キリリク - No5 |
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本当は、 一目見た時から……、 心奪われていた―――。 城の一角にある部屋の扉を叩く音がし、室内に入ってきたのは片手に書簡を携えた趙雲だった。 執務室として設えられたその部屋の正面の机の前に座していた馬超が顔を上げる。 だが趙雲の姿を認めると、途端にその表情が曇った。 眉根を寄せ、不機嫌そうに一つ溜息を吐く。 そのまま視線を再び机上の書簡へと移し、馬超は趙雲に声を掛けようともしない。 趙雲は机の前まで歩み寄ると、書簡を馬超へと差し出した。 「これを丞相から預かって参った……」 こういった素っ気無い馬超の態度は今に始まったことではない。 それでも趙雲の声は沈んでいた。 なぜなら馬超がこういった態度を取るのは趙雲に対してだけだからだ。 馬超が蜀に降った当初は、古参の家臣達との諍いもあったのだが、今ではそういった話も聞かない。 噂に違わぬ武の持ち主で、話してみれば会話にもそつがなく、酒にも強い―――そんな馬超の人となりが時と共に反発を覚えていた人間にも彼を認めさせた。 張飛などとは良い飲み仲間にまでなっているようだ。 にも関わらず、趙雲に対してだけは未だ頑なにその心を閉ざしているようだった。 趙雲は自分に対して馬超が笑顔を見せた所など一度も見たことがなかった。 酒宴の席で他の人間と楽しそうに笑い声を上げていても、趙雲と目が合うと途端にその表情が一変する。 今目の前の馬超のように。 趙雲が差し出した書簡を、馬超は受け取ろうともしない。 そっと溜息を落とすと、趙雲は机の片隅へとそれを置いた。 何故自分だけがこれ程馬超に疎まれているのか、趙雲には見当もつかなかった。 馬超が劉備に臣下の礼を取った折、当り障りのない挨拶をしただけで、何かした覚えもない。 その後共に戦場に出る機会も何度かはあったが、やはり馬超は趙雲の顔をまともには見ず、戦に必要な最低限のことを事務的に話しただけだった。 「まだ何か御用がおありか?」 目の前から動こうとはしない趙雲に業を煮やしたのか、馬超がようやく口を開いた。 やはり視線は書簡に注がれたままであったが。 「あっ…いや……たまにはゆくっり話でもと」 咄嗟に出た趙雲の言葉に、馬超はにべもなく答えを返す。 「貴殿と話すことなど何もない。 用がないのならお引取り願おう」 一刻も早く趙雲に出て行ってもらいたという馬超の気持ちがありありと感じ取れる。 過ぎる痛みに胸が疼いた。 「それ程までに私のことがお嫌いか?」 「……」 馬超は答えない。 沈黙を肯定と趙雲は受け取った。 これまでの馬超の態度からもってしても、分かりきっていることだと。 「…邪魔をした」 馬超がハッとして顔を上げたときには、既に身を翻した趙雲は扉に手を掛けていた。 後姿が扉の向こうに消え、走り去る足音が馬超の耳に届く。 馬超はじっと趙雲が出て行った扉を見つめ、やがて己の掌に顔を埋めた。 去り際の趙雲の声―――微かに震えていた。 涙を懸命に堪えているようなそんな声だった。 ―――傷付けたいのではない……。 冷たい態度で接し、一方的に趙雲との関わりを持つまいとしているのは自分自身だ。 趙雲には何の落ち度もない。 趙雲のことを「嫌い」などでは決してなかった。 馬超の趙雲に対する気持ちはその真逆だ。 一目見た時から、その美しさに心奪われた。 最初は一時の気の迷いだと思った。 同じ男に惹かれるなど今までの自分にはありえないことだったから。 しばらくすれば熱も醒めると、趙雲から距離をおいた。 けれど熱は収まるどころか、趙雲を求める自分の気持ちはますます大きくなっていった。 戦場に出た時、華麗な槍さばきと、顔立ちに似合わぬ鬼神の如き姿に再び魅せられた。 最早趙雲に対する想いは疑いようのない程に。 趙雲を抱き締めたいと思った。 