N-side - No5 |
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成都の城の一角。 丞相府はここ連日暗雲に覆われていた。 その発生源は丞相府最奥の一室。 部屋の主は丞相諸葛亮孔明―――その人である。 諸葛亮は何か分厚い書物に目を走らせ、ブツブツと何事かを呟いている。 そんな諸葛亮にくじ引きで負けた文官の一人が恐る恐る声を掛ける。 「あ…あの…丞相」 「何ですか?」 諸葛亮はゆっくりと顔を上げると、口元を吊り上げるようにして笑った。 その不気味な笑顔もさることながら、声は地を這うように低く、瞳は獲物を狙う獣のように鋭く光っている。 ひっ…と悲鳴が漏れそうになるのを耐えて、文官はおずおずと書類の束を差し出した。 「あのですね…こちらの…書類に判を……頂ければと…」 途端に笑顔が般若の如き表情へと変わった。 「判!? そんなものは後回しです! この机のどこぞにでも置いておきない! 今はそれどころではないのです!」 睨みつけられて怯えた文官は、慌てて書類を机に積み重なった書簡の山の上に載せた。 こうして連日のように似たようなやり取りが繰り返され、机の上には未整理の書類や書簡が堆く積まれている。 「丞相!」 そんなこの部屋に何の躊躇もなく入ってきたのは諸葛亮の弟子姜維であった。 「ここ数日…一体どうされたのですか? ずっと何か熱心にご覧になっていらっしゃるようですけど…」 丞相府の誰もが聞けなかったことを姜維はさらりと尋ねた。 部屋にいた文官達は片隅に固まって肩を寄せ合っていた。 「フフッ…知りたいですか、伯約?」 コクリと頷く姜維に諸葛亮は満足げに微笑み、見ていた書物を掲げてみせた。 「これは遥か西方より取り寄せた書物で中にはありとあらゆる呪術の方法が記されているのです! フフッ…これを使ってあの憎っくきケダモノに呪いの鉄槌を下してやろうかと」 「流石は丞相です! 呪術までお使いになられるとは!」 姜維は純粋に感激している。 諸葛亮は先日のことを思い返す。 花見に出掛けた先で、趙雲が曹操と夏侯惇に攫われた。 危うく魏に連れ去られるところであったが、どうにか事なきを得た。 諸葛亮が駆けつけた時、趙雲は馬超に抱き締められていた。 もちろん直ぐに引き離したが、あのまま放っておいたらあのケダモノのことだ…趙雲に何をするか分かったものではない。 降将の分際で趙雲に触れ…あまつさえ抱き締めるなど笑止千万。 趙雲が誰のものであるのかきっちりと思い知らせてくれよう。 ―――ということで、諸葛亮はここ数日熱心にその怪しげな書物を職務を放り出して熟読しつつ、黒く邪悪な空気を辺りに振りまいているのだ。 実際のところ趙雲は別に誰のものでもないのだが―――。 諸葛亮的には自分と趙雲の睦ましい仲を邪魔する極悪人が馬超ということらしい。 「…丞相」 またくじ引きに負けたらしい先程の文官が部屋の隅から呼びかける。 無言でギロッと睨みつけられ、文官は反射的に後じさったが、後ろから他の文官に押し返されて、泣きそうな声で訴える。 「ど…どうか、そろそろ執務に取り掛かって頂きませんと…。 このままではこの国が立ち行きません…」 「…仕方ありませんね。 伯約…適当にその書類諸々を処理しておいて下さい。 フフッ…私は別室に参ります。 ここでは落ち着いてこの書物を読めませんからね」 「はーい! 了解致しましたー、丞相!」 「フフッ…良い返事です。 では後は頼みましたよ」 唖然としている文官達を尻目に、諸葛亮は涼しげな顔で出て行ってしまった。 ―――この国は本当に大丈夫なんだろうか? 本気で転職を考える文官達であった……。 丁度部屋を出たところで、諸葛亮は趙雲と出くわした。 「あっ…軍師殿」 「フフッ…これは趙雲殿。 やはり私達は運命に祝福されているのですね…」 「??? そうなのですか? 軍師殿の仰られることは難しくて、私などには良く分かりません。 流石は軍師殿ですね」 いつものようににっこり微笑んで、趙雲は手にしていた書簡を差し出す。 「こちらを軍師殿にお渡しするように馬岱殿から承ったので、お届けに参りました」 「馬岱殿から…? 五虎大将の貴方をそんなことで使うなど…なんと厚顔無恥な…。 