C-side - No3

散華<前編>
「ご武運を―――
戦場に向かう俺に貴方が掛けてくれた言葉。
あの穏やかな微笑と共に。
それが今はひどく懐かしい―――





馬超は蜀に降った後もう幾度か戦に出ていた。
戦場を駆け巡るあの昂揚感と爽快感―――
やはりここが自分の生きる場所なのだと思う。

今回は魏が蜀との国境付近で突然兵を挙げたとの知らせで馬超と数人の将が遣わされた。
魏軍との膠着状態が続く事、三日―――
幾度かの小競り合いはあったが、お互い相手の出方を伺っている状態。
外は雨…それも雷を伴う激しい雨。
基点となる城の一室で、馬超は雷鳴に耳を傾けながら戦況について考えを巡らせていた。
今回蜀軍の参謀役として付き従った男の名は馬稷。
確かに頭の切れる男ではあると思うが、馬超はあまり彼に好感をもてなかった。
いつもどこか暗い目をして、皮肉げに笑うその後ろ暗い性格
そして何より馬超が馬稷を信用できないのは、決して彼が他の者と目を合わせようとはしないからだ。

それにしても…。
何故魏軍は討って出ないのか。
城に陣を構えるこちらと違い向こうはこの城からやや遠方の平原に陣を張っている。
野営だと兵士達の疲労も大きい。
戦いが長引けば長引く程、魏軍にとっては不利になる筈だ。
その上豪雨の多いこの時期に、何故突然兵を挙げたのか。
しかも兵の数も少ない。
立ち上がり窓辺に立ち、馬超は魏軍が陣を張る平原を見遣った。
激しい雨と雷で、辺りははけむり、まるで靄がかかっているかのように霞んでいた。
魏軍の陣もそれに紛れて何も見えない。

まさか…!?
これを待っていたのか…。
今こちらからは向こうの様子が見えない。
そしてこの豪雨と雷だ―――
兵を動かしたとしても、気配もその音をも掻き消してくれるだろう。
そうしてこの城を取り囲んだとしたら…。
こちらは城にいるという安堵感と、この激しい雨では兵は動かすまいという慢心。
それを逆手に取ったのだとしたら―――

「兄上、どうかなさいましたか?」
入って来たのは従兄弟の馬岱だ。
「岱…、この雨一体いつから降り始めた?」
「えっ…雨ですか?
確か昨日の夜半頃から降り始めたと思いますが…」
そう夜だ。
そして今はもう昼近い。
兵を動かすには充分過ぎる。
そう思い至った時、兵士が一人駆け込んできた。
「大変です、馬将軍!
この城は魏軍によって包囲されています!」
遅かったか―――

城を取り囲んだ魏軍の兵は、陣を構えていた数より遥かに多かった。
あれは本隊ではなかったのだ。
本隊は別におり、少ない兵で陣を構えていたのはこちらを油断させる囮だったのか。
すぐに攻め込んで来るかと思われた魏軍だが、予想に反して攻撃を加えてくる様子はない。
この雨が蜀軍を窮地に立たせたが、ある意味救いになったのかもしれない。
火攻めされることは避けられたのだから。

それから四日経っても五日経っても、城を取り囲んだまま魏軍が動く気配はない。
「兵糧攻めか…悪趣味なことだな」
降り続く雨を見ながら、馬超は呟く。
魏軍に取り囲まれた今、補給路は当然分断されている。
兵士達も段々疲労の色が濃くなって来ている。
「兄上、また何も召し上がられていないのですか!?」
馬岱が卓の上に乗せられたまま手を付けられた様子のない食事を見て声を上げた。
「俺には必要ない…。
兵達に回してやれ」
「そう仰られてここ暫くほとんど何も口にされていないではありませんか!
このままでは兄上が倒れられてしまいます!」
「俺ならこれしきの事で倒れたりはしないさ」
そう言って微かに笑ってみせる馬超に馬岱は何も言えなくなる。
一族が虐殺されて以来、馬超が笑顔を見ることのなかった決してなかったのだが、
最近少しづつ笑顔を見せてくれるようになった。
あの人との出会いが彼を変えたのだと思う。
とてもいい方向に。
驚く程整った容姿に、穏やかな微笑を浮かべて拱手したあの人。
最初見た時はとても武将だとは思わなかった。
ましてそれがあの長坂の英雄趙子龍だとは―――

