「天国と地獄の間に真実がある」
最近観た映画のうち、最も「予告編から想像してたのと違う内容」だった。「天使に助けられてワイン作りに成功した男が、傲慢になり『罰』を受け失敗し、立ち直る」という話かと思っていたら(そもそもこの発想が貧困なんだけど…笑)、全く違っており、それゆえ面白さを感じた。
19世紀初頭のブルゴーニュ地方。ワイン作りに意欲を燃やす農夫ソブラン(ジェレミー・レニエ)の前に、天使ザス(ギャスパー・ウリエル)が姿を現す。ソブランは年に一度会うことを条件に、彼からアドバイスを受ける。
(以下「ネタばれ」のため、これから観る人は読まない方がいいかも)
色々な人物が登場する。ソブランは「経験」のみを信じ、生きがいを求める男。その妻は、子どもが病気になると医者でなく司教を呼ぶ(当時はそれが「普通」であったらしい描写)。男爵夫人(ヴェラ・ファーミガ)はパリで学問を修め、自らの体の異常を書物で調べ、外科手術を受け生き延びる。物語の全体的な印象としては、美しくも過酷な「自然」の中で、様々な人間が織り成す愛情のアンサンブル、といった感じを受ける。
天使ザスも、アンサンブルの一部を成す。上に記した陳腐なストーリーならば、「天使」は人間と相対する「絶対的」な存在だが、ザスはそうではない。彼は「野心」を持つソブランに惚れ、友達になりたくてやってくる。ワイン作りのために苗木やアドバイスこそ与えるが、助けたり罰したりはしない。しかしソブランはザスのことを「友達」とは思っていないため、問題が起こる。私にとって今作のメインは、二人の「すれ違い」とその回復であった。「ワイン」は彼らの人生の「結果」である。
(この作品は、「絶対的」でない「天使」は存在しないと言っている。なぜなら、迷い、考えることをしてしまうザスは、「堕天使」になった後、自らの意思により「天使」でなくなるから)
様々な種類の「愛」の発露として、「抱きしめる」という行為と「知りたい」という欲求が描かれる。前者については、冒頭、葡萄畑で作業中のソブランがたまらず愛する人(後の妻)に飛びつき転げまわるのを筆頭に、彼がザスに、男爵夫人に抱きつき、抱かれる場面が幾度も挿入される。後者については、例えばソブランはプロポーズの際「君のことを知りたい/ぼくのことを知ってほしい」としたためる(この「手紙」を書くシーンがとても良い)。またザスはソブランに対し「君のことを知りたいから話してくれ」と頼む。寒々しい風景の中で、こうした描写の数々はとても温かく感じられる。
皆の衣装を観るのも楽しい。「男の天使」ってもともと好きだけど、なまなましい羽根を背負うギャスパーの姿は最高だった。
ソブランの、時代・暮らしと共に移り変わってゆく衣装も面白いし、私は「森ガール」(←この言葉、今初めて使った・笑)には興味ないけど、彼の妻のような格好なら素敵だなと思った。繊細な素材による、男爵夫人の対照的なドレスも魅力的で、ヴェラ・ファーミガにぴったりはまっていた。
(10/10/31・Bunkamuraル・シネマ)
1975年、ソウル郊外。9歳のジニは父に連れられて児童養護施設にやってきた。置いていかれた彼女だが、父親の迎えを信じて周囲に溶け込もうとしない。
ジニ役のキム・セロンがめちゃくちゃ可愛い!私が女の子に惹かれるなんてめったにないことだから(笑)(私にとって)よっぽど可愛いんだろう。ずっと見ていたくて、どんな内容であれ、映画が終わってほしくなかった。
オープニング、父親に抱きかかえられて自転車に乗るジニ。素晴らしい笑顔。誰にでも、子どもの頃の「場所」と「匂い」がある…なんて、なまぬるい理想だけど。中盤、朝の礼拝時に同席していた親子連れに、ジニは目をやる。しょぼいお父さん。だけど、子どもには唯一の拠り所だ。
施設に初めて足を踏み入れた際の他の子たちからの視線、集団生活の様子、主人公が馴染んでいく過程など、俗な言い方をすれば「施設もの」につきもののあれこれ、登場人物の言動や感情の表れが丁寧に撮られており、面白かった。
子どもたちは皆ほとんど同じおかっぱ頭、「サイズが合う」ことしか考慮されない着古された服。「自分のため」のものはない。ジニは買ってもらったよそいきを脱ぎ、髪を切られた…「切らせた」時、閉ざしていた口を初めて開く。
子どもって、友達同士、しじゅうふざけたりいたずらしたり「面白いこと」をしているわけじゃない。ただ一緒に居て、色々するだけ。そういう感じが出ているのが良かった。
また、彼らはおそらく自然に、年長者をリーダーにしているが…言葉を代えれば、子どもの間では年長者が「権力」を持っているが、「お姉さん」であればあるほど、養子に「もらわれる」可能性は低くなり、将来の不安も増す。養子を取る側だって誰でもいいというわけにはいかないから、「選別」の場が生まれてしまう。それが切ない。私の感覚からしたら、皆を集めて気に入った子を選ぶなんて、よく出来るなあと思ってしまうけど…
私は子どもが得意でないこともあり、ああいう所で働いている(暮らしている)人ってどんなだろう?と思ってしまう。世話をしている女性は多忙なせいもあってか、ごく適当に子どもの相手をしている風で、そのへんも観やすい。ただワンショット、彼女の感情が強く表れたシーンがある。最後にジニに対し「小食なのに大きくなったねえ」と「のばして」くれる服も印象的だ。
子どもたちは、養子としてもらわれていくにせよそうでないにせよ、皆施設を出て行く。シスターや職員はその場に残る。「出て行く者」と「残る者」の存在する映画って惹かれる。
(10/10/29・岩波ホール)
現代のフランス。医師のマルティーヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)が夫と暮らす田舎町に、カナダで働く娘のオドレイ(マリナ・ハンズ)が戻ってきた。かつて彼らが住んでいた家は寂れていたが、オドレイは手を入れて滞在し始める。そこで彼女が見つけたのは、50年前に姿を消した祖母ルイーズの日記であった。
予告編から辛気臭い印象を抱いてたけど、観てみたらそうでもなかった。三世代の女が暮らした「家」と、三者三様の「ドレス」。孫の前に祖母が現れ、一緒に収まる画面には心が温まる。海辺の町の、わざとらしいほど寒々しい風情もわるくない。
観ているうち、先日の「わたしの可愛い人 シェリ」と繋がった。「シェリ」は女性が財産権を持たない時代の話。時は下っても、まだ、女性は夫の許しなしに就職したり口座を持ったりできない。要は奴隷だ。ルイーズは「女が自由に仕事につけるらしい」都会へ出て行こうとする。駅のホームで一人「ほかの人たちは何故、幸せそうなのかしら?」とつぶやくのが、シンプルながら身に染みた。
