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天気の良い、ある麗らかな昼下がり。 そんな気候とは対照的に、趙雲の機嫌は下降の一途を辿っていた。 堆く机に積まれた書簡に埋もれるように、それらに目を通し、必要なものには筆を走らせ次々に処理していく。 それでも仕事は途切れるどころか日々多くなっているような気さえもする。 仕方がないと言えば仕方がない。 運悪く趙雲の配下の者たちが悉く体調を崩してしまい、療養中だった。 それでなくとも蜀は慢性的な人手不足である。 結果、その皺寄せで趙雲への負担は増していくばかりであった。 仕事が嫌いな訳では決していない。 周囲からもいつも働き過ぎだと諌められるくらいだ。 けれど、こうも毎日机に向かっていたのでは如何に趙雲でも鬱憤が蓄積されるようというものだ。 武人であるにも関わらず、身体を動かすことさえままならぬとはと。 そんな趙雲の部屋に、馬超がひょっこりと現れた。 ちらりと馬超に視線を移しただけで、趙雲はものも言わずに再び書簡に目を落とす。 「随分とご機嫌斜めのようだな」 からかうように言われて、趙雲は眉根を寄せる。 だが、それをすぐに笑みに変えて、馬超を見遣った。 「そんなことはありませんよ、馬超殿。 貴方こそ相変わらずお暇そうですね……羨ましい限りです」 「そういう嫌味たらしい所が不機嫌な証拠だというに。 だいたい俺もそんなに暇ではないぞ。 お前程ではないにしろ、やることはそれなりにあるのだがな」 「それは存じ上げませんでした。 遠く離れた私の執務室にまで参られるくらいなのですら、てっきりお暇なのかと思っておりました」 にっこりと笑顔を崩さない趙雲に、馬超は肩を竦めた。 「で、何の御用なのですか? お忙しい仰られる馬超殿がわざわざ来られたのですから、それはさぞ重要な用件なのでしょうね」 『わざわざ』と『重要な』という部分を趙雲は殊更に強調する。 その表情はといえば笑ってはいるものの、その目は笑っていないことは馬超からみれば一目瞭然だった。 相当機嫌悪いな、これは―――そう思うがもうあえて馬超は口には出さなかった。 言えば火に油を注ぐことは目に見えていた。 「お前を誘いに来たのだ。 外は良い天気だし、風も気持ち良い…遠乗りでもと思ってな」 「は?」 途端に趙雲の笑顔が引きつった。 「だから、遠乗りに行かぬかと申したのだ」 繰り返す馬超に、趙雲は大きく溜息を吐く。 「貴方の目は節穴ですか? この机の上に積まれている書簡を見てそういうことを仰っているのですか?」 「もちろんだ」 馬超はさも当然のように言ってのける。 対する趙雲は呆れたような、怒っているような、何とも言い難い表情だ。 「ならば遠乗りなぞ呑気に出かけている場合ではないことが分かるでしょう! だいたい貴方はいつも突然過ぎます!」 「突然遠乗りに行きたくなったんだから仕方あるまい。 つべこべ言わずに付き合え。 俺がこんな性格だということはお前が一番良く知っているだろうに。 仕事なんて後でどうとでもなる」 趙雲に怒鳴られようとも、馬超は怯む様子もない。 趙雲は再び深く溜息を落とすと、首を振る。 出て行けと言わんばかりに、手を扉の方へ向けた。 「お引取り下さい、馬超殿。 貴方の気紛れに付き合っている暇はありませんので……」 だが馬超が引く気配はない。 何事かを考え込んでいるようだ。 「どうしても嫌か?」 馬超がそう尋ねれば、 「嫌だと先程から申しております」 趙雲はそうにべもなく答えを返す。 「そうか……」 小さく沈んだような声音に、趙雲は視線を上げた。 流石に悪かったかと、小さな罪悪感が頭をもたげたのだ。 だが、落胆しているかと思った馬超はにやりと人の悪い笑みを浮かべていた。 呆気に取られる趙雲をよそに、馬超は趙雲の目の前に積まれている書簡を数本を手に取ると、扉へと向かう。 「なっ…!?何を……」 馬超の取った行動の意味が分からぬ趙雲は、動けぬまま呆然と馬超の背を見送る。 扉の前で肩越しに馬超は振り返ると、 「返して欲しくば俺を追って来い。 大事な書簡なのだろう?」 楽しそうにそう言い残すと、扉の向こうへと姿を消した。 閉じられた扉の音で趙雲ははっと我を取り戻す。 「馬超殿!」 怒気を含んだ声で叫べども、馬超が戻ってくる気配はない。 本当に書簡を持ってどこかに行ってしまったようだ。 慌てて趙雲は立ち上がり、部屋を出る。 左右を見渡すと、右側の回廊の遥か先に馬超の姿があった。 趙雲の元から持ち去った書簡で呑気にも肩を叩きながら歩いている。 趙雲は一刻も早くそれを取り戻そうと馬超へと駆け出した。 背後から迫り来る気配に馬超も気付いたようだ。 一瞬振り返り、趙雲の姿を認めると、馬超もまた走り出す。 