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映画メモ 2007年9・10月

(劇場・レンタル鑑賞の記録、お気に入り作品の紹介など。はてなダイアリーからの抜書です)

アレックス・ライダー / 幸せのレシピ / エディット・ピアフ〜愛の賛歌〜 / ミス・ポター / 厨房で逢いましょう / 愛しのアクアマリン / オフサイド・ガールズ

アレックス・ライダー (2007/イギリス−アメリカ−ドイツ/監督ジェフリー・サックス)

公開初日だけど台風のせいもあり?人は少なかった。高校生の女の子が一人で来てたけど、アレックス君のファンだったのかな。

14歳のアレックス(アレックス・ペティファー)は、親代わりの叔父(ユアン・マクレガー)の死をキッカケに跡を継いでスパイの道へ。MI6のミスター・ブラント(ビル・ナイ)から命じられた初任務は、IT長者のダリル(ミッキー・ローク)の元への潜入捜査。

アレックス君の面倒を見る家政婦として、絵に描いたようなアメリカン・ガールを演じるのはアリシア・シルバーストーン。まずこれが嬉しい。そして悪者ミッキー・ロークの片腕はピンヒールで反り返ったミッシー・パイル!顔は面白いけど有能には見えない(笑)
アリシアとミッシーとのファイト場面はちゃちくて最高だ。しかも日本の食べ物でオチがつく。

冒頭、アレックスが教室で多忙な叔父について語る。それにかぶさる、敏腕スパイ・ユアンの荒唐無稽な活躍シーン(ちなみに乗っているのはBMW)。この時点で「イギリス」を感じる。海岸の風景や007ばりのアクションは勿論、フィクションなんだからとでもいうような多少ラフな雰囲気。アレックス君の顔も、鼻など(よく言えば)ノーブル…(よく言わなければ)間延びしたかんじだし、キメ顔の連続じゃない。でもそこが可愛い。クライマックスでヘリコプターから町を見下ろすシーンでの、風になびく金髪にはちょっと参った。
その後の、ロンドンの川を上っていく映像や、アレックスがMI6への通路を知る駅でのシーンなども、何の変哲もないんだけど雰囲気がある。ビル・ナイのくどい演技も楽しい。後半、ミニミニ大作戦を思い出させるシーンもあった。
加えて、戦争映画…というか男が集団で特訓する映画が大好き、だけど長丁場だと飽きちゃう自分にとっては、さらっと描かれるアレックスの合宿のくだりも楽しかった。途中なぜか、イギリス映画じゃないけど「トップ・シークレット」を思い出した(笑)

「あの子はまだ14歳なのよ」
「だから役に立つんだ」(←ビル・ナイ)
この映画は、まだ体の出来上がっていない男の子の、一時期の輝きを楽しむ作品。なんて大げさだけど、「へんなおっさんたちの間(異世界)に放り込まれた少年の活躍」という印象を受けた。苦悩も苦労もないのがいい。エンディングロールでジュブナイルが原作と知り納得。おもちゃ屋さんでのスパイ道具の受け渡しが良かった。

帰宅してから、「大人の科学マガジン蓄音器編」の表紙を見て、同行者も私も、ミッキー・ロークのブルーのアイシャドーに清志郎を思い浮かべていたことを知った。

(07/10/27・東劇)


幸せのレシピ (2007/アメリカ/監督スコット・ヒックス)

レストランのオーナー、パトリシア・クラークソンの着ていた服が全部欲しくなった。大袈裟じゃなく、生まれてから今まで観た映画の中で一番好みの格好かもしれない。

マンハッタンのレストランで料理長を務めるケイト(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)は、腕こそ一流ながら頑固で無愛想。ある日、事故で亡くなった姉の娘ゾーイ(アビゲイル・ブレスリン)を引き取るが、突然の同居生活はうまくいかない。さらには厨房に加わったイタリアかぶれのニック(アーロン・エッカート)の存在が、彼女を悩ませる。