誰かを「愛して」いても、相手に合わせるのでなく、自分がよりよい状態でいられる道を選択し、それをきちんと伝えるという生き方って、いいなと思う。互いに反発したり傷ついたりしつつ、結局は三人とも、そうした似た性分を持っているように思われた。
三世代の女たちの普段のファッションは全く違う。時代が人生に影響を与え、性分が加わり、それぞれの生き方が全身に現れる。ルイーズは、夫が服飾関連の仕事をしており自身も興味があるため、(国は違えど)「ステップフォード・ワイフ」的なお洒落な格好。その娘は、ニットやブラウスにタイトスカート、足元は常に素足にパンプス。さらにその娘は、休暇中ということもあるんだろうけど、パーカーやパンツといった部屋着が主。私ならどの格好もしてみたい(部屋着は興味ないけど)。そう思える、そう出来るのって、幸せなことなんだなあと思った。最後のドヌーヴの行為、それについて母が言うセリフには、大きな意味がある。
「過去」の男性(ルイーズの夫)に対し「今」の男性たちは、少々とんちんかんな所はあれど(「ホルモンのせいなんだろ?」とか、ああいう物言い、いかにもって感じ)きわめて「普通」な、私の知ってる男の人たちだ。オドレイのベッドでの「きれいな肌、いいにおい」というセリフがいい。そういう、直接身体で感じることのできる「良いもの」って大切だ。
ドヌーヴが演じるのは「頭がよく、気が強かった」少女が成長したお医者さん。そういう状況だからというのもあるけど、プレゼントの包みやティーバッグの袋を破るなどの「がさつ」な仕草が多々見られる。小さめのソファやベッドに丸まってる姿は、なんだか可愛らしかった。
オドレイのボーイフレンドいわく「俺たちはもう若くない、でもまだ時間はたくさんある」…だから多くの人は、彼女が言うように「疑問だらけの状態を早く終わらせたい」と思ってしまうのだろうか?印象的なセリフだった。
(10/10/27・銀座テアトルシネマ)
サンフランシスコ在住、新聞記者を目指す女と、ニューヨーク在住、レコード会社勤務の男が出会う。6週間後には離れ離れになる身だが、気の合う二人は恋に落ち、「遠距離恋愛」が始まった。
実際に恋人同士だったドリュー・バリモア&ジャスティン・ロング主演、「アメリカン・ティーン」のナネット・バーンスタイン監督。ドリューの毎度の大口開け笑い、「お行儀の悪い」言動を楽しんだ。
出会ってすぐに一夜を共にした男の部屋は、ベッドの横にいきなりCDラックとギター(職業柄とはいえ…それにしては数が少ないけど)。年を取るにつれ「会ってすぐセックスする場所がそういう部屋」であることって、少なくなってくるものだ…と思っていたら、ドリューの役柄は「回り道した、31歳の大学院生」。「回り道」についての彼女自身の考えは、セリフで少々触れられるのみで、深刻には扱われない。私も別段どうってことないと思う。そこそこ生きてるけど社会的には「若い」、そしてその「若さ」を悪びれない二人の物語だ。
冒頭、ジャスティン・ロングは「運命の人」じゃないガールフレンドに別れを告げられる。「ああいうこと、ありそう」と思わせる「リアル」なエピソード。こういう風に進んで行くのかと思っていたら、中盤いきなり、中年男性が二人ががりで彼に「結婚は地獄だ」と迫る。突然の記号的なコメディタッチは「リアル」路線としっくり来なず、お尻が落ち着かなくなった。
物理的な距離に耐えられなくなった二人は、互いに考え、意見を述べ合い、なるべく「一緒」にいられる道を目指す。彼らの「事情」とはイコール「仕事」…「不況下での仕事」のみだ。単に「恋か、仕事か」なんて言われると人生そんなもんじゃないだろ!と思うけど、物語として提示されると、「リアル」に感じられ、心を動かされる。
(10/10/23・新宿武蔵野館)
撮影中に100歳を迎えたというオリヴェイラ監督の作品。リスボン発の列車内で、とある男が隣の女性に語って聞かせる「妻にも友人にも言えないような話」。
「見知らぬ人の身に起きたことなんて、想像もつきませんわ」
こういう映画好きだなあ!列車ものとして「明日へのチケット」に入っててもいい(笑)話そのものは、原作は知らないけど、サキの短編のような味わい。
隣席のマダム(レオノール・シルヴェイラ)は始め、盲目なのかと思うほどあらぬ方…あるいは「こちら」を向いているが、主人公(リカルド・トレバ)が恋に落ちるあたりから、彼の顔に視線を向け話を促す。
オリヴェイラの映画って数本しか観たことないけど、テンポが独特だ。オープニングとエンディングの(「普通」の映画を見慣れた目には)一種異様に映るワンショットの長さ、場面転換で挿入される遠景が、ご丁寧にも「朝」「夕」二つ重ねられるかと思えば、恋の予感に主人公が窓辺で踊る姿が延々と続いたあげくぶちっと切れて次の場面へ。まるで、のんびり歩いてる人が突然立ち止まったり、飛び上がったりしてるよう。「余裕」があって「自由」だ。例えばあの「彫像」には、何か意味があるのかな(有名な人物)?随所に表れるマイペースぶりが可笑しく、にやにやしてしまう。
また、主人公と叔父、主人公と客人が必ず横並びで画面に納まる様は、エジプトの壁画か何かで顔の前と横を一緒に描こうとしてああなりました、とでもいうような「妙」を感じる。同時にこの映画で語られる物語の内容…世界と交わらず「並行」して進む主人公の姿を表してるようでもあった。
主人公と少女が初めて会話を交わす場で流れるのが、ハープによるドビュッシーのアラベスク第1番。ベタだけど、子どもの頃、あの曲をピアノで弾くのが大好きだった。
64分と短いこともあってか、事前にゴダールの短編「シャルロットとジュール」が上映されたんだけど、こちらはあまり好みじゃなかった。狭いアパートにやってきたガールフレンドに、ベルモンドが延々喋り倒すという内容。人んちでアイスなめるな!と思ってしまった(笑)
(10/10/20・TOHOシネマズシャンテ)
ベル・エポックのパリ。ココット(高級娼婦)のレア(ミシェル・ファイファー)は引退して気楽な一人暮らし。あるとき元同業のマダム・プルー(キャシー・ベイツ)から、「問題児」の息子シェリ(ルパート・フレンド)を預かる。二人は6年間を共に過ごすが、マダム・プルーはシェリと他の娘との結婚を決める。
