表紙映画メモ>2009.07・08

映画メモ 2009年7・8月

(劇場・レンタル鑑賞の記録、お気に入り作品の紹介など。はてなダイアリーからの抜書です)

南極料理人 / 縞模様のパジャマの少年 / HACHI 約束の犬 / 3時10分、決断のとき / コネクテッド / サンシャイン・クリーニング / エル・カンタンテ / 湖のほとりで / ノウイング / ハリー・ポッターと謎のプリンス / 扉をたたく人 / ディア・ドクター / 愛をよむ人 / マン・オン・ワイヤー

南極料理人 (2009/日本/監督沖田修一)

観終わった直後、キリンジの「love is online」が頭を回った。違うといえば違うし、そうといえばそうだ(笑)

ペンギンはおろか、ウイルスさえいない最果ての地に建つ「南極ドームふじ基地」に料理人として赴任した西村淳のエッセイを、堺雅人主演で映画化。
フードスタイリストは「かもめ食堂」を手掛けたスタッフだそうで、予告編でも湯気のたつ美味しそうな食卓が強調されていた。でも「かもめ食堂」を観て心に残ったのが食べ物より片桐はいりのでかさだったように、今回も、美味しそう!とはあまり感じなかった。何が悪いというわけではなく、わがままなもので、「映画の食事シーンが好き」と言っても、どどーんと提供されるより、あれっ何食べてるのかな?という方がそそられるんだろう。

受けた印象は、「かもめ食堂」というより「刑務所の中」。知らない世界をのぞき見できる、しかも戦争ものや刑務所もののように「男の集団が世間と隔絶された所で暮らす」話なんだから、面白くならない方がおかしい。世の中、興味ぶかい題材がまだまだたくさんあるものだ。
また、年寄りばかりの場では死や病気がギャグになるように、あれだけの寒冷地では、寒いということがギャグになるんだなと思った。

観賞後、同行者が「(和・洋・中と)あんなに多彩な料理が食べられるなんて、日本人だからだよね」と言っていた。確かにそうだ。
日本的?といえば、傍観者タイプの語り手である主人公が、ある出来事から「主役」となるくだりや、最後の「いつもの朝ごはん」を長回しで捉えた風景など、日本のテレビドラマなどで見慣れたセンスだなあと思った。全篇楽しかったけど、ファンタジーとはいえ、抜けた歯に血がついてないのだけは許せないな…

年若い大学院生(高良健吾)は、1分735円という通話料金の電話をガールフレンドに掛けるが、結局振られてしまう。「結婚して家庭を持つ」ことが当たり前である社会が、こういう仕事を成り立たせている(それがベストというわけではなく、とりあえずそういうふうに落ち着いてる)んだなあと思わせられた。子どもや家があれば、女の側としても、少なくとも社会的には、関係を保たなければいけないもの。

堺雅人の、下だけもこもこの格好が可愛い(あれは誰がやってもそれなりに、かな・笑)。最後は水着姿?も披露。豊原功輔のありがちなオヤジぶり(ぐしゃぐちゃ頭にステテコを履き、酒を嗜む、男にも女にも共感される「オヤジ」)も嫌味がなく、いい男だな〜と思った。

(09/08/24・テアトル新宿)


縞模様のパジャマの少年 (2008/イギリス-アメリカ/監督マーク・ハーマン)

「子ども時代とは、暗い分別を持つ大人になる前に、自分の目や耳で物事を知る時である」…オープニングのテロップ。
当の子どもが、それを認識することはない。主人公が長じて昔を振り返るという体裁の話でもない。子どもを主人公とした物語にこの前置きは、どことなく突き離した印象を受ける。観る側に、冷静さやある種のあきらめを求めているようにも感じられる。

第二次世界大戦下のドイツ。8歳のブルーノは、ナチスの高官である父(デヴィッド・シューリス)の昇進により、田舎の屋敷に越してきた。退屈から「冒険」に出た彼は、フェンスの向こう側に座りこむ「縞模様のパジャマ」姿の少年・シュムールと出会う。

作中何度も、ブルーノが冒険小説ばかり好み、歴史(大人の言う「現実」)を避ける描写が繰り返される(年齢を考えたらそりゃあそうだろう)。分厚い歴史の本を勧める家庭教師は、ユダヤ人について問う彼に対し、「もし『良いユダヤ人』を見つけられたら、それこそ世界一の冒険家だ」と茶化す。そうした教育方針を危惧する母親(ティア・レオーニ)は、ブルーノが冒険小説を読んでいれば安心する。

