想いの方船
それが陽動策だと気付いたのは、もう戦いも終盤に差し掛かったと思われる頃。
馬超率いる隊は、諸葛亮の指示あるまで待機せよとの命だった。
敵の本陣近く、少数の兵と共に身を潜めていた馬超は、少し前から敵兵の動きが慌しいことに気付いた。
ある方向に引き寄せられるように次々と陣を守っていた兵達が駆けて行く。
しばらく後、守りの堅かった敵陣はすっかり手薄になっていた。
その機を見計らったかのように、諸葛亮からの伝令が、敵本陣を攻撃し、敵指揮官を討てとの命を告げた。

馬超は悟った。
これは陽動策だと。
何者かが敵兵を囮となって引き付けているのだろう。

陽動策は確かに兵の損害を考えれば効果的だと言えよう。
少数の兵で敵の虚を突き、将を打つことが可能だ。
けれど敵兵を陽動する人間はどうなる?
敵の注意を一身に引き付け、その攻撃に耐えねばなるまい。
諸刃の剣だと馬超は思う。

そして陽動する人間はただの一兵士では無駄なのだ。
敵兵を本陣から引き寄せられるだけの人物でなくてはならない。
馬超には今回それを行っている人物が誰であるかすぐに察しがついた。
無意識の内に舌を打つ。

またあの人は―――

怒りとも呆れとも何とも言えない綯い交ぜの感情にギリッと奥歯を噛み締める。
だが今ここでどう思おうが詮方無いことだ。

自分がしなければならないことは何だ?
あの人が敵を引き付けている内に、本陣に攻め込み敵将を討つ。
そしてこの戦いに幕を引くこと。
それが一刻も早くあの人を救うことに繋がる。

「行くぞ」
馬超の短い掛け声と共に、一斉に敵本陣に攻め込んだ。
守りの薄くなったそこを落すのは容易かった。
敵将を早々と討ち、戦いは終わった―――





「趙雲殿…」
自陣に戻り、求める人物を見付けた馬超だったが、目の前の彼の姿に自然と表情が険しくなる。
その身体の其処此処に巻かれた血の滲んだ帯。
如何に囮となった趙雲への攻撃が凄まじいものだったのか見て取れた。
けれど趙雲はその痛々しい様とは不釣合いな、いつもと変わらぬ笑顔で馬超を迎えた。
「ご無事で何よりです、馬超殿。
見事に敵将を討たれたそうですね。
流石です」
馬超はやるせなさに、溜息を一つ吐く。
―――貴方という人は…。
今回の策も俺は何も聞いてはいなかった」
言い難そうに趙雲は目を伏せた。
「……申し訳ありませんでした。
貴方がこういった策を好まれていないことを知っておりましたので」

そう―――、馬超は誰かが犠牲にならねばならぬような策を嫌っている。
今回の事も事前に知っていたなら、何としてでも止めさせた。
まして趙雲が囮になると分かっていたなら尚更だ。
恐らく今回の策を諸葛亮に献じたのは趙雲だ。
自分が囮になることで、味方の犠牲を最小限に止めようと―――

「貴方はどうして御自分の命をそうも軽んじられる?」
出逢ってまだそう月日は流れていないというのに、馬超はもう何度この言葉を発しただろうか。
「…?
貴方は度々私にそう仰いますが、別に私は自分の命を軽んじてなどはおりません。
…けれど兵は皆、殿からお預かりした大切な者達です。
彼らにはまた彼らの無事を待つ家族がおりましょう。
その犠牲を最小限に止められるのならば、それに越したことはないではありませんか。
幸い私は一人身故……」

だから自分の身を危険に晒す事は厭わないというのか。
それが生命を軽んじていることなのだと何故分からない?
咽元まで出かかったその言葉を馬超はぐっと飲み込んだ。
この話をしても、結局いつも堂々巡りだ。

この人は本当に自覚が無いのだ。
自分がどれだけその命を軽視しているかということに―――
まるで自分の命を物のように考えている。
あるのならあるに越したことはないが、なくのなるのならそれはそれで構わない。
そんな風に、自分の命を考えているように馬超には思えてならなかった。
蜀に降って、日常を共にし、幾度か共に戦場にも出た。
その度に馬超は趙雲に惹かれていく自分を自覚し、同時に彼が自分の生命を軽視していることに随分と腹立たしさを覚えた。