コレットによる原作を読んだことはないけど、この映画は「現代的」にアレンジされてるんだろうか?レアの言動は「現代」の私の目からするとすごく「自然」に映る。
レアと年下のシェリ、いずれにも共感することしきりだった。そもそもこの二人が似てるんだろう。気の合う者同士の空気、会話、セックスが描かれる。レアと彼女が気晴らしに付き合う相手、シェリとその妻は「男と女」でしかないのに対し、レアとシェリは(変な言い方だけど)真の身内といった感じ。そして似た者同士の二人には同じ「欠点」もあったことが、最後の場面のレアのセリフで分かる。この「欠点」は私にもある(笑)
オープニングは皮肉を交えたユーモラスな語り口で実在した「ココット」を紹介し、その最後に「絶世の美女」レアを登場させる。彼女の軽やかなアールヌーヴォー調の家や衣装を見ているだけで楽しい。一方でマダム・プルーの、どっしりとした昔ながらの邸宅とドレスも味わい深い。
プルーとレアとは「子を持つ女と、持たない女」だけど、作中そうした「対比」はされない。「別のものが欲しくなったの」「まさか愛じゃないでしょうね?」「いいえ『孫』よ!」…二人は「シェリ」(愛する者の意)を挟んで何度も対峙するが、その関係はあくまでも「個人」と「個人」。プルーは旧態依然としたセンスの持ち主だけど、レアと同様、独立した人間に思われる。
同じ(かつての)ココットでも、「型」にはまっているとはいえ、色んな女がいる。プルー宅のお茶会では思い出話ばかりで呆けきってた仲間の一人が、レストランでシェリに手招きする仕草の様になってること。その後の老婦人二人と彼との一幕が、実は作中最も面白かった。
「ココットは同業同士でしか付き合えない」と言うけど、ココットが特殊だからというより、女が財産を持てない時代に、個人営業主として金と権力を持つ娼婦と「普通」の女じゃ、そりゃあ話が合わないよなあと思う。また作中、レアがメイドには本音や冗談をぼろぼろ漏らしてることから、別の「階級」も感じた。
ラストシーンはミシェル・ファイファーのアップがしばらく続く。顔面の左右で造作の大きな違いがあることに初めて気付いた。もっともああいうアップってそう見ないから、他の女優さんであっても色々気付くかもしれない。
ルパート・フレンドは「ヴィクトリア 世紀の愛」の時の目もくらむような可愛さに比べたらいまいちぱっとせず。演技は上手いなと思った。
(10/10/17・Bunkamuraル・シネマ)
それほどのめりこめなかったけど、面白かった。観た後で色々話したくなる。社会情勢や文学などの「教養」が私にあれば、もっと楽しめたかも。特に舞台となる「1962年」という時代は重要に思われる。
ロサンゼルスを舞台に、16年来のパートナーを事故で失ったイギリス人男性の「ある一日」を描いた、トム・フォード監督作品。
100分間、映像で、さらにはセリフで、休むことなく「意味のある」ことを語りかけてくる…って、全ての映画はそうなのかもしれないけど、とりわけ強く感じる。コリン・ファースが腰を下ろす便器に置かれたティッシュの箱のゆがみ、ジュリアン・ムーアの家の鏡の曇りまでが、目に焼きついて離れない。
まずは美男がたくさん出てくるので、見ていて楽しい。文字通り「最初から最後まで」、主人公ジョージを演じるコリンの美しい脚に目がいく。「スタイルのいい」とはこういうのを言うんだろうなあ。冒頭、お手伝いさんや事務員さんに普段口にもしないこと言って訝しがられたり、皆の方からは「顔色悪いね」と言われたりするあたりは、ちょっとしたコメディの趣。
過去の「男」たちもそれぞれ個性があり魅力的だけど、ジョージに接近してくる男子生徒ケニー役のニコラス・ホルトの、セーター姿の素晴らしさ。妙をたたえた唇は、親指の腹でそっと押してみたくなる。
心に残ったのは、「試した」ケニーと「試された」ジョージが夜の海へと走り出すシーン。先のケニーが柵を軽々と飛び越える。続くジョージは…こちらも飛び越える。まだ飛べる。
ジュリアン・ムーア演じる女友達のチャーリーは、予告編から勝手に想像してたのと違うキャラクターだった。若き日にロンドンからアメリカに渡ってきた彼女は、夫と別れ、子どもも独立し、豪奢な家に一人暮らし。ロンドンに帰るのは「負け」だけど、ジョージとならそうしたいと言う。「あなたは仕事があるからいいけど」「あなたがゲイだからいけないのよ」「過去に生きるのが私の未来、男は違うでしょうけど」。このしみったれた「どうしようもなさ」が、ジュリアン・ムーアの姿を通じてある種の美となっている。いつもの笑い声も映えている。
映画はジョージ目線なので、チャーリーの「ある一日」は、彼と何らかの形でつながっている時のみ描写される。彼女は「早朝」の電話の後、昼下がりに化粧をし、(映ってないけど)たぶん夕方、料理をし、彼を迎える。日々ってこんなふうにも過ぎていくものだ(私ならこんな生活、全然悪くない)。ジョージが自分の人生をコントロールしようとしているのに対し、彼女は「生きてしまう」。お金とわずかな希望ならある。でもあの日の後、彼女はどうしたろうと思う。
(10/10/15・新宿バルト9)
「フランスで50年前から愛されている国民的漫画、初の実写映画化」。私は読んだことない。原作のエピソードを散りばめたオリジナルストーリーが使用されているそう。
「しかけ絵本を追う」形の可愛らしいオープニングに、同じローラン・ティラール監督による「モリエール」の冒頭、揺れる生地の数々を思い起こした。なんてことないんだけど、そっと顔を近付けてるというか、あったかい感じ。
舞台は「古き良き」60年代のパリ、「汚い」ものは出てこない。趣向の凝らされたセットの中で、丁寧に描かれるエピソードの数々に、幸せな気持ちになる。
笑いも超「ベタ」。こまかいギャグを一つ一つ重ねていきながら、時に大きなギャグに持って行く。ゆるやかながら絶えることのない場内の笑いが、「縦列駐車」のくだりでは渦になる。
終盤、ニコラがぷいとしてしまった晩の食卓。ママがパパに目配せする。何か話してよ、という意味かと思ったら、パパのすることは…この場面が最高。上記「モリエール」の夕食の席で夫人がついつい笑い出してしまうシーン(今年一番のお気に入りシーン!)を思い出す。
ラストシーンでもニコラが(「ぼくは弟が欲しかったのに!」なんて理由で)怒ってるので、どうなるのかと思ったら、同じように「笑い」が画面にあふれ、ニコラは一歩成長する。
出てくる子どもたちが皆イイ顔。ああいう子いるいるって感じ。ニコラが「美人」と感動する女の子の、いかにもフランス風な顔立ちもいい。全員、物の扱いがちゃんと乱暴なのも良い。