元となった「マーサの幸せレシピ」に、中盤までかなり忠実なリメイクであるにも関わらず、冒頭から今は亡き「ヤングユー」掲載漫画が原作かと思ってしまった。アビゲイル・ブレスリン演じるゾーイは目が据わっててコワいから、作者は榛野なな恵か(笑)
すごく「大人向け少女漫画」っぽいのだ(勿論、ここで指すのは大島弓子作品とかではない)。物語は仕事人間ケイトのキャラクターに依って展開するんだけど、同僚にやばいほど疎まれてるわけではないその立場や、男を寄せ付けないながらも器用に言い返す言葉のセンスなどに、ひどく既視感を覚える。
といっても面白くないわけではなく、全篇暖かい雰囲気で良かった。わるい人は出てこない。
ゼタ=ジョーンズはエプロンが似合っていた。華麗というほどの手さばきは見られないけど(笑)例えば彼女がバーナーを構え、まるでライフルで威嚇するかのようにニックに言い返すシーン。以前の「女優」然とした彼女なら、やっぱり銃だよなあ、と思っただろうけど、今作ではバーナーがはまっていた。

しかし彼女のキャラクターはよくわからない。そもそも、冒頭に流れるお店の外の様子に、こんな町に暮らしてて男の人とデートしないなんて信じられない、と思う(笑・彼女は「隣人」ショーンにしきりに食事に誘われている)。
ニックと二人きりの夜、暖炉には燃え盛る火、顔と顔が近づき、思わず目を閉じて…しかし彼は伸ばした腕でマフラーを取り、背を向けて上着を羽織る。あのシーンで、なぜあんな微笑みを浮かべるんだろう?

よく晴れた休日、3人は町に繰り出し、スピード写真を撮ったり自転車に乗ったりと仲睦まじく過ごす。彼等は全員が全員、ついこの間まで「他人」だったんだなあ、だからこそ上手くいくのかもしれないなあ、と思ってしまった。
職場でのニックはパヴァロッティを大音量で流し、へんな柄のパンツを履いて踊りながら作業する。賄い料理を皆にいそいそ振舞う。彼のような男って、実は友達がいなかったりするものだ。だから休日だって空いてるし、不意に訪ねても迎えてくれる。それは彼が暮らす、倉庫のような、天井高のある部屋の雰囲気にも現れている。私はこういう人って男としては好きだ。
そうそう、彼が考案した「デザートボックス」は、中に何を入れるんだろう?おウチ用のピザやティラミスはでかくてダイナミックなのに、職場ではああいう可愛らしい商品を作ってしまうあたり、いい男だなと思った。

厨房に出入りするようになったゾーイが、超高級トリュフを生ゴミ扱いしてしまうくだりで、自分の子どものころの思い出が蘇った。ある日曜日、庭のコケを「汚い」と感じて、全部スコップで剥がして、捨ててしまったことがある。怒られはしなかったけど、びっくりされたっけ。

(07/10/08・バルト9)


エディット・ピアフ〜愛の賛歌〜 (2007/フランス‐チェコ‐イギリス/監督オリヴィエ・ダアン)

新宿武蔵野館にて。最近はちょっと遠めの映画館に行くことも多いけど、この映画は、なんとなく新宿で観たかった。

いきなり関係ないんだけど、冒頭に流れるパリの下町の情景に、漫画「風と木の詩」の終盤を思い出してしまった。
ちなみに風木を読むと、私はニール・ジョーダンの「クライング・ゲーム」に出てくるカエルとサソリの話を思い出す。好き合っていても、自分や相手の性分で、あるいは環境の問題で、上手くいかないことがある。ドラマチックなストーリーでなくとも、自分にも何度か経験がある。

閑話休題。人の顔を覚えるのが苦手な私は、ピアフ以外の登場人物の見分けがつかず困ってしまい、同行者に「誰?」「誰?」と聞きながら観ており、しまいには誰か出てくるたびに「ダンナだよ」などと教えられていた。
そんな中でも心に残ったのは、ピアフの祖母役のカトリーヌ・アレグレ。シモーヌ・シニョレにそっくり…と思ってたけど、今調べたら、娘なんだ〜!あのいかにもフランス女というかんじの顔、見惚れてしまう。
ピアフ役のマリオン・コティヤールについては、足首の無い棒のような脚(錯覚なのか、ボディメイクなのか?)が印象的で、「クイーン」のへレン・ミレンの脚(あれは地だけど)を思い出してしまった。ピアフについては歌以外知識がないから、本人はどうだったか分からないけど、ああいう子どもっぽい歩き方をしていると、ああいう脚になるのかな?と思った。