そんな馬超の思いなど知る由もない目の前の美しい人は、険しい表情のまま黙り込んでしまった馬超を困惑したように見つめている。
どうしようもないもどかしさに馬超は視線を逸らし身を翻すと、呼び止める声を黙殺して、陣幕の外へ出た。
「くそっ…!」
手近にあった木に思い切り拳を叩きつける。

どうして届かないのだろう。
この想いは―――
武人である以上、命の危険は常に付き纏うものだろうけれど、自分の命を物のように扱うことだけは止めて欲しい―――
どれだけ言葉を尽くして告げようと、それは決して貴方に届かないのだ。
そんなことはないのだと、貴方は穏やかに微笑んでけれど頑なに否定する。

―――永くは生きられない人だ…。

馬超が趙雲に出逢った時から常々抱えていた想い。
そう遠くない未来血溜りの中に横たわる趙雲の姿をありありと想像できる…。
そんな気がした―――





山岳でのその戦いは、足場の悪さと進路の狭さに補給も侭らならず苦戦を余儀なくされていた。
そんな中、趙雲の隊が敵の伏兵によって孤立しているとの知らせに、馬超は兵を引き連れ急ぎ救出へを向かった。
途中趙雲の隊の兵士達が退却してくる姿を見留め、馬超は胸を撫で下ろす。
だが…そこに趙雲の姿はなかった。
聞けば、兵達を逃がす為に殿を務め、そのままなのだという。

まただ―――
またあの人は―――

色々な感情が渦を巻いたが、それを全て振り払い馬超は駆けた。
一心に。
趙雲の姿を求めて。

ようやくその姿を見つけた時、趙雲は幾人もの敵兵によって取り囲まれていた。
そして後方はといえば…崖―――
絶え間の無い轟音は、すぐ横を流れる川が滝となって流れ落ちている音。

「ここまでだ、趙子龍」
兵の中央にいた男が一歩趙雲の方に踏み出した。
恐らくこの兵達を率いる将なのだろう。
「たった一人でよくもこれだけ手こずらせてくれたものだ。
さすがは趙子龍というべきか。
だが、もうそれ以上は戦えまい」
趙雲の体の彼方此方から流れ出る赤い血。
特に利き腕の傷が酷いようで、傷口を押さえたもう片方の手の指の間から血が次々と流れ出し、地を染めていた。
槍は辛うじて握ってはいるが、その傷の状態では振るえそうになかった。
「殺しはせん。
生きて捕らえよとの上からの命なのでな」
趙雲はその言葉を聞いているのかいないのか、ただ無表情なまま立ち尽くしていた。

馬超達に気づいた敵の兵士達が襲い掛かってくる。
それを打ち倒しながらも、馬超の視線は趙雲に注がれたままだ。

もう少しなのに…。
あと僅かな距離であの人に辿り着けるのに―――

けれど趙雲の方は馬超に気付いた様子はない。
滝の水音が全てを掻き消しているようだ。

ややあって、立ち尽くしていた趙雲はゆっくりと空を仰ぎ見た。
雲一つ無い蒼天の空を瞳に映し―――
そうして静かに俯いた。

恐らく周囲の誰もがそれは諦めだと捉えたことだろう。
それを見て取って、趙雲を捕らえようと敵将がまた一歩彼へと歩み寄る。
けれど―――

違う!!

