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趙雲が夜な夜な城を彷徨っている姿を幾人もの人間が目撃し始めたのは、馬超が趙雲の異変を感じてからしばらく経ってからのことだった。 最初馬超もそして趙雲自身も寝惚けているだけだと思った彼の様子は、いよいよそうとは片付けられなくなっていた。 完全に力を失った瞳。 そしてふらふらとした頼りなげな足取りでもって。 城の中を彷徨う。 馬超自身もその後何度もそんな趙雲の姿を目の当たりにすることとなった。 その度に馬超の中で得体の知れない嫌な予感が徐々に大きさを増していく。 声を掛け、身体を揺さぶりでもすれば、趙雲ははっとしたように我に返った。 そう―――最初のうちは。 徐々にそうはならなくなっていったのだ。 どれだけ怒鳴りつけようが、身体に刺激を与えようが、趙雲の様子は相変わらずで、ぼんやりと城の中を歩き回る。 そうしてそれを留めようとした者を、己が力で排除しようとまでする。 諸葛亮の計らいによりそれらが公になることはなかったが、最早趙雲の異変は疑いようもないことであった。 趙雲を診察した薬師は、沈痛な面持ちでこう告げた。 「心を病んでおられるようです」 と。 それは馬超に大きな衝撃を与えた。 趙雲の様子を見ていて、馬超とてそれを疑わなかった訳ではない。 だが認めたくはなかったのだ。 あの趙子龍が心の病であるなどと。 戦場ではまさしく龍の如く、華麗な槍捌きで敵を圧倒した。 かと思えば平素は穏やかで、武将らしからぬ物腰の柔らかい男だった。 それでもいつも瞳は強く輝いてた。 それは身命を賭して仕える趙雲にとって何よりも大切な存在があったから。 劉玄徳―――それが趙雲にとっての全てだった……。 その劉備の死。 それが始まりだったのだ。 「あの方はどこにおられる?」 そう言いながら、彷徨い歩く趙雲が探しているのは、劉備以外には考えられなかった。 趙雲の中で劉備の存在は太く巨大な柱だった。 それを失った悲しみや衝撃は相当のもだったことは想像に難くない。 だが趙雲がそれを表に出すことは決してなかった。 いつもと変わらぬ様子で、劉備亡き後の混乱を収めるべく、精力的に働いていた。 けれどそんな趙雲の中で、心は静かに崩壊を始めていたのだ―――。 薬師はなるべく刺激を与えぬようにと言った。 特に劉備の死に関しては、絶対に口にしてはならないと。 心を病んだ趙雲の中ではまだ劉備は生きているのだ。 それが辛うじて趙雲を支えている。 もし趙雲に現実を突きつければ、今度こそ完全に彼の心は砕け散ってしまうだろうと。 それを聞いた諸葛亮は趙雲の異変を知る人間にはその旨を伝えた。 その他の者達は休暇という名目で、趙雲がしばらく執務から外れると説明した。 そして趙雲本人はと言えば、事実上邸での軟禁状態となった。 あらゆる出入り口には頑丈な錠が掛けられた。 もちろんそれは趙雲が勝手に出歩かない為の措置である。 一日の大半を薬によって眠らされて過ごす。 目が覚めれば、世話をする邸の人間に劉備の所在を尋ねるのだ。 相手が答えあぐねていると、趙雲は幽鬼のように邸の中を歩き出す―――劉備の姿を求めて。 「ここにはいない」「今は会えないのだ」と言えば、一時的にはそれに納得するのだが、しばらくすればまた同じことを繰り返す。 趙雲が外に出るのは戦の時のみであった。 槍の扱い方も、馬の乗り方も何一つ忘れては居ないようだった。 だから諸葛亮は趙雲を戦へと駆り出す。 今は遊ばせておけるような人材はいないという理由で。 けれど敵味方の区別が趙雲についていないのは、馬超の目から見れば明らかであった。 目の前に立ちふさがる者は誰であれ、劉備を捜し求める趙雲の目には単なる邪魔者にしか映っていないのだ。 当て所もなく戦場を彷徨う趙雲を何度馬超が救い出したことだろう。 