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まるで昨夜の出来事は夢であったかのように、趙雲は涼しげな表情でそこに居た。 成都へと帰還する朝。 準備を整え、遅れてやって来た馬超は、そんな趙雲へどう声を掛けるべきか迷う。 「寝坊とは感心できんな、孟起」 馬超の姿を見て、趙雲は馬超の戸惑いを余所に、からかう様な笑みを浮かべたまま傍へとやって来る。 そこにいるのはいつも馬超が見慣れている友人としての趙子龍だった。 その一線を越え、身体を重ねた余韻などどこからも感じられない。 僅かに覗く趙雲の首筋に刻まれた鬱血の痕が、唯一の名残のようだ。 またそれが昨夜のことは夢ではなかったのだと、馬超に知らしめる。 「子龍、昨日は……」 どう続ければいいのか分からず、馬超は言い淀む。 それに対して趙雲は苦笑を浮かべた。 「私もお前も飲み過ぎだった。 酔った上での勢いのことだ、気にするな……いや、気にしてくれるな。 お前にそう畏まられると、私とて居た堪れなくなる。 正常な判断に欠けていたとは故、友人であるお前とあのようなことをしたのだ―――恥ずかしいだろうが」 周囲に聞こえぬよう、趙雲は囁く。 「そう……だな……」 馬超としては最早そう述べるしかなかった。 昨夜のことを忘れてしまっている訳ではない。 だが趙雲にとってはやはり昨夜の出来事は、酒に酔った故の戯れのようなものだったのだ。 馬超がそれに対して、落胆や寂しさを感じることはお門違いなのだ。 馬超が趙雲へ抱く感情は、彼が自分に寄せてくれるものとは異なっているのだから。 馬超が黙り込むのを不審に思う様子もなく、趙雲は肩を竦めてみせた。 「これからはあのような無茶な飲み方はせぬ。 だから成都に戻ったら、懲りずにまた酒にも付き合ってくれ」 「あぁ……もちろんだ」 趙雲が友人としてしか自分を見ていない以上、それに逆らう気は馬超にはなかった。 自分の本当の気持ちを吐露して、趙雲に背を向けられるくらいならば、このままの方が良いと思っていたから。 そして、馬超達は成都に向けて出発した―――。 それからも、馬超と趙雲の関係は続いていた。 もちろん以前と変わることなく友人として。 酒を酌み交わしても、趙雲自身も言ったようにもう二度とあの時のような状態にはならなかった。 普通に会話をし、酒を飲み、そして馬超の邸にいれば自邸へと帰っていく。 ―――日常が戻ってきただけだ。 馬超の胸には未だ趙雲への想いは消せずにいたのだが。 それもまた前と同じように隠し続けるだけのことだった。 そんなある日、馬超と趙雲が共に城下の見回りにあたっていた時のことだ。 劉備がこの地を手に入れたばかりの頃は、治めるべき主が変わった混乱もあり、治安は決して良くはなかった。 だが、今はそんなことが嘘のように、町は活気に溢れていた。 それでもどこにこの日常を荒さんとする輩が潜んでいるか分らない。 その為に武官が順番でこうして巡回しているのだ。 そんな喧騒の中、趙雲はふと足を止めた。 「どうした?」 不審気に尋ねる馬超に答えず、趙雲は黙れというように口元に指を立てる。 じっと何かに耳を澄ませていた趙雲が、突然また歩き出す。 そして通りの脇にある路地へと入る。 訳の分からぬまま馬超もまた趙雲の後を追った。 細く、薄暗い道のその中程に女が一人蹲っていた。 そして耳に届く赤子の泣き声。 女が胸に抱いているのか姿は見えない。 ただ弱々しい声が聞こえるだけだ。 恐らくその声が趙雲に届いたのだろう。 彼が急に立ち止まった訳は。 趙雲は駆け足で女の元へ向かう。 「どうされた?大丈夫か?」 膝を付き、趙雲は女を覗き込む。 すると趙雲の声に反応して、女が面を上げた。 やはりその胸には泣き続ける赤子がいる。 母親の不調がその子にも伝わっているのかもしれない。 「申し訳ありません……急に気分が悪くなってしまって―――」 建物の影になっている為、陽が当たらず、女の顔色ははっきりと分らなかったが、酷く辛そうな口調だ。 趙雲は女の額に手を当てる。 「少し熱があるようだな。 薬師の元に参ろう」 趙雲は言いながら、女が大事そうに抱えている赤子に手を差し伸べる。 趙雲は慣れた様子で赤子を抱き、泣いているその子の背を優しく撫でながらあやす。 ややすると泣き声は止んだ。 「大したものだな」 趙雲の後ろに控えていた馬超は心底感心したように言う。 独り身である趙雲がいとも容易く泣き止ませてしまったものだから。 「昔はよくこうして阿斗様をあやしたからな」 そうくすりと小さく笑いを漏らす。 そのまま趙雲は立ち上がり、馬超の方を振り返った。 そして、胸に抱いたその赤子を馬超へと差し出す。 