表紙映画メモ>2008.03・04

映画メモ 2008年3・4月

(劇場・レンタル鑑賞の記録、お気に入り作品の紹介など。はてなダイアリーからの抜書です)

王妃の紋章 / 最高の人生の見つけ方 / 大いなる陰謀 / ジェリーフィッシュ / フィクサー / うた魂♪ / ダージリン急行 / ノーカントリー / 地上5センチの恋心 / アメリカを売った男 / ペネロピ / スルース / ライラの冒険 黄金の羅針盤 / ファーストフード・ネイション / ジャンパー

王妃の紋章 (2007/香港-中国/監督チャン=イーモウ)

五大十国時代の中国。重陽節を控えた王宮に一族が集う。王(チョウ・ユンファ)と王妃(コン・リー)、三人の王子たち。王は妃に遅効性の毒を盛っていた。

時代や年代の異なる映画を観ると、それこそ「あんな箸使ってたんだ〜」など、たいてい「へ〜」と思わせられる部分があるものだけど、やたらぴかぴか大仰なだけでそういう面白さは皆無だった(もっともそういうものは期待していなかったけど)。
それでも冒頭、女官たちが雑魚寝状態から起き上がり、鐘の音に合わせて二人一組で身なりを整える様子を見て、私なら発狂しそうだなと思う。
知りたかったのは宮中の見取り図。どれくらい広いんだろう?家族それぞれがアジトを構えているようで面白い。「おなりー」と言わせるだけで互いにずかずかと出入りしてるけど。

クライマックスは、予告編ではちらっとしか映らない、宮中での各兵力の戦い。一つの巨大なもののために個を滅して尽くす、それが中国なんだなあとあらためて思った。
王が王妃を殺害する理由(手間をかけて殺害する理由でなく)は結局よく分からなかった。

映画に妙齢の王子、というか男性が三人も出てくれば、どの人がいいかな〜と考えてしまうものだけど、この話では誰にも心惹かれなかった。ヘタなことを言ったらどんな行動に出られるか分からない。ブナンに二男かな?などと思いながら観ていた。重傷を負った長男が儀式に臨む姿には、「死人を生きているように見せかける映画」…といっても「わらの女」などでなく「グーニーズ」を思い出してしまい、笑いが止まらなかった。
コン・リーのメイクは、眉や目は「どんな顔に見せたいか」が分かりやすかったけど、唇がほとんど元のままだったのに違和感があった。
同行者は、身体に廻った毒で汗をにじませる彼女を見るたび、湯船に入るなり汗の噴き出す私の顔を思い浮かべていたと言っていた。

観ていて面白かったのは、戦いの後に人海戦術で死体や血を片づけるシーン。もっとも水でざーざー洗い流したあとに絨毯を敷くのは、湿ってだめにならないか気になった。

(08/04/27・新宿武蔵野館)


最高の人生の見つけ方 (2008/アメリカ/監督ロブ・ライナー)

偶然同じ病室になった、大富豪の実業家エドワード(ジャック・ニコルソン)と自動車整備工のカーター(モーガン・フリーマン)。余命6か月の二人は、生きているうちにしたいことを「bucket list(bucket=棺桶、に入る前にしたいことリスト)」(原題)に書きとめ旅に出る。

ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンが死ぬ前に豪遊する話…おやじが泣いたり笑ったりで、ちょっとうんざりするかな?と思ったけど、セリフの応酬も面白く、楽しかった。ニコルソンが登場したとき、なぜかディカプリオに見えてしょうがなく、将来あんなふうになるかも、と思わせられた。

観終わって一番に口に出たのは「あの人、遺産もらえたのかな?」。ニコルソンの秘書、彼がいなかったら面白さも半減だったろう。二人のやりとりが可笑しい。

二人が出し合った「死ぬ前にやりたいことリスト」の項目は、「荘厳な景色を見る」「他人に親切にする」「スカイダイビングをする」「世界一の美女にキスをする」…などなど。それらを、手を取り合って完遂するわけじゃなく、できる方ができるときに、また思いついたようにこなしていくラフさがいい。
スカイダイビングのシーンでは、私もやってみたいと思わされた。モーガン・フリーマンが憧れのマスタングに乗ってぶち切れるシーンもいい。観衆のないレース。それが快感であるということは、本当に自分のために生きているんだなと。
ちなみに二人はニコルソンの飛行機であちこち移動するんだけど、機内は快適そうなのに寝てばかりで(ニコルソンは他のこともするけど)、何かして遊べばいいのにと思わされた。年をとるとやっぱり、活動の合間に休まなきゃいけないのかな。

私は世界一高価なコーヒー「コピ・ルアック」について知っていたので、冒頭ニコルソンが法廷で弁護士に勧めるシーンでは、彼が飲み終えた後にそのことを言ってからかうのかと思った。でもって散々引っ張って、リストの一項目「涙が出るほど笑う」のオチになる。あれだけ愛飲していながらそうした知識はないだなんて、さすが成金だ(それに対してモーガンや私のような庶民は、そういう知識だけはある)。秘書は果たしてそのこと、知っていたんだろうか?(笑)

独身のエドワードに対し、家族を持つモーガンは、死期が迫りながら他人と旅に出ることをよく思わない奥さんと仲互いしたまま旅に出る。後日彼女はエドワードに「夫を返して」と電話してくるが、「夫のためでなく私のために」と言う。自分の感情をストレートに言うタイプで、観ていてすっきりした。久々に帰宅したモーガンが彼女をダンス&ベッドに誘う際、後ろからお尻に手を添えるのもいいなあと思った。
ニコルソンは初対面の後、「彼女は俺のこと嫌ってるな」と言う。このセリフをさらっと言えるのがニコルソンの個性だ。彼は作中コールガールを何度か呼ぶが、金を支払わなければ彼を時間を過ごしたく思う「ガール」はいないだろう。でもそれでいい。ある意味で必要とされればそれはそれで良いものだし、されなくても自分がよければそれでいい。そういう姿勢って大事だと思った。

「まったく、俺の言うとおりにしたためしがないんだから…
 お前が正しいんだけどな」


(08/04/24・よみうりホール試写会)