舞台で倒れながら何度も登場し直すピアフと、盛大な拍手で迎える観客の姿には、芸人の運命の残酷さを感じてしまった。穴を埋めるように表現し続ける者と、奪う者。でもそうしなければならないのなら、仕方ない。
それにしても、子どもの頃から周囲への接し方が全く変わっていない彼女に対し、周りの人たちはなぜあんなに献身的なんだろう?(実際、無名時代からの友人モモーヌが反抗するシーンもある)。同行者は「フランスの宝を守るという意識があったのかも」と言っていた。

ピアフとボクサーのマルセルは、恋におちる。彼が用意した出会いの席での、サンドウィッチの中身がすごかった(笑)しかしピアフは、女性が歌うシャンソンの詞のように…演歌の詞のように相手には合わせず…自分の土俵に彼を招く。
とあるシーンの、彼をみつめるピアフの顔のアップで、彼女の小鼻がふくらんでいたのが面白かった。私もああいう顔をすることがあるんだろうか?
彼の優勝を祝う「100万本のバラ」の後、ベッドの中での彼女の笑い声が、歌のつづきのようだったのも、印象に残った。

(07/09/29・新宿武蔵野館)


ミス・ポター (2006/アメリカ‐イギリス/監督クリス・ノーナン)

オープニング、あるていど年季の入った女性の手が、鉛筆を取り、ナイフで削り、線を引く。筆を出し、絵の具を水で溶き、画用紙に色を塗っていく。これは面白そうだ〜と思ったら、やはり、なかなか面白かった。
終盤は「お金があればやりたい放題できる」という話で可笑しかった。

1902年のロンドン。上流階級の娘、ビアトリクス・ポター(レニー・ゼルウィガー)はウサギのピーターが主人公の絵本製作に熱中。縁談を蹴っては出版社への売り込みに精を出していた。彼女の世界に魅了された駆け出し編集者ノーマン(ユアン・マクレガー)と二人、ベストセラーを生み出し、恋におちるが、ビアトリクスの両親は身分違いの結婚を許さなかった。

ポスターを目にするたび「名取裕子にしか見えん」と思ってたけど、レニー始めキャストが皆よかった。彼女のぽってりした指や、ぼやけてゆがんだ輪郭の唇が、「普通の女性」の幸せから遠いところに立っていることを感じさせ、物語にはまっていた。
「幸せは主体によって変わる」ということが頭では分かっていても(分かっていない場合は勿論)言動に表せないために、少数派にとって多くの問題が起こる。相手に対する言動だけでなく、自分自身のコントロールにおいても。
いかにもイギリスらしいのが、ポターと父親の会話。
「これはお父さんとは関係のないことなの」
そう言われた父親は納得し、愛しそうに娘の頬をなでる。日本ではこういう展開にならないところだ。
加えて私も実家にいた頃、よく両親に頬を撫でてもらったのを、懐かしく思い返した。

お嬢様レニーの外出には、お目付け役の老婦人が付いてくる。妙齢男子のノーマンと一緒のときは、普段より目力こめて付いてくる。時代と文化の違いと分かっていても、こんな仕事たいへんだなあとつい思ってしまうけど、彼女に関してもちょこっと笑えるシーンがあり、ほっとした。
外出時、彼女は先を行くレニーとノーマンの三歩ほど後ろを付いてくる。ノーマンはたまにちらっと振り返る。ユアンはほんとうに儲け役!あらゆるシーンで好感を持たずにはいられない。いかにもイギリスらしい?キスシーンも良かった。歌声を披露するシーンも(笑)良かった。

湖水地方の風景もいいけど、おウチの中を見るのがそれ以上に楽しかった。
ビアトリクスの部屋は、子ども時代には弟と一緒。二人の寝るベッドがすてきだ。さらに大きなドールハウスがあって、寝る前のビアトリクスの「お話」は、その中を舞台に展開する(登場人物は、カゴから出したペットのネズミ!)。
ティーセットも、上流階級のビアトリクスの家(彼女いわく「成り上がり」だけど)のものは陶器製でいくつも種類があるけど、商人であるノーマンの家は銀製。キューカンバーサンドと並んだパウンドケーキを、アタマぼさぼさの独身主義者のお姉さん(エミリー・ワトソン)が無造作に食べる。どこの家でも、それはそれで楽しそうだ。