子どもがあちらとこちらの世界を行き来する場合、その方法に興味を惹かれる。ブルーノは物置小屋の小さな窓から「冒険」に出かける。窓を目にした彼は即座にそれが「道」だと知るが、周囲の者はそうでない。姉が彼の「落とし物」に気付いて初めて、その存在を知るのだ。そして、窓を通れない大人たちは、ドアを壊して向こう側へ出る。

上記のような要素に加え、何人もの大人、子ども、大人になりかけの子どもが入り乱れている環境において、いずれの事柄もシンプルに提示され、スムーズに話が進んでいくため、おとぎ話めいた感じを受けた。新聞こそ読んでいるものの、外から情報が全く入ってこないかのような、閉じられた世界に感じられるのもその印象を助長する。当時ならば当然そうなのかな?
終盤、ブルーノがシュムールにある提案をするシーンでは、ある童話が頭をよぎった。そのようにはならなかったけど。

食事は不味そうだけど、粉もののお菓子や朝食のパン?は美味しそうだった。それがまた寂しい。

(09/08/20・角川シネマ新宿)


HACHI 約束の犬 (2008/アメリカ/監督ラッセ・ハルストレム)

ハチの可愛さにやられただけでなく、「ハチ公物語」を「ラッセ・ハルストレム」が撮る、という多少下世話な興味もあって観に行ったんだけど、観賞後、同行者に「映画終わった直後にそんなに満足そうな顔してるの、初めて見た・笑」と言われた。

アメリカの片田舎を舞台に、リチャード・ギア扮する大学教授が日本から送られてきた秋田犬を拾うという話なので、始まりはやっぱりムリがある。ギアとその妻、娘とハチが「家族」になるまでも、なんだかんだいって時間がかかる。日本の場合と違い、一緒に暮していればなあなあで家族になってしまう、ということはなく、意思の確認が必要なのだ。

お金の話題(ハチの記事が載った新聞の読者が送ってくる)が出てくる所と、周囲の皆がハチの行動を当然のように認めてる所に、偏見かもしれないけど、アメリカだな〜と思わせられた。教授の死後ハチを引き取った娘は、駅まで通うハチの姿を見て、あなたがそうしたいなら…と進んでノラにしてしまうのだ。町に犬嫌いの人がいたら、あんな大きいの怖いんじゃない?(現代が舞台なのに)無責任な…と思ってしまった(笑)
各々の自由を尊重してるとも言えるけど、「スター・トレック」(のオリジナルドラマ)を観た時にも思ったことだけど、アメリカ人って、あくまでも自分の価値観でもって、世の中を良くしようとするものだ。

でもハチが可愛かったので満足!

(09/08/12・新宿ピカデリー)


3時10分、決断のとき (2007/アメリカ/監督ジェームズ・マンゴールド)

最高に面白かった。あんなに緊張させられたのも久し振り。
夜の回は、上映3時間前で既に残り数席。観賞後、団塊の世代らしきおじさん同士が「最高だったね!」「ほんとほんと!」と興奮して語りあってる姿に楽しい気持ちになった。

エルモア・レナードの短編の映画化をリメイクした作品。
南北戦争後のアリゾナ。悪名高い強盗団のボス、ベン・ウェイド(ラッセル・クロウ)が町で捕まり、刑務所に送られることに。居合わせた牧場主のダン(クリスチャン・ベール)は、生活苦のため、ベンの手下に狙われる護送の役目を200ドルで引き受ける。

観終わって、同居人に「思ったよりすごく『西部劇』だったから、(私が)退屈してないか心配だった」と言われたけど、すごく面白かった。立派な「西部劇」でありながら、とにかく楽しく、クライマックス前まではロード&バディムービー…「クリスとラッシーの珍道中(仲間は一人ずつ死んでくよ)」という感じ(笑)現代的な要素もたくさん入ってるし、ラストシーンが汽車&山っていうのもいい。

クリスチャン大好きの私は、彼が何をしてもかっこいいと思う反面、何をしても笑えてしまう。今回も、とくに前半は踏んだり蹴ったりなので可笑しくてしょうがなかった。撃たれた爺さん(ピーター・フォンダ/頑丈)を板に乗せて引っ張っていく場面では、我慢できず噴き出してしまった。
「善意の人」というより、自分の信念と心中するような男。でもって最後に言うことが「俺は頑固者じゃないんだ」というのが泣ける。人なつこいラッセルに妻や息子を誘惑され、慌てて割って入る姿も可愛い。