大いなる陰謀 (2007/アメリカ/監督ロバート・レッドフォード)

共和党のとある上院議員(トム・クルーズ)の手による新たな対アフガン戦略。ニュース番組の女性記者(メリル・ストリープ)は彼に呼び出され、国民に流すための情報を提供された。同時刻、カリフォルニアの大学教授(ロバート・レッドフォード)は出席率の芳しくない学生と面談。同じ講義を受ける二人の学生が志願兵としてアフガンに出向いたことを話す。その頃当の二人は、雪山において孤立無援の状態となっていた。

冒頭から、トム対メリル、レッドフォード対学生、という二組の会話がしばらく続く。大御所3人は作中ほぼ座って喋っているだけだけど、そのやりとりから、作品のテーマなど関係なく、それぞれの立場や関係、互いに状況をどうしたいと願っているかを推し量るのがまず楽しい。欧米の映画を観ていて思うのは、(映画を観る限りでは)向こうの人達は、好き嫌いや気が合うといったこと関係なく「会話」をするということだ。
そこにアフガン現地の状況が挿入され、3つの話が同時進行するようになると、場面の切り替えも上手く、飽きさせない。

終盤、監督を手掛けたレッドフォードが「今の決断の責任を一生負わねばならない」「将来性や可能性は消え去るものだ」などと熱弁を振るうあたり、そのストレートさに面くらいつつも好感を持った。
メリル・ストリープは何だかんだ言って好きな女優。取材の後、タクシーに乗り込んで肩を揉む仕草が印象的だった。
トムはだいぶ太っていた。

「人が大人になる、その境界は曖昧なものだ
 問題なのは、いま決断したことの責任を、今後一生負わねばならないということだ」


ドラマ「ヒーローズ」で、悪玉のマルコム・マクダウェルは「幸福な人生と意義のある人生とは違う」と言っていたけれど、同行者はこれを思い出したそうで、この映画の志願兵は貧しいから意義ある人生を求めるのだろうと言っていた。でもって私は意義より幸福を求めるタイプだろうと。その幸福を求める気持ちや行為も、世界の幸福につながればいいと思う。

(08/04/19・バルト9)


ジェリーフィッシュ (2007/イスラエル-フランス/監督エドガー・ケレット)

地中海に面したイスラエルの都市。結婚式場でウエイトレスとして働く女性、その式場でケガをして新婚早々地元のホテルに缶詰めになる女性、フィリピンから出稼ぎにやって来た介護ヘルパーの女性、3人の数日間が描かれる。

それぞれの日常が交差する、よくあるタイプの映画だけど、異国の人々の暮らしぶり、その顔、印象に残るいくつかの場面、海と空が見られるだけで楽しい。物語は「結末」を迎えず、家族や生死にまつわるエピソードの中で、主に海にまつわる幾つかの物事や文章が何度か繰り返される。

フィリピン人の女性にとってイスラエルは「海が終わるところ」にある国。彼女は作中、ヘブライ語が話せないこともあり、言葉による意思表現をしない(一方彼女に仕事を頼む「女優さん」などは、脇役だがかなり唐突に母親に胸の内を告げる)。分かったふりをしない、作り手側の真摯な態度を感じた。彼女の持っている、安っぽい白いバッグがよかった。

始めと最後には「バラ色の人生」のカバーが流れる(冒頭はちょっと「ウェディング・シンガー」を思い出してしまった・笑)。エンドクレジットでは丈が合っていなかった。そういうのはあまり気にしないんだろうか。
それから、本場?の固そうなベーグルが出てくる。私からすると、海では相当もさもさして食べにくそうだ。

観終わってロビーのポスターを眺めていたら、フランスとの共同作製で、撮影はフランソワ・オゾンの「まぼろし」を手掛けた人だった。海はやはり幻想的で美しかった。
フロアでは「クラゲ写真展」も開催されていた。撮影された江ノ島水族館は、国内でも早くからクラゲの展示に力を入れているところ。訪れると「クラゲと人間と、どちらが賢いと言えるでしょう?」というようなコピーが目に入る。映画ではタイトルに使われている他、実際のクラゲも映像に出てくる。社会や状況に流されるそれぞれの人生を象徴しているんだろうけど、少なくとも映画を観るかぎり、それもわるくないように感じられた。

(08/04/16・シネ・アミューズ)


フィクサー (2007/アメリカ/監督トニー・ギルロイ)

前半は原題「マイケル・クレイトン」とその周囲の人々について、後半は…ああいうカタルシスが得られる映画だと思っていなかった。どちらも面白かった。

ニューヨーク最大の法律事務所に勤めるマイケル(ジョージ・クルーニー)は、フィクサー=スキャンダルのもみ消し屋。長年薬害訴訟を手掛けてきた同僚アーサー(トム・ウィルキンソン)が和解を目前に寝返るという事件が発生し、後始末に取り掛かるが、依頼主の企業は裏工作に出る。

冒頭、離婚(別居?)しているマイケルは、息子を車で小学校に送り届ける。息子は大好きな本の話をするが…「どうせパパは読まないんでしょ?」。私が彼の子どもなら一緒にいてもつまらないだろうなあ、でも親に対してつまらないも何もないか、もし男女としておつきあいしてたらどうだろう、やっぱりつまらないなあ、などと考えていた。
(ちなみに何もかも大仰なジョージ・クルーニーに対し、息子の演技はとても自然で、車の中の何でもない顔などすごく良かった)
この映画の前半、マイケルは常に「社会人」である。出社してすかさず携帯電話の充電をするシーンが印象的だった。事務所には電話もあるが、顧客とのやりとりはほとんど携帯電話で行われる。社用なのかもしれないけど、「私」がないことを感じる。
一方同僚のアーサーは巨額の訴訟を手掛け6年が経ち、もう「社会人」でいられなくなった。どれだけの時間を費やしたか計算し、原告側の、何でもないもっさりした娘に「純粋だ」と入れ込む。彼女の側も現状に不満を抱え、しかし無学で自分に自信もなく、こういう二人が愛情どうこうでなくくっついてしまうことってありそうだよなあ、と何ともいえない気持ちになった。