(07/09/16・日劇)


厨房で逢いましょう (2006/ドイツ‐スイス/監督ミヒャエル・ホーフマン)

ドイツの田舎町。シェフのグレゴアは、毎日3組の客を「1人300ユーロ」でもてなすレストランを運営し、高い評価を得ていた。人づきあいをしない彼の楽しみは、カフェでとあるウエイトレスを眺めること。ひょんなことからその「エデン」(=原題)と知り合う機会を持ち、以来彼女は、彼の料理を食べに厨房へ訪ねてくるようになる。
ポスターや予告編から「料理一筋に生きてきた不器用な男が、初めての恋におちる話」みたいのかと思っていたら、全然違ってて、料理もあまり美味しそうじゃなくて、最高に面白かった。

冒頭、食材と戯れながら料理をするグレゴア。その巨体に、ベタすぎて普段は思いつきもしない「何を食べたらこんなに太るんだろう…」という言葉が頭を過ぎると、彼が「お腹を大きくするために頑張った」回想シーンが挿入される。映画に「太った人」はよく出てくるけど、その歴史を見せてくれることはあまりないから、嬉しかった。
料理中の彼は、食材に頬ずりしたりしゃぶりついたりと、情熱の赴くままといったかんじ。「レミーのおいしいレストラン」でねずみが料理するのとどっちが汚いと「感じる」かっていうとこっちかな、体面積でかいし…などと思いながら、昔持ってた食べ物紹介本の中のエピソードを思い出した。新聞記者の筆者が、毎朝上半身裸でご飯を炊く職人さんについて紹介したら、奥さんに「裸で料理するなんて不潔」と言われて驚いた、というくだり。私は汚いとは感じないけど(自宅でなら裸で料理することもなくはない)、まあそういう人もいるということだ。

エデンはグレゴアの料理に魅了され、彼のもとへ自転車で通う。グレゴアは彼女に魅了され、厨房の隅のテーブルで料理をふるまう。二人が逢っていることを知ったエデンのダンナは、嫌悪感からグレゴアに文句をつける。
3人から、好き勝手に伸びた植物が、ところどころで触れ合っているというような印象を受け、それぞれの個性を爽快に感じた。
しかし、ダンナがグレゴア宅に押しかけて「頼むからここから去ってくれ」と懇願するシーンでは、エデンとグレゴアとの関係とは違い、彼女とダンナの関係との間には、絡み合いがあったんだなと思った。
もともと料理って、一方的になりがちなものである。私は男の人に料理を作るのと、作ってもらうのと、今んとこ後者の方が多いけど、自分で作って一緒に食べないということはまずない(逆は…つまり自分だけ食べることは結構ある)。自分も食べることで、共有する楽しさ…加えて、ときには面倒…が生まれる。グレゴアは、料理を食べる彼女をみつめるのみで自分は食べない。正確には、始めは自分の皿も用意してたのが、次第に彼女の分だけになる。そういう人がいたって勿論いいけど、私的なつきあいなら、ちょっと気持ちわるい。
エデンはグレゴアの厨房を訪ねる際、チャイムを何度も鳴らす。私なら、一度鳴らして反応がなければ、手が離せないのかなと考えてしばらく待つ。しかし彼女は、彼が出てくるまで鳴らし続ける。あまりものを考えない女性のようだ。だからグレゴアのところへ通うなんてことができたのだろう。

これまではみつめるだけだったエデンと、会話を交わすようになったグレゴア。公園で知り合い、次にカフェに出かけた際には、彼女から話しかけてくる。そのときの彼の顔…これまで映画で見た中で最も、と言っていいほど「喜びに満ち溢れた顔」だった。

