表紙映画メモ>2010.01.02

映画メモ 2010年1・2月

(劇場・レンタル鑑賞の記録、お気に入り作品の紹介など。はてなダイアリーからの抜書です)

すべて彼女のために / 恋するベーカリー / ウィニングチケット―遥かなるブダペスト― / マイ・ライフ、マイ・ファミリー / 50歳の恋愛白書 / Dr.パルナサスの鏡 / フローズン・リバー / ラブリーボーン / ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女 / サロゲート / 卒業 / ヴィクトリア女王 世紀の愛 / フォロー・ミー / ずっとあなたを愛してる / (500)日のサマー / 牛の鈴音 /

すべて彼女のために (2008/フランス/監督フレッド・カヴァイエ)

国語教師ジュリアン(ヴァンサン・ランドン)は、妻リザ(ダイアン・クルーガー)、息子オスカルとの3人暮らし。ある朝、リザが謂れのない殺人容疑で逮捕され、3年後には20年の禁固刑を宣告される。ジュリアンは彼女を脱獄させる計画を立てる。

映画作りのプロの仕事、これより足す所も引く所もないって感じで、とても面白かった。
物語が始まって程無く、ジュリアンは脱獄計画を練り始める。事件については、冒頭近くにさっさと真犯人の姿を含む経緯が示されて終わり。この客観的なシーンがあるため、その後事件について全く触れられることがなくても、違和感を覚えることがない。作中の脱獄経験者が言うように「相手は国家」、こうなったらただもう、自由を勝ち取るしかないのだ。
脱獄前日、諸事情から派手な犯行に手を染めたジュリアンは警察から追われることになる。当日のクライマックスは、追手とぎりぎりでそれを交わす逃亡者とを交互に映す単純なスリルの積み重ねで、どきどきさせられた。

ジュリアンがインターネットで脱獄のプロを見つけてアドバイスをもらうくだりが、作中とても効いている。その他、公園のベンチの女、身分証を作る男などとのやりとりも、ミニマムでいい。

脱獄後のホテルで、着替えて顔を整えたリザの姿に夫がはっとするシーンがいい。もっとも作中のダイアン・クルーガーは投獄後もさほどやつれた容貌にならないので、見ている私のほうはそれほど心動かされない。自殺未遂の後にもきっちり作られた顔に、「絵に描いたような美女」の役なんだろうなあと思った。
彼女以外は隅から隅まで普通っぽい顔の人ばかり。リザの病室にぼーっと付き添ってる、カティ・オウティネン風の看護師が気になった(笑)
ジュリアンの両親も最高で、椅子に座ってばかりのゾウガメのような父親が、決めるときは決める!…といっても些細なシーンなんだけど(ジャケット手渡す所)。息子を送り出す場面では胸がじんとしてしまった。

「子どもが余計な邪魔をする」「押し入った元締めの部屋で女が悲鳴をあげて逃げ惑う」などの見慣れた光景がないので、苛々せずに済むのもいい(笑)ポール・ハギスがリメイクするそうだけど、その際には少し色味が加わるのかな?

(10/02/27・ヒューマントラストシネマ有楽町)


恋するベーカリー (2009/アメリカ/監督ナンシー・マイヤーズ)

冒頭から、「バカンス」っぽい町や明るいマーケットの風景、「若い女」の身体(いやらしさも感慨も含んでいない、単なる広告のようなそれ)、真っ白な服を着こなす主人公、身の回りには、現実よりちょっとだけさわやかな青年たち…という、ナンシー・マイヤーズっぽい、女性にとっては居心地のいいであろう世界が広がる。

3人の子どもを育て上げたベーカリー経営者・ジェーン(メリル・ストリープ)は、息子の卒業式のために訪れたホテルで元夫のジェイク(アレック・ボールドウィン)と再会。お酒も入って盛り上がり、一夜を共にしてしまう。

「昔の夫と不倫してるの」…よほどの問題がない限り、人間関係は当人がよければそれでいいと思うから、それもありかな?原題の「It's complicated」(込み入った)状態になったメリルが、甘いワイロを手に精神科医のアドバイスを求めたり、友達に告白した後「話せてよかった!」と安堵したり、ドレスを用意して「愛人」の立場を楽しんだり、「家庭に波風は立てたくないのに私には兵器なのね」と打ちのめされたり…という行動や思いが生々しくない程度に細やかに描かれている。
メリル&アレックの「ホット」なベッドシーン…というかベッドシーンをお上品に包み隠したシーン(「射精」には21世紀にこれもありかと思った・笑)や、メリルに接近するスティーヴ・マーティンに嫉妬するアレックのドタバタなどは、前時代的なコメディって感じだけど、3人の堂に入った演技やセリフのやりとりが楽しい。

私は昔から、男性に対して、楽しい・嬉しい・こう思うなどと言うときは、自分だけを主語にするようにしている。私にとってはそれが誠実な態度だから。
作中、「敏腕弁護士で口が立つ」アレックは、常に「僕たち〜」と二人称で感想を述べる。悪気はないんだろうけど気になってたのが、最後、あることを述べるのに「僕たち…じゃなくて僕は」と言い直す。するとメリルが「いいえ『私たち』がよ」と口を挟む。考え方の変化を表してるわけじゃないんだけど、印象的な会話だった。
またこの場面のやりとりで、身勝手で強引にも思えるアレックが、見方を変えれば一貫して「豊かな結婚生活」を望んでいるだけであり、それを諦めたかつてのメリルとは合わなかったのだということが分かる。もっとも中盤の「昔は互いに忙しくて…今は二人とも成長したのさ」というアレックのセリフには、豊かな愛情生活を営むには、結局金と暇が必要なのか?と思ってしまうけど(笑)

現在の妻に別れを告げてきたアレックとメリルが家の外で話をしていると、キッチンから子どもたちが「どうしたの?」と出てくる。こんなときに面倒な…と思ってしまったけど、自分に置き換えれば、両親のことなら気になって当然だ。子どもを作れば…あるいは作らなくても、結婚すれば、「二人の問題」が「家族の問題」になる。男女の仲と家庭とを心の中の同じステージで扱うのって面倒だけど、この映画では、子どもの自立や話し合いによって、それが成り立つのだと示される。