農薬会社の法務責任者カレン(ティルダ・スウィントン)が、衣服を身につけるシーンが何度も挿入される。彼女はそうしながら、今日なすべきことを自身に刷り込み、外へ出てゆく。下着姿で鏡をのぞきこみながらセリフの練習をする。最後の「舞台」に出る前には、ベッドの上にストッキングを出して吟味し、スーツ姿の自分を全身鏡で満遍なく見る。社会において自分がどう映るかチェックする。
下着姿の彼女の後姿は、脇腹に結構なたるみがある。でもスーツを着ると目立たない。その程度の贅肉など社会人にとってはどうでもいいことだ。ちなみに私は「かっこいい男性にスーツは似合うが、スーツの似合う男性がかっこいいわけではない」というのを信条にしている(笑)自分が求めているのは社会人じゃないから。

マイケルとアーサーとのやりとり
「おれの話を聞けよ」
「聞いてるよ」
しかしマイケルの言う「自分の話を聞く」とは、自分の提案を受け入れること、つまり(ラストで彼がカレンに言うように)「交渉でなく要求」。解決のために提案を実現にこぎつけることが目的で、自分の意思を述べているわけではない。
シドニー・ポラック演じる上司の話し方もそうだ。マイケルに向かい「こいつ(第三者)は馬鹿だが、お前に謝った。それでいいだろ?」仕事でなければ「あなたの決めることではありません」と言いたいところだ。

「フィクサー」として事務所ではかけがえのない存在である(と上司に言われる)マイケルが、「ロックスターのように」店を持ちたく思い(「ハリウッドスターのように」なら面白かったのに・笑)、実行するが、経営に失敗しているという描写が面白い。彼にそういう才能はないのだ。
マイケルは「老後のたくわえ」を心配し、その弟は、警官である自分の身分が彼のせいで危うくなると「年金がふいになる!」と怒鳴る。金は必要だが、人はそれ以外に何を求めるのだろう。

マイケルは、昼間はニューヨークの事務所にいたと思えば、夜は結構な田舎に出向いている。日本で言うなら都心から多摩地方に行くようなもの?アメリカの地理感覚がないのでいまいちよく分からない。
それから、とあるシーンで赤ん坊が泣くんだけど、これがものすごく癇に障って、うまいなあと思った(笑)
更にそれから、企業の工作人は、あのコピーの一部をどうやって入手したんだろう?

(08/04/13・新宿武蔵野館)


うた魂♪ (2007/日本/監督田中誠)

合唱部に所属する女子高生かすみ(夏帆)は、憧れの生徒会長から「歌っている姿を撮りたい」と言われ有頂天に。しかし映っていたのは、自身の抱くイメージからはほど遠い、彼いわく「産卵中のシャケみたい」な顔。ショックを受け部活動を辞めかけるが、権藤(ゴリ)率いるヤンキー高校合唱部の歌に感動し志を新たにする。

オープニングは海辺に独り立つ主人公の後ろ姿。「普通でない」かんじがする。そしたらやっぱり普通ではなく、イヤホンを付けて自己陶酔しながら歌っている。でもその「普通でない」かんじは、作中他の行動をしているときでも同じ。そういう子なのだ。
次いで、北海道の朝の大地を走るバス。車内の「一般」高校生が、バス停に列を成す、ゴリ率いる不良学生の群れを見て「やべ〜」とつぶやく。一時間に一本のバス路線、毎朝乗り合わせているはずなのに、このセリフはないだろうと思い、先行き不安になった。
しかし次第に面白くなってきて…それはひとえに合唱の素晴らしさのおかげ。ゴリたちが歌う「15の夜」には涙がこぼれそうになった。尾崎豊っていつも一人で歌っていたけど(岡村ちゃんとの共演は思い出深いけど)、合唱曲にしてもこんなに力があるなんて、メロディがいいんだなあと思った。

そうは言いつつ私は、「合唱」に偏見を持っている。主人公の所属する合唱部のパフォーマンスを観ても、友達にはなれそうにないな…という思いしか浮かばない。理由を考えながら観ていたけど、よく分からなかった。でも主人公達が喫茶店でエノケンの曲を歌う場面は良かったし(「ザ・コミットメンツ」のワンシーンを思い出した)、あの、皆で林立しているかんじ、揃えた衣装、などが苦手なのかもしれない。

主人公を演じる夏帆ちゃんは、例えば自分を敵対視する同級生女子との会話のあと教室を出て行く場面の表情など、演技が分かりやすく上手い。温室?の中で「私のこと嫌いなままでもいいよ、でも謝りたくて…」と告げるシーンも良かった。
件の女の子は両側にお付きを従えて登場したので、ハリウッド青春映画のカーストものみたいなのが見られる〜と期待したけど、大した女王様的描写もなく、いつも眉間にしわを寄せており辛気臭く、観ていてあまり面白くなかった。ゴリ達があれだけマンガぽくデフォルメされてるんだから、高校生としては有り得ない格好をさせるとか、30代のそれっぽい女優を出すとか、もっと弾けてほしかった。

合唱部の顧問を押しつけられた薬師丸ひろ子は…私の苦手なフォークロアぽい服装なんだけど…いつもと同じなんだけど、良かった。代用教員の彼女は、終業式の壇上で「ふつつかな『女』ですが…」などと口にし、部の練習中は隅でコンパクト片手に化粧直し。つまり「ずれている」人なんだけど、夏帆ちゃんとのからみしかないので、その「ずれっぷり」があまり味わえず勿体ない。
夏帆ちゃんの祖父である間寛平がいつもショートパンツを着用しているのは、やたら筋肉質なため異様なかんじを受けた。

ちなみに一番印象に残った…というか気に入ったのは、ストリートで尾崎豊の曲を弾き語りする「女神」の姿見たさに、ゴリが人混みの後ろでぴょんぴょん弾ねる足元を映したシーン。

観終わったら無性に尾崎豊を聴きたくなった。こんな日が来るなんて(笑)
74年うまれの私は、彼が活躍した頃は小学生から中学生。毛嫌いしつつ、アルバムはほとんど持っていた(当時(の自分?)とはそういうものだった。とりあえず聴く)。いちばん懐かしいのは85年のアルバム「回帰線」。「群衆の中の猫」という曲が好きだった。

