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たった一度だけ身体を重ねたことがある―――。 戦での勝利を祝って、馬超と趙雲は共に祝杯を挙げていた。 馬超の陣幕の中は、殆どのものが既に片付けられていて、随分とがらんとしている。 明日には成都へ向けて帰路に着く。 従って趙雲の幕とて同じような状態なのである。 平時の折でも、執務の後どちらかの邸へ寄っては、飲むことも決して珍しくはない。 だが、今宵はまた格別だった。 戦での勝利を納めた後の酒は。 それでなくとも戦中は誰しも酷く気持ちが昂ぶる。 生と死の狭間で戦っているのだ。 それは当然と言えよう。 そんな状況もあり、いつにも増して酒が進む。 「あまり飲み過ぎると、明日に障るぞ、孟起」 相手が空になった杯を置き、そこにまた新たな酒を注ごうとするのを趙雲が止める。 だがそう言う趙雲自身が未だ杯を重ねていた。 「今のお前に言われても説得力に欠けるぞ。 これくらいで俺は潰れたりはせん」 馬超は趙雲の制止にも耳を貸さずに、酒を注ぐ。 仕方のない奴だと趙雲は溜息を落すが、別段本気で止めている訳ではないのだ。 いくら言ったところで馬超が素直にそれに従うような人間ではないことはよく知っているし、趙雲もまだ飲みたい気分だったのだ。 そうして刻々と時は過ぎ、夜も更けた頃、ようやく場はお開きとなった。 「子龍、大丈夫か? 随分と顔が赤いぞ……お前の幕まで送っていってやろうか?」 からかう様な口調で言う馬超を見れば、彼とて人のことを揶揄するような状態ではなかった。 「お互い様だろうが」 くすりと趙雲は笑いを漏らす。 確かに顔といわず、全身が火照っている。 だが元来馬超は酒に強い方だ。 冷静さは失ってはいないつもりだった。 「ではまた明日」 言って、趙雲が腰を上げる。 だが、その瞬間、趙雲の身体が前のめりにふらりとよろめいた。 「危ないっ!」 咄嗟に馬超は立ち上がると、傾いた趙雲の体を支える。 がらがらと二人の間にあった酒瓶や酒器やらが倒れて派手に音を立てた。 馬超の腕は趙雲の背に廻され、二人は奇しくも抱き合う格好になる。 触れ合う肌の熱さ。 そして激しく脈打つ鼓動。 それらは全て酒の酔いによるせいだろうか。 否―――。 馬超は己の心の中でそれを否定する。 自分は違うのだと。 心の奥底にずっと封じていた想い。 いつの頃からか趙雲に抱いていた友情ではない感情。 趙雲との間に親交が芽生えるまでは、決して平坦な道のりではなかった。 趙雲から差し出された手を馬超は初めは素気無く振り払ったのだ。 それでも趙雲は決して馬超に背を向けることなく、幾度も手を差し伸べてくれた。 一族を失い、闇に囚われたままの馬超の心を救い出そうと。 偽りのない真っ直ぐな瞳と優しい笑顔にいつしか癒されるようになった。 蜀の地にあって、彼の傍が馬超にとって一番安らげる場所になった。 もう一度人を信じてみようと思える力をくれたのだ。 その趙雲に対する友情とは別の想いに気付いた時、馬超はそれを封印した。 それは―――……。 「孟起?」 投げ掛けられる声に、馬超ははっと我に返る。 「すまない……もう大丈夫だ。 思ったよりも酔いが回っているらしい」 照れたように笑って、趙雲は馬超から身を離そうとする。 だが、馬超は趙雲を抱きとめる腕の力を緩めない。 「どうした?」 訝しげに趙雲は首を傾げ、馬超を見遣る。 返される馬超の眼差しに情欲の炎がゆらめていることに趙雲は気付いているだろうか。 間近で視線が絡まりあう。 二人の間に、今までとは違う空気が流れはじめる。 趙雲はその雰囲気に何を感じたのか、黙り込んでしまったが、目を逸らすことはなかった。 彼が何を考えているのか、馬超には読み取れない。 だが馬超の腕から逃れようとするでもない。 趙雲もまた馬超の考えが読めず、困惑しているのだろうか。 馬超はようやく腕を緩め、今度はその両手で趙雲の頬を包み込み、優しく撫でる。 ここに至れば、趙雲とて馬超が何をしようとしているのか、理解できる筈だ。 しかし趙雲はやはり動かない。 馬超の手を振り払うこともせず、為されるがままに身を委ねている。 馬超は引き寄せられるように趙雲へと顔をさらに近付ける。 僅かに首を傾けて―――趙雲に口付ける為に。 拒絶の意志が少しでも示されれば、馬超は止めるつもりだった。 酔いが回った頭でも、まだそれくらいの理性は残っている。 だが馬超の予想に反して、趙雲は拒む素振りを見せなかった。 そればかりか、馬超の顔が近付くにつれ、自然に目を閉じたのだ。 馬超の口付けを受け入れるが如く。 趙雲の唇に馬超はそのまま己のそれを重ねた。 長かったのか、短かったのか。 