そして、教員一家としては気になっちゃう学校の場面。担任の先生がとても良かった(私もあんな男の子たちに「マダム」と呼ばれたい!)。もちろん現実的に見ると「あんなんじゃ給料もらえない」仕事ぶりなんだけど(笑)頼りないアゴと口元、大した触れ合いがあるわけでもないのに、病気が治って戻ってくると、子どもたちが駆け寄ってくる。ああいうの、観てて楽しいなあ。
子どもたちの「合唱シーン」では、「コーラス」のマチュー先生が特別出演。あの顔はちゃんと覚えてた(笑)
ママ役のヴァレリー・ルメルシェって「モンテーニュ通りのカフェ」で一番面白かった「女優」さんか。この映画ではしぶい石野真子って感じ、相変わらず楽しかった。
(10/10/11・恵比寿ガーデンシネマ)
オープニングは例の「総触れ」。どアップの錠前が鍵で開かれる絵面はあまりにチープだけど、その後、並んだ男たちをすべるように映していくカメラに、自分でも驚いたことに、わくわくしてしまった(笑)吉宗(柴咲コウ)のセリフを借りるなら「私も女ってことだな」←このシーンの「取ってつけた」感はすごい
場面は時間を遡る。貧乏旗本の息子・水野(二宮和也)が大奥に上がるまでがやたら長い。水野は大奥では「特別」な人間。大奥以外での描写が下手に長いと、その「特別」感が薄れてしまう。普通のやつじゃんと思ってしまう。
今回使用されるのは原作のほんの導入部だから、「○○という特殊な世界に、○○らしくない者が現れて頭角を現す」というパターンの話としてもっと自由な内容を期待してたんだけど、原作をほぼなぞっているだけ。よく出来た話だな〜と原作を見直した(笑)そのくせ、吉宗が城内のそこここで男をつかまえる描写を省略してるのにがっかり。あれで終わりじゃ、何だか嫌味っぽい。
大部屋に入った水野が「田舎者」とからかわれ、啖呵を切って返すシーンは、深夜のドラマでキャバ嬢が争ってるようで(実際にそういうの観たことないから知らないけど)、悪くないなと思う(笑)他にも、何かがすごくみなぎってるような…顔の肉の下に違う生物がうごめいてるような玉木宏の出演シーンなど、楽しく観た。
話がずれるけど、例えば落語においても、噺の舞台が江戸であれ、現代的な喋り方で演じられる場合があるけど、マイナス要素とは感じない。映画も同じだなと。勿論「当時っぽい」言葉遣いや所作を味わうのも楽しいけど、結局は、面白いかそうでないかだ。
(10/10/09・新宿ピカデリー)
昔、性犯罪に遭ったため、わざと太った女性の話を聞いたことがある。七瀬は男の「欲望」(…というものがある、という「フィクション」によって、またそれが生まれると私は思ってるけど)を目の当たりにしながら、それを喚起する容姿を保ち続ける…すなわちそれを「認め」た上で「女」であり続ける。それはある種の男性の理想だろうか?(と、男性ばかりの場内で考えた)
「七瀬シリーズ」とは私にとって、そうして育ってきた人間がどういう女になるか、という話。だから筒井康隆が今回「これまでの中で最も七瀬らしい」とコメントしたと知り、原作者が、そういう女はこの映画の七瀬のような顔をしてると考えてるのかと思い、観たくなった。
本編前に上映される「七瀬ふたたび/プロローグ」の監督は中川翔子。オーソドックスな作りで楽しい。多岐川裕美が七瀬の母親役で出演してたのが嬉しい驚き。
物語は「敵」との初接触…七瀬(芦名星)と友人の瑠璃(前田愛)が帰国時に狙われる場面から始まる。二人のとんちきっぽい格好が、どこか閉鎖的で浮き足立った物語世界へと誘ってくれる。岸利至によるテーマを繰り返す音楽の使い方も、少年ドラマぽい雰囲気で気持ちが盛り上がる。
その後、原作の前半部分にあたる、七瀬と各人との出会いがモノクロ映像で挿入されていく。芦名星はモノクロ映えして美しく、夜行列車でノリオに呼び掛ける姿など神々しいほど。しかし終盤、モノクロからカラーに変わるとあるシーンでは(モノクロの方が良いあまり)興ざめしてしまった。これは撮り方の問題かな。
筒井康隆は「テレパス」の「感覚」を文章で表すという遊びをしたかったのかなと思う。原作で描かれるのは七瀬の「感覚」、仲間とのめぐり合い、思考のやりとりだ。映像の場合(私は「木曜の怪談」版のみ未見)、周囲の「心」の表現や「敵」とのバトルに重きが置かれるから、何だかしょぼく感じられる。
例えば七瀬と瑠璃がバーで男二人と知り合う顛末は、原作では「七瀬も気持ちがよくなるが、相手の『心』への拒否反応の方が大きいため逃げ出してしまう」という事態が描写されるんだけど、この映画ではそこまでの手間は掛けてないから、七瀬って「潔癖症」なのかな〜という程度の、のっぺりしたエピソードで終わってしまう。
ダンテ・カーヴァー演じるヘンリーは「ぼくは『ガイジン』だから…」というようなことを言う。七瀬は同じ能力者である西尾に密室で襲われるが、それは互いに能力者でなくとも有り得る事態だ。七瀬の主な仲間「女・黒人・子ども」って、少なくとも原作当時の日本においては、ただでさえ非力なものだったんだろう(今はそれほどじゃないから、説明として上記のセリフが挿入されている)。とくに原作には暗い雰囲気があるため、時代って「良い」「悪い」どちらかの方向に進むものじゃないけど、この頃よりは今に生まれてよかったと思ってしまう。
それにしても、こんなこと言いたくないけど、ノリオ役の子がもうちょっと可愛かったら楽しいんだけどなあ…了(田中圭)にしてもそうだけど、この作品の映像化って「女」へのサービスは(役者選びにせよ何にせよ)皆無だよなあ(笑)
ダンテ・カーヴァーは、禅の本を出して見せたり明太子をつまみぐいしたりと間抜けな場面が多々あるけど、悪くなかた。どうやら「料理が得意」という設定らしいんだけど、ご馳走シーンはなし。
「敵」役の吉田栄作、私は結構好きなんだけど、前回スクリーンで観た「真夏のオリオン」に比べて随分精彩がなくなっており寂しかった。若いうちにもっと色々映画に出て欲しかった。
最後に物語を左右するのは、藤子(佐藤江梨子)の持つタイムトラベル能力。タイムトラベルを「パラレルワールドの創造」と解釈し、「悲劇的なままの世界」を放置して新たな世界に移ることを躊躇する彼女に対し、原作の七瀬は何も言えない。しかしこの映画の七瀬は、その行為を「少なくともあなたは生き続けることができる」と肯定し、自分や仲間がどんな形であろうと「生き続ける」ことにこだわる。