(08/04/09・新宿ジョイシネマ)


ダージリン急行 (2007/アメリカ/監督ウェス・アンダーソン)

インドの大地をひた走るダージリン急行に乗り込んだ三兄弟…長男(オーウェン・ウィルソン)、二男(エイドリアン・ブロディ)、三男(ジェイソン・シュワルツマン)。父親の葬儀以降は疎遠になっていた彼等だが、長男が家族恋しさに「魂の旅」を計画したものだ。しかし弟たちは諸事情もあり、仕切り屋の兄に不満を募らせる。

久々にスクリーンでオーウェンを見られて嬉しかった。劇場では「ナイト ミュージアム」以来(あれ最高だった)。三兄弟の長男の彼は、自分が中心でなければ気がすまず、何でも口出しせずにいられない。後半、彼の「やり方」が親譲りであることがわかるくだりは、わざとらし〜と思いつつほろっと来てしまった。
大事故の後という設定のオーウェンはほぼ全編、顔は包帯でぐるぐる巻き、額に散るくせ毛もないし、むくんで老けこんで見えるけど、ともかく男3人のコスプレ映画としてまず楽しい。基本はノータイのスーツ、列車内のパジャマや下着、遭難者(川に落ちて羽織ものを借りる)、冠婚葬祭用の黒スーツ+コート。3人は2人じゃないから、例えば車の後部座席などにみっしりくっついて座る。
エイドリアン・ブロディの手足の長さには感動した。ああいうトランクスが似合う男の人って、実際なかなかいないものだ。
駆け出し作家?のジェイソン・シュワルツマンが、前フリとなる短編「ホテル・シュヴァリエ」でナタリー・ポートマンからの電話をホテルで受け、置物を飾り音楽を流す場面ではウディ・アレンみたいなキャラかと思ったけど(苦手だから困ったけど)、そうでなくて良かった。

登場人物が散々タバコを吸ってたのも楽しかった。私は吸っても吸わなくてもいい、程度のスモーカーだけど、男の人に火をつけてもらうのが大好き、そういうシーンを見るのも好きだから。
インドでは交通機関は「絶対」ダイヤ通りに運行しないと聞くけど、作中何度も走って列車をつかまえる彼等は、どのような時間に合わせて駅に来たのか、あるいは時計なしでたまたま発車直後に着いたのか、気になってしまった(笑)

予告編で繰り返されていた「スピリチュアル・ジャーニー」という言葉。同行者は「今の日本のスピリチュアル、とは全然違っててよかった〜」と言っていた。家族が仲良くなるのになぜ「エキゾチック」が必要なのか分からないけど、ともかく何らかの体験を経て、人はその関係を変えてゆく。
ポップコーンを食べながら観たんだけど、そういう映画、食べ終えて「インド料理でも…」という気にはならない映画だ。アメリカ人の話。

「皆に会いたかったわ」
「じゃあなぜ葬式に来なかったんだよ?」
「…行くのがいやだったから」
  (三兄弟の母親、アンジェリカ・ヒューストン…素晴らしい顔だった)


(08/03/15・シャンテシネ)


ノーカントリー (2007/アメリカ/監督コーエン兄弟)

1980年、テキサス州西部。元溶接工のベトナム帰還兵モス(ジョシュ・ブローリン)は、銃撃戦の跡地で見つけた麻薬がらみの200万ドルを持ち帰った。組織の殺し屋シガー(ハビエル・バルデム)が彼を追い、彼等を保安官のベル(トミー・リー・ジョーンズ)が追う。

絶妙にコントロールされたひとつひとつの場面、全篇に渡る緊迫感が最高に面白い。
こういう映画は、登場人物に対し「有無を言わせない」。例えばモスが、トランクを持ち帰った夜中にふと起き出して生存者に水を持っていくくだりなど、日曜洋画劇場モノあたりなら「あんなことしなきゃいいのに…」と気を揉んでしまうところだけど、そんなこと頭を掠めもしない。一連の映像が美しく、魅せられるからだ。

酸素ボンベから伸びる空気銃を抱えたシガーは、彼を知る人間、対峙した人間皆に「狂っている」と評されるが、自身のルールに真面目に従っているだけだ。
殺すか否かのコイントスを断るモスの妻に「あなたが決めるのよ」と言われ、妙な顔をするシーンが可笑しい。その直前、彼女は「殺す必要はないわ」と口にしている。シガーは「皆そう言うが…」と返すが正にその通りで、必要か否かを判断するのは他人でない。その後にそんなことを言われたら、妙な気持ちにもなる。
もし私ならやめてくれと「頼む」が、殺されるだろう。シガーのルールでは、言動や感情でなく単に関係などの「事実」、ときに「偶然」が判断の基準となる。
しかし(いわゆる雑魚キャラ以外の)登場人物は、「客観的」に彼を説得しようとする。自分の感情を吐露する者はいない。それは人工的なストイックさにも感じられ、ミニマムな映像や音楽(の無さ)に相まって映画をより美しくしている。

語り手である老保安官のベルは、冒頭「『理解できないもの』に命を賭けたくない」と嘆いている。やがて彼はシガーという「理解できないもの」と対峙し生き延びたが引退し、ラストシーンで妻に昨夜観た夢を語る。晴れた朝食の席だが、窓はきっちり閉められている。彼はシガーの残した牛乳を飲みながら風に吹かれたが、ここに風はない。
原題の「no country for old men」とは、誰もが老いるのだから、誰にも故郷はないということだろうか。ベルの観た夢のように歩き続けるだけ。しかし彼はそのことを受け入れ、父親が待つ「死」の世界に淡々と向かっていくだろう。シガーについても、最後に歩み去る姿に同様の感を受けた。3人の中ではモスのみが、死によってその行から逃れる。

それから色々。
・シガーの武器は、車社会ならではだな〜としみじみ思った。日本なら持ち歩けないし、車を停める場所を探してる間に逃げられてしまう。
・ベルの部下の保安官は制服の下に白シャツを着込んでいるが、彼自身は素肌の上に直接着ている。世代差なのかな。
・モスは「小奇麗なブロンソン」みたいだった。私の中には子どもの頃から、ああいう男性に惹かれる気持ちもある。一カ月くらい一緒に暮らしてみたい。
・モスの妻(ケリー・マクドナルド)がトレーラーハウスでモノクロ映画を観ている。欧米映画ではよくそういうシーンがあるけど、向こうじゃ古い映画を適当に使い回して放映しているんだろうか。ちなみに「地上5センチの恋心」には、「雨月物語」をけらけら笑いながら観ているシーンがあった。
・モスやシガーの行く先々で、おばさんが働いている。おじさんの生きる国はないが、おばさんはそんなこと考えもしないように感じられた。ベルの夢の話を聞く奥さんは、何を思っていたんだろう?