上記のラッセルの話に心そそられる息子の描写が「唾をごくりと飲み込む」であるように、あらゆるシーンがベタで分かりやすい。「3時10分のユマ行きに乗せるんだ」「黙ってろよ」というやりとりにはびっくりしてしまった(伏線ではなかったけど)。クリスチャンが妻に向かって、自分自身を惨めに感じていることを告白したり、ラッセルがクリスチャンに対して「気に入ったぜ」と口にしたり、皆が心の内を言葉にする。だけどタイトだから嫌にはならない。
王道ぽいアクションの数々も加えて、原作を読んだことはないけど、エルモア・レナード作品のこういう映画化もあるんだ、と思った。

移民によるトンネル掘りのシーンで、同居人が「ナイト・ミュージアム(1のほう)だ」と耳打ちされ、ちょっと可笑しかった。オーウェンがあそこにいたら、がんがん爆破を命じてる役だ(笑)
そういやルーク・ウィルソンが出てきたのでびっくりした。ちょっと面白い役。

「お前の牛なんて一頭10ドルにもならんぜ、ほら弁償だ(お金をよこす)」
 (中略)
「もう5ドル追加しろ」
「何だ?」
「俺を緊張させた分だ」


それにしても、西部劇には詳しくないけど、観るたびに、あんな所に生まれなくてよかったと思う。銃は嫌いだし女には娯楽もない。ほんとはどんな生活だったのか分からないけど(笑)

(09/08/08・新宿ピカデリー)


コネクテッド (2008/香港-中国/監督べニー・チャン)

監禁された女の電話をたまたま受けた男が頑張るという「セルラー」の香港リメイク版で、監督は「WHO AM I?」などのべニー・チャン。すごく面白かった。
あらすじはオリジナルとほぼ同じだけど、助ける側の男が可愛コちゃん系(クリス・エヴァンス)からくたびれたパパ(ルイス・クー)に、警官は覇気のなかったおじさん(ウィリアム・H・メイシー)から坊主頭の肉体派(ニック・チョン)に変わっている。

最初の数分は湿っぽい感じで好みじゃなかったけど(娘がキャイーンの天野くんに似てるな〜と思ってた)、グレイスが拉致される場面がシンプルでとても良く、惹きつけられた。オリジナルも話が早かったけど、このリメイク版も、悪者が一切もたもたしないのがいい。主要人物以外は、顔も分からないうちにどんどん殺される。
その後、技師の彼女は壊された電話を手早く直し…ここでどーんと出てくるタイトルが楽しい。もし私が作品の作り手なら、ちょっと恥ずかしいかも…と思うようなやつなんだけど、かっこいい。ちなみにエンドクレジットはオリジナル同様、携帯電話の画面にクレジットが出るというもの。これも泥臭くて好きだ。

町→山→空港と変わっていく舞台も効果的で、とくに前半の町中でのカーチェイスは、最近観た映画の中で一番楽しく、笑いっぱなしだった。「普通のおじさんが興奮してキレた」感じがよく出てる。少々古臭いコメディタッチの演出や、呼び方が分からないけど、ジャッキー映画でお馴染みの「繰り返し」をちょっとだけ振る舞ってくれるあたり、(あまり知らないけど)ふるきよき香港映画の面白さだ。
物語は主役アボン(ルイス・クー)の親子関係、警官2004(ニック・チョン)の仕事上での立場などをからめて進む。最後に登場人物全員が空港に会することになるのはどきどきさせられた。

ルイス・クーは、昔懐かしいマイケル富岡って感じの少々くたびれた美形。走る姿も元々ああなのか、演技なのか、役に合っている。
警官を演じるニック・チョンが、コインロッカー「で」あっさり悪者をやっつけるシーンには惚れぼれした。体の使える役者さんが出てると映画が面白くなる。休日のおじさんルック(もっさりしたカーディガン)もいい。「先輩って呼べ」というセリフが、アジアっぽいなあと笑ってしまった。
一方の悪者たちは、登場からしばらくサングラスを外さない。あるシーンで、親玉を演じるリウ・イエが初めて見せる素顔が印象的だ。後半はずっと顔さらしっぱなしなんだけど、くりくりした目と長いまつげがどこか異常な感じがして、はまっていた。

(09/08/04・新宿武蔵野館)


サンシャイン・クリーニング (2008/アメリカ/監督クリスティン・ジェフス)

