シネマート新宿にて先行上映。こういうの観るときはポップコーンが食べたいのに、ここにはフリトレーの袋入りしか売ってないのが残念(買ったけど)。以下ネタバレあります。
映画好きになったキッカケが、子どものころ父親と観てた日曜洋画劇場である私にとって、ダイ・ハードのような映画が「つまらない」ということはありえない。今回もとても面白かった。
イスに座ってばかりの男は好きじゃない。ブルース・ウィリスは好みじゃないけど、マクレーンは車の座席以外にほとんど座らないから、好感が持てる。ハンドルひとつで倒れそうなトレーラーを持ち直させたシーンには爆笑してしまった。敵方も「サイバーテロリスト」なわりには、メガネの人などを除いて上から下まで(幹部から使い捨てまで)結構動く。
マクレーンと対照的な相方のジャスティン・ロングも可愛かった。最後に甘いもの、食べさせてあげたかった…
ハッカー界のジェダイ、というよりジャバザハットのケヴィン・スミスも良かった。同行者はスターウォーズ好きだけどケヴィン・スミスは知らない、でも彼が実際にスターウォーズのファンということは伝わったらしい。
敵のボス(ティモシー・オリファント…「ロック・スター」の長髪ギタリストよりは一億倍カッコいい)がやたらデリケートなとこも可笑しい。彼等が流すテロ宣言の映像(歴代大統領のスピーチをつなげたもの)が面白かった。
映画では都会の混乱ばかりが取り上げられており、なんとか省とかの建物から職員がぞろぞろ出てくるシーンがたっぷり堪能できたけど、田舎の一軒屋でこんな放映に遭遇した人は、どんなふうだったろう?と想像してしまった。
敵の双頭のボス役、マギーQは「80デイズ」と同じような悲惨な死に方をする(後述…間違い、カレン・モクだった)。つぶしがいのある顔なんだろうか?(笑)
映画を観ていて、誰かに負の感情を持つことはあまりない(つもりだ)けど、今回の彼女に対しては、早く消えてくれないかな〜と思ってしまった。マクレーンがちょこっとだけど髪、引っこ抜いてくれたから、嬉しかった(笑)
(07/06/23・シネマート新宿)
2時間以上あるからと、同行者がドーナツプラントのマンゴドーナツを買っておいてくれたのに、エンディングまで手が伸びなかった。隣の男性は中盤より、前の座席に手をかけて前のめりで観ていた(私もたまにするけど、他人がしてるのを見ることはめったにない・笑)。
薄暗い19世紀末のロンドンで、マジシャンのアンジャー(ヒュー・ジャックマン)とボーデン(クリスチャン・ベール)が、人生を賭けての騙し合いを繰り広げる物語。
映画はマイケル・ケインの語りで始まり、幕を閉じる。この映画自体が、彼の手にかかる贈り物、マジックショーのようにも感じられる。
まずはケイン様が斧を携えるのにドキドキ。男性が重いもの持ってる姿って好きだ。まだ斧を振り下ろすだけのチカラがあるのに安心した(それとも力が足りずあんなことになった…とは思わないけど・笑)
その他クリスチャン・ベール、ヒュー・ジャックマンとメインキャストは大男揃いで、それだけで目を楽しませてもらいました。スカーレット・ヨハンソンがアクの無い役をやっていたのも観やすかった。
クリスチャン側の事情は、彼がサラの部屋を初めて訪れた際に推測できてしまった(しかしあんな「日常瞬間移動」男、絶対ヤダよね…)。
サラが知れば「なんだ、つまらないのね」と言うだろう。でもそういうこと、言っちゃあいけないし、そういうもんじゃない。ケイン様の言うとおり「あれしかない」というだけのことだ。彼はクリスチャンをけなしているわけではない。その言葉にそれ以上の意味はない。
ニコラ・テスラを演じたボウイの、薄気味悪い声が良かった。アンジャーを招いてテラスで食事するシーンでは「地球に落ちて来た男」を思い出してしまった。雪野原一面に電球が輝くシーンも印象的だ。
彼と対立するエジソンが、姿は見せずともその存在をアピールしているのが面白い。この映画が、何かに憑かれた男達の話だということだ。
ヒュー・ジャックマンは「新・瞬間移動」に盲目の助手を雇う。彼等は100日間の舞台の間、黙々と仕事をこなす。「目の見えない者が必要だから依頼する」側と、「引き受けて仕事する」側との、湿っぽくない淡々としたギブ&テイクの関係が、観ていて心地よかった。
(07/06/10・日比谷スカラ座)
国税局に勤めるハロルド(ウィル・フェレル)は、決まりきった生活を送る平凡な男。しかしある日、自分について語る「声」が耳に飛び込んでくる。それは、彼を主人公に小説を書くカレン(エマ・トンプソン)のものだった。
出てくる建築物の内や外、ディティールが面白く、興味ぶかく観ました。エンドクレジットで、建物があらためて見られたのも良かった。それにウィルが同僚に振舞われる日本料理は間違いなく、今年観た映画における「不味そうなもの」ベストワンだ(しかしどちらも手を付けてなかったのは残念…)。