「妻を待ってるとこだ…半分は。残りの半分は、何が起こるかを待ってる」(モス)

「おれはそのうち、神が自分に宿ってくれるもんだと思っていた。そうじゃなかった。でも恨みはしないさ」(ベル)

「(大勢でかかれば成功するというのは)間違っている。正しい道具を遣うべきだ」(シガー)


(08/04/01・シャンテシネ)


地上5センチの恋心 (2006/フランス/監督エリック=エマニュエル・シュミット)

面白かった。馬鹿馬鹿しい話…なんだけど、カトリーヌ・フロが浜辺で振り返るとき、ジョセフィン・ベイカーの歌声で踊るとき、映画っていいなあとしみじみ思わされた。

オデット(カトリーヌ・フロ)は、夫を亡くし化粧品売り場で働きながら二人の子どもと暮らす主婦。眠る前にベッドで読む、バルタザール・バルザン(アルベール・デュポンテル)のロマンス小説が最高の楽しみだ。サイン会に出かけ手紙も書くが、彼女の名が人気作家の記憶に留まることはなかった。しかしある日、批評家や妻の言動に傷ついたバルザンは、オデットの綴ったファンレターに目をとめ、住所を頼りに家を訪れる。

冒頭、ショッピングセンター(日本で言うなら西友やヨーカドーみたいなかんじ?)の化粧品売り場で働くオデットの服装…ピンク系のニットにスカート…がすごくすてきで、心惹かれた。憧れの人のサイン会のために着替える同じくピンク系のスーツや、ラストに海辺の家で纏う紺色のワンピースも印象的。どれもぴったりとしており女っぽく、かつ動きやすそうで、彼女くらいの年齢になったらぜひ着てみたいと思った。
ただし下着が貧乏くさいのは好みじゃない(笑)それに、下着同然でくつろぎながら足元はふつうの靴なんて、私なら耐えられない。

例えば最近だと「ペネロペ」の美術にはすごいな〜と感動したけど、この作品のインテリアには、ここ数年劇場で観た映画の中で一番そそられた。
タオル掛けやのれんなど、可能な限り全てのものに「装飾」の意味が付与された、あまりにも安っぽく落ち着かない部屋だけど、見る分にはうきうきさせられる。ちょっと話がずれるけど、子どもの頃、友達の家の机の引き出しから栗きんとんが出てきたのを思い出した。3姉妹が好きなものを所構わず置いてる家庭で、遊びに行くのが楽しくてしょうがなかったものだ。

「結局…おれは尊敬されてないんだ」
私は人間関係において、尊敬したい・されたいとは思わない(他に求めるものがあるから)。しかしもちろん、尊敬されたいと思う男がいて、彼を尊敬する女がいて、二人が互いを良しとするなら、その瞬間は幸せなことだ。「ノーベル賞って…小説家ももらえるの?」というオデットの言葉に破顔一笑するバルザン。いつまでもこんなやりとりが続きますようにと、他人事ながら願ってしまう。
それにしても、バルザンの寝方が、いかにもああいう男ぽくて可笑しかった。横向きのうつ伏せで、片手が枕の下に挟まれちゃってる。大体もし誰かに尊敬されたいなら、窓辺で自分を抱きしめてるだけじゃなく何か行動しろと思う(「ロッキー」にはなってたけど・笑)

「あんな小説、美容師や売り子にしか受けないわよ…安っぽい人形や、夕焼けの写真を大事に飾っちゃうような類の読者ね」
オデットの寝室の壁一面に貼られた、夕焼けの写真。シルエットの男は女の額にキスをしている。「掌へのキスは懇願の…」とはくらもちふさこの「おしゃべり階段」に出てくるドイツの何とかいう人の言葉だけど、額へのキスを夢みる女は、どういう関係を望むんだろう?
オデットは、憧れの人のことを思って浮かれた後「ほらほら、落ち着いて」と自分で自分をなだめる。しかし物語のラスト、同じセリフをその彼が言ってくれる。そりゃあそっちのほうがいい。

例えば初めてのサイン会で緊張のあまり自己紹介できなかったオデットが、なぜ二度目にはあれほど喋れたのか。この映画には疑問や違和感など幾つかの「引っ掛かり」がある。しかしカトリーヌ・フロの姿形と演技、加えて彼女を取り巻く家族やインテリアなどがそのエネルギーで全てを包み込み、大きな楽しさを与えてくれる。

「あなたに出会って、私は私に…オデットになりました
 朝は喜んで窓を開け、夜は喜んで窓を閉めます」
   (オデットが憧れの人に宛てたファンレターより)


(08/03/23・シネスイッチ銀座)


アメリカを売った男 (2007/アメリカ/監督ビリー・レイ)

2001年に逮捕されたFBIのベテラン捜査官、ロバート・ハンセン。20年以上に渡りKGBに国家機密を売り渡していた男。映画は事実に基づき、彼の部下として内偵を行った訓練捜査官エリックの視点で描かれる。ハンセンを演じるのはクリス・クーパー、エリックにライアン・フィリップ、その上官にローラ・リニーなど。