登場人物の言動があまりに自然で(自然に見えて)、良かったなあとは思うものの、感想を述べようとすると言葉が出てこない。

姉のローズ(エイミー・アダムス)は、ハウスクリーニングの仕事をしながら息子を育てるシングルマザー。妹のノラ(エミリー・ブラント)は「学歴も仕事もなく」、商売下手の父親(アラン・アーキン)と同居。そんな二人が、ひょんなことから「事件現場」の清掃業を始めることになる。

同行者が観賞後「エイミー・アダムスって幸が薄い感じがする」と言ってたし、作中にも「私はデートや結婚の相手にはなれない」というセリフがあるけど(こういう言い方っていまいちピンとこないけど、それはそれとして)、私にはどの映画においても、よい意味で極めて「普通」っぽく見える。適当っぽい下着も、いかにもという感じ。ただしかつてのチア仲間の群れに入った際には、びっくりするほど輝いてたけど(他の皆のわざとらしいしょぼさは笑えるほど・笑/このシーンは、昨年の「やわらかい手」で、マリアンヌ・フェイスフルが隣の奥様方に自分の仕事を説明する場面を思い出させた)
それにしても、アメリカって、もしくはアメリカのああいう所って、ガチガチでめんどくさいものだ。だからこそ、言いたいことは言わなければやってられないのかもしれない。

とにかく素朴で繊細な映画。いいことが続いたり、悪いことが起こったり。だからこそ、息子の誕生日を祝った夜にママに遭遇するという「偶然」も、こういうことってあるかも、と思わせられる。そしてその後は、「天国に向かって」話しかける声への返答はなく、王子様が救いに来るわけでもなく、物語は終わりを迎える。

姉妹がお手洗いで仲直りするシーンがいい。少しずつ感情をぶつけ合いながら、呆れちゃったり心安らいじゃったり、「まだ怒ってるのよ」なんて言ってみたり。一人っ子の私は単純に、兄弟姉妹がいるっていいなあと思ってしまった。

スティーヴ・ザーンが出てると知らなかったので、意外?な役柄を楽しんだ。ローズと彼の「掃除しかできない女だと思ってるの…?」の会話のテンポや、別れ際に車に乗り込む後ろ姿の映し方など、きめ細やかで心動かされた。
また、清掃用具店のオーナー・ウィンストン(クリフトン・コリンズ・Jr)の、片腕のたくましさには惚れぼれ…体に特徴のある男のセクシーさがよく出ていた。女扱いせず優しいという、嬉しく都合のいいキャラクターだ。
彼のお店をローズが再訪するシーンでは、涙がこぼれてしまった。誰かのちょっとしたあたたかさを感じる瞬間って、いいものだ。

人生には、正解もゴールもパラダイスもない。ただ、そう思う者にとっては、誰かが同じように思っていることがなぐさめとなる。そういうことを感じた。

(09/08/01・TOHOシネマズシャンテ)


エル・カンタンテ (2006/アメリカ/監督レオン・イチャソ)

「キング・オブ・サルサ」と呼ばれたエクトル・ラボーの生涯を、ジェニファー・ロペスとマーク・アンソニーで映画化。

つまらない作文みたいな映画だった。こういうことがあって、こういうことがあって、こういうことがあって…「彼はいつも冗談ばかり」と説明だけされ、冗談を言う場面はなしに終わる。映画を観る限り、主役の二人とも、何の魅力もない人物にしか感じられなかった。

映画はエクトルの妻であったプチ(ジェニファー・ロペス)が晩年に彼の思い出を語るという構成になってるんだけど、モノクロのその「インタビュー」映像が、彼女が「女優」すぎるため、観ていて恥ずかしいほど浮いている。ブラウスにスカーフという服装は、ちょっとキツイ感じを出そうとしてるのかな?と思ったけど、メイクも仕草も「女優」なので、意味をなさない。ふと、晩年「サンセット大通り」や「何がジェーンに起こったか?」のような映画に出る彼女を想像してしまった。
何度か織り込まれるライブシーンにおいても、彼女の容姿が完璧すぎて、迫力を削いでいるように感じた。
60年代から80年代に渡るファッションを見るのは楽しい。ドレスもすてきだったけど、赤いダウンにミニスカート、黒いブーツというのが気に入った。

プチがエクトルに「お前が女と寝てるところを見たい」と言われ、「あなたが彼と寝れば私もしてあげるわ」と言うシーンの後に、すかさず現在のインタビューシーンで「私たちには普通のことだったの」とフォローが入る、つまらなさ。

