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魏も呉も動くことなく、平穏に過ぎて行く日々。 そこに物足りなさを感じるのは武人の性か―――それとも、届かぬ想いを戦で埋めてしまいたいという気持ちの発露なのか。 馬超自身にも良く分らなかった。 その一歩がどうしても踏み出せない。 友人である趙雲に対して抱いている友情以上の感情。 それを告げてしまえばこの心の靄は晴れるのだろう。 だがそうすることによって、趙雲との関係が途切れてしまうことが恐ろしかった。 それならば気持ちをひた隠し、友人として在り続けていく方が良い。 共に酒を飲み、笑う―――そんな穏やかな日常を……。 だがそれすらも終わる時がもうすぐそばまで近付いてきていたのだ―――。 「北の国境付近で、魏が不穏な行動を見せているらしい」 酒を手に訪ねてきた趙雲が、開口一番馬超にそう伝えてきた。 馬超の自室へと案内もなしに、勝手知ったる様子で入ってきた趙雲は、円卓の前の椅子へと腰を降ろす。 文机に向かっていた馬超も、そんな不躾な侵入者をいつものことだと驚く様子もない。 立ち上がると、円卓の方へと足を向け、趙雲の向かいに腰を降ろす。 「とうとう……魏が動き出したのか。 戦になりそうか?」 馬超は渋面を作り、趙雲に問う。 魏は馬超にとっては己の一族の仇でもあるのだ。 戦ともなれば、必ず一矢報いてやるという並々ならぬ気持ちがある。 「いや、今はまだそこまでの状況ではないようだ。 こちらよりも先に呉に戦を仕掛けようとしているとの間者の報告があったそうだからな。 北が騒がしいのはその牽制やもしれん……呉と戦っている間に我らに攻め込まれては敵わぬだろうから」 「そうか……」 落胆の息を吐く馬超に、趙雲は軽く笑う。 趙雲が来ることを予想していたのであろう―――卓の上に用意されていた杯に、趙雲は酒を注ぐ。 それを馬超へと差し出すのだった。 「そうがっかりするな、孟起。 いずれ魏とは決着をつけるときが来る。 だが今はこの蜀も国力の増強に励まねばならん。 魏が呉に目を向けてくれているのならば、それに越したことはない」 趙雲から杯を受け取って、馬超はそれに口を付ける。 確かに趙雲の言うことは正しい。 まだ蜀の地では君主が変わった混乱が僅かながら残っている。 それらを鎮圧し、魏、呉という二国に対抗するためには、戦よりも内政に力を注がねばならぬ時期なのだ。 それは重々理解している。 だが、趙雲のお陰でようやく過去と―――失ってしまった家族と向き合えるようになった。 彼らの姿や声を思い出す度に、それを自分から奪い去った魏に対して一太刀なりとも与えたいという気持ちが増すのだ。 以前は守れなかった己が罪悪感を贖う為に、刃を揮っていた。 しかし今は彼らへの餞の気持ちがそうさせる。 「まぁ、それに備えて日頃から身体は鍛えておけよ、孟起。 少々の小競り合いはあれど、ここしばらくは平穏な日々が続いているからな。 馬岱殿にばかり仕事を押し付けてないで、少しは身体を動かせよ」 からかうように言われ、馬超はむっと眉根を寄せる。 「人をいつもさぼっているかのように言うな。 鍛錬とて怠ってはおらん」 「そうむきになるなよ」 くすくすと笑って、趙雲は馬超を宥めにかかる。 馬超とて本気で怒っている訳ではない。 趙雲が馬超を気遣って、そんな軽口を叩いていると分かっている。 魏との戦いに挑めず、馬超があまり気落ちすることがないようにとの配慮なのだと。 いつもこうしてさり気無く手を差し伸べてくれるのは、趙雲であった。 心の内で馬超は感謝すると同時に、彼への特別な感情もまた自覚するのだった―――。 そんなある日、城内で馬超は一つの噂を耳にした。 北方での魏の動きに対する備えとして、国境付近に砦を築く計画があると。 それだけならば馬超は別段驚きもしない。 魏の目が呉に向けられているといっても、いつ何時こちらに刃を返してくるか分からぬのだ。 北の守りを固めておくに越したことはない。 だがその指揮官として現地に赴くのが、趙雲だと言うのだ。 趙雲ほどの将が出向けば、魏に対しての備えとしても充分な役割を果たせるだろう。 だが、砦の建設とその後の北方の守りともなれば、少なくとも数年は成都に戻っては来れないだろう。 