この映画で描かれるのは「スパイ」のハード面でない。スパイとしてのハンセンのあり方や、現行犯逮捕までの過程はさほどユニークではないし、彼の監視を命じられたエリックの仕事は、その退社時間を記録し、隙を見てパソコンの中身をチェックするなど地道でアナクロなものだ。二人の働くFBIのオフィスも色気は皆無で、殺風景な廊下に使用許可待ちのDELLのコンピュータや不使用の椅子が無造作に並んでいる。
物語の前半、エリックは新たな上司のことを悪く思えず混乱する。任務を認識していながら、誰かと親しくなるというシンプルで甘美な楽しさをつい味わってしまう。用心深いハンセンの側も同じだ。そのあたりの描写が面白い。
捜査課がハンセンの車両を調べている間、本人が戻りそうになり、指揮を取る副司令官(デニス・ヘイスワード)がしごく普通の顔で「間に合わないかも」と言うシーンが印象的だった。やれることをやって、だめならそのとき、またやれることをやる。それが大切だ。

物語には宗教が大きく関わっている。妻の影響でカトリック信者となったハンセンは、彼女を愛し、孫に慕われ、日々教会に通うが、職務に背き母国に損害を与える。神のしもべであることが唯一不変の「善」なのだ。
欧米の映画にはこうした道理がよく見られる(最近だと「アメリカン・ギャングスター」など)。善悪の基準や価値観は状況により異なる。宗教とは関係ないけど、私は自分の信念に沿って真面目に生きているつもりだけど、他人に評価されたらそうとは限らない…どころか不真面目と取られる可能性も大きい。面白くも辛くもあるところだ。

ラスト、逮捕されたハンセンは動機を問われてはぐらかす。それまでカメラに淡々と捉えていた彼の顔が、突然なまなましくなり熱を帯びる。しかし真実の一つらしいことも口にする。

「動機はエゴだ。多くの仲間と並んで仕事をしている…皆必死に裏切り者を探している。それは自分なんだ」

ところでローラ・リニーはハンセンを「性倒錯者」だから「FBIの恥」だと言うが、彼女が彼の性習慣について挙げるのは「妻との性生活をウェブにアップする」「ストリップバーに通う」ことのみ。なぜこれらが「倒錯」なのか分からない。宗教・文化の違い、字幕のニュアンスによるのだろうか(もちろん法の見地から以外、そうした線引きの定義なんて無いけど、それにしても)。
もうひとつ、捜査課の室内に、大きく引き伸ばした彼の顔写真が貼ってある意味が分からなかった。たんに士気を上げるためだろうか。いずれにせよ、他の部分の地味な描写とちぐはぐな感じを受けた。

(08/03/15・シャンテシネ)


ペネロピ (2006/イギリス/監督マーク・パランスキー)

ペネロピ(クリスティーナ・リッチ)はブタの鼻と耳を持つ娘。先祖の呪いを解く方法はただ一つ、同じ名家の「仲間」にありのままを愛してもらうこと。
屋敷に閉じこもりお見合いを繰り返すも、男たちは皆、彼女の顔を見るなり逃げ帰ってしまう。しかしある日、ペネロピの鼻に動じない青年マックス(ジェームズ・マカヴォイ)が現れる。

とにかく可愛く楽しいおとぎ話。彩りの豊かさに「ロバと王女」を思い出した。ひと昔前の少女漫画ぽいキーワードが散りばめられたあらすじは、「悪魔の花嫁」の一話(でもハッピーエンド)といったかんじ。一番ぴったりはまるのは、70年代の山岸凉子かな。
クリスティーナ・リッチのブタ鼻は、大きな額と瞳、相変わらずの眉間のシワなどの愛らしさと絶妙のバランス。栗色に輝く重たいロングウェーブヘアに、初めて女性の髪に「実際に」魅力を感じてはっとした(これまで男性の髪にしか感じたことがなかった)。

ジェームズ・マカヴォイの「王子様」ぶりには、久々に劇場でうっとりさせられた。整いすぎない甘い顔立ちが、ペネロピと「とりあえず、今」の幸せを分かち合う相手にぴったりだった。帽子やスーツ、ワンシーンだけ見せてくれるジーンズ+Tシャツ姿も素晴らしい。ナルニアのロバ男だとは、名前見るまで分からなかった…。
ちなみに登場時は(酒場でギャンブルという状況も手伝い)かつてのエドワード・ファーロングかと…観進めるうちにラッセル・クロウをうんと美系に、うんと若くしたようかんじだなと思った。いずれにせよ、早く保護しないとヤバい方向に育ってしまいそうってこと(笑)ピアノを弾く腕、けっこうぷよってたし。

キャサリン・オハラ演じる母親もいい。娘を屋敷に閉じ込め、かかりきりで身の回りを飾り立て、群がる新聞記者を追い払う。結婚式の準備中、不安がる娘に「だいじょうぶ、すてきよ」と一緒に鏡をのぞきこむが、手は自分の髪へ。ペネロピのブタ鼻が治ると「(あの鼻が)ママも懐かしいわ」などと言う始末。むしろ付き合いやすそうなキャラクターだ。
対してリチャード・E・グラントの父親は影が薄いけど、娘を失い戸惑う妻を戸口でしかと抱きしめるシーンは良かった。ペネロピとマックスのマジックミラー越しデートの映像を、夫婦してアイスやらポップコーンやら持ち出して野次馬的に見るシーンが可笑しい。名家の大人は暇でいいなあとも思った(笑)

ペネロピはマフラーで鼻を隠し、外へ飛び出す。いまの時節の日本なら花粉症のマスクがいいかも、などとつまらないことを考えつつ、母親が…「世間」が恐れる「世間」とはなんだろう?と思いめぐらせた。

「だって父さん、あいつは化け物だよ!」
「でも大衆(public)に愛されてるぞ。お前も合わせるんだ」
  (ペネロピとお見合いし逃げ帰ったエドワードと、その父親とのやりとり)


この映画ではペネロピと「世間」との仲はマスメディアがとりもつ。フラッシュの光るカメラを持った人間が押しかけ、新聞のトップ記事となることで、彼女と「世間」との関係が作られる。なぜかコーエン兄弟の「未来は今」を思い出した。
彼女を追う記者のレモン(ピーター・ディンクレイジ)は小人症だ。小人は「異常」でも一見普通に生活しているが、ブタ鼻娘はひとまずそうならない。またその鼻は取り沙汰されるが、同じくブタ仕様の耳は髪に隠れているためか誰の口にものぼらない。何がどう見えるかによるんである。
ペネロピの写真を本人から受け取ったレモンが、見上げると彼女はもういない…というシーンが印象的だった。