ところで、あれはドイツの、どういうかんじの町なんだろう?カフェではリタイアしたらしき老人達が毎日ダンスのレッスンを受けている。グレゴアのレストランには、お客が遠方からクルマで訪れる。ダンナは二人の噂が「もう皆に知られてしまった」と憤慨する。そういう町だ。グレゴアはなぜ、ここでお店を開いてるのだろう。生まれ育った土地なのだろうか。
それから、エデンがカフェでつけていたエプロンがとても可愛くて、欲しくなった(エプロンしたことないけど…)。白いレース編みみたいので、小さくて、ちゃんとポケットがついているやつ。

(07/09/08・Bunkamuraル・シネマ)


愛しのアクアマリン (2006/アメリカ/監督エリザベス・アレン)

買い溜めした花火もまだ残ってるのに、もう夜は涼しくなってしまった。
終わってしまう夏を惜しんで、前から気になってた「愛しのアクアマリン」をレンタル。
海辺の町に暮らす女子高生・クレアとヘイリーのもとへ、嵐の夜に人魚がやってくる話。

冴えない高校生二人組のところに、異世界からお友達がやってくる…というストーリーは私の昔からのお気に入り映画「原始のマン」に似ている。
(以前にも書いたけど、「原始のマン」で、原始人のブレンダンが初めてライターに遭遇する場面が、私の「見るだけで元気になれる映画のワンシーン」)
「原始のマン」しかり、こういうカルチャーギャップものは、やってくる「お友達」がよほど素敵でなければ…「天使とデート」のエマニュエル・ベアールが一番分かりやすい例かな?…一気に安っぽくなってしまうものだ。それはそれで楽しいけど。この映画の人魚・アクアマリンはあまりぱっとしないので、最初違和感を感じたものの、次第に可愛らしく見えてくる。
ヒーロー役の男のコも好きになってしまった。お部屋で腹筋やってるのを見て、筋トレが、ノルマじゃなく趣味である男のコっていいなと思った。

アクアマリンが一枚のTシャツを色々アレンジして着るのを見て、10年くらい前だったかな、通販番組で「色んな着方のできるドレス」というのを売ってたのを思い出した。


オフサイド・ガールズ (2006/イラン/監督ジャファル・パナヒ)

2006年のイラン、テヘラン。ワールドカップ最終予選の対バーレーン戦が開かれるというのに、女性は法律によりサッカー観戦ができない。しかしあきらめきれない少女達は、男装してスタジアムにもぐりこむ。

詳しい内容を知らなかったので、サッカー版「デトロイト・ロック・シティ」みたいな話、つまり最後に「観られてよかったー!」となるのかと思いきや、そうではなくて驚いたけど…というか実際にスタジアムで撮影したんだから、そんな結末、撮れるわけないけど…面白かった。
(これから観る人は、以下のネタバレ?は読まないほうがいいと思う)

冒頭、ガタガタのバスに乗り、うるさい男どもに混じってスタジアムに向かう一人の少女。しかしゲートの身体検査を拒んで捕まり、スタジアムの壁の裏の柵の中に拘束されてしまう。そこへ次々と加わる女の子。どの子の顔もキャラクターも、日本でもああいう子いるよな〜ってカンジで可笑しい。高い壁の向こうから聞こえる歓声にじれる様子は、舞台劇にしたらさぞかし面白いだろうなあと思わせられた。
登場人物は、こうして捕まった「オフサイド・ガールズ」と、彼女達を取り締まる若い兵士数名。一番各上の兵士は、とにかく無事にこの場を乗り切って、徴兵期間を終えたい。故郷には親と、世話する者のいない家畜が待っている。「悪人」じゃない。任務をこなそうと頑張る彼は、女の子に色々問われても戸惑うばかりだ。

印象的だったのは、自国チームが点を入れたと知った女の子たちが、柵の中で「イランばんざい!」とはしゃぐ場面。試合を観られないのに「イランばんざい」。多くの人にとって自分の出身国とは、自分の周りの人やテレビで観るサッカー選手とか…のことなんだなと思った。そのあたりが、人間のあったかくて弱いところだ。何かを変えるには、誰かがそこから抜け出して、なんとかしなくちゃいけない。

サッカー場は小高い場所にあり、彼女達が拘束されているスタジアム外部からは町が見渡せる。日が暮れてぽつぽつ明かりが灯りだす風景が、素朴でとても感じがよかった。

(07/09/01・シャンテシネ)



表紙映画メモ>2007.09・10