友情のザイル」。観終わって、今回の題の方がしっくりくるように思った。むしろ「ハロルドとテイラー」だけでもいい(笑)本国でのサブタイトル「The Ultimate High」も悪くない。
冒頭、まずは「下界」での描写がしばらく続き、二人のキャラクターとその関係が示される。
マイケル・ビーン演じる弁護士のテイラーは、ずうずうしいことこの上ない男。葬式の場で死んだ人間の代わりにと登山チームに自分を売り込む。返事も聞かず早速ザック担いで出勤、職場で体鍛えたり、それらはともかく秘書にセクハラしたりと、まあイヤなやつ。
マット・クレイヴン演じる大学教授のハロルドは、家族と仕事に重きを置く控え目な男。彼の読んでる「死の大地」さえも心配の種になるような妻とのああいうやりとり、私は苦手。普通に送り出す・出されるか、別れちゃうか、どっちかがいい。一方が我慢して成り立ってる関係は嫌だ。まあ何でも当人の勝手だけど、見たくない。
終盤、テイラーの「そこがお前と俺との違いだな」というセリフには、上手くそらしすぎ、さすが汚い弁護士(自分で言ってるからいい・笑)!と思ってしまった。対して「俺たちの友情は、お前が損しない時だけ成り立つんだな」と返すハロルド。それでも後に、朦朧としながら妻の名を呼ぶハロルドは、テイラーのとある「告白」の後には彼の名を口にするのだった。
トレーニング中、岩をよじ登るテイラーの指のアップに惹き付けられる。全篇に渡り、山において、いかにもありそうな場面、あるいはトラブルが、シンプルかつ分かりやすく描かれている。雪崩に押し流されるテント、救助、クレバスへの落下、高山病、病人の下山…そして滑落。いずれも見ごたえがある。
ベースキャンプまでの行程にも結構時間が割かれており、ポーターとのお金がらみのトラブルなどが差し挟まれる。話がそれるけど、山岳ものでポーターとのシーンを見ると、この手の登山とは、現地人にとっての「日常」を、裕福な国の人々が「発見」「征服」することなのだと、あらためて思ってしまう。当の地元の人にはどうでもいいことなのかもしれないけど。
頂上への最後のひと登りは、セリフなしに一気に数分で見せる。このシーンに限らず、音楽が少々煩い(テイラーが難所にかかると音がでかくなったり…)のが、難点といえば難点か。担当はハンス・ジマーなんだな。
スクリーンにでかでか映し出されて嬉しいのが、装備の数々。ハイキング程度しかしない私でさえそうなんだから、本格的な登山を嗜む人にはもっと興味深いだろう。「氷壁の女」では20年代、「アイガー北壁」では30年代、「剣岳」では20世紀初頭の日本の、仲村トオルのスーツ姿なんかが見られるけど、本作には自分が「知ってる」時代だからこその面白さがある。靴や水筒、鮮やかな色使い。通訳?の男性の手袋が、私が子供の時にしていたスキー用のものに似てた。
食事シーンがはっきり見られるのも嬉しい。雰囲気の悪い中ハロルドが盛り付けたおかゆ?を、テイラーはコッヘルに戻しぷいと出て行ってしまう。窮地に陥った二人がおぼつかない手付きでマカロニ?を鍋に入れる。ポーターたちが作って食べる平たいパンのようなものもはっきり映っている。
藤岡弘が登山チームの一員として出演、得体が知れないけど気のよさそうな雰囲気を醸し出している。日本人であることを活かしたギャグ?あり。
(11/08/03・銀座テアトルシネマ)
「大丈夫だトーマス、警官を襲ったやつは必ず捕まえる」
「誰が襲われようと事件は事件だぞ、何様のつもりだ」
「議論するつもりか?相手になろう」
めちゃくちゃ面白かった!体温&心拍数上昇度は今年のベストワン候補。メル・ギブソンの8年ぶりの主演作だそうだけど、これが最後の主役になってもいいほどの良品。
ボストン警察に勤めるトーマス(メル・ギブソン)は、娘のエマを久々に一人暮らしの家に迎える。体調のすぐれない彼女を病院に連れて行こうとした時、玄関先で男がこちらめがけて発砲。エマは彼の腕の中で息を引き取った。
映画は「娘」の思い出の映像から始まる。コーデュロイのジャケットを羽織ったメル(この後、彼はこの服を二度と身に付けない)と成長した彼女との駅での再会、不穏な兆候、そして雨。「事件」まで10分くらいか。この時点で手早く無駄なくツボを押され胸が高鳴る。事件後、娘の血を拭き取ったタオルをグラスにそっとしまう、遺灰を持って冒頭の海岸に出向くなどメルの「悼み」の描写もとてもよく、物語にずぶずぶ入り込んでしまう。