そんな趙雲を目の当たりにする度、馬超の中では言いようのないやるせなさが渦を巻く。 馬超にとって趙雲は蜀の中で最も信頼の置ける親友だった。 その彼の変わりようが痛ましかった。 そして何よりもそんな趙雲に対して何も出来ない自分が酷く口惜しかった。 まだ趙雲が完全に我を失っていない頃、馬超が調練に向かう途中、趙雲に呼び止められたことがあった。 「孟起」 振り向くと、真剣な面持ちの趙雲がいた。 「おぉ、子龍。 今日は寝惚けてはおらんのか?」 その時はまだそんな軽口を叩けるほど、事態は深刻化してはいなかった。 だが趙雲はそれに対して、笑って流すでも、怒るでもなく、硬い表情を崩さない。 さすがに様子がおかしいと察した馬超も笑いを収め、 「どうした?」 と尋ねるが、趙雲は口を噤んだままだ。 言うべきか言わざるべきか、そんなことを考えているように見える。 趙雲は穏やかではあるが、決して優柔不断な男ではない。 その彼がそれ程に悩むような原因が、この時の馬超には予測もつかなかった。 「子龍?」 再度先を促すように馬超が声を掛ける。 すると、意を決したように趙雲がようやく口を開いた。 「孟起、お前に聞いてもらいたいことがある」 「何だ?」 「……きっとお前に軽蔑されると思う。 それでも私にとってお前は大切な友だから―――お前にだけは聞いて欲しい。 わた……」 言いかけたところで、趙雲は不意にまた言葉を切った。 と同時に、 「兄上!」 という声が背後から掛かる。 振り返れば、馬岱がこちらへと駆け寄ってくる。 「こんなところにおられましたか、兄上。 今日は今度の戦に備えて魏延殿の部隊との合同の調練ですよ、お忘れですか? 魏延殿が先程からお待ち兼ねですよ! お待たせしては失礼でしょう!」 と、馬超の背後から一気にそこまで捲くし立てた後、趙雲の存在に気付き、慌てて頭を下げる。 「申し訳ありません、趙雲殿……。 まさかお話中とは露知らず、失礼なことを……」 すると、先程までの真剣な表情から打って変わり、趙雲はいつも通りの柔和な微笑を見せた。 「いや、構わぬよ。 従兄殿を引き止めたのは私故、責めないでやって欲しい。 孟起も……引き止めたりして悪かった。 早く行ってくれ」 「しかし何か話したいことがあったのだろう?」 だが趙雲は静かに首を振った。 「いや、大したことではないのだ。 またいずれ時間がある時にでも話すよ」 馬超はその言葉に素直に頷いた。 「分かった。 では、また別の折に」 馬超はそのまま調練へと向かった。 その時馬超の頭を占めていたのは、近々出陣予定の戦のことだった。 兵達の調練、補給物資の確認、自分自身の準備など忙しい最中だったのだ。 だからこの時、馬超は趙雲が話そうとして途切れた言葉の先を特別気に留めることもなかった。 結局そのまま馬超はゆっくりとした時間を持つこともなく、戦場へと発った。 趙雲と言葉を交わすこともできないままに。 ―――まさかあの日が趙雲とまともに会話することが出来た最後になってしまうとは、思いもせずに。 思いの他長引いた戦を終え、馬超が成都に帰還した時、もうそこには長坂の英雄と呼ばれたあの趙雲はどこにもいなくなっていたのだ。 どうしてあの日、趙雲の話を最後まで聞こうとしなかったのか。 彼のあの真剣な表情から尋常でない様子は火を見るより明かであったのに。 大したことではないと言った趙雲の言葉を真に受けて、気にかけることもしなかった。 趙雲は何かを打ち明けようとしていた。 彼が何を告げようとしていたのか―――それは想像もつかなかったけれど。 それを聞いていれば趙雲があの様な状態になることはなかったのではないか。 ……馬超の後悔は日々深くなっていた。 ―――コンコン。 と、控えめに扉を叩く音に、城の執務室で思いに耽っていた馬超の意識が引き戻される。 馬超が中から応じると、男が一人、部屋の中へと入ってきた。 趙雲の副官を務める者だった。 酷く沈痛な表情の男へ、馬超は眉を顰め、問う。 