フフッ…血は争えないということですか」 「いえ…何故か馬岱殿が丞相府に近寄れないと困っておいででしたので、私の方から申し出たのです。 何でもこちらから呪い殺されそうな暗黒の気を感じる仰られて…。 …今日は空も晴れ渡っていますし、清々しい日だと思うのですが…」 心底不思議そうに趙雲は首を傾ける。 そう思っているのは趙雲と姜維くらいだということにもちろん当人達は気付いてはいない。 諸葛亮は書簡を受け取ると、さりげなく趙雲の手を握る。 「フフッ…まぁこのような所で立ち話も何ですから、ゆっくりお茶でも飲みましょう。 さぁ…どうぞ」 「お誘いは大変嬉しいのですが…今日はまだやれなければならない雑事が残っておりまして…」 「貴方は働きすぎですよ…。 少しお休みになられた方が良い」 諸葛亮はやさしくそう言って、趙雲の手を引く。 その裏には隙あらば趙雲にあ〜んなことやこ〜んなことをしようという邪まな考えがあることは言うまでもない。 「本当に軍師殿はお優しいですね。 私なんかより軍師殿の方が何倍も働らいておられるでしょうに。 今日はひどく顔色がお悪いですよ…大丈夫ですか?」 ただ単にここ数日例の書物を読んで寝不足だっただけなのだが、そんなことを知る由もない趙雲は心底心配そうだ。 だが諸葛亮は趙雲の言葉に何か閃いたらしい。 趙雲に見えぬようにニヤリと笑うと、次の瞬間―――、 「あっ…」 と、わざとらしくよろめいて、趙雲に寄り掛かる。 「軍師殿!?」 慌てて趙雲は諸葛亮を抱きとめる。 「すみません…趙雲殿…。 少し眩暈が…」 「大丈夫ですか!? 兎に角お部屋に参りましょう…横になられた方が良いです」 趙雲は諸葛亮に肩を貸すと、諸葛亮の自室へと足を向けた。 寝台に諸葛亮を横たえ、趙雲は薬師を呼びに行こうとしたが、諸葛亮に止められた。 「大したことはありません…趙雲殿……。 少し休めば良くなります…」 とは言うものの、息苦しそうな諸葛亮に趙雲は顔を曇らす。 もちろんそれは諸葛亮の演技な訳であるが。 「フフッ…手を握っていて下さいますか…? 貴方の手に触れていると…とても安心できるのですよ」 「お安い御用です」 趙雲は差し出された手を両手で強く握る。 「趙雲殿…貴方は馬超殿のことをどう思われていますか…?」 「馬超殿…ですか?」 ふいに尋ねられて趙雲は戸惑ったようだが、少し考えた後口を開いた。 「とても良い方だと思います。 最初は…私の事をお嫌いなのかと思っていたのですが、どうやら誤解だったらしくて…。 この頃はよく話し掛けて下さいますよ。 槍術もお見事で…錦馬超と称えられるに相応しい方だと尊敬しています」 「それだけですか…?」 「?」 「恋愛感情などはありませんか?」 いきなり思いもよらぬことを言われて、そういうことに不慣れな趙雲は真っ赤になる。 「えっ…!? 何をおっしゃっているのですか…軍師殿…。 そ…そのような…」 しどろもどろになりつつ、趙雲はふとつい先日馬超にも同じようなことを尋ねられたことを思い出す。 諸葛亮のことをどう思っているのかと―――。 もしかして…―――。 趙雲は何かピンときたらしい。 諸葛亮に向かって穏やかに微笑みかけた。 「馬超殿に…そういった感情はありません、ご安心ください」 それを聞いて諸葛亮の顔がパッと輝く。 「そうですか! まさか私もそんなことがある筈はないと思っていたのですが…念のために伺っておこうと思いまして」 そう…そんなことあるわけがない。 私の趙雲殿があんなケダモノに恋愛感情を抱くなど…。 フフッ…孔明ったらお馬鹿さん。 「すみませんでした…趙雲殿。 突然…妙なことをお尋ねして…」 そしてワザとらしく咳き込む。 「すみませんが…そこの水を取っていただけますか?」 趙雲は一度諸葛亮から手を離すと、円卓の上においてあった水差しから小さな器に水を移し、それを差し出した。 そこでまた諸葛亮は激しく咳き込んだ。 「軍師殿! 本当に大丈夫ですか!?」 「ええ…ゴホッゴホッ…心配は無用です。 ですが…起き上がるのは辛い…ゴホッ…。 趙雲殿…どうか口移しで…その水を」 「えっ!?」 驚いて目を見開く趙雲を諸葛亮は傷ついたような瞳で見上げる。 「そんなに…お嫌ですか…ゴホッゴホッ…」 趙雲は慌てて首を振る。 