適度な量のアクションシーンは、近年屈指の美しさ。抑制の効いた銃と車の使い方がとても好み。メルの動きも、大立ち回りから「相手の車のドアを開ける」に至るまで素晴らしく撮れている。中盤の、満を持した発砲シーンのかっこいいこと!公衆トイレを利用し追手を巻いて逃げるくだりも、カーチェイスってんじゃない、ただ車を駆るだけの映像に魅せられた。
アクションばりばりというわけじゃないけど、メル演じるトーマスは頭脳も肉体も完璧といっていいほど強い。終盤、殴られた男が吹っ飛んでく場面には笑ってしまった。振り向くと誰かが背後に…などの「ぎゃ!」場面も目に余るほど多いんだけど、私には愛嬌、アクセントに感じられた。
どこかで見かけた気がするけど名前は知らない、という類の役者による激渋おやじたちの慎み深い触れ合いも見どころ。会話の端々に、何かというと「子どもがいる/いない」という要素が出てくる。得体の知れないレイ・ウィンストンが「お前、家族はいるのか?」と聞いてから、わざと…というラストにはぐっときた。
「巨悪」の内容こそタイムリーだけど、扱い方には少々古臭い面も見られる。でもアクションと絵面で全然カバーしてるように思われる。マスコミのちょっとした取り入れ方も良かった。
海岸で違灰を撒きながらの「すぐに行くから」、役員室?で突きつけられる「どんな気分だ?」などのセリフが回収されるのも快感だった。
(11/07/30・新宿ミラノ1)
原題は「La Rafle」(一斉検挙)。ナチスの悪行映画は数あれど、フランス警察によるユダヤ人一斉検挙「ヴェル・ディヴ事件」を扱った作品は少ない(私は全く観ていない)。ともかくそれだけでも観がいがあった。上映前に流れた予告編によると、今冬公開の「サラの鍵」も同じ題材のよう。
ナチス占領下のパリ。物語の始め、ユダヤ人達は、胸に「星」こそ付けてるものの楽しそうに暮らしており、この微妙な時期ならではの「ユダヤ人あるある」とでも言うような描写が積み重ねられていく。ポーランドから逃れてきた一家では、父親が「ユダヤ人ジョーク」(「ヒトラーはタイタニックがユダヤのせいで沈んだと言ってるぞ、『アイスバーグ』はユダヤの名前だからな」)や、「天才だからってユダヤ人とは限らない」などというセリフを口にする。娘はふさぎこんだ母親に「風と共に去りぬ」を読み泣いて発散することを勧める。違う家の母親として、シルヴィー・テステューが出てきたのが嬉しかった。本当は、辛気臭い役より明るい彼女が見たいけど。
こうした「庶民」の描写の合間に、「ヒトラー」がラジオ演説したりエヴァ・ブラウンの飲酒をたしなめたりする様子と、ナチスに検挙を要請されるフランス警察幹部の様子が挿入される。ヒトラーのパートがいまいちぱっとしないこともあり、妙にばらばらな感じを受けたけど、「守ってくれるはずのフランスが、まさか!」という思いもかけない状況を際立たせるためだろうか?
後半は、事件の名のもとになった「ヴェル・ディヴ」(冬季競輪場)と、そこから更に連れて行かれた強制収容所を舞台に、囚われたユダヤ人たちの状況が描かれる。ここにジャン・レノ演じる、自らも検挙者である医師と、メラニー・ロランによる看護師が登場。ユダヤ人と同じ食事を摂り自らがやつれることで境遇改善を訴えるメラニーとは対照的な、ジャン・レノの体格のよさが目立った。
競輪場の映像は初めて目にする類のもので、「ひとつところに大量の人間を入れる」ことが、たとえそれが一日目、二日目であっても、どんなに過酷であるかが分かる。原因は違うけど、ニュース映像で目にした、震災からの避難所の様子を思い出した。やっぱり、あれは人間の暮らす環境じゃない。
検挙の際、少年ジョーに対し、同じ建物に住む別の男の子が悲痛な別れを告げるが、本人は衝撃のためか無表情で階段を下りてゆくのが印象的だった。作中の様々な場面において、集団の中に色々な感情を読み取ることができる。囚われた者たちも反応は様々だし、再会できた夫婦に対する祝福の陰で憎たらしそうな目を向ける者もいる。
ラストは終戦後のひとコマ。「月の光」がエンドクレジットまで延々流れるのには、ずるい!と思ってしまった。だってあの一幕だけで、否応無しに感動させられちゃうもの。
(11/07/28・新宿武蔵野館)
「分かってないな、皆が反対するのは、君がしてきたことの成果じゃないか」
