キリリク - No7

追憶
淡い灯火に照らされた室内。
卓を挟んで向かい合う、二人の男の姿。
杯に満たされた酒を口元に運びながら、金の髪の男はふっと笑いを漏らした。
「どうした?」
漆黒の髪の男が不審気に相手を見る。
「いや……まさかお前とこうして酒を飲むようになるとは、あの時は想像もしなかったなと思ってな」
「思い出し笑いか……気持ちの悪い男だな」
そう言いつつも、漆黒の髪の男もまた笑みを浮かべている。
「しかも―――
杯の中の酒を一息に呷って、金の髪の男は立ち上がる。
迷うことなく向かいの男へと足を進め、身を屈めると、一瞬唇を重ねた。
「このような深い関係にまで」
「そうだな」
漆黒の髪の男も頷くと、また腰を上げる。

そうして二人は今度は深い口付けを交わすのだった―――





曹操への強い憎しみが、馬超の膝を折らせた。
己の力だけでは最早復讐は叶わぬと。
ならばそれを果たすためには劉備という男に降るほかなかった。

馬超の自尊心は決して低くはなかった。
例え手厚く迎え入れられようとも、臣の身になったことには変わりはない。
酷い屈辱感を馬超は感じていた。
だが、己の悲願は曹操の首を挙げること。
その為には、その屈辱感にも耐えるしかなかった。

馬超にとって、劉備…そして蜀の国に―――忠義をもって仕える気など毛頭なかった。
ただ曹操を倒すための足場にしか過ぎなかったのだ。





馬超を歓迎する宴が開かれた時も、彼は誰に話しかけるでもなく、ただ黙々と酒を呷っていた。
劉備が諸将の前で馬超を紹介した折にも、彼は全員を一瞥しただけで言葉を発することはなかった。
気を使った周囲の人間が話しかけても、馬超がそれに応えることはなかった。
隣に座っていた従兄弟の馬岱がそれを取り成そうと、何度も頭を下げていた。

「お前は馬家の人間ぞ。
他人に簡単に頭を下げるようなみっともない真似はするな」
ようやく馬超は口を開いたが、それは周りの気遣いなど一切無視した言葉であった。
「兄上!
いい加減になさいませ。
この宴は誰のために開かれたものだとお思いなのですか?
皆様我らを歓迎なさって下さっているのですよ」
馬岱の咎めを歯牙に掛けるでもなく、馬超は鼻で笑う。
「俺は―――誰とも馴れ合うつもりはない」
「兄上!」

がたりと派手に目の前の膳を倒し、張飛が立ち上がった。
憤怒の表情で、馬超を睨みつける。
馬超のあまりの態度にとうとう堪忍袋の緒が切れたようだ。
「てめぇ!」
張飛が今にも馬超に殴りかからんとするのを、周囲の人間が必死に押し止めていた。
「馬鹿馬鹿しい……」
冷たく吐き捨てると、馬超は張飛を一顧だにすることもなく酒の杯を傾ける。

―――何が祝いの宴だ。
自分にとって嬉しさなど微塵もない。
一族を虐殺され、故郷を追われたこの身にどんな喜びがあるというのだ。
笑うことなど出来るはずもない。

だがその馬超の視界に陰が落ちる。
何者かが自分の前に立ち塞がったのだと馬超が理解すると同時に、頭上から伝わる冷たさに思わず馬超は顔を上げた。
それはどぼどぼと馬超の髪を濡らし、頬へと滑り落ちてくる。
鼻をつく独特の匂い―――その正体は酒だった。

目を見開いた馬超の視線の先にいたのは、長身で端正な顔立ちの男だった。
馬超に負けぬほどの冷たさを含んだ瞳でもって、彼を見下ろしいる。
手に持った酒瓶を馬超の頭上へ傾けて。

辺りが一瞬にして水を打ったように静まり返る。

「な…にを……する?」
真っ先に口を開いたのは、酒を頭から浴びせられる格好になった馬超本人であった。
すると男は薄く笑った。
それは正に嘲笑と形容するに相応しいものだった。
「貴殿のそのふやけきった頭を醒まさせてやろうと思うたのだ。
どうだ?
少しは目が醒めたか?」
男は馬超の頭上で傾けていた酒瓶の中身が尽きたのを見届け、それを床へと置く。
「ふざけるな…」
湧き上がってくる怒りを馬超は瞳に込め、男を睨んでも、男は怯む様子もない。

馬超もまた手にしていた杯を叩き付ける様に置くと、立ち上がる。
馬超の髪を濡らし、顔を伝う酒は、彼の衣にも染込んでいく。
釣られるようにして腰を上げた馬岱が、馬超の腕を慌てて掴んだ。
「兄上、どうかお鎮まりを!」
だがその馬岱の手を、馬超は乱暴に振り払う。