ラストは原作と大きく異なっており、観客は「七瀬『ふたたび』」というタイトルに新たな意味を見出すことができる。面白い手だなと思った。
(10/10/06・シネ・リーブル池袋)
最高に面白い。3作とも劇場で観られてよかった。
「過去のとある事件」を発端に出会った二人。「2」ではミカエルに協力して少女売春の実態を暴こうとしていた記者が殺され、リスベットに嫌疑がかかる。同時に彼女が国家機密に関わる存在であることが明かされる。「3」では彼女の口をふさごうとする組織と、ミカエルらリスベットを支援する者との対決が描かれる。
前作よりもひりひり具合は減ったけど、深刻なテーマ(原作第1部の原題「女を憎む男」)を下敷きにしながら、「2」では「志村後ろ」感をも味わわせるはらはら感(突如「ボクサー」が登場するなんて!)、「ドラゴン・タトゥー」の印象的な見せ方、二人が最後の最後まで顔を合わせないドラマティックさなどに魅了される。「3」では法廷での全面対決に向け、リスベットをめぐる人々が敵味方入り乱れみっちり動き回る。そして、俗な言い方をすれば「印籠」出すの分かっててどきどき楽しめる法廷での一幕、リスベットの確実な「変化」を見せながらもさらりと閉めるラスト。これぞ映画!って感じの面白さだった。
緊張感が持続する中、ミカエルの、不思議と「こいつ絶対死なないな」と思わせられる暢気さがいい。「3」では、その無邪気さゆえ周囲を傷つける場合があることも描写される(エリカが「尻拭い」するのが、毎度のことなんだろうなと思わせられる)。
「2」で買い物袋を提げたリスベットが歩く坂道からの眺めなど、ストックホルムの町並みも楽しい。彼女がほ終盤まで病室にこもりきりの「3」では、ルックス的にも一陣の風って感じの病院長が登場してほっとさせられる。
「3」のリスベットは重傷を負って入院中だけど、「1」ではミカエルと、「2」ではミミとのセックスシーンがある。いずれもリスベットが何らかの理由でやりたくなって、合意でもってする。リスベットと彼・彼女らは肉体関係を持つ「友人」である。会えばセックスするわけでもなく、他の人とセックスすることもある。生きる単位が個人であれば、セックスするから「恋人」というわけでもなく、また「恋人」「友人」のどちらが「上」「下」などない。
ちなみにミカエルとエリカは「不倫」の関係だけど、原作ではそれについて心情描写があるんだろうか?「2」で親戚に「結婚しないの?」と聞かれた彼の返答がよかった。
「2」の終盤、悪魔の小屋に続く暗い草むらを一人ゆくリスベットの小さな姿は、健気にも哀れにも見えない。この映画のテーマや作りは、そう感じることを拒否している。
3作通じて、社会のふとした所に現れる「女性問題」が端的に散りばめられている。「2」でミカエルと会話中の証人は通行女性をじろじろ見る。「3」でリスベットと初めて会見した検事は「あんなに小さな女性だとは…」と驚きの声をもらす。彼女が裁判で提出した証拠物件につき、陪審員の女性は思わずといった感じで進み出て「あなたはなぜこれを撮影したのですか?」と口にする。もちろん彼女に悪気はないんだろうけど、その根本にある「感情」こそ、「女性」を痛めつけてるんだよなあと胸が痛くなった。
また、「1」の事件関係者はじめ「ミレニアム」編集部、また病院や拘置所など、どこにおいても普通のおばさんが普通に存在してるのがいい。この「普通」さって、なかなかないものだから。
前作の感想の最後に「セリフ内の価格に日本円にして幾らというカッコ書きがついてて助かった」とあるけど、「2」「3」ではそうした但し書きに加え、リスベットが登場すると「リスベット(天才ハッカー)」、その後各人が登場するたびにテロップが付く。「○○買春客」にはちょっと笑ってしまった。
(10/10/02・シネマライズ)
とても面白かった。男だらけの至福の二時間超。
(リメイク元の作品は未見。帰りにツタヤに寄ったらレンタル中だった)
まず映像がきれいで楽しい。お話は、オリジナルに沿ってるんだろうけど、集められた12人が早々に「賭け」の時を迎える。察知した敵との駆け引き、先回りすべく山道をゆくくだりは「オズの魔法使い」のようなロードムービーの様相、このあたりが面白い。戦いが始まると、「ホームアローン」みたい…と思わず同居人に小声で耳打ちしてしまった「小細工」の数々、その後に長々続く戦闘シーンはまるで、ぐらぐら煮立つ鍋の中で崩れていく具の数々を見るよう。もう鍋、終わりにしない?と思うんだけど延々と続いて、ぐちょぐちょになっていく。
最初から最後まで、「太平の世」であること、その中で「侍」が「生の実感を求めている」ことが、役所広司はじめ多くの人物の語りで表される。その他、市川正親が役所の人となりについて部下に説明したり、山田孝之が「くだらねえ」と言いながら金を投げ付けたり、伊勢谷友介が「侍なんて」と言いながら殴りかかったり、普通ならうざくて嫌気が差しそうなものだけど、そうならず、それはそれで洗練されている。
その一方で、こまかい部分は全く描かれない。伊勢谷が「食べ物くれ」と言ってるのに、水浴の描写のみで(笑)食事シーンはないし、「小細工」を作るくだりもあっさりしてる。三池監督ってそうなんだろう、以前もそういう感想を書いた記憶がある。
また役所が敵の動きについて「70人もの集団が見つからないわけがない」というようなことを言うんだけど、山だらけの国でそんなこと、このセリフからってわけじゃないけど、「日本」が何やら観念的なものに感じられた。
印象としては、陳腐な言い方だけど「少年漫画」っぽい。生活感はないけど「よくできてる」。三池監督の映画って、役者の演技がどうとかじゃなく、その使い方、撮り方で、こんなに面白くできるんだなあと思わせられる。
「暴君」の吾郎ちゃん、おしっこしながら登場。「マイ・プライベート・アイダホ」のリバーを思い出してしまった(笑・おしっこじゃないけど)
冒頭、吾郎ちゃんの屋敷で家臣たちが話し合う部屋が暗い。当時はそうだったんだろうなあと思わせる、ろうそくの灯りが幾つかあるだけ。ああいう世界で、権力があったら、ああいう類の「遊び」にふけるの、分かるような気がしてしまう。そもそも吾郎ちゃん演じる「暴君」は理路整然としており、最後の「今日は…」以下のセリフだって、そりゃそうだろうと思わせられる。「十三人」側も敵側も同類、「太平の世」に何かに突き動かされた者たちが数日間で燃え尽きた…という風に受けとった。
山田孝之なんて全然好きなタイプじゃないけど、着物の上からでも想像できるでかい背中の肉の感触、路地でこちらに背を向けて立つ姿の色気のあること。