83年(作中「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を観に行く場面あり)のミラノ。新法に基づく精神病院の閉鎖により、元患者達は協同組合に集められ、単純作業に従事していた。そうした組合の一つに派遣されたネッロは、彼らに「仕事をしてお金を稼ぐ」ことを提案する。
薬漬けで意に沿わない切手貼りなどをさせられている患者達を前に、ネッロはまず「組合員会議」を開く。いわく、このまま慈善事業という名の単純作業を続けるか、「市場への参入」に挑戦するか。この「市場への参入」が大ごとなのかと思ったら、そうではなく、作中重要なのは、組合員の持つ権利である「会議」…自分で物事を決めるということなのだった。
彼らの提供する「寄木貼り」には価値があるため、仕事の獲得はわりと順調に進む。しかし皆が世界を広げるのに伴い、様々な問題が起きる。
ネッロは仲間のため、世のためと頑張るが、恋人に「あなたは大きな事に気を取られて、人間が見えていない」と指摘される。実際、彼が「世の」精神患者のためを思っての提案は、仲間に反対される。「自分の生活」を始めたばかりの彼らにはまだ時期尚早なのだ。
「先生は仕事が僕達のためになると言った、それならセックスもじゃないか!」というのは笑いどころなんだろうけど、それは「対・人間」だからちょっと違うだろ、と思ってしまう(セックスそのものについての問題とは違う)。でもお金を介在させると、笑えるシーンとして済んでしまうんだよなあ。
仲間にはそれぞれ「得意分野」があるため、「黄金の七人」タイプの作品としても楽しめる。「理事長」はあのカッコ、お仕着せのままなのか否か、考えてしまったけど(笑)
やがて彼らの目は「外」に向けられる。最後に出た字幕になるほどと思わせられた。
(11/07/24・シネスイッチ銀座)
楽しかった!私も婆さんになったら、原田芳雄と店の台所の小さな机で一緒にごはん食べながら暮らしたい。
おそらく前年の「大鹿歌舞伎」の模様に続いて、うねる山道を車の視点で村へ入ってゆくオープニングに、愛情のようなものを感じ、面白そうと思わされる。
第一村人はバスの運転手役の佐藤浩市。何だか違和感を覚えるのは、彼が「青年」役だから。しかし爺天国の中で、次第に瑞々しく見えてくる。これが「青年団」的マジックか(笑)
リニア誘致の会議において「若者を呼び戻す」という話題が出るので、過疎の問題を抱えているんだろうけど、瑛太らが登場することで、(映画を観ている間は)将来どうなるんだろうと考えずに済む。ただ、爺の伴侶である婆が出てこないのは少々不自然に感じられた。
ヒロイン・大楠道代の細いこと、並ぶと松たか子が一層、健康優良児に見える。佐藤浩市と同じ枠だから効果的だ。
大楠演じる原田の妻は「病気」によりぱけらったとしているが、「我に返った」時の声や仕草は「良妻」のそれだ。駆け落ち相手の岸辺一徳がつい口にしてしまった「嘘」の内容、「善ちゃん(原田)、お金のこと、全部彼女に任せてたろ?」というセリフ、また彼女自身が夫に漏らす「あの人は私を女として見てくれたから…」という告白などから、かつてはそれなりに苦労したんじゃないか、ぼけてやっと「ラク」になったんじゃないか、と思ってしまう。もっともこうした事情は、彼女が「悪い女」じゃないというエクスキューズにもなってるけど。
リニア誘致をめぐって小倉一郎と対立した石橋蓮司は、もう歌舞伎に出ない!と言い出す。「リニアと歌舞伎は関係ないだろ」「直接的には関係ないけど、直接に近い間接的には関係あるんだ」とのセリフが、その場では単なるギャグに感じられるんだけど、後々効いてくる。村は一つの生命体なのだ。タイトルは「大鹿村を舞台に起こる騒動」というより「大鹿村そのものの騒動」という意味だといえる。
皆の問題とリンクした内容の歌舞伎の見せ方もいい。90分の上映時間があっという間で、席を立つのが名残惜しかった。
(11/07/22・新宿バルト9)
猫がいっぱいの予告編からはどんな映画だか分からなかったけど、想田監督のこれまでのドキュメンタリー、面白かったなあと思い観に行った。
監督の妻の両親の姿を追ったドキュメンタリー。岡山県に暮らす二人は、障害者や高齢者を車で移送する「福祉有償運送」やヘルパー派遣の仕事に携わっている。夫の寿夫は家に現れる野良猫たちにエサをやり続けていたが、一匹の「泥棒」により調和が乱れていた。