回廊を歩く文官達が何事かと馬超と、そして後ろを走る趙雲の姿を驚いたように見ている。 二人の距離はなかなか縮まらない。 馬超がどこに向かっているかなど趙雲は考える余裕もなく、馬超を追う。 そんな馬超の意図の気付いたのは、馬超が修練場に足を踏み入れた時だった。 もしや……そう思った趙雲の考えを裏付けるように、修練場の厩の傍に馬が二頭繋がれていた。 馬超と趙雲の馬だった。 馬超は馬の傍まで来ると、ひらりと馬に跨り、書簡を抱えた逆の手で手綱を握った。 趙雲がこちらに向かってくるのを見計らって、馬腹を蹴る。 「お先に」 にやりと馬超は笑って見せると、趙雲の脇を駆け抜けていく。 「やられた……」 趙雲は思わず呟きを漏らすと、しばらく逡巡した後、趙雲もまた自分の馬に跨った。 遠ざかっていく馬超を追いかけるように、駆け出したのだった―――。 まんまと馬超に嵌められる形になった。 趙雲は馬超を追いながら、怒りを滲ませる。 馬が用意されてたことからも分かるように、初めから馬超は遠乗りに誘っても趙雲が渋ることを読んでいたようだ。 だから自分を追うように仕向け、結局はこうして趙雲を遠乗りへと連れ出すことに成功したのだ。 城門を抜けた馬超は後ろを振り返ることもなく、気持ち良さそうに新緑の草原の中を駆けて行く。 趙雲もまた馬超を追ううちに、心地よい風と緑の香りに、怒りに波立った心が静けさを取り戻していくのを感じた。 それは馬超に対しての怒りだけではなく、ここ数日の執務での鬱積した気持ちをも解きほぐしてくれるかのようだ。 落ち着いてくれば、見えてくるもがある。 馬超が遠乗りへと自分を誘った理由―――。 馬超は突然行きたくなったのだと言ったが、恐らくそれは違う気がした。 本当はずっと執務に終われていた自分を気遣ってのことではないだろうか。 少しでも気晴らしになればと、そう思ってくれたのではないか。 それを聞いたところで馬超は絶対に肯定はしないだろうけれど。 無意識の内に趙雲の口許がふっと緩む。 穏やかな微笑を浮かべた趙雲は、空を仰ぐ。 抜けるような青い空が何とも気持ち良かった―――。 小高い丘の上で馬超はようやく馬から降りた。 すぐにそのまま草地に仰向けに身体を横たえる。 ややして追いついた趙雲がその横へ降り立つと、馬超は閉じていた目をゆっくりと開いた。 「流石に走り通しはきついな」 「運動不足なんじゃないですか…馬超殿」 くすりと小さく笑い、趙雲は屈み込むと懐から出した布で馬超の額の汗を拭ってやる。 「ずっと机に噛り付いていたお前に言われたくはない」 不機嫌そうに唇を歪め、馬超は再び目を閉じてしまった。 確かに趙雲もまた馬超同様額に汗が滲んでいた。 だがその汗が妙に心地良い。 やはり久方ぶりに身体を動かしたせいだろう。 趙雲はそのまま馬超の隣に同じように横たわる。 目を閉じて、静かな時の中に身を委ねているいるうちに、趙雲は眠りへと落ちていった。 辺りが夕闇に染まる頃、趙雲はようやく目を覚ました。 しばらく自分がどこにいるのか分からぬようで、視線が宙を彷徨う。 自分を覗き込む男の顔を捉えた時、趙雲の瞳が焦点を結んだ。 「馬超…殿…、私もしかして…眠ってました?」 まだどこか頭に霞みが掛かっていた。 ぼんやりと馬超に尋ねれば、彼は頷きを返した。 「よく眠ってた。 疲れてたんだろう」 すると趙雲は慌てて起き上がろうとする。 だがそれを馬超が押し留めた。 趙雲の上に覆い被さるようにして。 「馬超殿!」 「心配するな……誰もいない」 言いながら、趙雲の唇に啄ばむような軽い口付けを落とす。 「馬超殿!」 再度抗議の声を趙雲が上げれば、馬超も不満気に眉を顰めた。 「誰もおらぬと言っているだろう、子龍。 だから……」 そこで言葉を切った馬超が何を言いたいのかを察して趙雲は今日何度となく吐いた溜息をまた繰り返す。 「孟起」 字を呼べば、馬超は満足したように表情を和らげた。 幼子のような男だな―――今日に限らずそう呆れさせられることが多々ある。 けれど。 「俺の前でまで無理はするなよ」 そう言って包み込むような優しい瞳で見つめられると、自分よりも年下のこの男が随分と大きな存在に見えるのだ。 「ありがとうございます」 そうすればこうして趙雲もまた素直な気持ちになれるのだ。 「城に戻ったら、俺も手伝ってやる。 書簡を持ち出したのは俺の責任だしな。 けどその前に……」 馬超の手が趙雲の帯に掛かった。 「ちょ…っ、孟起!?」 趙雲がそれ以上何か言うのを封じ込めるように、馬超は趙雲の唇を己のそれで塞いだ。 結局馬超と趙雲が城に戻ってきたのは夜半も過ぎた頃であったとか、なかったとか。 written by y.tatibana 2004.07.07 |
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