「…趙将軍がこちらに援軍に向かって下さってるそうですよ」
先ほど馬稷からもたらされたという知らせを馬岱から伝え聞き、馬超は眉根を寄せた。
「趙雲殿が…?」
あの人は自分が成都を発つ直前、遠征から戻ってきた。
まだ二週間も経っていない。
遠征の後の疲労は体力的にも精神的にも計り知れない。
ましてそれが兵を率いる将であるならば尚更だ。
それなのにまた自分達を救う為にこちらに向かっているというのか―――
馬超は自分の力の無さが腹立たしかった。
もう少し早く敵の意図に気付いていれば…。
馬超は再度空を見上げ、彼の人に思いを馳せる。
どうか無理だけはしないで下さい…と。

城を囲まれてから丁度今日で一週間…。
兵士達の疲労は最高潮に達していた。
そして兵糧も底を尽きかけている。
援軍に向かっているという趙雲の軍も未だ到着していない。
悪天候の為、思うように進軍できないのだろう。
こうして援軍が到着する前に兵糧が尽きるであろうことも魏軍は予想してたのか。

「討って出る」という軍議での決定が下されたのはそれから間もなくことだった。
援軍が到着しない今、このまま城に留まっていても状況が好転する可能性は皆無だ。
それならば…ということか。
もとより馬超はそのつもりだった。
座して死を待つなど、武将として耐えがたい屈辱だ。
出陣の準備を整えながら、馬超は思う。
援軍が間に合わなくて良かった―――と。
これで少なくともあの人を危険に晒すことはなくなる。
馬鹿げた考えだと思う。
あの人は武人…ましてや兵を率いる将である立場。
今危険から逸らせたとて、これから何度も戦場に立つことを止められる訳ではない。
けれども…。
あの朧げで、自身に全く執着しないあの人を、守りたいと思う…切に。
あの人をこちらに繋ぎ止める糸が切れてしまわないように。
きっとそんな事、あの人は望んではいないだろうけれど…。

「兄上、ご準備の方はよろしいですか?」
「ああ」
「連日の雨で、土がぬかるんでいて馬は使えませぬ」
「それは敵も同じことだ…行くぞ!」

そうして戦闘の火蓋は切って落とされた―――

もう何人この槍で貫いたのか。
それでも次から次へと攻めてくる敵兵たちをなぎ倒していく。
顔も体も血で染められていく。
ほとんどは倒した兵の返り血だが、馬超自身も決して無傷な訳ではない。
激しい戦闘の中で、いつの間にか馬岱とは離れてしまっていた。
肩で軽く息を整える。
休んでいる暇などない。
休む事は即ち死だ。
けれど激しい雨は常より体力を奪い、疲労は容赦なく蓄積されていく。
今の馬超はもうただ気力だけで戦っていた。

突然背後から起こるどよめき。
新手か!?
「援軍だー、援軍だぞー!」
兵士の叫ぶ声が耳に届いた。
雨と疲労で霞む視界の向こうに、馬超は趙雲の率いる軍の旗を見た。

援軍が現れたことにより、蜀軍の志気は上昇した。
押されていた戦況が変化し始めた。
馬超も限界はとうに越えていた。
だが、この戦場のどこかであの人が戦っているのだと思うと、不思議と体は動いた。
ようやく周りの敵兵を倒し、息を一つ吐いた。
しかし…彼の気付かぬ内に新たな敵が雨の音に紛れ背後に近付いていた事に彼は気付かなかった。
そうして背後から切りかかろうと剣を振りかざすのと、馬超が気配に気付き振り返るのは同時だった。
自分に剣が振り下ろされるのを馬超は不思議と冷静に見ていた。
あぁ…自分はここで死ぬのかと。
だがその瞬間、馬超の体は何者かに突き飛ばされた。

そうして目の前を染める紅―――

馬超を突き飛ばした人物は、身代わりに切られ倒れる瞬間、切りかかった敵兵を一閃し、そうしてそのまま地面に伏した。
一瞬の出来事であったのに、馬超にはそれがスローモーションのようにとても緩慢に見えた。
馬超はゆっくりと立ち上がると、恐る恐る倒れ伏すその人物に近寄る。
予感はあった―――、それが誰であるか。
「あぁ…っ…」
艶やかな黒髪の間からのぞくその整った顔立ち。
膝から力が抜け、馬超その側に跪く。
「ち…趙雲…・・殿……」
その体を抱き起こそうとその背に手をやれば、ぬめりとした感覚。
眼前にかざした手は血で染まっていた。