メリル・ストリープはどのシーンでも自然、かつ表情豊かで魅力的だ。バーのカウンターでの上気した顔、唇をかんだはにかみ顔、クロワッサンをオーブンに入れるときの上目づかいの顔、「修羅場」の後の放心した顔。その役柄は、結構地に足が着いてない感もあり、平気な顔でスティーヴとの約束を忘れてるのが可笑しい。
アレック・ボールドウィンについては、私は昔からボールドウィン兄弟ってチャームさえあればいいと思ってるから…そもそも役柄として、自分の「セックスアピール」を提供しようと頑張る男って、その内容がどんなものであれ(笑)憎めないものだ。
スティーヴ・マーティンには、登場時こそ「私ならあんな笑顔の人の運転するクルマには乗らない!」と思わせられたけど、意外と普通の、ちょっとナイーヴなおじさんが板にいていた。パーティでのダンスシーンが見せ場。「付箋を付けといたよ」に笑わされ、「ぼくはこう見えてもマッチョじゃないんだ」というのに泣けた。

3人が演じる役柄の「世代」に重きを置いたシーンやセリフも結構ある。例えばアレックが「夜、皆で観よう」と借りてくるのは「卒業」のDVD。ダスティン・ホフマン演じるベンが逢い引きのために赴いたホテルでないがしろにされるという、コメディタッチのシーンが映る。作中のアレックとメリルは、この映画の公開時にはベンとおない年くらいか。
メリルとスティーヴが「30年ぶり」にマリファナを吸う(R15指定はこのため)背景では、ボウイの「Rebel Rebel」が流れる。ちなみに別のシーンでスティーヴは「78年のデートはシンプルだったけど、今は難しくて…」と言うけど、どう難しいのかな?

(10/02/19・新宿ピカデリー)


ウィニングチケット―遥かなるブダペスト― (2003/ハンガリー/監督シャーンドル・カルドス‐イーレシュ・サボー)

ハンガリー動乱の最中、サッカーくじで大金を手にした一人の男の姿を描く。

まずは1956年の「ハンガリー動乱」について説明がなされる。民衆の蜂起がソビエト軍によって鎮圧され、市街は戦闘状態となったこと。18万人以上が海外へ亡命したこと。この映画では、祖国に残った者たちを描いていること。
エンディングでは、「くじを当てた男が実際にいたのは確かだが、行方は分からない」「この話はフィクションである」との字幕。

歴史の知識が浅薄なせいもあるんだろう、話の特異性に気を取られ、映画としては却って心に残らなかった。そもそも勝手にマーク・ハーマンの「シーズンチケット」のような話を思い描いていたら、全く違っており、サッカーやそれを愛する市民の姿はほとんど出てこない。考えたら当たり前で、それどころじゃなくなってしまった訳だ。
冒頭、主人公ベーレの息子は、彼の溶接マスクをかぶって外でも内でもボールを蹴り、「戦車乗り」の後にサッカー選手になりたいと言う。ラジオ中継を聞きながら食卓の上で試合を再現するべーレ、ゴールが決まると近所の皆が外に飛び出してくる…という描写が楽しい。しかしくじの当選と同時に動乱が起こり、その後、サッカーに関する描写は全く途絶えてしまう。

「100年分のお給料以上」の大金を当てたベーレは、当選金をもらった帰り道に信じられないような目に遭い、倒されたスターリン像にものを教えられ、夜はおかしな夢にうなされる。彼の当惑に沿って、映画は可笑しくも奇妙な雰囲気となる。結局彼は、行くあてもなく集合住宅に残った仲間にごちそうと音楽を提供し、束の間の安らぎを得る。しかし外の世界は、どうしようもないほど行き詰まっていた。
ラストシーン、今や静まり返った工場で、フォークリフトを無心に運転するベーレ。冒頭、フォークリフトの競争で仲間と賭けたのはたった一枚の小銭、でもそこには笑顔があったものだ。

ベーレの家には、歌手を夢見るロージカが下宿している。始めのうち、ベーレの方は単なるオヤジ目線、ロージカはロージカで家主を置物扱いだったのが、ゴタゴタの末に二人きりとなり、男女の仲とも同士とも言えない、非常時ならではの、それも悪くない仲になる。ラストの顛末には、そんな都合のいいこと…と思ってしまったけど、それが映画ってものか(笑)
ちなみにロージカの歌声やソビエト軍女性の弾くバイオリンの音色など、肝心な音が、もろ吹き替え?で浮いてたのには興をそがれた。

ベーレの息子は亡命する際、いつも手放さなかった戦車のおもちゃだけを残していく。母親か祖母に命じられたのか、興味を失ったのか…

(10/02/13・シネマ・アンジェリカ)


マイ・ライフ、マイ・ファミリー (2007/アメリカ/監督タマラ・ジェンキンス)

「ブレヒトの演劇の狙いは『感動』ではなく『思考』
 彼は『暗示』を提供するのでなく、『議論』を求めた」


ニューヨークでそれぞれ独り暮らしをする兄妹のジョン(フィリップ・シーモア・ホフマン)とウェンディ(ローラ・リニー)。あるとき、彼等を「捨てた」父親が認知症と診断され、二人は彼を施設に入れ世話することになる。

介護問題がテーマとはいえ、生々しい描写はなく、映像はファンタジック。雰囲気も温かく、主役二人の姿を観ているだけで楽しい。兄妹は戯曲に生きがいを感じており、冒頭のセリフは、大学教授であるジョンの講義の内容。

一人っ子の私は、単純に、兄弟姉妹がいるっていいなあと思いながら観た。「親の面倒」ということでなくとも、例えば作中、ウェンディが飛行機で父親を引き取りに出向き、ジョンが空港で「暖かいコート」を用意して待つ場面には、どんな事でも、人手が多ければそれだけ細かな所まで手が回るよなあと痛感させられる。また、父親によかれと「高級施設」を探すウェンディと、「そんな所は罪悪感のある家族から金をむしりとるのが目的だ」という意見のジョンが言い合う場面では、自分と近しい立場の相手から、自分と違う意見を聞くことができることを羨ましく思った。私は何でも好き勝手できるけど、頭が一つしかない。

「自由に使って」と言われても寒々しい施設内の寝室に、ウェンディは買い込んできた暖色系の小物を並べる。なんだこりゃ?と首をかしげる父親も、その夜から、彼女が置いていった照明を職員が消すのを押しとどめる。場面の意図とは違うけど、一日の終わりに明かりを消すのは、自分か、もしくは自分と通じ合った誰かの手がいいなあと思った。

二人部屋の寝室には人のよさそうな先客が居るが、兄妹は構わずドタドタ動き回り、大声で言い合う。彼等は父親と三人の時にも、父の扱いについて、本人がいないかのようにあげつらう。親子の問題は当人にしか分からないし、彼等の過去は詳しく描かれないので、そうした態度については何とも言えない。ただ、父が補聴器のダイヤルを回して静寂に逃げ込むシーンに、視力の悪い私も、コンタクトレンズや眼鏡をしないという選択でラクになることって無くはないから、同じだなあと思った。

