うちのママが言うことには(1988年ヤングユー2月号〜1994年8月号)
ОLのけいとと編集者の英太郎。結婚を考える仲だが、なかなか上手くいかない。
日常生活の些細なことでケンカやすれ違いは絶えないけれど、二人がいればなんとかなるかも。
珍しく長く続いたコメディです。連作っぽい構成なので読みやすい。
なんといっても面白いのは、英太郎の担当作家・拓子先生。普段は横のものを縦にもしない英太郎が、拓子先生に原稿を書いてもらうためなら掃除から買い物までコマネズミのように働きます。
「あのわたし ミルクティーにしてくださいね」「あ ミルクは先に入れてくださいね それからあつうい紅茶をそそいでくださいね」(「え?ティーバッグじゃダメかな?」)「だめなんですう それも修羅場はヌワラエリヤって決まってるんです だめなんです」(「わかりました」…)「ちがうっ 甘夏さん カップは小鳥のカップ いろんな小鳥がいっぱい飛んでるカップ」
これを読んで、初めて「ヌワラエリヤ」という紅茶の銘柄を知りました。
年を経て読み返すにつれ、面白くなってくる作品です。
冬の星が踊る(1989年ティアラ1月号)
幼なじみでともに作家の二人は、結婚し新しい家へとやってきた。
はたからみれば理想的な暮らし。しかし「人生には、思わぬ落とし穴が」あった。
これもまた血縁にまつわるストーリーです。
自分の力ではいくらがんばってもどうしようもないもの。そんな運命の前にはかなく翻弄される二人の姿が描かれます。
白いサテンのリボン(1993年ヤングユー6月号)
両親が離婚し、姉と離れて暮らしている波子。母親の前ではいつも、ものわかりのいい子供を演じている。
しかし彼女には、姉に絶対に渡したくないものがふたつあった。ひとつは若いころのおばあちゃんが着ていた、白いサテンのドレス。もうひとつは母との暮らし。
「この服だけは あたしにちょうだい そうしたら おばあちゃんが死んだ時 あたし 泣いてあげるから」
ほしいもののためにはなんの躊躇もなく行動する波子。しかし、夢にまで見たあの白いドレスはもはや彼女には似合わなかった…
アイリスの小鉢(1993年ヤングユー9月号)
マンガ家のママと、小説家のパパ、そして一人娘。家族が今度引っ越してきたのは海辺の町。
しかし、両親が引っ越しを繰り返すのにはとある理由があった。
この両親はともに30歳で、13歳の娘を持っています(これにはオチがあるのですが)。岩館真理子の作品に出てくる女性はたいてい、若くして結婚もしくは出産をしている。このことは作品をファンタジックにしている要因のひとつだと思います。
あるいは、恋というものがつねに「家族」とつながっている、という意味あいがこめられているのかもしれません。
天使の耳朶(1988年マーガレット3号)
父親の暴力に悩み、いつでも家を出られるように大きな荷物を持ち歩くマナ。
ある夜、父から逃げ出して海に飛び込んだ彼女は先生に助けられる。
その日から二人は美しい洋館で一緒に暮らし始めた。
歩くときに後ろを振り向く彼女のクセは、父親が追いかけてこないか確かめるため…
なぜあんなに美しい町の中に自分の家があるんだろう?と考える彼女には、はかなさと強さが奇妙に同居しています。
少女が二人、という設定は岩館真理子がよく使うモチーフ。(「5月にお会いしましょう」など)
さらに「自分」の境界線がぼやけて誰だかわからなくなる、という状況もよく出てきます。
この物語では、とある女性からもらった人形を介在して、マナは人形の持ち主だったもう一人の少女の夢をみる。マナが現実に体験した世界は、その少女の果たせなかった夢だったのです。
このように少女がお互いに夢をたくしあう、というのもたまに使われる設定なのですが、そこには「少女」の排他性、過剰な自意識なんかがみてとれるんじゃないかと思います。
少女とオトナの男の幻想的な関係、そこに現実味をプラスするキャラクターとしてクラスメイトの男子生徒などがうまく配置され、いかにも岩館真理子らしい世界が繰り広げられる一作。
花咲く森の乙女(1988年マーガレット10号)