「えっ!?」 反射的に手を出してしまった馬超へと、趙雲は赤子を手渡した。 「お……おいっ!子龍!?」 その声に驚いたのか、再び赤子はぐずり始めた。 「大きな声を出すな、孟起。 私は彼女を背負って行くから、お前はその子を連れて来てくれ」 趙雲は馬超の答えも待たずに、蹲ったままの女を促し、己の背へと導く。 馬超の方は、渡された赤子を胸におたおたするばかりだ。 文句を言おうにも趙雲はさっさと女を背負って、通りへと踵を返している。 ぐずる赤子を泣かせまいと試みるが、趙雲のように簡単にはいかなかった。 兎にも角にもそのまま趙雲を追う。 はっきり言って馬超は子供が苦手だった。 ずっと意識的に避けていた。 それは―――昔を思い出すから。 父が居て、弟が居て、そして妻が居て、子供たちが居た。 それが当たり前だと思っていた。 永遠に続いていくのだと。 けれどそれは脆くも消え去り、心に大きな傷となって残った。 馬超が胸に抱く赤子は酷く居心地が悪そうに憤(むつか)る。 母以外の人間に人見知りしているという訳ではあるまい。 現に趙雲はあんなに簡単に泣き止ませてみせたのだ。 趙雲がしたように背を優しく撫でてみるが、駄目だった。 とうとう声を上げて、泣き出してしまった。 すると前を行く趙雲が、それを聞きつけたのか振り向いた。 「お前の気持ちがその子に通じているんだ。 何を恐れている? 何に怯えているんだ?」 畳み掛けるように問われ、馬超はぐっと唇を噛む。 趙雲が差し伸べてくれた手によって、馬超は再び歩き出そうと決めた。 劉備の元でその大義の為、槍を揮おうと。 だがどうしても過去を思い出すことは避けていた―――忘れてしまおうとさえしていた。 それは妻と子供達の打ち捨てられた亡骸が脳裏に甦り、己の罪を喉元に突きつけるから。 守りきれなかった後悔にただ苛まれるのだ。 「お前の過去には本当に悲しみと痛みしかなかったのか? 家族はお前にとって苦しみを与えるだけの象徴なのか?」 「違う!」 反射的に馬超は叫んでいた。 子煩悩という程ではなかったと思う。 だが自分の血を分けたその存在が可愛くない筈がない。 胸に抱けば安心したように自分に身を委ねてくる。 ただ愛おしかった。 槍術だけでなく子育ての才もお持ちなのですねと妻には良くからかわれたものだ。 妻は芯の強い、けれどいつも笑みを絶やさず、馬超を支えてくれた優しい女だった。 そんな彼女のことも、とても大切に思っていた。 あの当時はそれが特別だとは考えてもみなかった。 今思えば、家族というものが自分に安らぎを齎し、心を満たしてくれていた。 与え、そして与えられていたのだ。 どうしてその存在を忘れようなどと思ったのだろう。 彼女達がいたからこそ、今の自分があるというのに―――。 過去を消し去るのではなく、幸も不幸も受け入れて進んでいかなければならないのだ。 歩き始めたつもりであったのに、結局は逃げていただけだったのかもしれない。 一族を守り通すことが出来なかった罪の意識から……。 馬超の表情から趙雲は何を読み取ったのだろうか。 先程までの強い口調ではなく、優しく静かに続ける。 「一度大切なものを失ってしまえば、恐れる気持ちも分る。 だが失うことの悲しみを知っているお前だからこそ、それを糧に強くなれるのではないか? 亡くなられた家族の分まで、お前らしく堂々と生きろ。 錦馬超の名に恥じぬようにな」 言って、趙雲は柔らかな笑みを浮かべる。 またこうして彼は自分に手を差し述べてくれる。 時に厳しく、時に優しく、自分を導き包んでくれるのだ。 趙雲に釣られる様に自然に馬超もまた笑った。 そうして腕の中で泣く赤子に、視線を移す。 「すまぬ……怖がらせてしまったな」 そう声を掛け、先程と同じようにあやす。 すると、徐々に赤子の泣き声が小さくなり、今度はぴたりと泣き止んだ。 そればかりか馬超の顔を見て、にこりと笑ったのだ。 やはり趙雲の言った通り、馬超の心が赤子に通じていたとしか思えない。 それを見て、趙雲は一つ頷くと、再び薬師の元へ向かって歩き始めた。 馬超もそれに続く。 そうして薬師の元へ着く頃には、赤子は馬超の腕の中で気持ち良さそうに眠りについていた。 馬超の胸に掛かった髪をぎゅっと握り締めて。 まるで離さないと言うが如く。 すやすやと眠る赤子は、心底安心しきった様子で馬超に身を委ねている。 己の子に感じたのと同じ、あの愛おしさが込み上げてくる。 馬超は飽くことなくじっと、その寝顔を見つめているのだった―――。 (続) written by y.tatibana 2007.01.18 |
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