「ビザの切れ目が縁の切れ目」だったジョンの恋人が、発つ前日にウェンディに向かって言うセリフ「自立した女ならタクシーを呼ぶところだけど、私はこういう女なの(彼に送ってもらうの)」というセンスが何となく好きだ(笑)

(10/02/11)


50歳の恋愛白書 (2009/アメリカ/監督レベッカ・ミラー)

原題は「The Private Lives of Pippa Lee」=ピッパ・リーの私生活。年上の夫とコネチカット州の高齢者地区に越してきた「良妻賢母」ピッパ(ロビン・ライト・ペン)の転機を描く。

大島弓子の漫画みたいな映画だった。夢遊病・薬・老人の町などの要素や母と娘のストーリーに加え、語り方だって、例えばピッパがライオンの夢を観てからタバコを買いに行くまでなんて、少女漫画を読んでるかのような感覚に陥った。

邦題や予告編からは、夫に「尽くし」てきた主婦が「裏切られ」、若い男と恋に堕ちる話…という印象を受ける。実際そういう内容だけど、単にそういう話じゃない。
主人公が、ある目的を持って結婚し「ピッパ・リー」となり、自分で自分を馴らしつつ暮らしてきたが、幾つかの切っ掛けにより、新たな選択をする。ピッパが現在の彼女に成ったプロセスを語るため、作中のかなりの部分が、若い頃の回想シーンで占められる。
観終わってみると、人間の単位は結局一人なのだ、あるいは、罪を償いつつも生き続ければ転機が訪れ得る、という話にも思えた。ピッパは、彼女にはからずも「罪のバトン」を持たせた人物が想像しない未来へ足を踏み出す。私なら最初から罪なんて背負わないけど…これは背負ってしまった人間の話なのだ。

回想シーンはそう面白いと思わなかったけど(80年前後?の時代性もあまり感じられない)、現在のパート…というかロビン・ライト・ペンの演技は見ていて楽しい。
結婚生活を嘆くウィノナ・ライダーをカフェで慰めつつ「結婚なんて簡単なものよ、ここにいる50歳以上の男の誰とでもできるわ」…その後、周囲のサンプルについて「対処法」を示していくシーンが可笑しい。何たってピッパは「順応」のプロなのだ。その後に買い物の話を持ち出してシメるあたりも、彼女の会話におけるテクニックが垣間見える。

ピッパと惹かれ合う、「嘘がつけない」「出戻り」男のキアヌ・リーヴスも良かった。昔と比べると随分だぶつき「大きな男」という印象を受け、現実の肉体を感じさせる。夫が老衰(に近い)死を迎えるのとは対照的だ。ピッパと彼との行為のシーンはリアルで胸にきた。
その他、やたら豪華な脇役(ウィノナを始め、ジュリアン・ムーアやモニカ・ベルッチ)はともかく、若いピッパを演じたブレイク・ライヴリーや、彼女の娘と息子などがいい顔で頑張っている。

オープニングがロビン・ライト・ペンの顔のアップ、そのうちマスカラを塗り始めるので、先日観た「フローズン・リバー」と重なった。もっともロビンは美しすぎるけど…
それにしても、「恋愛適齢期」のダイアン・キートンにも思ったけど、50を過ぎて白い服を身に着けるのって素敵だ。彼女たちみたいに高価なのはムリでも、そうしてみたい(笑)

(10/02/09・新宿武蔵野館)


Dr.パルナサスの鏡 (2009/イギリス‐カナダ/監督テリー・ギリアム)

現代のロンドンに現れた、パルナサス博士率いる見世物一座。鏡に飛び込めば、心の中の世界を体験できる。
博士(クリストファー・ブラマー)は悪魔(トム・ウェイツ)とある契約を交わしていたが、約束の時が近付いたある日、娘のヴァレンティナ(リリー・コール)が首吊り中のトニー(ヒース・レジャー)を助ける。

テリー・ギリアムの映画って、私には、つまらないわけじゃないんだけど、とても長く感じられる。今回も2時間程度のものが1・5倍に感じられた。
冒頭「悪魔との契約で娘を取られそうに…」というので、え〜また(テリー・ギリアムに対する「また」ではない/「紅一点論」じゃないけど、女が「特別の一人」しか出てこない話には飽きた)そんな話?と思っていたら、それは映画の一つのピースでしかない。ヒース・レジャーが演じるトニーの過去の仕業についても、さほど突っ込まれない(観賞後、近くの人達が「結局あの人は悪者だったの?」と話し合っていた)。ただただ色んな部分が提示される。そこが楽しかったけど、スケッチの連続というような感じを受け、体感時間が長くなるのかもしれない。

舞台をまるごと積み込んで移動する様子に、子どもの頃、「家で旅する」こと…「ペリーヌ物語」の写真屋さんの馬車や、キキとララの月のおうちなど…に憧れた気持ちを思い出した。多くの機能を備えた一座の車には、船や潜水艦ぽい魅力もあるけど、作中に内に向いた視点があまりないため、堪能はできず。

「竹馬」時のジュード・ロウの脂ぎった笑顔だけで、劇場に行ったかいはあった。彼とジョニー・デップ、コリン・ファレル、皆がヒースに似せた演技をしてるのも面白い(裏を返せば?当のヒースは、全く彼のまま)。そういう楽しさを味わったのは、直近では「K-20」での金城武と仲村トオル以来(笑)

終盤、進退窮まったヒースが、博士をムリヤリ瞑想させて鏡の中に逃げ込もうとするシーンには笑ってしまった。ボケたじいさんの横顔の後ろで必死のヒース。そもそもあんな(憎めないけど)迷惑なじいさんのアタマに、周囲が恍惚としたり頼ったりしてるのが滑稽で面白い。だから最後は、皆がじいさんの呪縛から解放されたんだ、よかったね、という気持ちになった。娘は新たなアンクレットで過去を肯定しつつ自らの人生を歩み、父親は相棒と共に語り部として生き続けるのだ。

(10/02/07・新宿ピカデリー)


フローズン・リバー (2008/アメリカ/監督コートニー・ハント)

ニューヨーク州の最北部、カナダとの国境近く。白人女性レイ(メリッサ・レオ)は、ギャンブル好きの夫に新居の購入費用を持ち逃げされ困窮。ひょんなことから知り合ったモホーク族のライラと、移民を不法入国させる仕事に手を染めるようになる。