すると今度はその馬超の腕を目の前の男が捕らえた。
馬超は瞬時に振りほどこうとしたしたが、それは叶わなかった。
優男に見えるが、もの凄い力だった。
そのまま馬超を強引に引き摺るようにして、回廊へと繋がる扉へと男は歩いて行く。

その扉を空いたもう一方の手で器用に開けると、一度背後を振り返り、男がゆったりとした微笑みを呆然とする一同へ向けた。
「お騒がせして申し訳ございませぬ。
私たちは退出致します故、どうぞ皆様は楽しんで下さい」
その言葉通り、男は馬超を伴ったまま外へ出、扉を閉めた。
それと同時に馬超を捕らえていた手も離す。

「何のつもりだ?」
馬超が怒りを露にした低い声音で問う。
男が酷く酔っ払った挙句、あのような乱行に及んだのかと思った。
だが、目の前の男は顔色が変わっている訳でもなく、鋭い視線を向ける馬超をしっかりと見返している。
酔った人間のそれではなかった。

「それはこちらの台詞だ。
幼子でもあるまいし、場というものを弁えるがいい。
馬鹿が……」
男は吐き捨てるように言うと、くるりと踵を返す。
もう馬超に用はないとばかりに回廊を歩き出す。

「待て!」
馬超が止める声にも従う気はないらしく、男はさっさと回廊の先へと姿を消した。
男を追うこともできた。
だがそうした所であの男から謝罪の言葉が聞けるとはとても思えなかった。
何を言ったところで意にも介さないだろう。
それは自分の凍るような視線を動じることなく受けていたことで充分に予測できる。

屈辱に耐えるように馬超は拳を握り込む。
背後の扉が再び開き、彼を心配した馬岱が出てきた。
「兄上…」
馬超の只ならぬ雰囲気にどう声を掛ければ良いのか、馬岱は考えあぐねているようだった。
「……取り合えず、邸の方に戻られますか?
その……湯浴みをされて、お召し変えも致しませんと」
「……」
しかし馬超は無言で、男が去って行った方向を睨み据えていた。
「あの方は―――
それに気付いて、馬岱は二人が出て行った後聞いた、男の名を告げようとした。

だが、
「よい…みなまで言うな。
あのような男の名など知りたくもない」
素気無く馬岱を遮って、馬超も邸へ戻るため、その場を後にしたのだった。





その男と再び顔を会わせたのは、あの宴からしばらく経った頃だった。

まだ日が昇り始めた早朝の修練場。
まさかそこにもう人がいるなどとは、馬超は思ってもみなかった。
誰もいないと思っていたからこそ、馬超はここにやって来たのであったのだが。

そこにはあの男がいて、熱心に槍を振るっていた。
男はすぐに馬超の気配を察知したようだったが、彼を一瞥した後、再び滑らかな動きを続ける。
その型の見事さに思わず馬超は魅入ってしまう。
だがすぐに我に返り、一瞬でもそれに心奪われた己に歯噛みした。

馬超は男の傍まで歩み寄る。
「先日は随分と世話になったな。
一度お手合わせ願えるか?」
すると男は一度槍を下ろし、馬超の方へと向き直った。
「良いだろう」
言って、再度槍を構える。

屈服させてやろうと思った。
一族を殺された自分の絶望や悲しみなど決して分からぬであろうこの男に。
男の傷を知らぬようなまっすぐした瞳が酷く馬超の気に障った。

先程見た限りでは確かに見事な槍捌きだった。
だが馬超は決して自分の方が劣っているなどとは思わなかった。

馬超もまた手にした槍を構える。
先に仕掛けたのは馬超の方だった。
馬超の槍を払い上げ、今度は男が槍を薙いだ。
それを馬超は身をかわし、避けた。

槍がぶつかり合う音が、辺りに響く。
馬超は己の考えを改めざるを得なかった。
男の強さがこれ程のものとは―――想像以上だ。

しばらく互いに激しい攻防を繰り広げていたが、結局勝負はつかなった。

馬超は大きく息を乱していた。
汗が滴り落ちてくる。
それはまた男の方も同様のようだった。

「流石は錦馬超と言うべきか…」
男は感心した様に呟き、木に掛けたあった手拭を手に取った。
そうしてそれを馬超へと差し出す。
「使うと良い」
だが馬超はそれを無視し、別の木の根元へと腰を降ろす。

ふぅっと大きく息を吐き出すと、男は肩を竦めた。
「やれやれ……。
武は秀でていても、心は子供と変わらぬな」
「煩い…。
貴様に俺の気持ちなど分かるものか」
俯いたまま、馬超は忌々しげに吐き出す。