この短編集の中では唯一、大人の女性が主人公の一篇。
同じマンションに住み、同じ職場で働き、同じように暗い過去を持つ二人。
彼等は互いに好意を抱いていたが、口にすることはなかった…
おかまバーで働く死ぬほどヒサンな履歴書を持つ二人、というちょっと風変わりな物語。
(考えてみれば「おかま」が出てくるのはこれが最初で最後かも…)
岩館真理子はどこまでも続く(続きそうな)坂や階段をよく描きますが、ここにも果てしなく続きそうなマンションの階段が出てきます。
主人公はその高層マンションの3階に住んでいるのですが、これまで一度も最上階に行ったことがなかった。意を決して昇ってゆくと、そこには封じ込めていた過去が…
ラストはちょっとしみじみするハッピーエンドで、心が安らぎます。
キララのキ(1996年ヤングユー9月号〜1998年ヤングユー9月号)
継母を嫌う16歳の十秋には、誰にも言ったことのない秘密があった。
それは昔、同級生のキララを木から落としてしまったということ。その日からキララは姿を消した。
しかし、ある日突然、少女に成長したキララが目の前に現れる…
私は人間関係図を作りながら読みました。複雑なんだもの。
謎がわかってすっきりした後でも何度でも読み返したくなる作品です。折り込まれる回想シーンや幻想シーン、画面構成など、マンガでなければできないことを最大限にやっているかんじがする。
それにしても、結局これは一人の男をめぐる物語だったわけだけど、当の男の影はものすごく薄い。完全に「女達の物語」になっています。このへんがいかにも岩館真理子らしくて面白い。
薔薇のほお(1996年ヤングユー5月号)
突然上から落ちてきた男にぶつかって、記憶喪失になった少女。彼女は自分に「のばら」という名前をつける。
男は仕方なしに居候させるが、徐々に二人の間には愛情が芽生え始め…
この作品は中原宙也の詩がモチーフになっています。「ポッカリ月が出ましたら、舟を浮かべて出掛けませう」というロマンチックな一篇。こういう引用は岩館真理子には非常に珍しいものです。
月がどこまでも追いかけてくる、というのは私も子供のときに思ってました。
土曜の夜、両親に車で書道教室に送り迎えしてもらってたんだけど、子供だから帰る時間にはもう眠くて仕方ない。車の中で横になって寝ようとするんだけど、窓からみる月がどこまでも追ってくる。それがフシギでフシギで、結局ずっと寝ないで月を見てました。懐かしい思い出。
ヴィヴィアンの赤い爪(1995年ヤングユー12月号)
謎の女流作家が書いた一篇の小説をめぐる物語。
こんな言い方は似つかわしくないけれど、意外などんでん返しにおどろかされます。
高校教師のアヤと編集者の隆行は、学生時代からの恋人同士。
ちまたでは正体不明の作家が書いたとある小説が話題になっていた。
それは、父とその愛人で赤い爪を持つヴィヴィアン、母、そして15歳の「自分」の物語。
アヤとの関係に行き詰まっていた隆行は、彼女がその小説を書いたのではないかとふと考える…
隆行がアヤを訪ねて自分の気持ちを訴えるシーンは、岩館真理子には珍しく大人の男と女のリアルな恋の一場面で、ドキッとさせられます。
黄昏(1993年ヤングユー2月号)
金魚を飼って喜んでいるような、冴えない両親にうんざりしている大学生の拓郎。
しかも、息子のために財産をはたいてわずかばかりの砂浜を買ったという。激怒する拓郎だが、火事のせいで二人は金魚と砂浜を残して亡くなってしまった。
「誰かがいる」ということの大切さに、しみじみ泣ける作品です。
ところで、「遠い星をかぞえて」で庄介おじさんが書く本の題名も「黄昏」でした。黄昏に象徴されるものとはなんなのでしょうか。
世界で1番(1990年ヤングユー6月号)
長い長い髪にまつわる、ちょっとしたお話。
男の人に髪を梳かしてもらうのはいいものです。とくに好きだった人に梳かしてもらった思い出は、頭がずっと覚えているものです。
アマリリス(1999年ヤングユー5月号〜連載中)
花屋の店員・桃田さんと、編集者・赤井くんの恋物語。
ふたりのすれ違いがコメディタッチで描かれます。
