C-side - No9

空虚
馬超は趙雲を連れ、ようやく成都に帰還した。
すぐに医師による治療が行われ、何とか趙雲の一命は取り留められた。
ただまだ楽観はできないとのことだった。
容態がいつ急変するかもしれないと。

それを聞いて、あの時、賊にさえ襲われなければ……と馬超は悔しさに拳を握り締める。
そうすればあの人が剣を持つことはなかったし、無理に動いて傷口が開くこともなかった。
―――
そこまで考えて馬超は、激しく頭を振る。
全ての元凶は自分にあるのだ。
あの時あの人の傍を離れたりさえしなければ良かったのだ。

目の前で眠る趙雲の顔を、馬超は食い入るように見つめる。
その寝台の脇に腰掛け、趙雲の手を取る。
高熱が続いている筈なのに、その手は酷く冷たかった。
祈るようにして、その手を己の両手で包み込む。
ここから自分の命が、この人に流れ込んでいけば良いのに―――そんなことを思う。
そうしてこの人の中に入っていければ、その心の中が少しでも分かるだろうかとも……。

「馬超殿」
突然、背後からそう自分を呼ぶ声に、馬超は現実へと引き戻される。
声の主へと、馬超はゆっくりと顔を向けた。
そこに誰が立っているのか、その声から判断はついていた。

予想通り部屋の扉の傍に立っていたのは、諸葛亮であった。
冷え冷えとした射るような視線が、馬超へと注がれている。
なまじ顔が整っているだけに、その酷薄さが凄みを増す。
しかし、それをものともせぬ鋭い眼差しを、馬超は諸葛亮へと返した。
「……いつからそこに?」
「少し前からですよ。
貴方ともあろう方が、お気付きではありませんでしたか?」
馬超の問い掛けに、そう答えて諸葛亮は笑みを浮かべる。
しかしそれは穏やかなものではない。
武人であるのに気配すら感じ取れなかったのかと、嘲笑しているのだ。
それをはっきりと馬超は感じた。
馬超は握りこんでいた趙雲の手を離し、更に眼差しに険しさを込めて、諸葛亮を睨み付ける。

常に他人を馬鹿にしたような態度を隠そうともしない男。
その中でも特に自分のことを諸葛亮は嫌っていると、馬超は感じていた。
いや、そんな言葉では温いのかも知れない……憎まれているといった方が正しいような気がする。
何故諸葛亮が自分のことをそこまで敵視するのか、馬超には分からない。
だがその理由など知りたくもなかったし、興味もなかった。
この男にどれだけ憎悪されようが、別段痛くも痒くもないのだ。

ただ―――
「諸葛亮には気をつけろ、あの男は危険だ」
そう言った張飛の言葉が蘇る。
ずっと劉備と共に歩み、諸葛亮の参入の折からを知る人物の言葉だ。
気にならぬといえば嘘になる。
だがそれの意味するところを、この時の馬超は理解できなかった。
まさか諸葛亮もまた趙雲に特別な感情を抱いているなどとと。
そしてその想いが諸葛亮の心を蝕み、その精神が徐々に狂気の渦に呑み込まれていっていることを。
やがてその波紋が馬超と趙雲へと波及することも知らずに。
この時点ではただ丞相として、将軍である趙雲の見舞いに来ただけだと思っていた。

馬超は趙雲の傍らから立ち上がった。
今は諸葛亮と長々と話す気になど到底なれなかったのだ。
そのまま諸葛亮の脇を通り過ぎ、趙雲の部屋を後にしようとする。
「貴方は趙雲殿のことをどう思っておられるのです?」
すれ違い際、諸葛亮がそんなことを訊ねてくる。

馬超は眉根を寄せ、不快さを隠そうともしない。
「……それを何故貴殿に言わねばならない?」
恐らく分かっていて聞いているのだ、この男は。
別に趙雲に対する自分の気持ちを、他人に知られようがどうということはない。
後ろめたいと思ったこともなかった。
だが、諸葛亮の物言いは酷く癇に障る。

馬超が低い声音で答えを返せば、諸葛亮が微かに嗤う気配がした。
「……余程貴方は私の事がお嫌いとみえる」
「お互い様であろう」
―――そうですね」
会話はそれで終わりだとばかりに馬超は扉を開けた。

「お忘れのようですね……」
その背に再度、声が掛けられる。
「貴方は守りきれなかったでしょう?
父も弟も妻も子も―――
その貴方がまた手に入れようというのですか?
今回もまた守るどころか、傷付けただけの貴方が―――笑止な」
諸葛亮の言葉に、馬超はぐっと拳を握り締めた。
だがここで声を荒げるほど、馬超は冷静さを欠いてはいなかった。
もう口を開くことなく、馬超は扉を静かに閉めたのだった。