馬超は叫ぶ。

あの人は諦めて捕らえられる事を許容したのではない。

俯いている趙雲の表情は窺い知る事は出来ないが、馬超にはそれが手にとるように分かった。

きっとあの人は―――
微笑んでいる―――
自暴自棄なそんな笑みではなく、ただ穏やかに。
早く…早くあの人に辿り着かねば…。
あの人は恐らく―――…。

「どっけーーーっ!」
咆哮と共に周囲の敵を蹴散らす。

頼む―――
頼むから―――…。
敵でもいい、誰でもいいから…あの人を―――

俯いていた趙雲がゆるりと顔を上げた。
刹那…目があった―――気がした。
だが次の瞬間、彼の体はぐらりと傾いた。
後方へと。
漆黒の髪が…ふわりと…宙を舞った―――

伸ばした手は―――
…届かなかった。





彼が身を投げた瞬間、馬超の中でふつりと何かが事切れた。
そこから自分がどうしたのか、はっきりとは覚えてはいなかった。
我を取り戻した時には、しとどに血の滴る槍を手に森の中を走る川辺を歩いていた。
見れば体も血で染まっている。
だが、自分の体のどこにも傷を負っている節はない。
とすればこれは返り血なのだろう。
激情に駆られて、屠ったのは敵か、それとも味方か。

けれど今はそんなことはどうでも良かった。
何も考えられなかった。
あの人の事以外…何も。

どれだけ歩いたのだろう。
求めるその人の姿を見つけた時、日は既に傾きかけていた。
川の中に身体を浸し、辛うじて肩から上を岸辺に預けるようにして伏している趙雲の姿を。
水面に夕陽が反射し、辺りを赤く染めていた。
まるで彼から流れ出た血が、その水面一面に広がっているかのようだった。
吸い寄せられるように駆け寄り、川の中から抱き上げる。
硬く閉ざされた瞳に、血の気を失った顔。
恐る恐るその口元に顔を寄せると、微かに感じる息遣いに馬超は泣きたくなった。

思わず腕の中の趙雲を強く抱きしめた。
すると僅かに身じろぐ気配。
ゆっくりと開かれた漆黒の瞳は、最初虚ろだったが、やがて焦点を結んだ。
「馬超殿…?」
言いたい事は山のようにあった。
けれど今はその全てを飲み込み、馬超は趙雲を手近な地に横たえた。
手早く彼の鎧を外し、自らの戦袍の肩口を破ると、未だ血の流れ出している彼の利き腕に巻きつけた。
一度も目を合わそうとせず、黙々と自分の手当てを続ける馬超に趙雲は何も言えずにいた。
重苦しい沈黙が支配する中、一通り趙雲の手当てを終えた馬超がようやく口を開いた。

「貴方はどうして自分の命をそうも軽んじるのか?」
何度となく繰り返した問い。
「そのようなつもりはなりと幾度も申し上げたではありませんか…」
そして何度となく繰り返された答え。
けれど今回ばかりはそれで引き下がる気など馬超には毛頭なかった。
「だが貴方は身を投げた。
死ぬ気だったのでしょう?」
「…積極的に死ぬ気などありませんでしたよ…。
ですが、あの場合、敵の手に落ちるくらいならそうした方がよいと思ったのです。
きっと私が捕らえられたと知れば、殿は何としてでも救い出そうとして下さるでしょう。
お優しい方ですから。
けれど殿には大事な大義がおありです。
私ごとき一武将の為にそのようなことでお手を煩わせたくはありません。
幸い後方は滝でしたので、助かることもあろうかと―――
傷のせいか弱弱しいが、だが穏やかに微笑んで見せる趙雲に馬超は冷たい視線を投げかける。
「今回は運が良かった…ただそれだけだ。
こんなことを繰り返していては、近いうちに必ず命を落とす…」
「生あるものにはいつか終わりはきます。
それが早いか遅いかだけの違いではありませんか……」
投げやりにも聞こえる趙雲の言葉。
けれどこれが偽りのない趙雲の考えだった。