伊原剛志は安心のかっこよさ、弟子とのコンビがいい。登場時に座礼する際、左手を先に下ろしたのが目に付いた。たまたま先日の落語会で、「必死剣 鳥刺し」に出演した鯉昇が「相手が目上なら、刀を持つ手を先に付く」と注意されたそうで「『噺家さんだからご存知でしょうが…』と言われたけど、そんなこと知らないよ」と笑いにしてたから。まあ私なんてそれどころか知らないことだらけだけど。
(10/10/01・新宿ピカデリー)
「混乱してるのは周りであって、自分じゃない」
NYでジャーナリストとして活躍するエリザベス(ジュリア・ロバーツ)が、イタリア〜インド〜バリを巡る1年間の旅に出る。
ベストセラーだという原作は読んでないけど、観る前にふと映画版「プラダを着た悪魔」を思い出した。主人公があれこれ思う内容が面白い小説を、ストーリーだけ追うような映画にしたら、つまらないもの(「プラダ」はそんな感じ)。
でもってどうだったかというと、やはり中途半端な印象を受けた。
ジュリア演じる主人公は、原題直訳のタイトル通り、イタリアで「食べて」、インドで「祈って」、バリで「恋をして」。楽しいのは何といってもイタリア編、「異国情緒」が手っ取り早く味わえる。観ていてお腹が空く度合いの高さでも近年一番。狭苦しい店内でピザを頬張るシーンに、映画版「HERO」で木村拓哉がチゲを食べた食堂を思い出した(観賞後、韓国料理を以前に増して食べるようになったものだ)。
一方ヒンズー教の修行に励むインドでは、主人公の何がどう変化しているのか分からず飽きてしまった。想像だけど、文章なら心の動きが読み取れて面白いのかもしれない。
とはいえ、主人公には共感しながら観た。「誰かとパートナーである」ことでなく「自分が満足する」ことを優先していると、「うまくいかないと分かっていながら、パートナーで居続ける」ことを重要とする人と揉める…これを何度も経験してるから。主人公が回想する、元夫との結婚式でのダンスシーンでは、一人の相手と「パートナーで居続ける」ことが重要とされる社会では、ひずみが出る(ひずみを受け持ってしまう人がいる)ものだよなあと思った。
また、インドで出会うリチャード・ジェンキンスにいきなり「あなたってジェイムズ・テイラーに似てるわね」と言うシーンなど、話を聞きながらああいうことが頭に浮かんで、口に出ちゃうことってあるよなあと思った(笑)
最後に主人公は「今回の旅のテーマ」をナレーションする。「起こったことすべてをclueと見做し、自分自身を許す」「調和とは何かを知る」。clueに従って行動するのって、そう決めれば面白いだろうなあ。
旅に出る前、友人は「つまらなくても結婚生活を続ける、皆がやってることよ、あなたは逃げるの?」と言う。またバリの新しい恋人も、とある場面で「逃げるのか?」と言う。作中の意味なら「逃げ」て何が悪いのか?人のすることに「自分探し」だのなんだのと名前をつけるやつは、放っておけばいい。混乱したり名前を付けたりするのは、自分でなく周囲なんだ。
男優の演技は皆よかった。ジェームズ・フランコが全く可愛く撮れてないのにはがっかりしたけど、ストーリー上その方がいいとも言える。
ハビエル・バルデムが、自分で作った「mixtape」を流すシーンには笑ってしまったけど、その直後のジュリアが、作中最も…というか唯一、愛らしい顔をする。いつも可愛い顔してるわけじゃない、そこがいいなと思った。
(10/09/26・新宿ピカデリー)
2004年に大改装に入ったものの中断され、いまだ(2010年夏現在)工事再開の目処が立たないアムステルダム国立美術館の舞台裏を取材したドキュメンタリー。関係者それぞれが意見を言い、議論する。人の顔を見たり言葉を聞いたりするのが好きな私としては満足。
まず「美術館」対「市民」の構図が示される。美術館側が示した改装計画に対し、サイクリスト協会が「通行スペースが小さくなる」と文句を付ける。地区委員会も科学省も改築に反対だ。
映されるのは「美術館」と話し合いの場が主で、近隣市民の暮らしぶりは不明。館長については、「世界中に家を持ってる」というスタッフのセリフなどから、かなり裕福であることが分かる。彼に言わせれば「国の威信が掛かった問題なのに、自転車ごときにこだわって」「アムステルダム市民は議論好きだから」とのことだけど、毎日通る道を封鎖されたら困るという気持ちの方が私には分かるな…
ちなみに館長はかなりの大男で、金剛力士像を買い付けに来た際「こりゃあ大きいな、日本人からすると等身大以上か」と言うんだけど、像より彼のほうがでかいのが可笑しい。
その他の人々。スペイン人の建築家コンビにしてみれば、コンペで優勝したのに今更なぜ?という感じ。建築物に「ドラマチックさと感動」を求める彼らは、長引く騒動の中で次第にやる気を失っていく。いわく「民主主義が悪用されてる」。
各部門の学芸員トップは、改装後の持ち場に何を・どのように展示するかを考える。設計図を元に「一週間かけて作った」模型に、写真を切り抜いた美術品を配置していったり、収蔵庫で美術品の取捨選択について話し合いを行ったりする様子が面白い。日ごろ自分が訪れる、ぎちぎちに並べられただけの展覧会と比べてしまうけど、余計なお膳立てなしに素の作品を観ることができてるともいえる。
さらには修復士(女性ばかりなのはなぜ?)や警備員などの仕事の様子が差し挟まれる。
淡々とした作りだけど、冒頭に映る、1885年に当美術館を設計したカイバースの胸像(外壁についてる)と、エンディングの、収蔵庫に「眠る」美術品の群れからは、皮肉めいた印象を与えようという意図を少しだけ感じた。
(10/09/21・ユーロスペース)
テヘラン郊外の海辺に休日を過ごしにやってきた男女。気心知れた中に、ほとんどの者が初対面のエリという女性が参加していた。仲間の一人が、訳あって子どもの保育園の先生を誘ったのだ。やがて子どもが溺れる事件が発生、命は取り留めたが、近くにいたエリが姿を消してしまう。
予告編から、近年で例えるならイラン版「湖のほとりで」のような感じかな?と思ってたんだけど、違ってた。トラブルに巻き込まれた人々の混乱を描いた、とても面白いタイプの映画。
冒頭、プジョーやBMWの窓から顔を出して風を受ける女性たち。ヒジャブにサングラス姿なので、口元に目が行く。きれいにふちどられた唇、真っ白な歯。エリの手にはルイヴィトンのバッグ。足元の多くはジーンズにスニーカー。ヒジャブにサンバイザーって、落ちないのかな?