まず単純に、ドキュメンタリーを劇場のスクリーンで観るのっていい。とくに想田監督のは、煩くないから自由に楽しめる。自然光から何時くらいかな?と想像したり、画面の隅に面白いものを見つけたり(91歳の田中さんのベッドの脇の缶ソーダとか・笑)。長回しのうちに現れる、通行人による町のひとコマ。もっと長いスパンで言うならば、追い続けるうちにふと飛び出してくる、誰かの思い。
監督が走るのか画面が揺れれば頭がくらくらし、登場人物が監督に話しかけ、監督がそれに応えれば、映像にそれまでと違った空気が流れる。前二作にはあまりなかった、「揺らぎ」というか「若々しさ」を感じた。
「福祉有償運送」に儲けはない、むしろ毎月赤字の状態だ。それでもなぜ続けるのか、との問いに寿夫は「惰性でしょうね」と言う。田中さん宅を訪ねた廣子は如才ない会話の合間に鯵とナスを焼き、駐車場代が一時間分しか出ないことを嘆く。
寿夫は、猫にエサをやるのに市販のお弁当容器を使用している。牛乳を添えるのは、元教員ならではの発想かな(笑)時に庭石に直接キャットフードを置くのが気に掛かっていたら、案の定、妻に「近所の人に迷惑かけないように注意すると、私が悪者になっちゃうんだから」「そこが大嫌いなところ」と言い放たれる。「いいこと」してる人が家族にとって完璧であるとは限らない、当たり前のことだ。それを背中に聞きながら横になったままの夫の姿はまさに「フォトジェニック」、こんな場面に遭遇できるなんて監督は運がいい(笑)
91歳の田中さんは「Peace」を吸い続ける。野良猫たちは「泥棒」を受け入れ、新たな共同体が生まれる。色々な物事を盛り込みながら、どこか円環のようなものを感じさせる映画だった。
(11/07/21・シアターイメージフォーラム)
私の知ってるトルコといえば主に漫画「トルコで私も考えた」から、ここに描かれてるのはまた違う世界。時代は不明、人々は森や動物と共に生きている。印象としては、最近の作品なら「ブンミおじさんの森」に似ている。終盤、母と子が父を探して町のお祭り?に出向く場面では「バビロンの陽光」を思い出した。
小さなユスフは、養蜂家の父が大好き。しかしあるとき蜂が大量に死に絶え、父は新たな箱を仕掛けに出たきり戻ってこない。
地味な映画なので何度か眠気に襲われたけど、子どもものとしては面白かった。ユスフが父を慕う様子は、まるで恋しているよう。自分にくれるはずのものを、他の子にあげてしまったと思いむすっ→しょぼん、とするくだりがいい。作中ずっと「自然」なユスフの表情が、この「むすっ」の時だけわざとらしい(笑)
母が夕食時に出すミルクを、父が黙って飲んでくれるあたり「ブルーバレンタイン」の朝食の様子を思い出した(「あんたばかりいい役を取って!」ってこと・笑)。父から「夢の話は人に聞かれちゃいけない」と言われたユスフは、夢についてべらべらと喋る母親の膝から、恐れたような顔付きで離れる。
ユスフは、今の日本の家庭じゃあの年齢ではしないだろうことをする。りんごをナイフで切ったり、蜂をいぶす器具のためにマッチを使ったり。馬に水をやるのに不安定なところにバケツを置いて、引っくり返してしまうのが良かった(笑)その後、火の前で濡れたノートを乾かす。こういう日常の場面が面白い。
父を待ちながら、大きな窓に面した部屋のソファで寝る。このソファが固そうだけど素敵で、私も眠りたくなった。一つのプレートに盛られた朝食も、大したことないんだけど美味しそう。
冒頭の一幕、画面に映った父の背中はとても広い。作中、「子ども」と「大人」…ユスフとその外の世界とははっきりと分かれている。しかし彼が戻ってこない父の「死」を理解した時、初めて、家や学校の外観、先生の顔など、外の様子がはっきりと映るようになる。彼のその後を描いたという前二作も、観てみたくなった。
(11/07/20・銀座テアトルシネマ)
水族館に勤める父(ジェット・リー)は、妻亡き後、自閉症の息子・大福を一人で育ててきた。しかし自らが癌で余命いくばくもないことを知り、21歳の息子の将来のため、出来ることを考える。
冒頭、海の上の小舟に乗る親子。スーツ姿の父親は、真新しい白いスニーカーを履いた息子の足首を、自分のそれと結わえ付ける。その先には重り。夢の中のようにドラマチックなこのシーンにも、ちゃんと「意味」がある。後に父親は隣家の女性に向かって「息子は泳ぎがうますぎて、閻魔様から逃れた」「だから息子には、この世に居場所があるんだ」と言う。そう信じて頑張る。