口にしたことはないけど、トレーラーハウスって結構憧れる。子どもの頃「窓ぎわのトットちゃん」で電車の学校を知ってからか、乗り物好きだからか、キャンピングカーと混同してるのか、映画で見る度に「泊まって」みたい…なんて思ってしまう。
でも、この映画の主人公が住むトレーラーハウスには憧れない。老朽化したそれは、彼女いわく「ブリキの家」。寒い夜にはドアの隙間を布でふさぎ、水が出なくなると、15歳の息子「パパはこうしてた」とバーナーでもって管を暖める。冒頭、主人公が車を運ぶのにロープを使うのもそうだけど(うまくいかないけど)、色んな技術を要する生活というのがあるんだなあと思う。
主人公一家、そして彼等と似たような家族は、トレーラーハウスに住みながら、もっといいトレーラーハウスを切実に求めている。展示場の明かりは、零下の闇の中で輝いている。何たって新製品は「断熱材のおかげで水道管が凍らない」のだ。
しかし「ブリキの家」に住めるならまだましで、モホーク族のライラが一人寝起きしているのは、倉庫のような物体…いちおうトレーラーハウスらしい。

映画は凍りついた川や大地の様子に、「体感温度は零下○○度」というテレビやラジオの声をダメ押しに挟みこみながら、寒々と進行する。
妙な方向に転がり出したレイの生活が、クリスマスイブの夜、さらに二転三転する。派手なサスペンスやアクションはなく、自然に感じられる展開が心地いい。なんて上手いストーリーだろうと思った。

密入国に絡む人間の他、レイの働く1ドルショップ(BGMが哀しい)の店長、夫の通うビンゴ屋の店員、トレーラーハウスショップの店員、レンタル屋の店員、皆があの寒々した土地で働いて、生きている。最後に警察官が見せる温情が、わざとらしくはない程度の救いになっていた。

ちなみに「ビンゴ屋」というと、カウリスマキ・ファンとしては「パラダイスの夕暮れ」でマッティがカティを連れて行くシーンを思い出しちゃうけど、アキの映画が現実を下敷きにしつつも「ファンタジー」であるのに対し、この映画に出てくるビンゴ屋は(多分)そのまんまだ。

臨時収入のおかげでレンタルしたテレビを取り上げられずに済んだ彼女が息子に向ける顔の、なんと晴れ晴れしてることか。お金があるってことが、こんなにも人の心を満たす。
一方ライラが最後に見せる笑顔にも心動かされる。この先、彼等がどのようなカタチで暮らして行くのか分からないけど、ああいう流動的な「家族」っていいなあと思った

(10/02/02・シネマライズ)


ラブリーボーン (2009/アメリカ-イギリス-ニュージーランド/監督ピーター・ジャクソン)

1973年12月6日、14歳のスージー・サーモンは殺された。

面白い話だと思った。殺された主人公が「霊」となり犯人逮捕のためにあれこれするのかと思っていたら、そうではなく、こちらとあちらの「中間」で家族をただ見守り、成長してあちらへ向かう話だった。
「中間」で出逢う少女の「もっと前向きにならなきゃ」というアドバイスには、死んでからもそんなことを考えるという発想を新鮮に感じた。

ただ、スージーが体験した世界を表す映像が自分の苦手な類のもので、少し辛かった。木の葉が散って鳥になったり、子どもがボールや笛(!)を手に集まってくる…といったセンスがどうにもダメ。湖面に浮かぶ恋人の顔に衝撃を受け、緑のマル(プチ地球みたいなやつ)が出てきた所で同居人が「auの宣伝だよ」と言うので、こらえきれず吹き出してしまった。
あれは「スージーが感知している世界」なわけだけど、映画の作り手は、14歳の少女のセンスを想像してああしたのか、それとも違う視点で作ったのか、どうなんだろう?恋人とのやりとりで「you are beautiful」というのが決めゼリフになってるのも、唐突な感じ。どちらも原作によるのかな?
例えば昨年公開の「パッセンジャーズ」も、こちらとあちらの「中間」を描いた話だったけど、映画として面白いかどうかは別として、ああいう手法のほうが好きだ。それじゃあピーター・ジャクソンが作る意味ないけど…
唯一、クライマックスで窓越しにスージーが迫ってくるシーンにはぐっときた。なぜだろう?

スージー役のシアーシャ・ローナンもよかったけど(またドールハウスとの共演…笑)、犯人探しに執念を燃やす父親を演じたマーク・ウォルバーグが最高。ファンの贔屓目もあるけど、登場時はマイク・マイヤーズかと思ったけど(笑)ボトルシップを作る顔に見惚れ、その後の姿は全てしびれた。当時の靴やスーツも似合ってた。眠る息子にキスしたその手でバットを取り出すシーンがいい。
派手なお婆ちゃんのスーザン・サランドンは一人だけコメディ担当という感じで、家族との絡みがなかったので勿体なく思った。彼女に限らず警官やスージーの同級生?など、皆がばらばらで関わり合わないのが残念。
犯人役のスタンリー・トゥッチは、下膨れ具合がいい。そろそろ次を…と、布を広げて斧やら何やらを手早く並べて巻いていくシーンが印象的。職業に関する描写はなかったけど、「罠」を設計・建設して犯罪に使用する、というのも面白い。

自分の性的な「価値」(そのレベルではなく、そういうものがあるということ)を体で実感したら最後、どれだけ幸せの要素があっても、不幸がゼロの状態にはなれないと私は思っている。しかしその不幸を消化することはできる。そのことは自分に何の影響も及ぼさないのだという、ある真実に気付けばいいのだ。そして、それらの過程は、不幸を感じる肉体あってこそ成し得るものなのだ。
ナンセンスな物言いだけど(←「死後の世界」を前提としてるから)、スージーが天上からいくら家族の、人々の営みを見ても、そうした類の変化、成長をすることはない。そんなことを考えながら観ていた。

(10/01/31・新宿ピカデリー)


ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女 (2009/スウェーデン/監督ニールス・アルデン・オプレヴ)

原作小説は未読。盛り沢山な内容を楽しんだ。
扱われるのが「過去の事件」というのがいい(例えばクリスティでも「五匹の子豚」が一番好き)。ただし「推理もの」という感じではないし、「橋が不通になった孤島」という当時のシチュエーションもあまり活かされない。でも、解明のプロセスがとても映画映えするもので、小説ではどう書かれてたんだろう?と思った。

物語は事件解決ばかりに重きを置いているわけではない。
舞台はスウェーデン。雑誌「ミレニアム」の編集長ミカエルと、「ドラゴン・タトゥー」を背負ったリスベット(ノオミ・ラパス)の状況が、しばらく別々に描かれる。ミカエルは財閥会長に依頼され、40年前に起きた少女の失踪事件を調べるため孤島を訪れる。一方リスベットのパートでは、保護観察中の彼女が辛苦をなめさせられている様が示される。
ハッキングにより事件のことを知ったリスベットがとあるヒントを送信し、二人は顔を合わせる。彼等が協力し始めると、ミカエルが来た頃には一面雪だった島に春が訪れる。のんきな音楽と共に、ほんの束の間、あたたかい雰囲気が流れる。