その血が呼び起こす過去の悪夢―――

「どうして…どうして……」
無論返る答えはない。
うつ伏せに倒れている趙雲の体をゆっくりと抱き起こし、その顔に掛かった髪を掻き揚げる。
透けるような白い肌は、更に色を失っているように見える。
凪いだ海のような穏やかなあの瞳も今は閉じられたままだ。
だがまるでただ眠っているかのようなその穏やかな表情―――

「ご武運を―――
穏やかに微笑みながら掛けてくれたその言葉が、何故だかとても遠い昔のことのように思えた。
酷く懐かしい―――

容赦なく降り続く雨からその体を守るように、馬超は強く彼を抱きしめた。
この体をこうして抱きしめたいと何度思ったことだろう。
けれど…望んだのはこんなことではない。
嫌だ…嫌だ…。
この人を連れて逝かないでくれ。
その言葉は誰に向けられたものなのか…馬超自身にも分からなかった。

「兄上!兄上!!」
馬岱はようやく探す人物を眼前に認め、ほっと息を吐いた。
激しい雨は今は霧雨へと変化してた。
「ご無事でしたか…」
だが、次の瞬間息を呑む。
馬超は何者かを抱きしめたまま、身じろぎもしない。
馬超の腕の中で微かにも動かないその人物。
「趙…将軍?」
馬岱はその側に駆け寄り、二人の側に膝を折る。
趙雲の背から流れ落ちる血が地面に溜まりを作っている。
「兄上…これは一体?
兄上?兄上!」
馬岱がいくら声を掛けても馬超の反応はない。
ただ彼の視線は腕の中の趙雲にのみ注がれていた。
けれどその瞳に宿る色はない―――
「兄上!しっかりして下さい!」
悲鳴のような馬岱の声にも、やはり彼が反応を見せることはなかった。

「どうした?!」
声がした。
背後を振り返れば、こちらに駆けて来る数人の影が見えた。
敵か―――
身構えた馬岱であったが、けむる雨の向うから現れたのは見知った男だった。
「張将軍!」
趙雲の軍から遅れること数刻…彼もまた援軍としてやって来ていたのだ。
張飛の後からはその息子張苞と数人の兵士達。
駆け寄って来た張飛もまた馬超と趙雲の姿をみて一瞬動きを止めた。
けれど流石は歴戦の将―――
直に二人の側に近寄ると、馬超の腕から趙雲の体を奪い取った。
そうして趙雲の鎧を外してその状態を素早く確かめると、懐から布を取り出し、背の傷にそれを当てた。
「…まだ微かだが息はある。
馬岱!お前は子龍を連れて行け!
お前達も馬岱と共に行け!」
張飛は張苞と兵士達にすばやく指示を与える。
抱きかかえた趙雲の体は驚く程軽かった。
「俺はこの馬鹿を連れて後から行く!
敵はだいたい蹴散らしたが、まだ残っているかもしれん、油断するなよ!」
その言葉に頷き、馬岱は趙雲を抱えて駆け出しながら、腕の中の趙雲に訴える。

お願いです…趙将軍。
兄上を置いて逝かないで下さい―――
貴方と出会って兄上はようやく笑ってくれるようになったんです。
もし貴方を失うようなことになったら…。
兄上はもうきっと―――

「おい、この馬鹿!
しっかりしやがれ!」
張飛は跪いたまま抜け殻のように地面を染める趙雲の血を焦点の合わぬ目で眺めている馬超を怒鳴りつける。
「ちっ・・」
それが無駄な事を悟ると、張飛は短く舌打ちし、馬超の鳩尾に拳を入れた。
崩れ落ちる体をかかえ上げ、張飛もまた馬岱の後を追って駆け出した。





目の前に佇む貴方はとても綺麗で―――
いつものように穏やかに微笑んでくれる。
夢でもいい…
貴方がいてくれるのなら…
ならば夢よ―――醒めないでくれ―――





written by y.tatibana 2003.02.28
 


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