「罪状はなんだ?ぶさいくってことか?
 それなら市民の半分は罪人だぞ」


(08/03/14・テアトルタイムズスクエア)


スルース (2007/アメリカ/監督ケネス・ブラナー)

シネスイッチ銀座にて公開初日。72年のオリジナル版「探偵スルース」は、たぶん子どもの頃の「お昼のロードショー」を最初に、何度か観た。

老いた推理作家アンドリュー・ワイク(マイケル・ケイン)の邸宅を、自称俳優の若者マイロ・ティンドル(ジュード・ロウ)が訪ねる。作家の妻と男女の仲である彼が離婚を迫ると、ワイクは「妻と別れて欲しければ、私の提案に乗らないか」と持ちかける。

登場人物は二人、舞台はほぼ全て室内。「探偵スルース」では、作家アンドリュー・ワイクの屋敷も彼に従う第三の登場人物と言ってよかった。今作では垣根の迷路やオートマタに代わり、手下のように動く監視カメラと、おそろしく生活感の無いインテリア、移り変わる照明がその役を務める。
また、「探偵スルース」の映像が舞台を見ているようなかんじであるのに対し、今回はカメラ越しや入れ替わり立ち替わりなどの凝ったアングルが多く、始めのころは二人の姿をじっくり見たいと思うあまり落ち着かなかった。

冒頭、マイケル・ケインの声が、聴き慣れたふうではないので驚いた。年のせいかな?と思ったけど、そうではなかった。「ゲーム」が進むにつれ、あの声になってくる。
ケイン様といえば、私が一番に思い出すスチールは「狙撃者」で銃を構えて上から見下ろしてるアレ。あの顔はやはり、ああいうふうに下から見上げて堪能したい。
今作のジュード・ロウも、銃を構えた姿を下から煽ったカットがあったけど、彼の場合は、見上げられたほうが魅力的に感じられる。最後にそういうカットがあり再確認した。
熱っぽく見上げる顔のほうが様になるジュードの場合、どうしても「がんばってる」感がオモテに出てしまうため、オリジナル版に漂う「妙」な雰囲気はない。ピエロ姿にならなかったのも残念…だけど、あれだって彼が着たら面白くないかもしれない。

若者にあって老人にないものとは何か。肌の艶、あまい生命の熱と匂い、そして体力。

「(窮地に立たされたマイロ、助けを乞い)彼女はあなたを誠実な人だと言っていた。その心に興奮(excite)させられると」
「…性的にという意味か?」
「分からない…それは聞いてない」
「…身体については、何か言ってたか?」
「いや、とくに…」


後半、二人の男はオリジナル版とは異なるレールを走り始める。これも前作にはないやりとり。マイロに命じて梯子を上らせ、下らせ、体力をふりしぼらせるワイクは、思うように動けなくなった自分の代わりに彼の身体を使って遊んでいるかのようだった。
殺すのは簡単。しかし屈辱を与え誇りを保つため、彼等は身一つで頭脳を振り絞り対決する。

一つ疑問だったのは、最後の一幕において、素足のジュード・ロウが水槽や酒瓶を平気で割っている点。緻密に計算しているようなのになぜ?と思わされた。

「男の心を知るには、まず屈辱を味わわせることだ」

(08/03/08・シネスイッチ銀座)


ライラの冒険 黄金の羅針盤 (2007/アメリカ/監督クリス・ワイツ)

三部作の一話目で、舞台は「我々のと似ているが、異なるところも多い世界」。人間にはそれぞれの分身である動物が「ダイモン」として付き添っている。
オックスフォード大学の寮で育った12歳のライラは、権力者コールター婦人(ニコール・キッドマン)に望まれ旅に同行。しかし彼女は連続誘拐事件の黒幕であった。ライラは真理を告げる「黄金の羅針盤」を手に、子どもたちを救うため北の国を目指す。

冒頭、素っ気ない字幕で「私たちの世界では肉体の中に魂がありますが…」と言われ、そうなんだ〜と思う。魂って何?と考えたら置いていかれる。「ダイモン」が何なのかもよく分からない…(ベッドなんかじゃ、どうしてるの?)。敵の組織が子どもに施す「切り離し」は、ロボトミー手術を思わせた。

私がファンタジーものに出てくる偉そうな女性で一番好きなのは、「ナルニア国物語」の白い魔女、ティルダ・スウィントン。日がな何してればいいの?ってかんじの荒涼としたお城が似合ってる。
二コール・キッドマンのような「美女」の場合、相当メンテしてるんだろうな〜気球に専用コックいるのかな?などと思ってしまう(その点「美少女」はメンテがそれほど要らなさそうだから、気楽に見られる)。
印象的だったのは、二コールが自分の「ダイモン」であるゴールデンモンキーを平手打ちし、その後抱きしめるシーン。自傷癖のようなものだろうか。ライラに騙され、缶のフタを開けるシーンも可愛らしかった(笑)
それから、小奇麗なダニエル・クレイグが雪山で暴れるプチ007のようなシーンも楽しかった。あの目はほんとうに雪国に映える。

クライマックスの、敵方に対しライラと子どもたち、ジプシャン、魔女、くまなど各チーム入り乱れての乱闘には、いかにもヨーロッパだな〜と思わされた。
くまのイオレクはなぜ手下を連れず独りで来たんだろう?たしかに他のくまは相当、ぼーっとしてたけど。

子どもの冒険ものといえば、最後に「うちに帰る」のがお決まりだ。
ライラの親友ロジャーも、自分を助けに来てくれた彼女に「うちに帰ろう」と言う。しかしライラは「しなければならないこと」を並べ立て、まだ帰れないと告げる。やることだらけだな〜と驚く彼。対して、冒頭常に見せていた眉間のしわも消え、すっきりした表情の彼女。二人の間には大きな経験値の差ができた。でもその後「終わったらうちに帰るだろ?」。ライラはあの寮に帰るのだろうか?
ちなみにロジャー役の子はベン・スティラーに見えて仕方なかった。もう一人の男の子、ビリーを演じた子はかなりの美少年で、出番は少なかったけど、「切り離」されてしまった後のやつれ姿が良かった。