それも分らぬままに、馬超は触れ合わせただけの唇を離した。 と同時に、趙雲の瞼が上り、再び馬超を見つめる。 「……酔うているのか?」 そう問い掛けてくる。 「あぁ、確かに酔っている」 今していることは酔いの勢いに任せた行為だとしても、心の中にはずっとあった欲望だった。 趙雲に抱いている親友以上の感情。 だがそれを口にするのは憚られた。 「私も随分酔っているようだ―――身体も思考も上手く働かん」 趙雲はくすくすと笑いを漏らし、表情を和らげる。 馬超の口付けを受けたのは、酔った上での戯れだったということか。 それ以外には考えられないのだが、馬超は落胆する。 もしや、趙雲もまた自分と同じ感情を抱いていてくれたのではなかろうかと。 だから口付けを拒まなかったのではと頭の片隅にそう都合の良い考えがあったのだ。 馬超は胸の内で自嘲する。 何とも御目出度い頭だ。 やはり相当に酔っているようだ。 「どうする?孟起。 このまま続けるか? それともここまでか?」 馬超の心の内など露知らぬ趙雲は、そんな誘いの言葉を口にする。 酒の酔いと、戦場という特異な状況が重なり合ったせいだろう。 馬超の口付けにより、趙雲の欲情に火が付いたようだ。 女のいない戦場で、昂ぶった気と欲を解放する為に同性同士で抱き合うのは、決して特別なことではない。 馬超自身も経験がない訳ではなかった。 そして趙雲とてそれは同じなのだろう。 清廉潔癖と言われる彼とて一人前の男なのだ。 性欲が皆無ということはあるまい。 誘われるままに、ことを進めるのは卑怯だろうか。 心にある趙雲への恋情をひた隠し、彼と同じように酔った上での戯れとして身体を重ねるのは―――。 だがどうしても馬超は本心を告げることができないのだった。 それは、趙雲との関係が壊れてしまうのが怖いから。 親友として自分を信頼してくれている趙雲に、背を向けられるのが恐ろしい。 想いを告げて、失ってしまうよりは、このまま友人として在り続けられる方が良い。 「孟起?」 先程の趙雲と同じように黙りこくる馬超に、趙雲はあらぬ勘違いをしたらしい。 「もしかして男とは経験がないのか? それとも……どちらが上か下になるのか悩んでいるとか? なら心配するな、私が抱かれてやる」 などと平然と言い放ち、馬超の首へと手を回す。 口付けを強請るように。 我慢できずに、馬超は再び趙雲へと口付けを落す。 今度は触れ合わせるだけのものではなく、趙雲の歯列を割り、舌を絡ませる。 罪悪感を心の隅へと追いやり、馬超は趙雲の唇を貪る。 深く激しい口付けを繰り返し、縺れ合う様に牀台に倒れ込む。 幕内に設えられた簡素な牀台が軋みを上げた。 組み敷いた趙雲の首筋を唇でなぞりながら、馬超は趙雲の袍を脱がせに掛かる。 趙雲もまた馬超の袍を脱がせようと試みる。 「……んっ……」 馬超から施される愛撫に、甘い吐息を漏らしながら。 その声が馬超を更に煽るのだった。 そうして二人は欲の赴くままに、この日初めて身体を重ねたのだった―――。 「―――え、兄上!」 身体を激しく揺すぶられ、呼ばれる声に、馬超は目を覚ます。 「……岱?」 「そうですよ。 なかなか起きて来られないので心配して来てみれば、まだ寝ていただなんて……まったく」 呆れた様子で馬岱は盛大に溜息を吐く。 「早く準備をなさって下さい。 もう出立の時間ですよ」 そう言われても、馬超の頭はまだぼんやりと霞が掛かっていた。 牀台に横たわったまま、辺りを見渡す。 白い布に覆われた陣幕。 傍らに立つのは従兄弟の馬岱。 そして床に散らばった酒瓶と杯。 途端に馬超の意識ははっきりと覚醒した。 がばっと身を起こす。 頭に感じる鈍痛に思わず眉根を寄せる。 二日酔いのせいだろう。 牀台にいたのは馬超一人だった。 隣にあるはずの温もりもない。 昨日のあれは夢だったのか―――趙雲をこの手で抱いたのは……。 「子龍は?」 「趙将軍ですか? 誰かさんと違って、もうすっかり準備を整えられて待機されておりますよ」 馬岱の皮肉も今の馬超には届いていなかった。 やはり夢だったのだろうか。 ―――違う。 重ね合わせた唇や肌の感触もしっかりと覚えている。 馬超よりも先に目を覚まし、自分の幕に戻ったのだろう。 戦は終わったといえどもここは戦場で、ましてや趙雲と恋愛関係にあるわけではないのだ。 彼が早々に馬超の元を去ったのは当たり前のことだ。 そこに落胆や寂しさを感じるのはお門違いというものだ。 馬超は気持ちを切り替えるように頭を振ると、牀台から降り立つ。 出立の準備を整える為に―――。 (続) written by y.tatibana 2006.12.15 |
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