凍花 2
一向に消えてはくれぬこの痛み。
じわじわと侵食し続けるそれに、やがてこの心はすべて喰らいつくされるのだろうか―――





「張飛殿」
鍛錬場で兵達の訓練の様子を眺めていた張飛を見付けて、馬超は声を掛ける。
「よお、馬超じゃねぇか、どうした?
えらく真剣な顔をして」
張飛は自分の方へと近付いてくる馬超の顔を見て、首を傾げる。
それほどに馬超の瞳は真剣だった。

「聞きたいことがあるんだ」
「なんだよ、えらく改まりやがって……おかしな奴だな」
張飛はからかうような口調で言うが、やはり馬超の硬い表情は崩れない。
「趙雲殿のことを聞きたい」
その名を馬超が口に出した途端、張飛の顔から笑みが消えた。

何か思うところがあるのか、すっと真顔になる。
まるで馬超が言わんとしていることを予測しているかのようだ。
「趙雲殿に昔何があった?
古くから趙雲殿と共にいる貴殿ならば、ご存知かと思ってな」

あの日から―――趙雲の邸を訪れ、自分の想いを告白し、そして驚くべき態度を取られたあの夜の後から、趙雲のことについて、馬超は色々な人間に訊ねてまわった。
馬超より以前に劉備に仕えた者であっても、比較的新しい人間は趙雲のことについて、馬超と同じくらいのことしか知らなかった。
一方古参の人間達は、何か知ってはいるようだった。
だが一様に口は堅く、曖昧に首に振るだけで、馬超の求める答えを与えてくれる者はいなかった。
そうして今日、こうして馬超は張飛に問い掛けたのだ。

「何故そんなことを聞く?
あいつに過去何かあったとどうしてそんなことを考える?」
―――
言うべきか、言わざるべきか、馬超は逡巡する。
しかしそれを告げずして、恐らく張飛からの答えを得ることは出来まいと判断した。

「俺は……趙雲殿のことが好きだ。
本人にもそれは告げたが、随分と手痛い返答を受けた。
けれどそれは、ただ俺のことが嫌いだとか興味がないとかそういうことではないように思えたんだ。
趙雲殿の心は、誰にも手に届かない遥か遠くにあるようで……あの人は他人との関わりを頑なに拒絶してるようだ。
現に趙雲殿は誰かに心を縛られることなど御免だと言い放った。
けれど俺が、今まで誰とも心を通わせたことはないのかと問うた時、趙雲殿の瞳にほんの一瞬だけ濃い翳りが落ちたのだ。
どうしてもそれが頭から離れない……気になって仕方がないんだ。
だから、それを知りたいと思った」
「子龍のことが好き……か……。
そうか……」
馬超の告白にまるで驚いた素振りも見せず、張飛はぽつりと呟く。
馬超の瞳は変わらず真摯で、偽りなど口にしていないことは張飛にはよく分かった。

その真っ直ぐな眼差しを受けて、張飛はやがて大きく息を吐き出す。
「子龍は変わっちまったよ。
俺達の軍に加わったばかりの頃とは随分な……。
昔は人当たりが良くて、穏やかで、良く笑う奴だった」
当時のことを思い出しているのか、張飛は目を細める。
「馬超、お前の想像する通りだ。
あいつを今のように変えてしまった出来事が確かにあった。
あれ以来ずっと、子龍は執務以外で人と関わりあうことを決してしなくなっちまった。
そうあれは―――

「そこまでです、張飛殿」
張飛の言葉を遮るように、割り込んできた冷たい声があった。
二人が振り返ったその視線の先には、趙雲が立っていた。
相変わらずその表情にはどんな感情も浮かんでいない。
瞳だけが冴え冴えとした冷たさを湛えている。

ゆっくりと趙雲は二人の元へと歩み寄ってきた。
「私のことなどお話になる必要はありません。
貴方があの時のことを話そうとなさっているのならば、尚更に。
もうあれは随分と昔に終わったことです。
それとも―――あの頃の愚かな私を虚仮にして、馬超殿と嘲笑うおつもりか?」
「子龍!
俺はお前を嘲笑うつもりなんて……」
「ならば余計なことは話さないで頂きたい。
私にとってあれはただの汚点でしかないことは、張飛殿もご存知でしょう?」
反論しようとする張飛を遮り、趙雲は素気無く言い捨てる。

そうして今度は馬超へと視線を移した。
やはりそこには冷たさ以外の何もない。
「最近、私のことを聞きまわっておられるそうですね。
何のつもりかは知りませんが、迷惑です。
私のことなど貴方には何一つ関係のないことです。
それとも錦馬超ともあろう方が、人のことをこそこそと嗅ぎまわって、暴き立てる下劣な趣味でもおありか?」

「……」
馬超はそれに対し、何も答えなかった。
趙雲の言葉に激昂して怒りのあまり口が開けなかった訳ではない。
趙雲自身はそれを見越していたのかもしれない。
いや、間違いなくそうだろうと馬超は確信していた。
趙雲はこうやって人の神経を逆撫でするような言葉で相手を煽り、自身に対する他人の嫌悪を引き寄せようとしている。
結果、相手が自分へと近付いてくるのを防ごうとしているように思えてならない。
必死に自分を守ろうと、虚勢を張っているようにも。

「怖いのか?」
自身でも意識せぬままに、馬超の口からそんな問いかけが漏れた。
対する趙雲の瞳が、大きく見開かれる。
「なに……を……」
それは馬超が初めて見る、はっきりと感情を宿した趙雲の驚いた顔だった。
どんなときも無表情で淡々としていて、瞳だけが酷く冷たかった彼の―――生きた表情だったのだ。

己の考えが間違ってはいなかったことを、その反応で馬超は悟った。
そうしてそこに、感情を見せることのない趙雲に隠されている本当の彼の姿が垣間見えたような気がした。
「貴殿は他人が近付くことを怖れている。
他人がそんなに怖いのか?
一体何にそんなに脅えている?」
「私は……人を恐れてなど……まして脅えてなどおりません。
勝手なことを仰らないで頂きたい」
感情を無理に抑えようとしているのか、その声は微かに上擦っていた。

それに構わず馬超は続ける。
「貴殿が汚点だというその過去の出来事が原因か?
仮面を被って偽って見せても、今の俺には貴殿が傷付けられ、自らの身を抱きしめて震えている幼子のように思えてならない」
趙雲はきっと馬超を睨み付けると同時に、どんっと傍らの壁に拳を叩きつけた。
「黙れ……っ!
私のことなど何も知りはしないくせに……っ!」
低く搾り出すように、けれど明らかな怒気を含んだ口調で言って、馬超を射る。
しかし馬超はそれを正面から受け止め、まっすぐに見返した。
決して視線を逸らそうとはしない。

しん……と辺りが静まり返る。
訓練中だった兵達も、只ならぬ雰囲気に圧倒されたのか、動きを止めて、馬超たちの方を見ていた。
そこで真っ先に口を開いたのは、張飛だった。
「お前達、訓練はこれまでだ!
戻るぞ!」
張飛の怒号に、我を取り戻した兵達は、それに従いいそいそとその場を立ち去っていく。

馬超と趙雲は互いに視線をぶつかり合わせたまま、動こうとはしない。
その馬超の肩を、去り際張飛が軽く叩いた。
「子龍のこと……頼む」
静かにそう言い残して。




(続)





written by y.tatibana 2010.05.28
 


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