同行者はウィル・フェレルが苦手なんだけど(「ズーランダー」的な、つまり彼の彼たるところがダメらしい)、この映画の彼はとても良いと言っていた。ちなみに他に誰なら役に合ってるかというと、スティーヴン・トンプキンソン(「ブラス!」のトロンボーン奏者/二人とも名前は知らず)だそう。
私の一番好きなシーンは、スランプ中の「作家」エマ・トンプソンのところに、「作家アシスタント(編集者?)」クイーン・ラティファがやってくる場面。プロの二人は互いに堂々としており、見ていてすがすがしかった。「タバコの吸殻を買ってきた」というセリフも可笑しい。
あんなアシスタントがほんとに居るのか知らないけど、自分に向いてるかも…と思った(創造的な仕事は苦手だけど、めんどうな誰かのめんどうを見るのは「仕事なら」嫌いじゃない・笑)。
エマ・トンプソンはほとんどよれよれのパジャマ姿だけど、その姿はとても美しく…というか心地よく、最後に普通の洋服を着たときなど、あまりに美人なので驚かされた。全篇通して耳にした彼女のナレーションはすごく聴きやすかったし、陳腐な言い方だけど、ちゃんと筋の通ってる人間の美しさだ。
ウィルが惚れちゃうマギー・ギレンホールについては、ああいうパン屋のあり方があるのか、と気付かされた。日本じゃ難しいだろうけど、定食屋や立ち飲み屋みたいなカンジで、若者から年寄りまで皆がふらっと立ち寄る。パン屋って、スローフードに一家言あるような人がやるもんという勝手なイメージを持ってたけど、彼女は怒ると生地を投げつけたりして、やたらとパン、大事にしてない。私にもできそうだ〜と思ってしまった。
ウィルがバスの中で「自分が主人公の小説」に熱中するシーン。日本なら(都バスなら?)終点に着けば下ろされちゃうのに、おそらく何往復もして、読み終える。バス好きの私にとってはそれも羨ましいし、自分の人生における「ギターを弾くシーン」はなんだろう、と思わせられた。たとえ早くに死んでも、人生にああいうシーンがあり、しかもそれを小説で読めちゃうだなんて、幸せなことだ。
(07/05/27・みゆき座)
一月ほど前に大林宣彦版を観返したこともあり、レンタル新作で並んでたアニメ版を借りてきました。
まずは大林宣彦版の話。80年代の邦画などを観てまず思うのは、昔の男の子は無愛想だということだ。今の私の感覚からすると、皆冷淡なので驚かされる。しかしそれが却ってロマンチックでもあって、今みたいに、男女がむやみに理解あるフリして擦り寄ってない、その距離感にドキドキさせられる。
「わからないわ…この気持ちは何?これが愛なの?」
(最後に原田知世が口にするセリフ)
夜は毎日ウチに帰ってゴハン食べてた頃の、恋。ほんとの恋っていうのは、そういうもんだと思う。今の私にあるのは、様々な「人間関係」だ。どっちがいいとかじゃなく、今はもう、そうしかならない。
理科室の原田知世が起き上がって歌い始めるエンディングに触れると、例えば80年代の音楽、ひいては文化に自分が安らぎを覚えるのは、それ自体が持つ何かによるものなのか、色々なものに守られて安らいでた当時の記憶によるものなのか、たぶんどちらの要素もあるんだろうけど、そういうことを考えてしまい、結局甘い気持ちにさせられる。
アニメ版については、劇場公開時、テアトル新宿の前を通るたびにポスター目にして、何で空飛んでるんだろう?と思ってたものだけど、初めて意味が分かった。ほんとに駆けてるんだ。
私はアニメ独特の躍動感が苦手なこともあり、主人公が駆けながらやたら人にぶつかるのが気になってしょうがなかった。だって迷惑じゃん…?自転車で坂を下ってくシーンも、実写よりなぜか不穏な感じを受ける。
でも色使いなどキレイで、理科室のシーンでは、室内の、陽が当たってるとこと当たってないとことの温度差が伝わってくるようだった。
「ある日どこかで」において、クリストファー・リーブは「時をかける」ため、ひたすら「頑張る」。初めて観た時、このシーンに凄く違和感を感じたものだけど、今では、そういうものなのかもしれないと思う。
逆にがんばりようもないのは「恋はデジャ・ヴ」のビル・マーレイで、かけてしまうのを食い止めるのは難しいものだ。
ホテルの最上階に滞在中のターゲットを狙い、名うての殺し屋が集結する話。司法取引のためその身を保護するFBIの上司にアンディ・ガルシア、その部下にレイ・リオッタ、ライアン・レイノルズなど。冒頭から、相も変わらないレイ・リオッタの下まつ毛に目を奪われてしまった。
次々と繰り出される登場人物の多さに、顔覚えるの苦手だからどうしようと思ってたんだけど、人が多いこと以外は親切な作りで、中盤から安心して観てました。