予約したコテージでなく浜辺のボロ屋を使うことになった彼らは、荷物を運び入れ町で買い物をし、初日の晩を迎える。何てことない作業の様子が面白い。
皆が参加する「身振りゲーム」の描写の長さ、そして二日目の、エリのどこか気が引けた素振り、帰りたいと言うが却下される(!)あたりから、どこか不穏な空気が漂う。そして事件が起こる。エリの捜索シーンは、海の事故のリアルさが感じられ、どきどきさせられた。
ふと疑問が生じる。彼女は単に、黙って帰っただけなのでは…そこから始まる仲間内の混乱が映画のメインだ。推理したり言い合ったり、外部に嘘をついたり。映画の前半における、彼女のちょっとした言動を、観ている私も一緒に思い出し考える。
エリを半ば無理に誘ったセピデーの言動は、私からするとあっけに取られるものばかり。しかし彼女の夫の「皆何かっていうとセピデー、セピデーと頼むくせに」というセリフから、仲間の中心である彼女はつい「頑張って」しまうのだと分かる。
事故自体はどの国でも起こりうることだけど、それが多大な混乱を招くのは、エリの「婚約者がいながら男性との旅行に参加した」行為をを皆が「罪」と捉えているから(もっともそれを知ってて誘ったセピデーのような人も居るわけだけど)。私にはぴんとこないけど、イランというのはこうなんだなあと思わせられた。幾らブランドもののバッグを持って、海辺でスポーツできても、婚約解消が難しいんだから。ヒジャブを「おしゃれ」と捉えることはできても、こうしたことはいかんともしがたい。
(10/09/15・ヒューマントラストシネマ有楽町)
バレエダンサー、リー・ツンシンの自伝の映画化。中国の農村出身の少年が、北京からアメリカに渡り才能を開花させる物語。
予告編から想像してたよりずっと「娯楽的」で分かりやすい作品。場内では笑い声が幾度もあがっていた。私も面白かった。
観ながら、ダンサーが出演している映画はミュージカルに見える瞬間があるということに気付いた。窓に駆け寄る少年たち、歩道に立つ彼、ベッドに倒れこむ妻、何てことない仕草がまるで踊っているよう。
リーを演じるのはバーミンガム・ロイヤルバレエのプリンシパル、ツァオ・チー。「素晴らしい肉体ね」と言われる場面があるけど、アディダスのジャージで立ってるだけで絵になる。踊りはもちろん、生真面目で固い表情に惹きつけられた。人生で数回しか見る機会がないであろう、素直で…素直すぎて危険な目。ちょっとブルース・リーを思い起こしながら観てた。
北京の舞踏学校の練習の様子は、ダンスというよりマスゲームに見える。ジャンプのたびに木の床がぎしぎし大きな音をたてるのも印象的。視察にやってきたヒューストンバレエ団の主任ベン(ブルース・グリーンウッド)は、生徒たちについて「技術はあるが無表情で惹かれない」「皆ダンサーというよりアスリート」「だが1人は別格」「彼は素晴らしいダンサーだ」とリーを引き抜く。
リーは北京に連れてこられるまでバレエなど知らず、数年の練習を経ても面白さを感じない。彼を見込んだ教師がこっそり託したビデオテープでバリシニコフの踊りを見て、特訓に励むようになる。下地のない彼が「ダンサー」になったのには、性分もあるし、子どもの頃に父親に語ってもらった物語、ひいては故郷での暮らしが下地になっていたであろうことが、語り口から何となく想像できる。
舞踏学校を訪れた江青が舞台に対し「銃がない」と文句を付け、次回には制服を着けたダンサーたちが銃を持って踊るというくだりがある。芸術に政治を持ちこむな、ということなんだろうけど、「政治」要素があろうとなかろうと、表現されるものには思想があるわけだから、「芸術」だって受け入れることのできない人がいるよなあと思った。
「資本主義の国々は劣っている」と教えられて育ち、初めてアメリカ・ヒューストンにやってきたリーは、高層ビルを見上げ、教わったばかりの「fantastic」という言葉をつぶやく。始終紺のスーツに「赤いネクタイ」(中国の「代表」が着ける)姿の彼のため、ベンが服を買い揃えると「ぼくの父親は必死に働いて一年で50ドルしか稼げないのに、あなたは今日だけで500ドル使った、なぜですか?」。このくだりはともかく、後も続くカルチャーギャップネタは、結局のところ「クロコダイル・ダンディー」なんかと大して違わない(笑)
「彼は中国人なんだから、スペイン人の役はむりよ」
「マーロン・ブランドは日本人の農民の役をやったぞ」
「(ため息)あれは素晴らしかったわ…」
(10/09/12・Bunkamuraル・シネマ)
とても面白かった。私は「マディソン郡の橋」が好きなんだけど、あんなに洗練されてはいないけど、ちょっと思い出しながら観てた。
ただ柄本明と樹木希林のパートは、正直要らないなと思った。妻夫木聡と深津絵里のラブストーリーとして観てたし、タイトルの「悪人」も、深津絵里の最後のセリフからの抜粋としか受け取れなかった。
冒頭、祐一(妻夫木聡)が爆音で飛ばす白いスカイライン。クルマ目線のカメラは妙に低く、道路すれすれを不安定に、猛スピードで走っていく。そして、そこから始まる登場人物の暮らしの描写の、圧倒的な地べた感。満島ひかりが女友達と「鉄鍋餃子」を食べる。妻夫木聡が叔父の運転する車で山道を作業に向かう。このあたり最高に面白い。
後半は音楽もエピソードも、結構センチメンタルになってくる。夢で観た「二人が暮らす家」なんてびっくりしたけど、光代(深津絵里)に「描いて描いて」と言われて小声で「それはちょっと…」と返す妻夫木聡がとても可愛かった(笑)
「出会い系」は私も昔やってたことがある。色んな人がいて、皆がむき出しの状態って感じ。だから、誰かと誰かがぶつかって、からまって、離れ難くなるというのはありそうなことに感じられる。
妻夫木聡と深津絵里の演技はわりと一本調子だけど、ぐっとくる。「送ってくれてありがと、うちに着いたらメールちょうだいね」「なんにもしてあげられなくてごめんね」なんていう、ありふれたセリフがいい。