趙雲の邸を後にし、自邸へと戻るその道すがら、先程の諸葛亮の言葉が馬超の頭の中で繰り返される。
守りきれず、傷付けただけ……。
それは事実以外の何物でもない。
しかしそのことで趙雲のことを諦めることは出来なかった。
忘れ去ってしまえれば、どれだけ楽だろうと思ったこともある。
だが、己の心は決して偽れないのだ。
もう二度と此度のような失態は犯さない。
今度は絶対に趙雲のことを守ってみせる―――そんなことを彼が望んでいないとしても。





馬超の祈りが通じた訳ではあるまいが、成都での治療が功を奏して、趙雲は危機的状況を乗り越えた。
医師からもようやく「もう大丈夫でしょう」と言われるまでに、容態は安定した。
劉備を始め、諸将達もそれを聞き、安堵した様子だった。
もちろん馬超も例外ではない。

毎日のように趙雲の元を見舞っていた馬超であったが、ある日、いつものように邸を訪ねると、出迎えに現れたのは趙雲その人だった。
馬超は呆気に取られて、絶句する。
確かに趙雲の身体は快方に向かってはいたが、まだまだ安静にしておかねばならぬ状態の筈だ。
その彼が何故、目の前に立っているのか。

「ようこそお越しくださいました、馬超殿」
馬超の内心の驚愕など気付かぬ様子で、趙雲はゆったりとした微笑を浮かべ、拱手する。
それはとても重傷を負った怪我人とは思えぬ立ち振る舞いであった。
「な……にを……しているのです?」
途切れ途切れながら、ようやく馬超は声を絞り出す。

同時に、呆れとも苛立ちとも取れる感情が湧き上がって来る。
どうしてこの人はこうも無茶をするのかと。
いつもいつも思わぬ時はない―――貴方はあまりにも自身のことに執着がなさ過ぎる。
それをいくら言ったところで、この人は「大丈夫」と微笑むのだ。

「私はもう大丈夫です。
ご心配をお掛けして申し訳ありません」
案の定の言葉が、趙雲からは返ってくる。
かっと頭に血が上るのが分かった。
「どうして貴方はいつも無茶をするんだ!?
まだ動き回って良いはずがないでしょう!
早く横になって下さい!」
もどかしさに、馬超は声を荒げる。
しかし趙雲は柔らかな笑みを崩さない。
「本当にもう大したことはないのです。
それに……早く執務に復帰する為にも、こうして身体を動かすことは大切だと思いますし」

馬超は大きな溜息を落とした後、目の前に居る趙雲の腕を捕らえた。
そして少々強引にぐいっと自分の方へと彼の身体を引き寄せる。
するとその衝撃に、一瞬趙雲の眉根が寄せられる。
それを馬超は見逃さなかった。
「ほら……まだ傷が痛むのでしょう?
とても槍を持てるような状態ではない。
劉備殿もゆっくりと休養されるようにと申されていたではありませんか!?
何故そうも急ぐ必要があるのです?」
武人として一刻も早く、復帰したいと願う気持ちは分かる。
だが今無理をすれば、折角快復に向かっている状態が一変して、更に悪化してしまう可能性がある。
それは趙雲とて、医師から散々言われて、分かっていることだろうに。

すると珍しく趙雲の瞳が僅かに揺らいだ。
何を思うのか、遠い目になり、
―――私は自分の存在が何であるかを知る為に、じっとしてはいられないのかもしれません。
私は貴方が……そして周囲の方々が思って下さっているような優しい人間では決してないのですよ」
ぽつりとそう呟いた。

以前にも同じような台詞を言われたことを思い出す。
周囲が思っているような優しい人間ではないのだと。
では一体どんな人間であるというのか―――未だそれは分からないままだ。

そして。
自分の存在が何であるか……?
それはどういう意味なのだろう。
この人は趙子龍という人間であり、卓越した槍術の持ち主で、この蜀の将軍である。
優しく穏やかで、周囲からの信頼もあつく、この国になくてはならない人物だ。
まだ蜀に降ってそれほど時を経ていない自分ですら認識していることだ。
そういう意味ではないのだろうか。

初めて趙雲の心の内が少し垣間見えた気がしたが、しかしその実何も分からない。
近付いたつもりで、掴もうとしても、水のように手の隙間から零れ落ちてしまう。

「では貴方は一体どんな人だと言うのですか?」
こんなに近くに居るのに、趙子龍という人は酷く遠くにいると感じる。
自分からも。
そしてこの世からも。





「私は―――空っぽなのですよ」





言って、趙雲は再び綺麗に微笑んだ。






written by y.tatibana 2007.10.13
 


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