人の死を小綺麗に描き、出てくるのは信じられないほどいい人ばかりでありながら、大仰じゃなく自然で、嫌みがない。久々に、こんなに「きれい」な映画を観たと思った。予告編だと唐突かつクサく見えた「父さんは海亀になってお前を見守ってるぞ」というくだりも、あるべくしてある。そこに至るまでの、そうでなければならないという父親の心情が伝わってくる。
大福の家出の顛末や、父親と隣家の女性とのひとときなど、しっとりしていて、うまく言えないけど、いかにもアジアという感じがしていい。
息子を新しい施設に残して帰る際、父親が恩師に思わず「自閉症っていいもんですね、僕と別れる時も全然寂しそうじゃなかった」ともらすと、彼女は「分かってるでしょ、感情をうまく表現できないのよ」と言う。こういうちょっとした描写の端々に、「自閉症」に対する真摯な気持ちを感じた。
ラストの展開には、ものを教えるってことが命をつなぐことなんだなと思わせられた。卵やバス停などの小道具がとても効いている。
冒頭から、鉢にあふれる水、雨、そして水族館。撮影のクリストファー・ドイルお得意の「水」描写がふんだんに見られる。水族館映画としては、大きな魚がたくさん出てくるし、水槽の中からの映像が多いのも面白い。
眼鏡姿で笑うリンチェイを見ながら、確かウィルソン・イップがDVDの特典映像で、アクションが出来るから映画に出られるわけじゃない、演技が出来る者にアクションをやらせたほうがずっといい、とか何とか言ってたのを思い出した。彼もまず役者なんだなあと。
実際の彼は泳ぎの方、どうなんだろう?本作では泳ぎの得意な息子に対し、自分はそうでもないようで、ウミガメになって溺れるシーンがちょっと可笑しかった。
(11/07/15・シネスイッチ銀座)
ユーロスペースにて、デジタルリマスター版を観賞。とても面白かった。
レルモントフ・バレエ団のオーナー兼プロデューサー、ボリス・レルモントフ(アントン・ウォルブルック)は、ロンドン公演中に二人の若者を一座に加える。バレリーナのヴィッキー(モイラ・シアラー)と、音楽家のジュリアン(マリウス・ゴーリング)だ。アンデルセンの「赤い靴」を題材にした新作で、ヴィッキーはプリマへの道を歩み始める。
冒頭、ドアの向こうから、壁のポスターも破ってなだれこんでくる若者たち。当時のバレエは大衆の娯楽でもあったらしい。桟敷に転がり込んで良席を取ったのが「青年」(に見えないのが、作中何度かダメージとなる・笑)ジュリアン、もっとも彼と仲間の目的はバレエではなく音楽。「バレエには詳しくない」「目標は違う、バレエなんて二流だ」。「音楽家」志望にはそういう見解の者もいるのだと分かる。
一方のヴィッキーはティアラを着け、金のしたたりそうな叔母と席におさまっている。そしてボリスは、カーテンの陰に隠れて手だけを動かし意思を伝える。三者三様の佇まいに加え、公演の様子を端的に表したこの一幕がまず面白く、物語に惹き込まれる。
劇中劇のバレエ「赤い靴」は、私の目には映画がそこだけ「ミュージカル」になったように見え面白かった。映画そのものに沿った…渾然一体となった内容の物語が展開するのだから。
ヴィッキーの足に赤い靴がすっぽりとはまり、舞台が大地になり客席が海となり、ダンサーを中心に世界が流れ流れていく様子は、目前にバレエを観るのとはおそらく違った、映画ならではの面白さ。逆説的だけど、だからこそ本作は「バレエを題材にした映画」を超えた、ずばり「バレエ映画」なんだろう。
以降の展開に、ああ、これはヴィッキーでなくボリスの物語なのだと思わせられる。バレエを「宗教」として崇める彼は孤独で、がんじがらめの中に居る。
公演の成功をヴィッキーと祝うため「海岸で一番おしゃれなレストラン」を予約するも、彼女を含めた皆はもっと気楽な場所に繰り出している。ヴィッキーとジュリアンの関係を、彼だけが知らない。「バレリーナはバレエに全てを捧げるべき、恋などしたらおしまい」という主義でありながら、前のプリマの時と同様、その踊りを目の当たりにしているのに、彼女が恋をしていることに全く気付かない。しかし「それ」を知ったら、もう「ダメ」なのだ。踊りでなく、自身の心の側の変化ゆえに。
(「恋をした」後の彼女の踊りに変化があるのか、私も目をこらしてみたけど、全然分からなかった(笑)本人は何か違う心持で撮影に臨んだのだろうか?)