原題は「女を憎む男」。リスベットのおそらく過去、現在、そして二人が追う事件、全てがそれによる暴力に侵されている。その描写は自然で観易い…というのも変だけど、誠実な撮り方に感じられた。
レイプされた後、がたがたの足取りで帰路に着き、タバコに火を付けるリスベットの姿がいい。彼女の「抵抗」…その場で自分を守るため、あるいは計画して…の仕方もとても自然だ。やれることをやれるだけやる。そもそも「女を憎む男」が人格を認めない相手に性欲を抱くこと(それが広義の暴力につながる場合)が問題なのだから、あの「仕返し」は、薬を使うなどしてリスベット自身も快楽を得るべきだと思ったけど、相手があれじゃあ難しいか(笑)
彼女の足元が結構もたもたしているのがリアルだし、体つきも個性的で楽しい。リスベットの他の女性達も、皆普通っぽくていい。

ラストシーンのリスベットの格好には笑ってしまった。原作もそうなのかな?ああいう土地に行くと、ああいう格好をしたくなるってことなのかな?

スウェーデンの寒々とした風景(島はもちろん、都会の駅の様子など)も見どころだし、列車が何度も出てくるのも楽しい。首都から遠く離れた土地が舞台なので、移動の際に使われるのはもちろん、ミカエルの運転する車と併走するシーンも、わざとらしいけど(笑)良かった。
字幕において、セリフ内の価格に、日本円にしていくらという注釈が付いてたのもありがたい。ああいうの初めてかも。

(10/01/27・シネ・リーブル池袋)


サロゲート (2009/アメリカ/監督ジョナサン・モストウ)

代理ロボット「サロゲート」が普及した社会。人間は自宅にこもり遠隔操作を行うことで、生身の肉体を安全に保つことができた。しかしあるとき、襲われたサロゲートの持ち主が死亡するという不可解な事件が発生。FBI捜査官のトム(ブルース・ウィリス)が、その裏に潜む陰謀に迫る。

ブルース・ウィリスのサロゲートは、「ブルース・ウィリス」を「美しく」した容姿である。作中の「あなたのサロゲート、あなたにそっくりなのね」というセリフから、この世界では、自身に似たサロゲートを持つことはさほど「変」ではないが「常識」でもないことが分かる。ブルースのサロゲートを彼自身が演じることには諸事情あるんだろうけど、物語において、彼が彼のルックスを備えたサロゲートを持っていることには、それとは違う理由を想像する。
私だってあの世の中に居たら、「皆がそうしてるから…」と適度に美しいサロゲートを持つかもしれない。でも顔は自分のそのまま…あるいはそれを元に改造したものがいい。美や善は不確実だけど、自分に属するものだけは「真理」に思え、よすがにしてしまう。とはいえ身体の方は、もうちょっと脚が長かったり視力がよかったりするほうがいいんだから、顔にだけアイデンティティを感じるなんて不思議なことだ。話がだいぶそれた。

サロゲートが充電器におさまったり出てきたり、持ち主がトイレに行ってる間は止まっていたり…という光景を面白く観たけど、それ以外の社会の様子が今とそう変わり無いので、観ている間中「?」の連続で、劇場を出てから、ストーリーと関係ないことばかり一時間ほど喋り倒してしまった(笑)そもそも代理ロボットなら「普通の人間」の形をしている必要もないのでは?と思うし(「そこは秩序ってものがあるんだよ」と言われた)、「不必要」になった美容産業や、あるいは外食産業はどうなるのか?サロゲートが体験したことは、どの程度・どのようにフィードバックされるのか?深く考えないのが吉だ。
「アバター」は個人的な体験・感覚を描いていたけど、この作品では、サロゲートが単なる社会の様子として処理されているので、ブルース個人の思いはあまり伝わってこない。妻に対する「本当の君が欲しい」というセリフも、ストーリーには沿ってるんだけど、宙に浮いてるようだった。

前半、ブルースのサロゲートが人間と対決するシーンは、面白くもあり違和感も覚えた。ブルースがロボットの側だなんて…と思っていると、クライマックスの前哨戦では、ロボットの世界で、唯一生身のブルースがロボットと戦う。「ダイ・ハード」に慣れた身には、飛行機やヘリも落とさない、地味な一戦に物足りなさも覚えてしまうけど(笑)
ブルースの奥さんが「美容院」で働いているというのは、もっと面白くなりそうなのに、意外とそうでもなかった。

結局ブルースは、愛する人を引っ張り出すため、指先一つで世界を変えてしまう。帰宅した彼が、妻の部屋のドアを思い切り蹴破るのが印象的だ。

(10/01/24・新宿ピカデリー)


卒業 (1967/アメリカ/監督マイク・ニコルズ)

「(500)日のサマー」をもう一度観る前にと、作中出てくる「卒業」を借りてきた。前に観たのは昔のことで、ほとんど内容を覚えておらず、初めても同然。

「僕は今、何もしてない、旅人なんだ」

1969年。「将来有望」な青年ベンが、大学を出て「何もしていない」間の物語である。
前半のひりひりした感じ。彼に人生設計を強いる周囲(エレーンも最初のデートで「大学院には行くの?」と将来について尋ねる)は無神経にも思えるが、彼自身も、例えばロビンソン夫人がタバコを捨てたゴミ箱を、本人の前でいつまでもいじっているような、そんなところがある。誰もがちょっとずつ身勝手。そんなものだ。

家庭周辺ではうっとおしいほど構われる彼だが、自分の望む所…逢い引き場所のホテルなど…ではまるで相手にされない。まだ「大人」じゃないから。それがロビンソン夫人と関係を持った途端、うるさいほど構われるようになる。ここのところが悪趣味なほどコメディタッチで描かれるのには、妙な感じを受けた。

ナンセンスな想像だけど、ロビンソン夫人との関係なくして、彼はエレーンを好きになっただろうか?作中ではエレーンの方にも「医学部の彼」(ホフマンとは対照的なルックスの金髪・高身長/友達によると「女たらし」)が用意されている。この映画は、脚本や画面、こうした設定一つ一つから、とても理詰めな感じを受ける。
ベンにストリップショーに連れて行かれたエレーンは「私が嫌いなんでしょ」と涙を流し、飛び出して行く。ベンが追いかけ謝ると「だって泣けちゃうわよ」というようなことを言う。夜の町角で、お坊ちゃんとお嬢ちゃんが本心をさらけ出し、打ち解けあう。ぴかぴかのアルファロメオの中で、ハンバーガーとポテトを頬張り、「若者同士」のざっくばらんな会話をする。
関係ないけど、いわゆる「男」は、こうした嫌がらせにストリップショー(の類のもの)を使えるけど、女にはそれに相当するものがないから、羨ましいなあと思った。嫌がらせしたいと思う時ってないけど、選択肢として。