口付けて、身体を重ね、熱を分け合いたい。 彼と繋がって、その中で果てることが出来ればどれだけ幸せだろう。 そんな欲望が湧き上がってくるのを抑えきれなかった。 だが、想いを告げることはしていなかった。 趙雲に気付かれぬようずっと今まで彼を見てきた。 その中で、趙雲の瞳が常にある男を追っていることに気付いていたから。 そしてその男を見つめる瞳には切なさが宿っていた。 彼がその男に想いを寄せていることは明らかだった。 だが二人が関係を持っているような雰囲気は全くもって感じ取れなかった。 恐らく趙雲の一方的な想いに過ぎないのだろう。 それでも趙雲の心が自分ではない他の人間に向かっていることに変りはない。 いつ二人が心を通わせ、深い関係になっても何の不思議もないのだ。 あの男が趙雲を抱くのだろうか。 耳元で甘い睦言を囁いて、彼の身体を余すことなく愛撫して。 そして趙雲もまた幸せそうに微笑んで、あの男を受け入れるのだろうか。 それを想像した時、馬超の中でどろどろとした昏い感情が渦を巻いた。 震える身体は、憤りの為なのか、やるせなさのせいなのか、それとも…嫉妬なのか。 馬超には分からなかった。 それら全てなのかもしれない。 いっそのこと趙雲を無理矢理にでも抱いてしまおうかと思った。 自分以外の誰かのものになるくらいならと。 日々強くなる趙雲への想いと独占欲が欲望の赴くままに行動させようとする。 だがその衝動を寸での所で馬超は押し留めていた。 今にも瓦解しそうなそれを理性で必死に抑え込んでいた。 だから―――趙雲にあのような態度で接してしまう。 否。 接しなければならないのだ。 彼と長く時を過ごせば、きっと自分を抑えきれなくなる。 話せば話すほど、手放せなくなる。 趙雲の事が好きだからこそ、無残な牙で引き裂いてしまいたくはなかった。 ある時、執務に追われ城を辞すのが随分と遅くなった。 家路へとついた馬超は、その道の途中で蹲っている人物と出くわした。 遠目でもそれが誰なのか分かる。 趙雲だ。 こんな時間に一体なぜ彼がこんな道端にいるのだろうか。 気分でも悪いのか、蹲ったまま一向に動く気配もない。 流石にそんな状態の趙雲を見捨てていく訳にもいくまい。 馬超は己の気持ちを落ち着けるように大きく息を吸い込むと、趙雲の傍へと歩み寄った。 「如何された?」 馬超もまた身を屈める。 すると微動だにせず俯いていた趙雲がゆっくりと顔を上げた。 途端に鼻につく酒の臭い。 暗がりでよくは見えないが、目の焦点がどことなくあっていない。 随分と酔っているようだ。 「あぁ…馬超殿……か…。 いや、すまぬ……大したことはないのだ。 少々張飛殿に……飲まされた…だけで」 答える口調も呂律がまわぬようで随分と怪しい。 なるほど、あの大虎に付き合わされた訳か。 こうなるのも無理はない。 自分も大概酒には強い方だが、張飛には叶わない。 「大丈夫か?」 「あぁ…」 趙雲は立ち上がるが、途端にその身体がふらついた。 「危ない!」 慌てて趙雲の身体を馬超は支えた。 抱き合うような格好になってしまった。 触れ合う身体と、間近にある趙雲の顔に、馬超の鼓動は意志とは関係なく激しく脈打った。 強く頭を振り、何とか湧き上がってくる衝動を振り払う。 このまま趙雲を置き去りにする訳にもいかず、馬超は趙雲に肩を貸し、歩くように促した。 「も…しわけ…ない」 趙雲は考える気力もないのか、馬超に身体を預け、言われるままにのろのろと足を動かした。 あまり歩けそうにはない。 ここからだとどう考えても馬超の邸の方が近い。 深々と溜息をつくと、馬超は自分の邸へと足を向けたのだった。 どうにか邸に帰り着き、自室の寝台に趙雲を横たえた。 趙雲はぐったりと目を閉じている。 後は邸の人間に任せようと、馬超は踵を返した。 だが、その馬超の手首を後ろから伸びてきた手が捕らえた。 ビクリと身体を揺らして、馬超は振り返る。 