知り合ったばかりのプチを、姉と暮らす家に呼んだエクトルが、一触即発状態になった二人に「これから一緒に暮らすんだから、仲良くしないと」などと言うシーンで、そんなのイヤなこった!と思ったら、プチが本音をぶちかますシーンが良かった(笑)

「一晩にそんなに約束できないよ、もししたとしたら、うそだ」

「遅刻なんて、他の人が早すぎるのよ」


(09/07/29・シネスイッチ銀座)


湖のほとりで (2007/イタリア/監督アンドレア・モライヨーリ)

何度か遭遇した予告編から「ツインピークス」やバーナビー警部シリーズを連想してたけど、全然違ってた。つつましく、シンプル。生と死、愛情、家族。

北イタリアの小さな村の湖のほとりで、17歳のアンナの死体が見つかった。村に着任したばかりの刑事サンツィオは、捜査を進める中、村人たちの様々な事情を知ることになる。

小旅行に出掛けると、行った先の土地に人々が(当然ながら)暮らしていることが、不意に胸を打つことがある。この映画の冒頭の雰囲気に、そういう気持ちを思い出した。
アンナの寝顔や死姿、認知症であるサンツィオの妻の様子などこざっぱりと綺麗で、決してリアルというのではない。映像も音楽も、美しく制御されている。

刑事サンツィオの登場に、先月読んだ「ミステリーの人間学」を思い出した。いわく「探偵小説は、他人を追い詰めつつ自らは無傷であることを可能たらしめる、文学上の装置である」。しかしサンツィオも事情を抱えている。だからこの作品は、人々の隠していることを暴いたり、謎を解いたりする面白さを味わうものではない。

「姉は私とは正反対だったわ」
「では不美人だった?」


アンナの妹とサンツィオとの会話。彼のキャラクターからして、茶化したとも、妙な誉め方をしたとも思えず、何だかよく分からなかった。

(09/07/23・銀座テアトルシネマ)


ノウイング (2009/アメリカ/監督アレックス・プロヤス)

大学教授のジョン(ニコラス・ケイジ)は、息子ケイレブが持ち帰った50年前の手紙に記されれた数字が、その後の惨事を予言していることに気付き、未来の悲劇を防ごうと奔走する。

とくに前半の、「怖い」子どもの描写や怪しい人物?の登場の仕方などは、昔のオカルト映画のようだった。それから、最初のうち、色々な物事の概念についての会話が出てきたのは、ラストに掛かってるんだなと思った。
なんだかんだ言っても、地下鉄の車両が脱線するシーンは「252 生存者あり」と比べてその迫力に感心してしまったし、タイムカプセルを埋めるマンホール?みたいなやつのデザインもかっこよかった。
最後のシーンでは、白鳥さんの「死神」のオチを思い出して笑ってしまった。ああいうふうに、真剣じゃなければいいんだけど(笑)

うちではニコラス・ケイジのことを「はげ」と呼んでいる(他に一言で呼ばれてるのは、前書いたけどビル・ナイの「くそ(「ラブ・アクチュアリー」より)」。とくにファンってわけじゃないけど、はげでも観よっか〜とつい劇場に行ってしまう。
今回も、ワイン片手での登場シーンや、亡き妻を恋しがる息子を見つめる哀しそうな顔が可笑しくてたまらず、とどめに終盤、目覚めたら雨の中横たわってたというシーンで爆笑してしまった。

50年前のエピソードについて、あんな手紙をそのまま封しちゃうなんて、なんて怠慢な教師だ!とちょっと憤慨してしまった。ストーリー上「取り上げ」る過程が必要だから仕方ないけど。それに細かなことだけど、冒頭のシーンで、彼女があの女の子を注意するのは早すぎる。ああいうのって、リアルじゃないと感じて少し白けてしまう。

(09/07/19・新宿ピカデリー)


ハリー・ポッターと謎のプリンス (2008/イギリス-アメリカ/監督デヴィッド・イェーツ)

公開初日、新宿ピカデリーにて観賞。予約した前日の時点で、ほぼ満席だった。
ピカデリーへは月に何度か行くけど、上映前のロビーが、これまでで一番ってくらい混んでた。外国人客も多く「すごく…普通の顔だよ」のセリフなど爆笑が起こっていた(前半は笑えるシーン多し)。