「どうした? 何かあったのか?」 すると、男は手にしていた書簡を馬超へと差し出した。 「先程、趙将軍の執務室を整理しておりましたところ、趙将軍の文机から見つかったものです。 他の書簡の中に隠すようにして置いてあった為、今まで気付きませんでした。 趙将軍から馬将軍に宛ててのものでしたので、お持ちしたのです」 「……」 馬超がそれを受け取ると、男は一礼し、去って行った。 男の思いつめたような様子に不審を覚えつつ、馬超は手にした書簡を開いた。 「!!」 そこに記された文字に目を走らせた馬超は、絶句した。 それは確かに趙雲の手によるもだった。 長々と文章が綴られていたのではない。 ただ……。 ―――孟起、もし私が私で無くなってしまったなら……私を殺してくれ。 という一筆だけが記されていた。 おそらくこれは趙雲が完全に自我を失ってしまう前に書いたもの。 これに目を通したからこそ趙雲の副官はあんな表情をしていたのだろう。 しばし呆然とそれを見つめていた馬超の身体が、小刻みに震えだす。 怒りとも悲しみともつかない感情が馬超の中から溢れてくる。 「子龍……あの日お前が俺に伝えたかったのはこのことだったのか? こんなことが……本当に……お前の望みだったのか?」 虚空を睨み据え、馬超は搾り出すような声で呟く。 問いかけてみてもその答えが返ってくる筈はないのに、声に出さずにはいられなかった。 そうして、どのくらいその場に留まっていただろうか。 気がつけばもう外は陽が傾きかけている。 だがその間に、馬超の腹は決まった。 それを行動に移すために、部屋を後にし、厩舎に向かう。 愛馬を走らせ向かったその先は、趙雲の邸。 硬く閉ざされた門扉を叩けば、微かに隙間が開いた。 そこには年老いた家令が立っていた。 「ここを開けてくれ。 子龍に用がある」 だが馬超の言葉に家令は申し訳なさそうに首を振った。 「主は只今眠っております。 どなたもお通しする訳には参りません。 馬超様もそのことはご存知のはず……」 しかし馬超もむざむざと引き下がるつもりなど端からなかった。 無言で門に手を賭けると、無理やりそこを押し開いた。 「馬超様!何をなさいます!?」 敷地の中に踏み込んだ馬超は、彼の暴挙に焦る家令の襟元を締め上げた。 「入り口の鍵を出せ」 息が出来ないのか鬱血した顔色の家令はそれでもなお首を振る。 「鍵を出せと言っている。 出さぬというのならば、俺はお前を斬ってでも奪い取るぞ」 冷たく鋭い瞳に射抜かれ、その気迫に圧倒されたのかとうとう家令は頷いた。 懐から差し出された鍵を手に入れると、馬超は家令をようやく開放した。 げほげほと激しく咳き込む家令を尻目に、馬超は邸の扉に厳重に施されていた錠を開けた。 ただならぬ雰囲気に、何事かと現れた中の人間には目もくれず、馬超は目的の部屋を目指す。 昔は良く互いの邸を行き来して、酒を酌み交わしたものだ。 邸の主の部屋がどこにあるのかは承知している。 その部屋の扉を馬超は迷うことなく開けた。 中に入ると、内側から鍵を落とす。 家令の言ったとおり、趙雲は寝台の上で眠りについていた。 薬によって眠らされていると言った方が正しいのかもしれないが。 馬超はその傍らに寄ると、趙雲の身体を引き起こした。 そしてその身体を激しく揺さぶる。 すると、その刺激に呼応して、趙雲の目がゆっくりと開かれる。 しかし馬超の姿を捉えても、趙雲はやはり何の反応も示さない。 「あの方は……殿はどこにおられる?」 そういつもの台詞を繰り返すだけだ。 馬超はそんな趙雲を前に不敵に笑って見せた。 そして、 「お前の望みを叶えてやろう、子龍」 言って、腰の剣へと手を伸ばすのだった―――。 (続) written by y.tatibana 2005.07.24 |
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