ベンは、エレーンを愛するようになってからも、ロビンソン夫人との関係を後悔しない。エレーンにくどくど謝ったりしないし、自責の念にかられている様子もない。そういう態度…このことに対する態度に限らず、そうした「前向き」な態度が、世の中で彼を孤立させる。

ベンの喜劇的造形、ダスティン・ホフマンのはまりっぷりも見事。ホテルの部屋で「…やっぱり他のことをしませんか」のセリフには吹き出してしまった。それから腕組み(この仕草がリアル!)→初めてなんかじゃない!→暗転→プールでサングラスかけて寝転がる、の一連のシーンは笑いっぱなし。
暗闇の中で彼を待つロビンソン氏に驚く場面も秀逸。じつは私もこの時まで彼の存在を忘れており、自分も子どもだなあと実感した(笑)

性行為だけのデートに業を煮やしたベンが、ロビンソン夫人に「何かお喋りしよう」と言うシーンも印象的。頑なに会話を拒む彼女から、夫との馴れ初めを聞き出して面白がる様子はいかにも子どもっぽい。でも、へんな言い方だけど、「夫婦」「恋人」というくくりのない関係だからこそ、ベッドで屈託なく喋れるということもある。

同居人は、昔観た時から「この二人、これからどうするんだと思ってた」そう。ラストの神妙な顔がなくたって、状況を想像したら、そう考えるかもしれない。私の場合はどういう物語でも、作中のカップルが別れる可能性があると思ってる。別れるのは不幸ってわけじゃない。

(10/01/21)


ヴィクトリア女王 世紀の愛 (2009/イギリス-アメリカ/監督ジャン=マルク・ヴァレ)

「世紀の愛」なんて、どんな仰々しい内容だろうと思っていたら、原題「Young Victoria」そのまま…「ヤング・ヴィクトリア(&ヤング・アルバート)」の青春映画(この場合の「ヤング」は「ヤング・シャーロック」のそれのようなもの)。楽しかった。
「愛」方面の描写がメインなのは確かで、政治については、若い二人が執政机を向かい合わせにしてはしゃぐ所で終わっており、最後に字幕で「二人は多くの偉業を成した」と付け加えられる。

「世の中には幸せに生まれつく人間がいる…例えば私」(「もっとも子どもの頃そうではなかったけれど」)という冒頭のナレーションで、ハッピーな物語であることが分かり、すがすがしい気持ちで観始めることができる。

英国王室ものといっても、ケイト・ブランシェットの「エリザベス」シリーズなどとは全く違っており、ごくごく普通の娘さん・ヴィクトリア(質実剛健なルックスがぴったりなエミリー・ブラント)と、「女王」のベッドにもぐりこめ!と送り込まれたアルバート(可愛らしさ炸裂のルパート・フレンド)とが、互いに一目惚れ…という展開は、学園ドラマ、あるいは古きよき少女漫画の趣。「成り上がり」でお茶目なベルギー国王の叔父、粋なアドバイザーの叔母、口下手で武器用な母、まん丸目のスパニエル犬、アルバートの「恋」を応援する兄など、登場人物も揃っている。

わんこ系のルパート・フレンドが、遠距離恋愛に胸を焦がし、郵便の届く音に階段を駆け下りてきたり、ささやかな「ハネムーン」にはしゃいでコケたりする様がとてもキュート。満を持しての登場で、二頭の犬と共に現れる場面にはしびれてしまった…たんに美しいその様子に、彼なりの思いの表し方に、さらにはその犬の選択に(ベルギーの有名な犬なのかな?)。ヴィクトリアもそうだった様子。
政略渦巻く中に居るヴィクトリアに宛て、アルバートは「君とシューベルトの『白鳥の歌』を弾きたい」と「自分の夢」を綴り、窮地に陥った彼女を「愚か者じゃない、愚かな者の言うことを聞いてしまっただけ」の思いで陰から支える。作中の二人の関係はとても「個人的」だ。
終盤、愛する人と国のためにと頑張る彼に対し、ヴィクトリアが怒って「私を差し置いて…女としか思ってないんでしょ」「出ていくことは許さない、女王命令です」などと言うので、どうなるんだろうと思ったら、翌朝?アルバートが彼女をかばって撃たれ、ケンカの後のセックスのようにあっさり仲直りするのには、拍子抜けしてしまった。

野心を抱く「政治家」(作中では「君主制を嫌う」存在)メルバーン卿を演じるのは、ポール・ベタニー。少女漫画的に言うなら「第二の男」であるべき彼が、色気もわびさびもなく、ヴィクトリアにとっても観客(私)にとっても、単なるおっさんで終わってたのは残念。議会で責められるシーンは、普段見せないシーンを垣間見るようで、ちょっと良かったけど。

「悪者」が犬を蹴るシーンで本当に蹴らないのは、愛護団体から文句が来るからなのかな?

(10/01/17・bunkamuraル・シネマ)


フォロー・ミー (1972/アメリカ/監督キャロル・リード)

「彼のもとに帰りたいんじゃない、前に進みたい、一緒に成長したいの」

「この世で最も重い罪は…喜びを喜びと認めないこと」
「彼女はあなたを愛してる、ぼくに喜びを与えてくれたのは、あなたが受け取ろうとしないからだ」


1972年、キャロル・リード監督作品。
ロンドンに住む公認会計士のチャールズ(マイケル・ジェイストン)は、愛し合い結婚したベリンダ(ミア・ファロー)の態度に気を揉み、素行調査を依頼。日がな町をさまよう彼女を、探偵クリストフォル(トポル)が尾行する。
エリートとヒッピーの夫婦というので、はじめドラマ「ダーマ&グレッグ」を思い出した。時代と捉え方が違うだけで、通じるテーマもあるかもしれない。

まずは夫と探偵のやりとりから夫婦のこれまでが、次に夫と妻のやりとりから妻と探偵の過ごした時間が明かされるという前半部分のかっちりした構成が、いかにも70年代らしく感じられた。

「彼女は暮らしを変えたいと望み、ぼくの教育に生き生きと応えた。ぼくには、一緒に行動する相手、ものを教える相手ができたんだ」
「彼女の方は、あなたに何か教えたんですか?」
「ああ、新しいダンスとか…」


以前、ベリンダは、チャールズが目にしたことのないであろうダンスを踊ってみせた。手招きに、チャールズも少し真似てみるが、結局は自分の得意な格好に持ち込み、二人は作中初めてのキスをする。何となく、ねじふせられたような感じを受ける。

「支配じゃなく、愛することはできないんですか?」

世界を放浪してきたベリンダに対し、チャールズは上流階級のお坊ちゃま。母親は(父親は出てこない)、飛び出して行った妻を案じる彼に「家出なんて皆してるわよ、残念ながら全員戻ってくるけどね」と言う。結婚なんてそんなものだと。それじゃあまるで、海水で満杯になった船から、桶で水を汲み出し汲み出し、死んでゆくようなものだ。誠実な生き方と言えるだろうか?
この作品が作られた1972年といえば、うちの両親が結婚した頃。当時の日本、もしくは「世界」の恋愛って、どういうふうだったんだろう?「毎日新しい喜びが欲しい」というベリンダの感覚は、今の私にはきわめて「普通」に思えるけど、当時はどう捉えられたのかな?何かに対するアンチテーゼみたいな意義もあったんだろうか?