映画の面白さの一つに、登場人物の感情をなぞってるつもりでいたのに、気付けなかった部分が不意に表れ、驚かされる瞬間、というのがある(突飛なものでなく、なぜ思い至らなかったんだろう?という適切なものの場合)。この映画では、終盤「あなたがあんなことしなければ」と言われた祐一が吐露する心境や、最後に光代がする行為。私にとっては観ながら抜け落ちてた部分であり、その気付きが快感だった。
「カラフル」の感想の最後に「母親が家族全員のパンにバターを塗るシーン」について書いたけど、こちらでは、妻夫木聡が、樹木希林がおつゆをつけてる間に彼女の分のごはんをよそう。その後の食事シーン含め、あれが「普通」だよなあ。あちらの食卓は息苦しかった。
(10/09/11・新宿バルト9)
罪を犯して死んだ「ぼく」は、天使のような男の子に導かれ、自殺した少年マコトの体に入って現世に戻り「修行」することに。中学三年生の彼の自殺の原因は、母親の不倫と、思いを寄せる女生徒の援助交際を知ったことだという。
お話は面白く、終盤には多幸感、主人公のその後をもう少し見たくなる、後ろ髪ひかれる感じが味わえた。ミステリー的な展開も楽しい。小出しに出される情報…釣りに出かけるあたりの行動でもしかして、と思わされ、最後に唱子のセリフでやっぱりそうなんだ、と「ぼく」と共に確信する。
でも「ちょっとうざい」感もあり。最後、ダメ押しみたいにあんな「テーマ」めいたこと、つらつら言わなくたっていいだろうと思ってしまう。
(以下「ネタバレ」あり)
私がアニメを苦手な理由は、例えば何か悟ったような表情の人物に対して、絵のくせになまいきだ!と感じてしまうというのもあるし(笑)例えば画面の中の雲の切れ端ひとつ、電線ひとつにしても誰かの意志によって「存在してる」わけで、絵が「リアル」であればあるほど、想像力の余地をはぎとられたような、押し付けられたような気持ちになってしまうから。とはいえ作品によりけりだし、実写だってそうとも言えるから、難しいけど…
閑話休題。だから微に入り細に入り「リアル」に描かれたこのアニメには、始め入り込めなかったんだけど、つらい目に遭って自殺した人に対して「修行」を与えるなんていう(本人に辛い記憶がなくても/結果的に「修行」じゃなくても)、私からすると「何者かが強引に采配を振るっている」ような世界の物語は、そういう絵のほうが観やすく、楽しめることに途中気付いた。
「ぼく」と早乙女くんが玉電の跡をたどりながら仲良くなるくだりが素晴らしい。いきなりそんなレトロ趣味、わざとらしいと思ったけど、長丁場のシーンは圧倒的。まるで、自分が「ぼく」になったような…ありえないけど「他人の体に入って、以前から『自分』のことを知ってはいるが喋ったことはないらしい相手と親しくなる」ってきっとこんな感じだろう、という気持ちにさせられた。
援助交際をする女生徒のキャラクターがエキセントリックでないのもよかった。彼女含め、登場人物の喋り方が自然で観易い。
ちなみに援助や不倫の相手の顔を出さないのは、「主観」を描く少女漫画的技法?みたいだなと思った(私にとってことわりなしの「少女漫画」とは岩館・大島ライン)。
ちょっと引っ掛かったのは、母親が家族全員のパンにバターを塗るシーン。まるで昔の日本の家庭で、母親が下手でごはんをよそって、皆がある程度食べるのを待ってるような感じ。「食事を作るのは母親の役目」というのは全然いいんだけど、ごはんをよそう、バターを塗るなどのserveっぽい感じのことを決まった人がするのには、何となく抵抗がある。まあ作中の母親は虐げられておどおどしてるから、それを助長する描写なのかな。
(10/09/09・新宿バルト9)
ソ連崩壊の切っ掛けになったと言われる「フェアウェル事件」の映画化。
とても面白く観た、こういう映画って好きだ。
81年のモスクワ。KGBの幹部グリゴリエフ大佐(エミール・クストリッツァ)は祖国の将来を憂い、体制打破のため西側に情報を流していた。あるとき接触場所にやってきたのが、上司の命を受けたフランス人技師ピエール(ギヨーム・カネ)。大佐は素人の彼をこの仕事のパートナーに決める。
冷戦時代のスパイもの、ダメ押しにバス停に「こぐまのミーシャ」のポスターが貼ってあるので、「エロイカより愛をこめて」を読み返したくなってしまった(笑)
二人の顔がでかでか載ったポスターの通り、奇妙に深い男同士の絆が味わえる。「ペンタゴンやエアフォースワンの情報だぞ(すごいだろ)」「見返りはいらない、お前がスパイになりさえすれば」「お前は話す相手がいるからいいが、俺にはお前しかいない」…一匹狼がウブな素人をかどわかしてるようにも見えるけど、次第にその仲は分かち難くなっていく。大佐を演じるクストリッツァは日野日出志の絵みたいな顔だけどチャーミングだし、ピエールの、車の窓から書類を飛ばしてしまうドジぶりや、アドバイスを素直に聞き入れ監視対策に頑張る姿なども愛らしい。
ピエールが自宅の盗聴対策に音楽を流しているため、当時の曲がBGMとしてそのまま聴ける。状況を考えたらなんだか妙だ。二度目に顔を合わせた際、カーラジオから流れるのんきな「steppin' out」も可笑しい。グリゴリエフの長男は「腐った西側」の音楽に憧れ、部屋にボウイの写真を貼り(「aladdin sane」の頃)、クイーンの歌真似をする。ソニーのウォークマンがでかい!
ミッテランやゴルバチョフ、「おれはUSAのボスだ」と威張るレーガンなどが登場。レーガンはとりわけ馬鹿っぽく描かれており、部下の前で自分の昔の出演作ばかり観ている。出演していない「リバティ・バランスを撃った男」について、「私にもオファーが来たけど実現しなかった、視点が変わると物事は変わってみえる」と語るシーンが面白い。
一見ちょい役のCIA長官をウィレム・デフォーが演じているので始め違和感を覚えたけど、ラストシーンで、大佐と正反対の人物として置かれた要の役どころだと分かる。いわく「民主主義は市民の信頼あってこそ」…つまり彼は完全に「市民」ではない立場なのだ。雪に消えた大佐の姿が目に残る。
(10/09/01・シネマライズ)