のんびり好きなように描いてるかんじが伝わってきます。
(ヤングユー2002年3月号掲載分の感想がこちらにあります)
冷蔵庫にパイナップル・パイ(1987年ヤングユー11月号〜1995年8月号)
大きな顔に三頭身のややちゃん。彼女のまわりには、おとさん(父)、ぶー坊(兄)、ぷぁるこちゃん(暴力的な同級生)、ケントさん(町で唯一十頭身のピアニスト)などがいます。
なんだかとても楽しそうな町を舞台にした、4Pずつのショート・ストーリー。
しかし、ややちゃんの家も父子家庭なんですね。彼女が母親代わりをしている。
1巻の回想シーンによると、亡くなったという設定のようです。
べつに母親がいても支障ないと思われるんですが、なぜでしょうか。ややちゃんの主婦っぽい面を際立たせるためかな。
アリスにお願い(1990年ヤングユー11月号〜2月号)
5年前、川べりの小屋を土砂崩れが襲い、中にいた女の子たちが亡くなった。
その事件の秘密を握るのは美名子とアリス。
両親を亡くした美名子は、事件で死んだ江利子の家に引き取られている。そしてアリスは美しくわがままで、皆があこがれる、女王様のような女の子。
事件の真相はいったいどんなものだったのか。
初めて会ったときからずっとアリスにこだわりつづけてきた美名子。実はアリスのほうも同様だった。
二人の少女の思惑がからみあい、ぶつかりあい、恐ろしくも美しい物語が展開されます。
ところでこの単行本の柱によれば、岩館真理子は「13から16、7歳くらいの女の子が好き」なんだそうです。
私ははっきり言ってこのくらいの年の子というのは苦手です。自分がその年頃だったときからイヤで仕方なくて、早く大人になりたいとずっと思ってました。自分が不器用でバカで恥ずかしかったからでしょうか。
だから今でも、受け入れられるのは岩館真理子の描く少女だけです。
子供はなんでも知っている(1988年ぶ〜け9月号〜1996年3月号)
親同士の再婚で、ひとつ屋根の下に住むことになった沙羅ととうた。
実は二人は1年前に別れた恋人同士だった。
よくある設定ですが、岩館真理子の場合ドラマチックな展開などはありません。
ストーリーらしいストーリーはなくて、ひたすら沙羅ちゃんがドタバタしているという印象があります。
連作形式なのですが、なんと1年に一話ずつ描かれている。
雑誌で読んでるほうとしては戸惑ってしまったのではないでしょうか。(「前回までのあらすじ」とか掲載されてたっけ?)
ネコのいる生活(1990年ぶ〜け6月20日増刊号)
雲の名前(1992年ヤングロゼ11・12月号)
かつて娘を捨てて他の男のもとへ走った母親。
しかし彼女は、その男のもとからも姿を消してしまった。
娘はその謎を探るべく、お手伝いさんとしてその家庭に入りこむ。長い長い階段を昇ったところにある、空に近い一軒の家…
これを読むとなぜか私は「まるでシャボン」を思い出します。
夏の話だからでしょうか。岩館真理子の描く冬は印象的だけど、夏はもっと強烈だ。
ちなみにこの2作品は「ドラマ化したら面白そうだなあ」とも思ってます。
結構複雑なスジで、ミステリーの範疇に入るのでしょうが、生々しさがまったくありません。
家族の中で絡み合う複雑な感情、という点でのちの「キララのキ」に通じるところもあるかもしれない。最後のほう走りすぎな感もあるので、もっと長い頁数で読んでみたかったです。
謎のカギを握る、母親の夫であった男性が、見栄えのしないショボいマンガ家、というのがいかにも岩館真理子らしい設定でおかしい。
夏が来れば思い出す(1991年ヤングロゼ9月号)
綺麗(1990年ヤングロゼ11月号)
パリ旅行記(1992年ヤングロゼ11月号)
ペットでごじゃる(1991年ヤングロゼ10月号)
まだ八月の美術館(1995年ヤングユー9月号)
16ページの掌編。駅前の美術館で、ちょっとマヌケな行動に出てしまうカップルの話。
こんなくだらない…とぼけた話、岩館真理子にしか描けないでしょう。
天気図(1991年ヤングユー10月号)
春の国(1992年ヤングユー6月号)
ホロホロ鳥(1993年ヤングユー1月号)