白づくめの探偵クリストフォルは、始めキューピットのように思えるけど、やはり人間だった。三人のやりとりを聞いているうち、気が合うから、心安らぐから愛するわけじゃない、気が合わないから愛さないわけじゃない、そういう「気持ち」の不思議さ、切なさ、面白さを感じた。

この映画は、かなり露骨な「食べもの映画」でもある。まずはクリストフォルがしじゅう頬張ってる、マカロンのでかさに驚かされる(笑)
ある夜、レストランを探してさまようチャールズは、店の窓越しにウエイトレスのベリンダと出会う。しかし彼女のミスにより、(作中では)夕食を食べることができない。次のデートでは、自分好みのレストランで、彼女のために胸踊らせながら選んだであろう、「インドで流行ったアクセサリー」をプレゼントする。
それ以降…結婚という「契約」をした後の彼は、食事をしない。一方ベリンダとクリストフォルは、一人の時も二人の時も、主に甘いものを食べ散らかす。しかしラスト、共に旅する相手を見つけた二人に対し、一人になったクリストフォルは、苦いものを口にし顔をゆがませ、未来に期待する。チャールズのほうは、笑顔とともにポケットのマカロンを頬張る。

私も「フォロー・ミー」ごっこをしたら面白いかなあ?と思うけど、せいぜい半日でいいし、どっちの役でもいい(ベリンダとクリストフォルは役を交換して楽しむ)。そう思うってことは、今のところ恵まれてるってことなのかな。

(10/01/14)


ずっとあなたを愛してる (2008/フランス/監督フィリップ・クローデル)

フィリップ・クローデル脚本・監督作品。殺人犯として15年の刑期を終え、妹の家に身を寄せたジュリエット(クリスティン・スコット・トーマス)が「自分の居場所」を見つけるまでを描く。

「作家に殺人者の気持ちの何が分かるの!」
「小説を神聖化するのはやめて、陳腐な発想をうむだけよ」


中盤、文学科の教授である妹のレアが、学生相手に声を荒げる。
この映画には、淡々とした描写の中、悪目立ちすれすれなほど激情的な部分が幾つかあり、このシーンもその一つだ。実在する映画や本への言及は他にもあり(「エリック・ロメールを認めない奴は認めない」インテリオヤジの嫌さがリアル・笑)、それらは作品の「彩り」だけど、これはそうじゃない。小説家であるクローデルの手による映画にこうしたセリフが出てくるなんて、少し戸惑ったけど、観終わって、誠実さゆえにあふれ出てしまったものと受け止めた。

最後のセリフが作品のテーマをそのまま表しているように、物語は緻密ながらもストレートに、分かりやすく語られる。作中「起こること」自体は、幾多のドラマや映画で見慣れたものだ。でも脚本…加えて特に演技によって、こんなに観易く心温まる作品になるんだなあと思った。

舞台はフランス・ロレーヌ地方の小さな町、ナンシー。美しいプールや美術館、人の集うカフェや動物園、映画館の様子などがまずは見どころだ。
教員同士の夫婦であるレアの家もとても素敵。とりわけ本好きにはたまらないだろう。おじいちゃんがこもっている書斎、二階の廊下に長々と設えられた本棚、幾つもある出窓に立て掛けられた本の数々。玄関ホールのシャンデリア、各々のベッドのサイドテーブルの照明。フリルのついたスカートを次々と披露する長女プチ・リスの部屋には、大きなドールハウス…「つぐない」に出てきたものの、ファストおもちゃ版とでもいうようなやつ。彼女の「人形のお墓」には笑った。
始めはクリスティンの心を表すように、町も家もどこかよそよそしく感じられたのが、次第に沁み入ってくる。

ジュリエットには、地元の警察を定期的に訪れる義務がある。初訪問のシーンで、担当官フィレ(フレデリック・ピエロ)の口元が執拗に映される。しばらく触れていなかった「男」…自分にとってある意味を持つもの…を久々に目の当たりにした感覚がストレートに伝わってくる。ただのおじさんなのに、ああ、私なら「一緒にお茶でも飲みませんか?」と言っちゃうかも、なんて思う。
次の訪問時には、コーヒーの支度をする彼の手がアップになる。ジュリエットは眺めながら髪をいじる。
陳腐な言い方だけど、自分の過去を知っている相手と居るのは楽だ。フィレは「刑務所では皆、テレビを観るもんだと思ってた」と口にする。まるで少年が「女の子は甘いものが好きだと思ってた」と言うように。その後ジュリエットは、気を遣って話す妹に対し「『向こう』なんて言わないで、私は『刑務所』にいたの!」と叫ぶ。
彼は「フォンテーヌ」(泉=湧き出す所/ジュリエットの苗字)の分からない、あるものに取り憑かれ、根を張り生き延びるジュリエットの身代わりのように、命を断つ。

登場時のジュリエットは、化粧もせず不格好な服を身に着け、職場と家庭を日々泳いでいる妹とは対照的なルックスだ。周囲に溶け込むうち、髪や肌を整え、社会にそぐう格好をするようになるが、私としては、生えたままの木のような最初の姿にも、なんともいえない魅力を感じた。
また、彼女が社会に馴染んでくるに及び、群衆の中にまぎれるシーンが出てくるのも印象的。

フランス映画なんだから当たり前かもしれないけど、フランス語を耳で味わう心地良さもあった。プチ・リスにおやすみ前の本を読んでやるクリスティンの声(私もお願いしたい!)、電話の横でリスが本を音読するつぶやき声。エンドクレジットにかぶるシャンソン。
フランス語といえば、分からず残念だったのが、ジュリエットとレアがピアノを弾くシーンで、声の出ないおじいちゃんの頭に貼りついてたメモ。何て書いてあったんだろう?