ジュリアンを呼び出し談判の最中、彼に「誤解です、僕達は本当に愛し合ってる」と言われた時の顔。ボリスにとって「恋」とは「くだらない幻想」であり、その存在を当たり前のように認める他の人々とは理解し合えないのだ。彼がヴィッキーに「裏切られた」と言うのも分かる。だって身を捧げると約束したじゃないか。
本作には、モンテカルロの風景を映したリゾート映画、あるいは重要な場面に出てくる列車映画としての一面もあるし、全編を通じて、セットや衣装の、俗っぽい高級感とでもいうようなものが味わえる。ボリスの部屋に置かれた、バレリーナの足首の彫像や舞台のジオラマが目を惹く。
ジュリアンのピアノを聴きながら、ボリスは朝食を、ヴィッキーは昼食をとる。どちらも楽しそうじゃないけど(笑)ボリスはグレープフルーツに、ヴィッキーはオレンジジュース?に、大量の砂糖を入れて食しているのが面白かった。
(11/07/14・ユーロスペース)
フランスのとある幼稚園で始まった「哲学の授業」を追うドキュメンタリー。
冒頭、子どもたちはゲームだなんだでモニタを日に何時間眺めてるだの、政府がどうしただのといった、世にあふれている報道文が流れる。最後に「幼稚園で哲学の授業を行う」試みに対する「子守に修士の資格が必要だろうか?」という揶揄めいたセリフ(誰が言っているんだろう?)が置かれ、ろうそくに火を点すという授業開始の決まり事に続き、子どもたちが映し出される。
映画は哲学の授業を見せるだけでなく、幼稚園の他の時間や家庭での子どもたちの様子、地域の風景などが挟みこまれている。授業を担当するパスカリーヌ先生と同僚との会話からは、いわゆる大人の事情も窺い知ることができる。きれいにまとまってるけど、ほとんどは子どもの顔が言葉とともに大写しになってばかりなのに飽きてしまった。映画としては、もっと色んな側面からアプローチした方が面白いのにと思う。私としては先生側の心情が知りたかった。
「大人とは何か」というテーマにおいて、ある子が「大人は写真を撮れるけど、私は小さいから撮れない」と言う。「小さい」ってどういうことなのか、「小さい」となぜ写真が撮れないのか、掘り下げたらすごく面白そうなのに、先生はそれを意見の一つとして次に進めてしまう。それで「哲学」といえるんだろうか?と思わされる、このようなケースが目立った。もっともあの段階、あの授業形態ではそれが「最善」なのかもしれない。
そもそも「哲学」を扱うのに、場面を切り取るというのはふさわしくないように思われる。掘り下げ部分を(実際であれ、映画上であれ)省略すると「キメ台詞」の羅列になるから、子どもの大喜利大会のように見えてしまった。
最後は一人の女の子が「この間、砂場で友達と『死』と『愛』について話したの」と言うのに続いて、ろうそくの火が消えるカットでエンドクレジットへ。彼らは語り合う習慣を身に付けたというわけだ。
なぜか心に残ったのは、コンクリにバケツで水をぶちまけただけの水溜りで、子どもたちがやたらめったらはしゃぐ場面。すごくいいなと思った。
(11/07/10・新宿武蔵野館)
作中気付かされるけど、これは「木曜日」の映画なので、ナタリーつながりで(下の)「水曜日のエミリア」と続けて観るのがいい。ちなみに「水曜日のエミリア」でナタリーとしっくり行かない継子が「科学好き」なので、「マイティ・ソー」の学者役のナタリーとの方が合うんじゃないかと思ってしまった(笑)まあそういうの関係ない、という話なんだけど。
マーベルコミックの実写映画化。神の世界の王(アンソニー・ホプキンス)の息子であるソー(クリス・ヘムズワース)は王位を継ぐはずが、傲慢な性格のためにパワーを封じられ、武器である「斧」と共に地球に追放される。落下地点に居たのが天文物理学者のジェーン(ナタリー・ポートマン)のチーム。彼女は自身の研究のヒントになるとソーに興味を抱くが、国家機関がデータや機材、ソーの「斧」など全て押収してしまう。
まずはソー役のクリス・ヘムズワース(彼演じるソー、と言った方がいいかな?)が好みなので楽しかった。登場するなり輝くような笑顔、そしてあのウインクだもの(このウインクがとくに「恋人」に向けられてるわけじゃないのがいい!)