街並みや建物、室内などもとてもきれいで楽しめた。
ひとつ引っ掛かったのは、敵の本拠地において、さらってきた子どものための食堂の壁に南国の絵(浜辺にヤシの木)が描いてあったこと。この世界にも南国があり、皆がそのことを知っており、憧れてるってことなのだろうか。

スコーズビー(サム・エリオット)の気球を見て、同行者が「あれはジャイアントロボのアニメに出てくる『シズマドライブ』だ〜」と言う。私は知らなかったけど、帰りにツタヤでDVDを借りて一緒に観た。なんか難しい話だ。

(08/03/02・バルト9)


ファーストフード・ネイション (2006/アメリカ-イギリス/監督リチャード・リンクレイター)

アメリカのファーストフード業界について、大手企業の幹部社員、店舗のアルバイト学生、精肉工場で働く不法移民の姿を通して描いた作品。
ハンバーガーチェーン・ミッキーズの主力商品「ビッグワン」のパテから糞便性大腸菌が検出され、マーケティング部のドン(グレッグ・キニア)はコロラド州の精肉工場へ視察に向かう。そこではメキシコからの不法入国者たちが低賃金で働いていた。いっぽう工場ちかくの店舗で働く女子高生アンバーは、周囲の人々の影響で環境問題に目覚め、アルバイトを辞める。

冒頭、「ビッグワン」ののっぺりしたパテへのズームから舞台はメキシコへ。アメリカへの入国を決意した人々の姿にかぶさるギターの少々のんびりした調べに、「サンキュー・フォー・スモーキング」などを連想し、真面目にかつユーモアを持って押しまくってくる映画かと思いきや、そうではなかった。センセーショナルな宣伝とも異なっていた。大きな動きはなく、ただ実態が淡々と描かれる。

映画のラストに流れる牛の屠殺と解体のシーンには、とくに心を動かされなかった。宗教や文化による受け止め方の違いがあるんだろうか。もし自分が彼女の立場なら、何らかの理由で動揺するかもしれないけれど、人間が食べ物を作るために動物を飼育し、殺すことには疑問がない。そして、格差社会や、想定外の事件(この場合は牛のフンの混入)が、頻度は違えど「発生」しても、反対する流れを含め、それはそういうサイクルなのだと思う。物事はなるようになる。
学生の手で柵を切られても逃げようとしない牛たちは、「殺されて食べられる」というよりも「自分たちを食べさせている」かのように感じた。

ドンが出張先でも自社のハンバーガーをせっせと食べる姿が、いかにもアメリカ人らしいと思った。「クビになるかも」と言いつつ、話の最後では変わらずプレゼン会議に出席しているあたり、自分を律し真面目に仕事をするタイプっぽい。
アンバーと、パトリシア・アークエット演じるその母親の家庭におけるレトルトの食事は超・超まずそうだった。娘のほうは、ああして目覚めた結果、食生活も変化したのだろうか?何を食べるようになったか知りたかった。ちなみにこの家庭は下流社会の典型として描かれているけど、パトリシアのおかげでどうも、能天気というより楽しく魅力的に見えてしまう(しかもはじめ親子でなく姉妹かと思った・笑)

三者の交差を示唆するシーン(交差点でドンの車と移民を乗せた車とが隣り合わせになるなど)はあざとく無意味に感じられ、好みでなかった。

ブルース・ウィリスのハンバーガーの食べ方は良かった。「糞が入っていようが、焼いてしまえば同じ」などの彼の言葉がアメリカだと感じた。あのハンバーガー店は個人経営なのか、エコ寄りのチェーン店なのか、どういうんだろう?

(08/03/01・ユーロスペース)


ジャンパー (2007/アメリカ/監督ダグ・リーマン)


デヴィッド(ヘイデン・クリステンセン)は瞬間移動の能力を持つ「ジャンパー」。高校生の頃に父親と二人暮らしの家を出て以来、世界を股に掛け贅沢な暮らしを満喫していた。しかし「ジャンパー」には、彼等を狩る組織パラディンという宿敵があった。その一員ローランド(サミュエル・L・ジャクソン)は仲間を率い、デヴィッドを執拗に追う。

これは面白かった〜。オープニングタイトルの間に主人公が「ジャンパー」になってしまう、展開の早さがまず嬉しい。
予告編のように「なぜ/その力を/与えられた」なんて辛気臭いことは考えなくていい。上映前に、同劇場(六本木ヒルズTOHOシネマズ)で開催される「ルパン・ザ・night」の宣伝が流れたんだけど、永遠の追っかけっこが続くあたり通じるものがあると思った。わけのわからない言い方だけど「明るい所行無常」という感じを受けた。ローランドがしきりと「神のみに許されることだ」と言い、魔女狩りなどのキーワードが出てくるのが、(私からしたら)ベタな西洋らしいスパイスになっている。
でもって、デヴィッドに思いを寄せられるミリーの側にしてみれば、「昔優しくした相手が迎えに来たが、却ってえらい目に遭わされた」という話だ。

サミュエル・L・ジャクソンが登場した瞬間、佐藤浩一に似てると思った。体育会系でありながら少々異常さも垣間見える雰囲気が良かった。
ヘイデンのパターン化された表情も、単純な話に合っていた。起爆装置を奪って逃げ、仲間のグリフィン(ジェイミー・ベル)に追いつかれたときの、劇画なら「ハハ…」とでもセリフがつくような顔は、あまりにあまりで笑ってしまった。
ちなみにミリーの少女時代を「テラビシアにかける橋」の女優さんが演じていたけど、髪が長いと魅力が半減だった。

東京でのロケシーンは、銀座・渋谷・秋葉原・新宿などがごちゃ混ぜ。銀座も新宿も、もっといい背景があるのに〜。

ちらっと挿入されるラブシーンを観て、同行者は「ヘイデンにもラブハンドルがあった〜」と嬉しそうに言っていた(私が「脇腹チェック」をやるので)。

(08/03/01・TOHOシネマズ六本木ヒルズ)



表紙映画メモ>2008.03・04