殺し屋のキャラはいかにもというカンジに泥臭くバリエーションに飛んでて、メタル流しながら登場するネオナチ三兄弟とか…この手の映画観ると、当たり前だけど、登場人物と全くかけ離れた人たちが作ってるんだろうな〜と思ってしまう。さらに観賞後、振り返って客席を見てもしみじみ思う。ノンフィクションだけど「ヨコハマメリー」では、突然カメラに入ってきた作り手側の姿に、語られてる世界との差異を感じてしまい戸惑ったものだ。
何と言っても、女二人組の殺し屋、アリシア・キーズと、彼女をアイパッチ姿で援護射撃する相棒が良かった。
アリシアは娼婦に混じって忍び込むため、それらしい格好をするんだけど、カッコよすぎて、安手の娼婦達のそれ…嫌いじゃないけど…とはやっぱり違う。脱ぐためのペラい服じゃなくて、自分を守るための戦闘服だから。相棒の「ビッグ・ママ」越しに見られる着替えシーンで、その下に一生懸命防弾着やら胸やら押し込んでたのも面白かった。
(07/05/20・新宿東亜)
カウリスマキファンの私も「ロッキー」を観る。これこそ以前書いた「それはまた、べつの話」だ。当たり前のことながら、人生って、ゆずれないものと、ゆずれるものと、両方で出来ている。
閑話休題。最近「1」だけ観直したんだけど、こんなんだったのかと驚いた。「サタデーナイト・フィーバー」を大人になってから観たときと似ている。ロッキーのモッタリした喋り方や、その内容が好ましかった。彼の英語は、私には聴き取りやすい。それに自分も身振り手振りが激しい方なので、一生懸命手を振り回しながら喋る姿に、なんとなく共感してしまう。
「ロッキー」は練習シーンが短いところが好きだ。
「お前は走れないし、関節もボロボロだから…先祖もブチのめすような重いパンチでいくしかない」ってことで重点的に特訓するんだけど、そのバリエーションが面白かった。ドラム缶放り投げたり、重量上げしたり…実際のボクサーがあんなことしてるとは、思えないけど(笑)
その後「もう試合?」というカンジでゴングが鳴るんだけど、はじめはテレビ中継のようなスタイルで、途中からちょこっと凝った映像になるあたり、飽きさせない。試合終了からエンディングまでのさらっと感も良かった。
それにしても、「ロッキー」ってなんだか寂しい。2から5は覚えてないけど、少なくとも1や今作は、町が映るときは朝か夜で、人があまり居ないってのも原因だ。あの近所、昼間はどんな様相なんだろう?
映画はロッキーの朝の一幕から始まる。まだ飼ってるカメにエサをやり、飲み終えたカップを玄関先に置き(この意味が分からなかった)、鉄棒で4、5回懸垂して、エイドリアンの墓へ向かう。寒々しいけど、生きてる、息づいてるというのが伝わってくる。
(07/05/19・シネマート新宿)
ユナイテッド・シネマとしまえんにて。ウィンブルシート(作品の音響に合わせて振動するシート)を取ってもらい、サーティワンアイス片手に観賞。予告編の際からブルブルする。すぐに身体が慣れてしまうのが却って快適だった。腰にいいような気がする。
オープニングのかっこよさは「2」ほどじゃなかったけど、本編は面白かった。同行者いわく「脚本家8人くらいで書いたのかと思った」。つまり何でもアリだった。
「サンドマン」がトーマス・ヘイデン・チャーチだったなんて!見慣れた顔だと思いつつ、エンドクレジットまでそうと気付かなかった。私にとっては彼はいつまでも「ジャングル・ジョージ」のヨワヨワ坊ちゃんなのに。「ジョージ」では、ブレンダン・フレイザーがデカすぎて、隣の彼が小さく見えてたとしても、どうやってあの身体、作ったんだろう?
役者の変化といえばもうひとつ、ジェームズ・フランコが登場した際、あまりにも老けて見えたので驚いた。これまでは、初々しさがある彼に入れ込む楽しさもあったのに、少年隊の人みたくなってて、どうしようと思ってしまった。その後はまあ、挽回してたけど。
映画全体からは、へんな言い様だけど、「ザ・NY」という印象を受けた。
MJがゆく歩道の人の多さ、現金輸送車に吸い寄せられるように現れる悪人。そして登場人物は皆、皆ひとりぼっちだ。黒スパイダーの威力を得たピーターがクラブで踊ると、皆が拍手喝采しその場は一体となるが、次の瞬間には、もうそれぞれの方を向いてる。
でも映画はまぼろしだから、最後には、近しい人々の間に繋がりが生まれて終わる。
冒頭、MJとピーターは、ウェブで作ったハンモックでデートしている。仰向けになり星空を見上げる二人。両手を頭の後ろに組んだピーターの隣で、MJは片手しか組めないから、もう片方の腕は下ろしている。ピーターって、こんなふうに常にこっちが気を遣わなきゃならない男だ。
ワルくなった彼が大家さんの娘に「クッキー、ナッツのも焼いて」(だかなんだか)ってのが笑えた。そんな欲望って。
(07/05/05・ユナイテッドシネマとしまえん)