「いえ…違うのです…。 その…あの…私なんかでよろしいのかと……。 私よりも…適任の方がいらっしゃると…」 そう言ってまた赤くなる趙雲に、今度は諸葛亮がきょとんとする。 「…? 貴方よりも適任の人物…誰ですそれは?」 すっかり演技することも忘れて、諸葛亮は素になって尋ねる。 その時、ドカドカともの凄い勢いで足音が近付いてきて、部屋の扉が開かれた。 ハァハァと荒い息を繰り返して、そこに立っていたのは馬超だった。 「待て待てーい!このセクハラ軍師! 趙雲殿をどうにかしようと思ってもそうはいかないぜ!」 「馬超殿…」 「趙雲殿…ご無事ですか!? 何も変なことはされてませんね?」 馬超は趙雲の傍に駆け寄ると、趙雲の姿に変わったところがないのを認めてほっと息を吐く。 そして寝台に横たわる諸葛亮に向けてびしっと指を突きつけた。 「この腹黒! 趙雲殿に何をしようとしていたんだよ! 岱から趙雲殿がてめぇの元に行ったことを聞いて、すっ飛んで来て良かったものの…」 チッっと舌打ちして、諸葛亮は身を起こす。 「また私達の邪魔をする気なのですか…忌々しいっ! 降将ならそれらしくしおらしくしてらっしゃい。 私の趙雲殿にちょっかいを出そうなどと…この愚か者め!」 「“私の”だと!? いつからてめぇのものになったんだよ!」 睨み合いつつ、熱していく二人の言い合いに蚊帳の外の趙雲は、水の入った器を持ったまま佇んでいた。 「あ…あの…馬超殿…」 暫くして遠慮がちに馬超を呼ぶと、馬超は視線を諸葛亮に向けたまま答える。 「何でしょう?」 「これを…軍師殿に飲ませて差し上げて下さい」 視線を転じると、趙雲は器を差し出している。 反射的にそれを受け取る。 「どうやらお元気になられたようですけれど…口移しが良いと仰られていたので…」 「は…?く…口移し? 俺がこのセクハラ軍師に…!?」 「馬超殿…軍師殿のことが…その…お好きなんでしょう? 軍師殿も馬超殿のことをお好きみたいなので…」 赤面する趙雲に唖然とする馬超と諸葛亮―――。 「はぁ??? どうしてそうなるんですか―――っ!」 重なる二人の叫び。 「えっ…!? お二人とも私に相手のことをどう思っているのかお尋ねになったでしょう? 馬超殿は私が軍師殿に恋愛感情はないと言ったら凄く安心されていましたし、軍師殿も先程同じようなご様子でしたので。 ああこれは恐らく二人は好き合っていらして、お二人に親しくして頂いている私に不安になられたのだと…。 ご安心ください…私はお二人の仲を邪魔しようなどととは思っておりませんから」 その言葉にすっかり固まってしまった二人に、趙雲が気付いた様子はない。 「日頃からよく言い合っておられますけど、喧嘩するほど仲が言いと申しますし。 ―――ああっ! そう言いながら私…水入らずのところお邪魔してますよね。 気が付かなくて申し訳ありません。 失礼させて頂きますね。 軍師殿どうぞお大事に。 馬超殿…後はよろしくお願い致します、それでは」 ペコリと一礼すると、趙雲は部屋を出て行ってしまった。 後に残された二人は呆然自失のまま、動けずにいたのだった―――。 そして趙雲はと言えば、二人を残して部屋を出た後、胸に妙な痛みが走るのを感じた。 馬超と諸葛亮の気持ちを知って、良かったと思う反面…何故か胸が痛むのだ。 趙雲は首を傾げる。 それは―――。 諸葛亮を想っている馬超に対して胸が痛むのか、 それとも、 馬超を想っている諸葛亮に対して胸が痛むのか、 趙雲には分からなかった―――。 きっと…気持ちを知った以上これからは今までのようにお二人親しくさせてもらう訳にはいかなくなった寂しさですよね…。 今日のように誤解を与えてしまってはいけませんから。 そう趙雲は納得した。 無意識の内に芽生えていた感情。 今回のことで一瞬表層に出かけていたその気持ちは…再び趙雲の心の奥底へと沈んでいった。 趙雲が再びその気持ちに気付くことは一体いつのことなのか…。 全く噛み合わない三者三様の想い。 そんな三人の明日はどっちだ―――!? written by y.tatibana 2003.08.09 |
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