「最強戦士」にして武器は「斧」。血の冷たそうな弟とは武器の種類から、人間界に降り立った際の服装まで正反対。ソフトなスーツを着こなす弟に比べ、何だかよく分からない野人みたいな格好(どういう基準でああなってるんだろう)。アメコミの知識はないけど、動きが「びゅーん」系なのが余計に馬鹿っぽい。
本作はそんな彼が、人間の女性との触れ合いにより「戦わない」ことを学ぶ話、しかし「お前の女のところに行ってやる」と言われりゃ、そりゃあ大爆発するって話だ。
始めのうち、近年の映画で例えるなら「テンペスト」の骨(人間関係)に「トロン」の肉(「異界」の作り)を付けたような感じだな〜と思ってたのが、ソーがジェーンの車にぶつかっての邂逅以降、「最強の戦士」だが「地球ではバカ(地球じゃなくても、だろうけど)」というギャップを生かしたベタなギャグが満載で楽しい。大好きな「原始のマン」あり、「ジャングル・ジョージ」あり(お約束の「自分の肉体的魅力に無自覚な男の着替えを見て女友達が感嘆する」シーン・笑)と、お馴染みカルチャーギャップ・コメディの様相も見せる。名前が分からないけど白いトンネルの中に政府が奪った大事なものが!というくだりでは「E.T.」を思い出しながら観てた。
私としては面白かったのが、ダイナーでの一場面。初めて飲んだコーヒーを気に入ったソーは、お代わりを頼むのにマグカップを床に叩きつけて割ってしまう。ジェーンが「丁寧にしてよ」と言うと「無礼だったかな?」と返す。神の世界に「丁寧」「無礼」という概念があるのか、それはアメリカと同じものなのか、と考えてしまったけど(笑)、要するに「言葉が同じ」というのが意味するところは「同じ概念がある」ってことなんだな。
ソーの横顔で終わるラストもよかった。てっきり「神の一年は人間の百年だから、ちょっと旅行でもしてこいや」って言われるのかと思った(笑)
(11/07/06・新宿ミラノ1)
(セントラルパークのスケート場にて、エミリア、怖がるウィリアムに)
「怖くないわよ」
「決め付けないで、僕は怖いんだ、友達はママに言われて滑る時にはヘルメットかぶってる」
「その子はママが怖いのよ」
水曜日、エミリア(ナタリー・ポートマン)は小学校までウィリアムを迎えに行く。弁護士として働く彼女は既婚の上司ジャックと恋におち結婚したが、前妻キャロリン(リサ・クドロー)との息子ウィリアムは彼女を嫌がり、楽しい時を過ごそうと努力しても上手くいかない。
原題は「Love and Other Impossible Pursuits」だけど、物語は確かに邦題通り、エミリアが継子のウィリアムと二人きりになる水曜日から始まる。帰宅してからのひと悶着に、彼らは「合わない」わけではないのだと思う。大雑把で行動的なエミリアと、アレルギー持ちで「科学」を愛する慎重なウィリアムの性格は全然違うけど、ちゃんと話をしているもの。
帰宅した夫に揉め事について報告する際、自分の次にウィリアムが喋るのを聞いてるときのナタリーの顔は「黒鳥」に見えた(笑)もっとも昔の大映ドラマじゃないけど、継母・継子で嫌がらせし合うというような類のフィクションじゃなく、ストーリーは極めてリアル。とはいえキレイにまとめられすぎの感もあり、「アイスじゃなかった」というくだりや(アイスならどうなったのか観たかったのに)、エミリアが隠していた「真実」のドラマチックさはあまり好みじゃない。でも観ていて面白かったし、ナタリーが演じた中では、一番友達になりたいタイプのキャラクターだなと思った。
その夜、エミリアはベッドに入って昔を思い出す。いわゆる「略奪婚」(という英語はあるんだろうか?)までの一部始終…彼女が彼に対し「会った時に何となく親しみを感じた」瞬間から、友達への吹聴、接近、互いの気持ちの確認、関係の成熟までが結構長々と描かれる。私もこれに近いことが二度程あったので(離婚に関与はしてないし結婚もしなかったけど)、そこに妻の姿も、エミリアの悩みも逡巡も「無い」のがリアルに感じられた。
エミリアと母親の映画帰りのシーンが良かった。一体何を観たんだろう?
エミリアいわく「美人がもてない役をやるのは嫌い」「あんなにひどいことして、謝ったら許してもらえるなんて、現実はそんなことないわ」。対して母親は「色んな人がいるのよ」。
その後の会話で、「(父親のことを)水に流すつもり?」と責められた母親の「違うわ、『いい思い出がない』フリをやめるのよ」というセリフが印象的だった。人は何のどこを見て、どう思うかだもの。でも近しい人のそれについて、つい口出ししてしまう気持ちも分かる。
不妊治療の専門医である前妻役に、結構好きなリサ・クドロー。終盤とあるシーンの舞台となるオフィスには、多くの赤ちゃんの写真が飾られている。室内の雰囲気や話しぶりなどから、彼女演じる医師が「エリート」たるゆえんを見られたような気がした。
「エリート」といえば、ナタリーの口から「ハーバードなんてろくなとこじゃないわよ」なんてセリフも聞ける(笑)
(11/07/05・シネマート新宿)
クリスチアナ・ブランドによる原作小説&映画化一作目は未見、出演者に惹かれて出掛けた。一話完結ものなので、本作から観ても支障なさそう。