(10/01/10・銀座テアトルシネマ)


(500)日のサマー (2009/アメリカ/監督マーク・ウェブ)

観終わって、同居人が「○○(私)みたいな人が、外国にもいるんだ〜」と笑う。

「boy meets girl」…だけど、恋愛ものじゃなく、恋愛についての物語。
「運命の恋を信じる」トム(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)は、入社してきたサマー(ズーイー・デシャネル)に一目惚れ。何となくつきあい始める二人だが、関係の認識具合のズレが、トムを悩ませる。

予告編に何度も遭遇しながら、映画を観るまで思い出さなかったことがある。高校一年の時、現国の授業で、各々がテーマを決めて皆の前で発表するという課題があり、私は「運命なんていうものはない」ということを主張した(今考えると恥ずかしい)。そうしたら、私の好きだった男の子は、意見を書く藁半紙に、大きな字で「僕は、運命はあると思います」と返してきた。もう20年ほど前の話。

同居人が「似ている」と言ったのは、考え方の種類のこと。私はアイスクリーム屋の売上を2倍には出来ないし、あんなに素敵な「砦」は作らないし、つきあった男性の数は10倍くらいだから、キュートな映画の題材にはならない。でも、トムの視点で描かれるこの映画を、最初から最後までサマーに共感して観ていた。真面目に生きているのに時には非難までされる辛さが伝わってきて、胸が痛くなった(これは、四半世紀前に岩館真理子の「おいしい関係」の主人公に覚えた感覚と似ている)。
私は、面倒だから自分の考えは表に出さない。でもサマーは、つきあってもいない相手にさえ、きちんと表明する。そしてトムからも、その(酔った)友達からも「君の言うことは理解できない」と言われる。すると「じゃあ説明するわね」と返すのだ。そんなことしなくたっていいのに!もっとその場を楽しく過ごせばいいのに。彼女の気真面目さに切なくなる。
サマーが、あるいは私のような人が「自分の考え」を持っているのは、当然ながら、恋愛についてだけではない。だけど世の中、最も「普通」の一言で決めつけられてしまうことが多いのが恋愛に関する諸々だから、その領域で苦労するのだ。

観る楽しみを奪ってしまうから詳しくは書けないけど、終盤…二人の400何日めかに、サマーはトムの「好きな場所」で、自分に起こったあることを明かす。このシーンで拍子抜けしてしまう人もいるだろう。でも、その時、その時を真面目に生きて、考え方が変わることってあるのだ。誰だって。人は変化し得る。ああ、そういう話だったんだと思い、気持ちが楽になった。

サマーに感情移入しながら観たとはいえ、パーティの「理想」と「現実」のシーン(この映画の画面分割はどれも素晴らしい!)には、トムの気持ちを思って涙がこぼれそうになった。予告編で印象的だった、街の風景は、あんなシーンだったなんて。どんな人のどんな思いであれ、そりゃあかなってほしいもの。

予告編や冒頭に出てくる「シド&ナンシー」のくだりや、バーで絡んできた男と殴り合いになった後の会話など、周囲では笑いも起きてたけど、どちらも悪くないすれ違いに哀しくなった。バーから戻った後、サマーが怒った理由を、トムはどう捉えただろう?「守りたい」と思われることへの嫌悪感は、「男」には分からないだろう(とはいえ、本当に困った時には助けてくれないと怒ってしまうだろう所が、人間というか女というか私の厄介な点だ・笑)
それから、退社しようとするサマーに向けてスミスの曲のボリュームをあげるシーン、キモ!と思ってしまった(笑)ごめんねジョー…

同居人いわく「男女逆のキャラクターだったら、非難轟々だろうな…」。確かにそうかもしれない。男女逆でも受け入れられるような世の中になってほしいものだ。もちろんその時は、「世の女の子の全てが経験する」特別な効果をもたらす男の子と、美人じゃないけどチャーミングな女の子が出てくる映画として。

ジョセフ・ゴードン=レヴィットの顔と、身軽な動きは素晴らしい。結婚式の帰りの列車内、眠るサマーの隣で浮かべる表情がとても良かった。
主人公二人の魅力、建物や衣装、音楽、イケアでのデート(私も大好き!)など、こまかいことを書き出したらキリがないので、それらは公開されてからまた…

「浮気されたの?」
「…いや」
「じゃあ、彼女に利用されたの?」
「…そうじゃない」


(ああ、それでも納得できない気持ちって、きっとあるんだろうな)

(09/12/22・日本教育会館試写会)


牛の鈴音 (2008/韓国/監督イ・チョンニョル)

「こういう人間がいる」「こういう生活がある」という、ドキュメンタリーを観る楽しさをシンプルに味わえる作品。ただドラマチックな演出の多さに、少し違和感を覚えた。

韓国の山間の農村。爺さん79歳、婆さん76歳、メス牛40歳。年寄りばかりのよぼよぼの暮らし。

オープニングは、長い階段をはいつくばるように上る老夫婦の姿。当たり前のことながら、年をとると自分もああなるんだ〜と思い知らされる。
爺さんの農作業のパートナーは、40数年生きるメス牛(通常の寿命は15年)。こびりついて取れない泥汚れ、やせこけたお尻の形状、年を重ねた生き物の身体は歴史を持つ木のようだ。後半やたらアップになる爺さんの顔(鼻毛がすごい)にもそう思わせられる。
冒頭からとにかく「老」づくしなので、。牛市場で暴れまわる若い牛たちの姿に、違う世界に迷い込んだかのような感覚を覚えた。大体年寄りに、若い動物なんて使いこなせるものだろうか?

「休むのは死んでから」という爺さんは、起きている間中動いているが、脚が悪いこともあり、仕事ははかどらない。おまけに機械も農薬も使わないとくれば、婆さんが文句を言うのは仕方ない。自分だけうちで寝てるわけにいかないもの。
「16で嫁いだ」婆さんいわく「幸せとは、体が丈夫でよく働き、農薬を使って楽させてくれる男と結婚すること」。終盤になって事態が動きだすと、彼女の顔がゆるんでくるのでほっとする。新たに飼い始めた若い牛にタイヤを引かせてトレーニングをするも、なかなか思うようにいかず、爺さんが困り果てるシーン。作中ほぼ唯一の、婆さんのはじけるような笑顔が見られ、牛には可哀そうだけど、平和な光景だなあと思った。

この映画は、とても煩い。でも田舎って、こういう側面もある。おおいばりする虫の声、呼吸のように止まない牛の鈴音、豪雨や近隣の農作機械のうなりもバリエーションを付ける。もう何年も訪ねていない、北陸で農業を営む父の実家を思い出した。

(10/01/01・バルト9)



表紙映画メモ>2010.01・02