やはりどれだけ言葉を尽くしても、届かないのか。
自分の想いと貴方の想いは、まるで広い海に投げ出され漂う方船―――
決して巡り合うことはないのか…。

絶望に馬超の中の理性という名の箍が外れた。
馬超の瞳に浮かぶは昏く冷たい炎。
口の端だけを吊り上げるようにして笑う。
「そんなに…必要ないのですか、その命…?」
「馬超殿…?」
馬超の只ならぬ様子に、趙雲は痛む身体を無理矢理起こそうとする。
「ならば……俺に下さい。
その命を―――
言うや否や、馬超は起き上がろうとしていた趙雲の身体を押し倒し、そのまま組み敷いた。
「……ッ!」
地面に頭部を強く打ち付けられ、趙雲は思わず呻いた。
その衝撃で傷付いた身体の其処此処も悲鳴をあげた。
苦悶の表情の趙雲を馬超は気にする風でもなく冷たく見下ろす。
圧し掛かってくる馬超を力の入らない腕でそれでも趙雲は押し返そうとする。
その手を無情に振り払い、馬超は趙雲の首筋に唇を這わせた。
「馬超殿…!?
お止めください!」
逃れようともがく趙雲をものともせず、肌蹴た戦袍の裾から覗く白くしなやかな足を空いた手で撫であげる。
「馬超殿!」
必死で呼ばわる声に、馬超はふと動きを止めた。
酷薄な表情はそのままで。
「…何故抵抗する?
貴方は必要ないのだろう…その命。
ならばその身体がどうなろうが、構わないのでは?」
言って、低く嘲るように笑う。
返すべき言葉が見つからずにいる趙雲の利き腕に今度は手を掛けた。
その傷口に爪を立て、強く握る。
「痛っ……」
余りの痛みに、趙雲は反射的に目を閉じた。
先程馬超がその傷口に巻いた帯からは血が滲み出し、滴り落ちた。
「痛いですか…?
―――そうでしょうね…けれど…」
そこで馬超の言葉は途切れる。
声音が変わる。
先程までとは違う…感情の篭った彼らしい真っ直ぐな声。
目を開けようとした瞬間、趙雲は強い力で引き起こされ、抱きすくめられた。
「…痛みを感じるのは、生きているということだ。
貴方は人形ではない…。
生きているのですよ……趙雲殿!
もっと自覚なされよ!
その命の重みを」
趙雲はゆっくりと瞳を開く。
強く抱きしめられていて馬超の表情は伺え知れなかったが、彼が泣いているように思えた。
背に廻されたその腕が微かに震えていたから。
「俺は…貴方が身を投げたあの後我を失った。
もしかしたら味方もこの手に掛けたのかもしれない…。
きっと俺は貴方が死んだら、ありとあらゆるものを破壊するだろう。
その衝動が止められない。
劉備殿も、他の武官も文官も民も…躊躇うことなく―――
「馬超殿?!」
「卑怯だとお思いか?
けれどこれで貴方は簡単には死ねまい?
冗談などではない。
俺は至極本気だ。
貴方のことを永く生きれない人だと思った。
ならば俺が何としてでも貴方を生かすまでだ!
貴方をこの世に繋ぎ止めておけるのなら、俺はどんな謗りも喜んで受けよう」



きっと馬超は本気なのだろう。
彼も自覚しているように、彼の中には自身でも御しがたい狂気が孕んでいるのだ。
何故彼はそれ程までに自分を生かしたいのだろうか。
不思議な人だと思った。
常に自信に満ち溢れ、戦場では戦の神が降り立ったのかと思わせるようなその姿。
だが今自分を抱きしめる彼はまるで親とはぐれた幼子のようにひどく頼りなげで脆く思えた。

馬超が言うように自分の命を軽んじているつもりはやはりない。
けれど、自分を大切にしようと思った事もまたなかった。
生きたいと強く願ったこともまた同様に。
思えば自分は生きる事の意味が分からないのだ。
幼い頃から戦火に巻かれ、沢山の死を見てきた。
その内に生きるということも死ぬということも自分の中で麻痺してしまったのだろうか。
ただ流されるままに生きてきただけなのかもしれない。
そんな空虚な自分の何がそれ程に彼を惹きつけるのか。
正直分からなかった―――
だが…その理由を探せば、自身を大切に思うということが出来るのだろうか。
空っぽの自分が満たされることがあるのだろうか?

生きるということの意味が分からない自分が初めて哀れに思えた―――

そう呟いた趙雲に馬超はこれから知っていけば良いと言う。
「今日が貴方の生まれた本当の日ですね―――
と耳元で囁き、優しく趙雲の髪を撫でた。
その言葉は趙雲の心に染み込んでいくようで…。

ゆっくりと閉じたその瞳から、
涙が一粒…
零れ落ちた―――





written by y.tatibana 2003.04.14
 


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