イギリスの山村、出征したきりのパパを待ちながら農場を切り盛りするママ(マギー・ギレンホール)と3人の子どもたち。疎開でやってきた都会っ子2人も加わって大騒動の家に、魔法のステッキを持ったナニー・マクフィー(エマ・トンプソン/兼脚本&製作総指揮)がやってくる。
冒頭に出た原題「Nanny McPhee and the Big Bang」に、ブタがメインじゃないんだ〜と思ってたら…農場が舞台なので、ブタはあの扱いで正しいんだ。見事な芸を見せる動物たちはあまりに作り物めいていて惹かれなかったけど、最後にげっぷカラスが美味しいところを持っていくのには笑ってしまった。
喋ってる顔が目に浮かぶマギーのナレーションに始まり、「これが私」ともじゃもじゃ頭の本人が登場。最近の(「爛れた美女」風?の)彼女とはちょっと違うけど、所帯臭くバタバタしてるのも可愛らしい。他の出演者はリス・エヴァンス(親戚のダメおじさん)、マギー・スミス(フシギ系婆さん)など。子どもはともかく、彼らがお伽コメディを演じてるのが楽しい。うんこやげっぷが大活躍しても全然匂ってこない、セットや衣装も愛らしい。
子どもがおらず教員経験のある身としては、始めの子どもたちの騒ぎぶりは「学級崩壊」にしか見えず、どう対処するんだろう?とわくわくしてたら、魔法による「体罰」で言うことをきかせるので少々がっかりした。でも子育てって大変だろうし、「機会」を与えてるだけとも言えるから、あれでいいのか。おしおき場面の荒唐無稽さが原作のポイントなのかも。「異形」のエマ・トンプソンが数回だけ見せる「素顔」…哀しそうな顔や楽しそうな顔が効いていた。
(「レッスン」を終えるごとに彼女の顔のイボが取れていくのには、どういう意味があるんだろう?「嫌われる」ために「異形」に化けてるのなら、納得できない…)
ユアン・マクレガーは「アレックス・ライダー」より更に少ない出演時間だけど、一度の登場で、その後の「不在」により作品を100倍豊かにしている。実際中盤以降ずっと、彼のことを念頭に置いて観ていた。最後の「お約束」再登場が嬉しい。
(11/07/04・有楽町スバル座)
オープニングはマンション前の通路で木刀の素振りをする田中さんの姿。日本語の「ロックミュージック」(この曲については後で分かる)が流れ、続いて少々安っぽい「オリエンタル」な音楽をバックに電車の車窓風景、ナレーションが始まる。
なぜか分からないけど、電車の中、あるいは走る電車を捉えた映像が多い。ラストシーンも電車の窓から外を眺めている。「京王線に乗って会いに来てください、コーヒーを飲みながら話をしましょう」という田中さんの最後の言葉がよかった。
田中さんは、勤めていた沖電気工業において大量解雇された元従業員を支援していたが、会社側に活動を抑止される。次いで導入された始業前のラジオ体操には、一人最後まで参加せず。やがて社内での「差別」が始まり、遠隔地への移動命令が下る。それを拒否し、81年に解雇された。以来現在まで一日も休まず、会社の門前でギターを抱えて歌っている。
本作を撮った映画監督のマリーと夫のマークは、インターネットで田中さんを知りオーストラリアからやってきたそう。マークが言葉を教えられて「活動」に参加したり「日本文化」に触れたりする場面が、ちょっとした味付けになっている。
映画は労働問題を掘り下げるわけではなく、ただただ田中さんを追い続ける。彼にはある種の、パフォーマーとしての才能がある。日本語・英語問わず話がうまく(家族や支援者の話しぶりと比べると歴然としている)、頑固ながら「ユーモア」がある。実際場内では、同年代と思しきおじさんの笑い声が何度もあがっていた。彼の母親は「頑固なところが短所だけど、長所でもある、それを伸ばしてきたのね」と言っていたけど、本人いわく「誰にもできること」を続けるうちに培われたものなんだろうか。
支援者に元、あるいは現役の教員が多いので予想していたら、やはり君が代問題も出てきた。これについては、不起立行動を続ける女性の「考えもせずに従うことを強制するのは、教育ではない」という言葉につきる(ただし「公務員」としての問題があるけど)。映画はこのあたりにも踏み込むことはせず、活動を追い、意見を聞くのみにとどめている。これは正しいやり方に思われる。
田中さんの妻は沖電気工業を退職し、保母として家計を支えている。「やめればいいのに」と苦笑しながらも「彼が自由に時間を使えるようになり、子育てにはいい面もあった」と言う。よその関係は当人でなきゃ分からないけど、私の目にはいい家庭に思われた。というより、パートナーのどちらかが何らかの「活動」をしていても、きちんと「生活」できる社会であってほしいと思う。
田中さんが「しきたりに疑問を感じて」破門になった茶道を、奥さんがワンピースに白靴下姿でやってみせたり、「馬鹿げてる」と言う「ケーキカット」を家族皆でしたりする場面が楽しい。
カメラを見つけておざなりに注意する会社の守衛や、株主総会から追い出されビルに再突入しようとする田中さんを苦笑いで阻止する社員の姿に、もし自分がその立場だったらどうするだろう?と思った。まあ私は働くことが嫌いなので、問題が違ってくるけど(笑)
ラジオ体操の音楽を使用する時に「振興目的で使います」という署名が必要とは知らなかった。だから作中、田中さんが体操をしてみせる場面は無音だ。
(11/07/03・K's Cinema)