情勢如何では、もう二度とこちらに戻ることはできぬやもれない。 馬超の足は、すぐさま趙雲の執務室へと向いた。 「孟起か……何か用か?」 突然部屋に入ってきた馬超を、机の上に書簡を広げ、それに目を通していた趙雲は少々面食らったように見遣る。 「お前、北に行くって本当か?」 単刀直入に馬超は問う。 先程耳にしたことが事実なのか否かを。 すると趙雲は一瞬目を瞠って、苦笑う。 「もうお前の耳にも入ったのか? 内々に丞相からお話はあったのだが、正式に決まってからお前には伝えようと思っていた。 恐らくそうなると思う」 馬超の頭に鈍器で殴られたような衝撃が走る。 鼓動が激しく打つ。 黙り込んでしまった馬超に、趙雲は小首を傾げる。 「一体どうしたんだ? お前に話さなかったことを怒っているのか? 私に話があったのもつい最近のことだし、決まればちゃんとお前にも話すつもりだったのだ……」 違うとばかりに馬超は首を振る。 「……お前は平気なのか?」 問われた言葉にも、趙雲は意味が分からなかったようで、不思議そうな表情を作る。 そんな趙雲に、自分勝手だとは知りつつも馬超は苛立ちが募るのを抑えられない。 「お前はここに戻ってこれなくても?」 「はぁ!?」 趙雲は驚きを示すように、素っ頓狂な声を上げる。 「何の冗談のつもりかは知らんが、さっぱり意味が分からんぞ、孟起。 我らは武人だぞ。 今こうして平穏に毎日を過ごしていることの方が珍しいのだ。 これまでとて長く戦地に赴いたことも多々あったろうに―――いきなり何を言い出すのかと思えば……」 呆れを存分に含ませて、趙雲は大きく溜息を吐く。 そんなことは言われなくても、頭では分かっている。 たが心がそれについてこない。 それが言葉となって口をついて出た。 平然な顔をして、なんでもないことのように北に行くという趙雲に問わずにはいれなかったのだ。 ただ戦に行くのとは訳が違う。 もう二度と会うことも叶わなくなるのかもしれないのに―――。 しかし、自分の抱く本当の気持ちを知らない趙雲に、それを察しろという方が間違っている。 ただ一人で苛立って、自分勝手な憤りをぶつけているに過ぎない。 趙雲の困惑した表情を前に、馬超は拳を握り締める。 しっかりしろ……と自分を叱咤する。 このような場所で取り乱してどうする―――そのような情けない姿を趙雲には見せたくない。 馬超は気持ちを落ち着けるように、大きく息を吸い込む。 「すまない、子龍……。 突然聞いたことだった故、少々驚いてしまったのだ。 何せお前くらいしか友と呼べるような人間がいない寂しい人間だからな」 冗談めかした口調でそう言えば、趙雲はやれやれと肩をすくめた。 「そう思うのならば、もう少し積極的に人付き合いしろよ」 「そうだな……。 ―――正式に行くことが決まったら、教えてくれ。 盛大に送り出してやる」 溢れてくる想いに無理矢理に蓋をして、馬超は笑顔を作るのだった。 「何を考えておいでですか?」 傍らに寝そべる女が、伏していた頭を上げ、ふと隣の馬超へと視線を移す。 見返した女の瞳は何もかもを見通しているかのようだった。 けれど馬超は無言で首を振る。 何でもないのだと―――。 それほど頻繁ではなかったが、彼女と褥を共にするようになって、随分と経つ。 言い寄られることは今までにも多々あった。 その内の女達と関係を持ったことももちろんある。 だがこうして長く続いているのはこの女くらいのものだった。 城下で見かけて声を掛けたのも、馬超からだった。 何故この女なのか。 確かに美しい―――だが彼女よりも容貌の秀でた女もいたし、相性の合う女もいた。 その理由を馬超自身も理解していた。 漆黒の黒髪と強い意志を宿した曇りのない瞳。 そして多くを語らず、さり気なく施される優しさ。 顔形というのではなく、それがとても似ていたからだ。 そう―――趙雲に。 だから馬超から彼女に興味を持った。 卑怯だという自覚が馬超にはある。 彼女に対しても、趙雲に対しても。 彼女に趙雲の面影を重ねて、肌を合わせているのだから。 女はそれ以上何も言わなかった。 ただ馬超をそっと包み込むように抱き締める。 勘の良い彼女のことだ。 きっと自分が彼女に誰かを重ね合わせていることに気付いている。 そうして今も、その誰かを想って、やるせない気持ちを抱えていることも感じ取っているのだろう。 