前作「不死鳥の騎士団」を観たのは、ほぼ2年前。いつもながら、エンドクレジットの段になると、全然ハナシ進まなかったじゃん!と思う(笑)とくに今作は、クライマックスの跳躍に向けて深く沈みこんでる感じ。
それにしても、このシリーズって結局、スネイプ先生(アラン・リックマン)って何なんだ、という話なのかな?(原作は知らないけど…)。

私はこのシリーズを学園ものとして観てるので、新風が吹き込むのを期待してしまう。前作のように先生の出入りがあると面白いんだけど(「教員という仕事の良さは、数年ごとに職場が変わるところ」とは実際よく聞くセリフ←私立じゃ関係ないか)、今作は、色んな意味であるといえばあるんだけど(一応ネタばれ防止)、いまいちぱっとせず、学校という世界の閉塞感ばかりを感じてしまった。もっともハリーたちもドラコも、それぞれの理由で外に出る意思を持つので、観てる側としても、魅力の薄い学校に未練が残らない方がいいのかもしれない。

イギリスらしい街並みや食べ物は良かった。朝の三角トーストや、夜のくつろぎタイムのお菓子の数々。食堂でロンががっついてたジェリー丼みたいのは、何を盛りつけてたんだろう?
「ハリーとダンブルドア校長が舟でゆく」シーンもきれいだった。

「悪役」のドラコについては、小学生の頃は成績がよく顔立ちも端整でもてた子が、長じて輝きを失ってしまったような感じを受けた。列車では一応仲間と一緒だけど、昔のような「取り巻き」はいないし、恋に浮かれる生徒達(夜の暗がりでいちゃついてる様子がいい)を尻目に、任務と野望?に没頭するばかり。もちろん輝きがなくても、友達がいなくても、どんな生徒がいたっていいけど、率直なところ、彼がかっこよければこの作品は100倍面白いのになあと思った。

(09/07/15・新宿ピカデリー)


扉をたたく人 (2007/アメリカ/監督トム・マッカーシー)

大学教授のウォルター(リチャード・ジェンキンス)は、亡き妻と過ごしたマンハッタンを出張で訪れ、一組のカップルと知りあう。シリア出身のタレクが演奏するアフリカン・ドラムに魅せられ、楽しい日々を過ごすが、彼は不法滞在を理由に拘束されてしまう。

ウォルターの別宅にそれと知らず住んでいた、若いカップル。人懐こいタレクに対し、セネガルから来たゼイナブは、礼儀こそ重んじるが、なかなか心を開かない。突然現れたスーツ姿のおじいちゃんをあれこれ誘っちゃうタレクに苛立ってしまうのは仕方ないけど、それにしても頑なだ。ライブ出演を終えたタレクを二人で待つ間は会話もなく、なんとか話しかけるウォルターに対し、yes, yesと答えるだけ。
でも人の言動は性分だけじゃなく、それぞれの出自や事情、考えにも依る。ゼイナブが路上でアクセサリーを売っていると、「いいことしたがり」な白人女性が現れ、興味もない商品を誉め、どこから来たかを聞き「ケープタウンに行ったことがあるわ」と言う。ゼイナブによれば「ケープタウンはセネガルから8000キロ離れてる」。これが彼女の生活の一面なのだ。「グラン・トリノ」のモン族のスーを思い出した。移民にはそれぞれ、その国の「メイン」の住民に対する、自分のやり方がある。
ちなみにこのシーンは、大学を休職してまで拘束されたタレクを気遣うウォルターに対し「もしかしたら、人の役に立つという気持ちよさを求めてしまってるんじゃないか(勿論結果さえ生めば、悪いことじゃないけど)」とふと浮かぶ気持ちを、(対比によって、だけど)打ち消すのにも役立ってくれた。

冒頭のウォルターは全てに対して無気力だ。大学の講義要項は使い回し、妻のピアノを弾いてもみるが、楽しめない。しかし「visitor」により、人生は一変する。幸せって、心動かされる対象に出会えることなんだとしみじみ思う。映画の前半では、そんな彼の「蘇り」ぶりが、ちょっとしたユーモアを交えながら描かれる。
中盤、タレクが拘束されると、ウォルターは拘置所に日参し、息子を心配する母親モーナ(ヒアム・アッバス)の面倒も見る。ある日、彼女を親子の思い出に関わる「オペラ座の怪人」に誘ったウォルターは、その後のディナーで、自分が仕事をしているふり、忙しいふりをしているだけだと「告白」する。気持ちが高揚し、表情がゆるみ、二人の顔はアップになり、映画はある種の頂点を迎える。しかしこの、ちょっとしたロマンは一時のもので、翌日事情は急転直下する。