美代子さんの日記(1999年ヤングユー2月号)
いまどきらしく電子手帳が登場する一作。
雪かきの途中、屋根から転落して意識を失った美代子さん。彼女の電子手帳をみつけた娘が中をのぞいてみると、そこには隣に住む大学生の男の子への想いがつづられていた。
母親も一人の女であるということを認められるか否か、というのはよくあるテーマですが、この話のラストはさらっとしていて好きです。
ピーチとシナモン(1998年ヤングユー11月号)
サヨナラの約束(2001年ヤングユー2月号)
月と雲の間(1999年新マグナム増刊9号〜2000年20号)
三日月型の看板を掲げた一軒のコンビニ。
そこにやってくる人たちと店員さんをめぐる、心があったまる物語。
中心人物がオバサン、というのはこれが初めてじゃないでしょうか。
しかもこのオバサン、登場時こそ眼鏡ごしにつぶらな目がみえてるんですが、その後はほとんどのシーンで目がありません。眼鏡だけ。
身体の横幅もずいぶんあるし、いかにも「オバサン」な言動でまわりを振り回すのですが、読んでるうちに可愛らしく感じられてきて、ラストシーンでベランダから月をみあげる彼女の後姿にはじーんとさせられました。
このオバサンと二人の娘がコンビニのおもな常連さん。娘たちはオバサンの離婚によってばらばらに暮らしています。
そのほか、「月を買いに」やってきた小さな女の子、さらに彼女たちの周りの人々のちょっとした日常風景をはさみながら、話はがちゃがちゃのんびりと進んでいきます。
「黒い雲が月を覆ってしまっても、月と雲の間にははるかな距離がある」というのがタイトルの由来であり、登場人物たちはそれぞれ月を見上げていろんなことを思います。
今は隠れていて見えないかもしれないけど、月は決してなくなりはしない。
タイトルの由来がはっきり語られるというのは岩館真理子の場合あまりないことなのですが、今回はちょっとしつこいくらい「月」のモチーフが繰り返されます。
このことが脈絡ないエピソードの数々を優しく包み込み、物語のバランスをうまくとっています。
昔「寂しい女は太る」という本が流行ったことがありますが、このオバサンもいわばそのクチ。
でも私はそういうのもいいんじゃないかと思ったりします。
だって夢や目標を持つこと、愛し愛されること、それらもしょせんはなにもなしで生きられない人間の生きるよすがだと思うから。実際、なにもしなくても人生は過ぎていくのに。
表紙の折り返し部分がまたいい。裏はともかく、表にはオバサンがうじゃうじゃ。
いつか、どこかで雨の日に(2000年新マグナム増刊16号)
春がこっそり(1977年週刊マーガレット9〜22号)
ほとんどしゃべったこともないけれど、ずっと好きだった同じクラスの男の子。
彼は卒業を前にして亡くなってしまった。
少女は戸惑うが、ひょんなことから一人の男子生徒と知り合うことになり…
主人公は日曜大工の得意な女の子、カギとなるのが彼の机のラクガキ、というのが乙女ちっくでかわいらしい一作。
「夕焼けを食べたら苦かったの」というのはちょっと詩的でいい。
千年眠らない(1989年mimiエクセレント13号)
幼いころつくりあげた架空の弟に、忘れられない男の姿を重ね合わせる主人公。
その幻想に、彼女を気に入って勤め先を訪ねてくる男性、という暖かい現実のスパイスがよく効いて、例のごとくふんわりした物語になっています。
ところで、この本の記載と集英社文庫「イラストレーションズ」のリストでは初出が1年違っているんだけど、どちらが正しいのでしょうか?
鈴鈴(1984年ヤングロゼ3月31日増刊号)
ネコのいる生活(1990年ぶ〜けセレクション13号)
ネコを飼うのがいかに大変か、よくわかる2作。
(羽根布団にネコがおしっこ→仕方ないので手洗い→外は雨…→通販で買った室内物干し…荷をほどいてないので組みたてる→干す→仕事に戻る→ネコが泣き出す→ゴハンをやる→まだ泣いている→再度ゴハンを用意しようと立ちあがる→座ってたイスを占領される これを〆切り数時間前にやっているというのはすごい)
(01/07/14)