寝台から伸びた趙雲の手が馬超の手首を掴んでいる。 酒酔いのせいで熱に浮かされたような気だるげな瞳を馬超へと向けている。 「胸元が…くるし…い。 すまぬが……帯を…解いてくれぬか……」 馬超は拳を握り締めた。 誘っているのか? そんな言葉が喉元まで出かかった。 しかしそれを馬超は瞬時に打ち消す。 馬鹿馬鹿しい。 趙雲が自分の想いに気付いている筈はない。 まして成り行きで男を誘うような人間ではなかろうに。 本当にその額面通りの意味なのだろう。 「―――分かったから、手を離してくれ」 馬超が苦々しく告げると、趙雲は素直に馬超から手を離す。 躊躇いがちに馬超は趙雲の衣の帯に手を伸ばし、それを解いた。 そうして胸元を広げてやると、楽になったのか趙雲がほっと息を吐き出すのを感じた。 「ありがとう…馬超…殿」 途切れ途切れに呟いて、趙雲は感謝を示すようにゆったりと微笑んだ。 それがまた馬超の中の欲情を掻き立てる。 そんな馬超の内など露知らず、趙雲は再び瞼を閉じる。 すぐに規則正しい寝息を立てはじめた。 早くこの場を立ち去らなければと頭では分かっていても、身体が動いてくれなかった。 無防備に眠る趙雲の姿。 露になった胸元から覗く肌は、酒のせいでほんのり赤く色付いていた。 ようやく身体の呪縛が解けた。 馬超は動く―――それは扉に向けてではなく、寝台の趙雲へと。 横たわる趙雲の上に馬超は覆い被さった。 趙雲が目を覚ます気配はない。 趙雲の首筋に口付けを落とし、胸元に手を滑らせた。 一方の手で彼の髪紐を解き、その長い黒髪を愛しげに何度も梳く。 理性が音を立てて壊れていくようだ。 馬超の胸に広がったのは、罪悪感ではなく甘い陶酔だった。 本能の赴くままに薄く開いた趙雲の唇に口付けようとした。 けれど…その時―――。 「……」 趙雲の唇が微かに動き、短い言葉を漏らした。 小さな声だった。 だが間近にいた馬超にはそれがはっきりと聞こえた。 馬超は目を見開いて、眼下の趙雲を見遣る。 やはり趙雲はぐっすりと眠っていた。 夢でも見ているのか、唯の寝言だったようだ。 だが馬超はゆるゆるとかぶりを振ると、趙雲から身を離し、寝台から降りた。 あのまま趙雲に口付けていたなら、恐らくもう自分を止められなかっただろうと思う。 きっと思うが侭に趙雲の身体を蹂躙したに違いない。 寝言にしろ趙雲があの言葉を呟かなければ……。 趙雲は口にしたのだ―――彼の想い人の名を。 それが自分を我に返し、歯止めを掛けた。 趙雲の合意無しに、彼を抱いたとてそれが何になる。 趙雲の心を手に入れなければ、後に残るのはただ虚しさだけだ。 そんなことは重々承知している。 だがそれは冷静な状態であればこそだ。 ふとした拍子に心の内の黒く残忍な欲望が溢れ出し、自分の全てを飲み込みそうになる。 先程のように―――。 そうなれば理性も何もかも吹き飛ばしてしまう。 ただ己の快楽だけを求めようとするのだ。 まるで身の内に獰猛な獣を囲っているかのようだ。 馬超は覚束ない足取りで、ようやく部屋を出た。 そのまま扉に背を預け、その場にずるずると座り込み、虚空を見据える。 「頼む…頼むから……。 もうこれ以上、俺に近付かないでくれ、趙雲殿。 でなければ、俺は……」 ―――生まれて初めて、馬超は天に祈った。 いるかいないのか分からぬ神などこれまで信じてはいなかった。 そんな不確かな存在より、信じられるのは自分自身だと思っていた。 けれど…今はもうその自身が何より信じられぬものになっている。 どうか……どうか…… ただ祈ることしか、出来なかった。 己の内の欲望という名の獣が牙を剥かぬようにと。 written by y.tatibana 2004.04.24 ※リク下さった方への【Message】 |
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