(09/07/13・恵比寿ガーデンシネマ)


ディア・ドクター (2009/日本/監督西川美和)

山あいの村でたった一人の医師・伊野(笑福亭鶴瓶)をめぐる物語。住民の命を一手に引き受け、尊敬を集めていた「先生」は、ある日突然姿を消した。

こんなにきれいにまとまっている映画って久しぶりだと思った。田舎道の暗がりの白衣に目を惹かれ、何が起こったんだ?と心動かされる冒頭から、過去へと遡り、伊野を追う刑事を据えて周囲の皆の証言を挟むという構成もすっきりしており、すんなり入り込める。
一つ一つの画面も、いい言い方じゃないけど、教科書みたいにきれい。八千草薫の使う三面鏡の、口紅の減り方などじっと見てしまった(勿論、ブラシや指で使えばああいうふうになる)。画面じゃないけど、看護師役の余貴美子の爪が面白い切りそろえ方をされてたのも目を引いた。
それから、雰囲気がくらもちふさこっぽいなとも思った。田舎が舞台だから天コケを思い出したわけではなく、例えば冒頭、瑛太が田んぼを必死で漁るシーンや、香川照之が刑事の前であることをして見せるシーンなど、ああいう、日常の中にぽっと浮かび上がる誰かの行動というのが、それっぽい。

映画は、ブルースで始まりブルースで終わる。はじめ、終戦直後の田舎が舞台の「ニセ札」で流れたチャールストン?の許しがたいダサさを思い出してしまったけど、そういうふうにはならなかった(笑)作中の音楽は、BGMでなく実際に流れていることが多いんだけど、最後に朝っぱらからブルースハープを吹いてる男がいたのには笑ってしまった。

面白かったのが、夫を亡くし一人で暮らす八千草薫の色気。「今はもう見られない」類の…というのは実はウソで、自分の母にも祖母にもない、いや、これまで接したことのない、幻の色気。玄関で血を吐いて倒れた時の「(先生が)汚れちゃう…」から「なんとかして」までが秀逸。母親の体を心配する娘をあしらう会話のセンスには、ユーモアに色気が介在するって、あらためて気付いた。
勿論これらは、八千草薫が演じているから、言わされてる感もなく、また(一般的に「色気」から遠いものとされる)お年寄りだから、純粋な「色気」として立ち上がってくるのだ。

瑛太の、白衣の下から伸びたすねも良かった。中学生の時、塾の英語の先生が、夏は暑いからと「短パン」に白衣を着てたのをふと思い出した。私は男の人の膝から下が(も?)好きで、特に、鍛え過ぎず、すくすく育ったようなやつ。帰り支度をして刑事と相対してるときの、瑛太の足元が気になった。立派なくるぶし、指はちょっと曲った感じ。もともとああいう形なのか、ああいうふうに立ってたのか。

落語ネタが少々。八千草薫が夕食の支度をしながら「ラジカセ」で聴くのは、金原亭馬生の「親子酒」を録音したカセットテープ。もう一つは何かな?

つるべが八千草薫に頼まれて、大葉を刻む?シーン。うちでは大葉を刻むのは同居人と決まっているので(私にはどう頑張っても彼以上に細かく出来ないから)、可笑しかった。

(09/07/10・新宿武蔵野館)


愛をよむ人 (2008/アメリカ-ドイツ/監督スティーヴン・ダルドリー)

「感情じゃなく、どういう行動を取るかが問題なんだ」

そして男は、ある強い感情に囚われながら、幾つかの行動を選択し、実行する。

58年のドイツ。15歳のマイケル(デヴィッド・クロス)は、学校帰りに気分が悪くなった所を年上のハンナ(ケイト・ウィンスレット)に助けられ、毎日セックスするようになる。ハンナは事の前に彼に本を読むよう頼んだ。そして8年後、法科の学生となったマイケルは、突然姿を消した彼女が、ナチの戦犯として裁かれるのを見る。

途中まで、雰囲気はいいけど、つかみどころのない映画だなあと感じてたのが、上記のセリフが出てきて、こういう話なのか、と思った時点で面白くなった。しかもここ数年で久々ってくらい、劇場で大泣きしてしまった。でもって初めて、邦題に少し腹が立った(原題はたんに「The Reader」)。