自分が敗れた訳ではなかったが、男に勝てなかったことが馬超の自尊心を酷く傷つけた。
一対一で勝負して、勝てなかったことなどこれまで一度もなかったのだ。
所詮自分は西涼というあの北方の小さな世界しか知らなかったということか。
もっと大きく世を見渡せば、自分と対等に渡り合える者などいくらでもいるのだろうか。
そんな狭い視野しかもっていなかったが為に、まんまと曹操の策に嵌ってしまったのか。

己の内に次々と湧き上がってくる想いを認めたくはなくて、馬超は大きく頭(かぶり)を振る。
「貴殿の気持ち……か。
そのようなもの分かるはずあるまい。
自分の殻に閉じこもっているような臆病者の気持ちなど私にはさっぱり分からぬな」
言って、男は鼻で笑う。

対して馬超は地に拳を叩きつける。
そしてとうとう声を荒げた。
「黙れ!
貴様は目の前で大切な人間を失ったことがあるか!?
何もすることが叶わなかった、この悔しさや憎しみ……悲しみを知りもしないくせに。
知った風な口を聞くな!!」
顔を上げれば、やはり全く動じた様子のないまっすぐな漆黒の瞳とぶつかった。

「この世の全ての不幸を一人で背負っているような顔だな…。
今のこの世で、本気で己が一番不幸だと感じているのか……御目出度いことだ。
今度は頭から冷水でも掛けてやろうか?
目の前で親兄弟、夫や妻……子を失った人間などこの世にはごまんといる。
だがそれでも皆懸命に生きている。
それが残されたものの使命だと分かっているからだ。
笑っている人間が全て幸福な訳ではない―――深い悲しみを負いながらもそれを笑顔に変えている者も多くいる」
「……」
馬超は口を開くことなく、男を睨み続けていた。

男の言葉がまさしく正論なのだろう。
だがそれでも身を支配する憎悪と哀しみが荒れ狂う。
もう誰かと深く関わることを拒んでいる。
それはまた失うことが怖いからだと―――心の底では気付いていて、そんな己の弱さに目を背けている。

馬超の態度が一向に軟化しないことに、男はまた盛大な溜息を吐く。
「一つ……昔話をしてやろう。
とある少年が育った村は小さく貧しかったが、それでも互いに助け合い、まるでひとつの家族のように暮らしていた。
だがある日、村は盗賊に襲われた。
収穫したばかりの僅かな作物は奪われ、村は焼かれた。
村人は殆ど殺された。
当然少年の家にも盗賊はやって来た。
抵抗した父と母は少年の目の前で無残に殺された」
淡々と語る男とは対照的に、馬超は驚きに目を見開く。
その少年というのがこの男のことを指しているのは直ぐにわかった。
この男もまた目の前で肉親を失っていたのだ。

「まだ幼かった少年はただ無力だった。
少年は直ぐには殺されなかった―――盗賊達に圧し掛かられ……あとはいわずもがなだ。
身体を裂かれるような痛みに気を失って、次に目が覚めた時には心配そうに少年の顔を覗き込む兵の顔があった。
盗賊を討伐に来た兵たちに助けられたんだ。
僅かに残った村人達と穴を掘り、遺体を埋葬した。
あの時の夕日は血の様に真っ赤で、妙に禍々しく少年の目には映った」
どこまでも男の口調は静かだった。
ただ懐かしい思い出話をしているような。
己の過去を憐れんでいる訳でも、悲しんでいる訳でもなさそうだ。

「どうして…、そんな平気でいられる?」
「過去は過去だ。
過ぎ去ったことをいくら悔やんだとて、死んだものは生き返りはしない。
ならば自分に出来ることは、私のような人間をこれ以上増やさぬよう力を尽くすこと。
殿が大義を為し、皆が平穏な暮らしを送れるように」
一片の迷いも感じさせぬ男の言葉。

凄惨な過去があってなお、人はこうも強くなれるのか。
―――
そのような過去があればこそ、より強くなれるのだろう。
ならば……自分もまたそうなっていけるのだろうか。

馬超の心の内を見透かしたかのように男が微笑んでみせる。
それはあの宴の席で馬超へと向けられた嘲るようなそれではなく……優しい笑顔。

「貴殿には力がある。
槍を持ち、それを揮い、この世を駆け抜けていく力が。
行こう―――我らと共に」
男から差し伸べられる手。
あれ程ささくれ立っていた心の棘が落ちていく。
もう一度信じてみよう…そんな気持ちが芽生えてくる。

不思議な男だ。

馬超はゆっくりと、だが強く力を込めてその手を取る。
しっかりと握り返される。
「名は……何と申される?」

馬超の問いに返される男の名。
それは長坂の英雄と称えられる者の名であった。






written by y.tatibana 2005.03.06



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