だが彼女は何も言わない。 いつもこうしてただただ優しく包んでくれるのだった―――。 趙雲のように……。 趙雲が正式に北の任地へと向かうことが決まったのは、馬超が噂を耳にしてから間もなくのことだった。 今度は趙雲自身から齎されたその知らせに、馬超は外面上、前のように取り乱したりはしなかった。 その心の内は、当然穏やかなものではなかったけれど。 趙雲は北に立つ準備で忙しく、以前のようにゆっくりと酒を飲む時間もなくなった。 ようやく趙雲と落ち着いて時間を持つことが出来たのは、彼が発つその前日の夜のことだった。 酒を手に、馬超の邸に趙雲が現れたのだ。 「ここで飲むのも、しばらくはお預けになるのだな」 しばらく他愛もないことを会話した後、趙雲は感慨深げに、馬超の私室を見渡す。 「寂しいか?」 馬超の揶揄するような物言いに、趙雲はまさかと笑う。 「誰かさんの面倒をもう見ずに済むかと思うと、気が軽い。 まぁその誰かさんも、ぐちぐちと小言をいう私が居なくなって清々するだろうがな」 などと、いつもと変わらぬ軽口を叩くのだ。 「俺は……寂しいぞ」 不意に先程とは一転した真剣な面持ちになり、馬超はそう告げる。 突然の変化に趙雲は軽く目を見開く。 口を開こうとした趙雲を遮って、馬超は続けた。 「お前がいなくなるのかと思うと、寂しいし……辛い。 ずっとこうして共に酒を飲んで、馬鹿な話をして、笑っていたかった。 このまま時が止まってしまえばいいのにとさえ思う」 本音を言えば、友としてではなく、もっと深い関係になりたい。 口付けを交わして、触れ合いたい。 そして―――抱きたい。 そう告げれば、趙雲はどんな顔をするだろう? きっと冗談にされて、一笑に付されるだけのような気がする。 真剣に取り合ってはくれまい。 趙雲にとって馬超は親友だ。 そして馬超もずっとその仮面を被り続けてきたのだから。 もし本気で受け止めてくれても、趙雲は戸惑うだけだろう。 その結果、拒絶され、友としての関係も失ってしまう―――それを覚悟する勇気がどうしても馬超には持てなかった。 「そうしんみりしてくれるな、孟起。 らしくないぞ。 盛大に送り出してくれるのだろう?」 趙雲はそう言って、馬超へと笑いかける。 「そう……だったな」 はっと我を取り戻し、馬超は再び笑顔を作る。 それを見て、趙雲は安心したように息を吐き出す。 その後はいつものように、酒を酌み交わし、笑いあった。 時は刻一刻と過ぎ、とうとう趙雲が席を立った。 「明日も早いし、そろそろお暇するよ」 趙雲はその足で、椅子に腰掛けたままの馬超へと近付く。 「どうか、元気で、孟起」 言って差し出された趙雲の手―――ぐっと馬超の胸が詰った。 この手に何度助けられたことだろう。 彼がいなければ、今の自分はなかった。 自分の殻に閉じこもって、その瘴気に己が喰らい尽されていただろう。 視界が滲みそうになるのを、馬超は堪えた。 「お前もな」 そうしてその手を握り返す。 「ではな」 その言葉と共に、重ね合わせていた手は離れ、趙雲は踵を返す。 去って行く背中を、馬超はまんじりともせずに見つめ続けていた。 趙雲はもう振り返らなかった。 ぱたん……と静かに扉が閉じられる。 と同時に、とうとう堪えられなくなったものが馬超の瞳から零れ落ちる。 それは尽きることを知らぬように、後から後から溢れてくるのだった。 北の任地へ発った趙雲とは、その後も時折書簡のやり取りを行っていた。 彼は遠い地へと行ってしまったが、関係が切れてしまった訳ではない。 こうして近況なり、その地での状況を知らせてくれる。 まだ繋がっているのだ。 ―――そう思うことで、馬超は趙雲がいない寂しさを紛らわす。 趙雲は身体を壊すこともなく、元気に過ごしているようだった。 そんなやり取りが続き、趙雲が任地に赴いて半年も過ぎた頃だろうか。 趙雲から届いた書簡に、馬超は驚愕した。 書簡にはいつものように近況が綴られていた。 そして最後に添えられていた文章、それは……。 ―――私もとうとう妻を娶ったよ、孟起。 と、したためられていたのだった。 (続) written by y.tatibana 2007.02.11 |
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