冬。雨が降っている。厚ぼったい服で傘もなければ、身体は重くなる。嘔吐。二人が出会い、雨は雪に替わる。冒頭のこの描写がとても素敵だ。終盤に二人の距離が近づいた時、またしても雪が散らついたのは、センチメンタルすぎてびっくりしたけど(笑)
ハンナの住む建物や部屋がいい。階段の裏や室外の壁に描いてある模様が可愛い。ドアを開けると、すぐお風呂。厳しそうな両親と暮らすマイケルの家と違い、目一杯ごたごたしている。魅力的だけど温かさのない、乱雑さ。彼女が去った後の、空っぽの部屋も印象的で、ベタだけど「ラストタンゴ・イン・パリ」のように使いたいと思わせられた。
時が経ち、大学生になったマイケルは、結構スマートになっている。女の子が惹かれるのも分かる。皆がにぎやかに暮らす寮の様子。階段教室の生徒たちは、煙草を吸ったり、机に腰かけたりしながら授業を受ける。

最初に挙げたセリフさながら、この映画では、観ている私に「見える」のは登場人物の言動のみで、彼等が何を考えているのか分からない。推測を拒否される心地良さのようなものを感じた。他の映画と何が違うんだろう?技術的なことが分からないので、説明できないけど。
裁判を傍聴した後、一人でアウシュヴィッツの収容所を訪ねたマイケルは、何を思ったろう?自分が執着するものは「正しい」ものだ。

(そういえば、普通の市民から「ナチ」になった者が、戦争犯罪の裁判において責任をなすりつけ合うシーンって、他の映画で観た記憶がない。何かあったかな?)

レイフ・ファインズについては、最初、あの子がこんなになるわけないだろう!(映画の順に沿って言うなら、レイフ・ファインズがあんな子だったわけないだろう!)と思ってたのが、話が進むと、感傷にふけってるうちにあんな甘い顔になってしまったのかもしれない、と思えてきた(笑)
それから、ブルーノ・ガンツにレナ・オリン!見ると嬉しくなっちゃうような役者さんが出ている。

「カタルシスを味わいたいなら、収容所のことは忘れて
 何も生み出さないところよ」


(09/07/05・バルト9)


マン・オン・ワイヤー (2008/イギリス/監督ジェームス・マーシュ)

「それをしなければ、生きていかれなかったの
 あのタワーは彼のためにあったんだから」


1974年の夏の朝、ワールド・トレード・センターのツインタワー間を制した「マン・オン・ワイヤー=綱渡りの男」。映画はこのフィリップ・プティが、夢に出会ってそれを実現するまでを描く。

初めて予告編を観た時から、面白くないわけない!と思って楽しみにしてた。実際良かった。ああ東京にこんな人がいたらなあ!と(無責任にも)思ってしまった。

フィリップは「大道芸人」だそうだけど、そもそも「綱渡り」とはスポーツか、芸術か、奇術か…?それぞれの定義が分からないので考えられないけど、彼にとってはまず、自分の生きる姿勢を体現したものだった。いわく「いつだって、エッジを歩かなきゃ」。

もっとも映画自体からは、とことん「見世物」という印象を受けた。フィリップの「運命の日」をサスペンスフルに描きながら、合間合間に当時の映像や仲間のインタビューが挟み込まれる。大時代がかった再現映像、勿体ぶって登場する関係者(演奏しながら語り出す「音楽家」なんて笑える)、サービス満点の身振り手振りで昔を振り返るフィリップ本人。
(ちなみにオープニングは不意打ちといった感じで、始まって数分後、同行者に「もう本編始まってるのかな?」と耳打ちされた)
そして、驚くほど美しい写真の数々。仲間の誰かが撮ったんだろうけど、どれも素晴らしい。クライマックスが写真で構成されているのが、たまらなくいい。ジムノペディの旋律がかぶると、胸がしめつけられる。

物語はある終焉を迎える。彼と恋人アニーの関係も、他の幾つかのつきあいも、その時を境に消滅する。アニーは「彼の中で何かが終わり、次の段階に入った」と言う。仲間の一人によれば「それでよかったんだ、でかいことをしたからね」。なんてロマンチックなんだろうと思った。

印象に残ったのは、若き日のフィリップが初めてアニーの目の前で綱渡りをしてみせるシーン。「(ひっこみじあんの私・ア二ーに対し)初めて会った時から、とにかく彼は積極的だった」というようなナレーションが入り、原っぱに彼女や友人を呼んでの「公開練習」が始まる。なんていうか、こういう人なんだなあ、と思ってしまった(笑)

(09/07/01・テアトルタイムズスクエア)



表紙映画メモ>2009.07・08