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天国のこどもたちへ

養護学校編

私の教員生活は、養護学校からはじまりました。計6年間。

そのうち3年間は学級の担任をしましたが、後の3年間は訪問教育の担当をしました。

重度重複と言われる子達とも係わりを持たせてもらいました。

よく<特殊教育は教育の原点だ>という言われ方をしますが、

当時の私は、特別そうは思えなかったし、いくらか反発する気持ちもありました。

しかし今は、<確かに原点といってもいいのかもしれない>と思えるようになりました。

そう思えるようになったことは、私にとっては『宝物』を得たようなものです。

そんな宝物をプレゼントしてくれた子どもたちの幾人かに、

感謝の気持ちを込めてお手紙を書いてみようと思っています。

今は、天国にいる彼らに。

Gさんへ

Hさんへ

Iさんへ


Gさんへ

 君に出会ったのは、教員になって4年目のことでした。それまでは、校内で学級担任をしていましたが、<養護学校の先生になったからには訪問教育も是非やってみたい>と思っていた私は、この年から訪問の担当になり、君と出会ったのでした。

 君のように、すべての面で全介助が必要な子は校内にもいたし、私もいくらか担当したことがありました。しかし、学級担任時代は常に複数担任制で、気心の知れた同僚と一緒にかかわっていたので、いざ、一対一で対面してみると(実際にはお母さんがすぐそばにいらっしゃったのですが)、何から始めたらいいのか、何をしてあげたらいいのか、戸惑うばかりでした。自分の力のなさを君に突きつけられ、無力感でいっぱいで、教員でありつづけることに疑問を抱かざるをえない日々でした。

 マッサージをしたり、拘縮予防の体操をしたり、君をバギーに乗せて公園に散歩にいったり、時には感覚遊びとして粘土をいじってもらったり、うどん作りをやったりしたね。でも、君はいつもされるままに手を操られているだけで、笑顔もほとんど見せてくれなかった。

 わたしはもっと、追究すべきだった。どうしたら君の笑顔が見られるか、どうしたら君の心に快いメッセージを届けることができるか。今もまだ、そのことが心残りです。

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Hさんへ

 君も、Gさん同様、身辺のことはすべて介助の必要な状態だったね。私が、まずすべきだと思ったことは、<君がどうしたら喜んでくれるか>を見つけることだった。Gさんの時にはそれが見つけられなかった、そのことに対する後悔が、<今度こそ>という気持ちにさせました。

 そんな私に、お母さんの「この子は、北風小僧の寒太郎を(カセットで)かけてやると、喜ぶんですよ。」という一言は、この上ないアドバイスでした。

 君は確かに『北風小僧の寒太郎』をかけてやると笑ってくれました。時には、いっしょに歌うかのように声まであげて。でも、私は、私自身の伴奏と歌で君を笑わせてみたかったのです。

 鍵盤なんて、大学でバイエルをやって以来でした。そのとき、まともに弾ける曲なんて一つもありませんでした。でも、何が何でも、ポータブルのキーボードで弾き語りをしながら歌いたかったのです。そうしないと、Gさんとのかかわりからから教訓的に学んだことが、生かされない気がしました。Gさんには結局してあげられなかったことを君にしてあげることで、Gさんとのかかわりが大きな意味を持つような気がしていたのです。

 私の伴奏と歌にも、君は嬉しそうな笑顔を見せてくれました。私はとても嬉しくて、『北風小僧の寒太郎』以外にも君が喜んでくれる歌はないか、それが私の課題になっていきました。

 結局、『北風小僧の寒太郎』にまさる曲はなかったのだけれど、いくつかの曲で笑顔を見せてくれましたね。君は何も語ってはくれませんでした。でも、確かに<曲を聞き分け、自分の好みの曲の時にだけ笑顔で歌っていた>と私には思えました。

 

 今は天国で、『北風小僧の寒太郎』を歌っているのでしょうか。案外、「そんなのもう古いよ。今は、モーニング娘だよ」なんて言われそうです。

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Iさんへ

 筋ジストロフィーのために歩行が難しくなってきた君は、3年生の時に小学校から転校してきたね。それから半年、みるみる歩けなくなり、やがてあきらめて車椅子を受け入れていく姿を、私はどう受け止めればいいか、まだ知りませんでした。いえ、今だって分かりません。

 小学校では、子どもたちが元気よく走り回り、日に日にたくましくなっていくのを、いやでも見せ付けられたことでしょう。<それなのになぜ、自分だけは弱っていくのか>きっと君は感じていたはずです。

 

 私は、<君の足が拘縮してしまうこと>、<筋肉がどんどん弱っていってしまいできることが減ってしまうこと>をできるだけ避けてやりたかったのです。進行が少しでも進まないように、そればかり考えていました。

 君が訓練を嫌がるとき、私は、この訓練は君のためなんだと叱咤しました。君のお母さんにも、家でもしっかりやり続けるように言いつづけた。私には、それが正しいことだとしか思えなかったのです。

 やがて君は登校を渋るようになり、2ヶ月ほど学校を休んでしまいました。家庭訪問をしたときお母さんからは、

 「子どももいない先生に何がわかるの?」

と言われてしまいました。君にもきこえていたかな?

 お母さんのその言葉で、私の正しいと思っていたことの、『何か』が違うことを感じました。

 確かに私は、「君のため」と思ってやっていました。でも、もしかしたら、何をすべきか分からない不安から、無理矢理「君のため」と信じ込んでいたのではなかったか・・・・・

 君が求めていたは何だったのでしょうか。自分の体が、自分の意志ではどうにもならないところで、どんどん弱っていくのを見せつけられていた君にとって、求めていたのは訓練だったのでしょうか。

 もちろん一番求めていたのは、病気を治してくれる薬だったかも知れませんが、次に求めていたのは<どんどん弱っていくことの恐怖を分かってくれること>だったのではないでしょうか。そして、少しでもその恐怖から開放してくれること。ただただ訓練することではなかったはず。

 19歳で亡くなった君のお葬式の日。結局、<教えてもらっていたのは私の方だった>とつくづく思いました。気づくのが遅すぎてごめんね。

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